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──こうして、無事に華やかな結婚式を迎えてから、一週間が過ぎ去った2月中旬。
今年も、あの大事なイベントがやって来た。
内気な恋する乙女でも、年に一度だけ、積極的に愛を告白するチャンスをくれる日。
そう、2月14日はバレンタインデーである。
……とは言ったものも、
いつものようにデパートで、お洒落なチョコをプレゼントしようと思っていたが、一週間前に婚姻した旦那様に対して、それは失礼ではないかと、薄々感じていたのだ。
また3月には、北海道への三泊四日の新婚旅行も控えている。
その前に私からの日頃の感謝を込めて、おばあちゃんになっても、ずっと好きという想いを伝えておきたかった。
そう思って、行動を起こしたのだけど……。
「駄目だ、さっぱり分からない……」
近所のスーパーで、スマホのレシピ片手に食材を探しているのだけど、ただ溶かして固めるだけの素材集めに、どうしてこんなにも苦戦するのだろうか。
板チョコのブラックまでは分かるけど、食塩が入っていないバターに、コーンスターチ、ココアパウダーと材料が並び、さらに甘酒にラム酒のお酒関係まで……。
今までプレゼントに避けてきた、お酒の入ったチョコ。
缶ビール一本飲んだだけで、ベロンベロンに酔っ払う竜太に食べさせて、大丈夫だろうか?
「──もう、由美香さんは、男心が分かっていませんわね」
「うーん。
「いえ、由美香さん、この意味が分かりますか?
旦那が酔った先に、その彼から囁かれて愛を深めあう、人として生命の神秘。そしてお互いに言語を理解しながら、高めてゆく愛の結晶。人として生まれてきて、とても素晴らしいことですわよ」
「でもそれが何か、いまいちよく分からないのよね……」
「はあ。いつもあれだけラブラブなのに、お二人とも、そちらの経験がまったくないなんて信じられませんわ」
「うん、だから
私はほっぺたが熱くなるのを感じながら、一緒に、お買い物とお菓子作りの付き添いで来ていた美希ちゃんに、その想いを伝える。
「そうですね……真剣な表情で『未経験で怖いから、優しく誘ってくる方法を詳しく教えて』の発言にはびっくりしましたわ」
美希ちゃんが、異常とも思える、ドスのきいた
そんなに珍しいことなのか、本当に結婚した
だって、いくら好きになったからと、そのような関係に
男は身勝手な生き物だ。
欲望に身を任せて、上手い言葉で女の弱い所につけこみ、優しいふりをして思うがまま。
それで後悔の末路になり、一方的な別れを告げられ、苦労しながらシングルマザーで育てるはめになったりする……。
よく私の周りの友達から耳にする話だけあり、私にはそれが耐えられなかった。
まあ、例外もあり、美希ちゃんの相手の頼朝君は真面目で、もしそんなことがあったら、すぐにでも結婚しようと発言してるけどね。
──でもね、生まれてきた子供に、育ててくれる実の父親の姿が見当たらないほど、子供にとって
昔からだが、養子として拾われた、竜太の気持ちが痛いほど分かる。
きっと竜太は、肉親がいなくて、寂しい想いをした時もあっただろう。
だから、これまで心を許せるパートナーは私は作らなかった。
最愛で血が繋がらない、
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──さて、感傷に浸っている暇はない。
それよりも、肝心な手作りチョコを作らないと。
私は近くのスーパーから調達した商品をスマホアプリで確認しながら、レジ袋から出して、分かりやすくキッチンの台に並べていく。
──さあ、準備は整った。
制限時間は、竜太が仕事から帰宅するまで。
いざ、新世界の調理に挑むため、白いフリルのエプロンの腰ひもをぎゅっと縛る私。
「みやって、みやってー。
レディー、ふぁいとー!!」
美希ちゃんによる相撲力士を闘わすような号令の合図で、私はてきぱきと手を動かし始める。
まずは木のまな板でチョコを刻む。
サクサクサク……あれ、まな板ごと切れたよ?
「何、この包丁どうなってるの?」
この想定外な事件に、美希ちゃんも青ざめている。
どうやら彼女のイタズラでもないようだ。
『あちゃー、やっちゃったね。ドラゴンサバイバル包丁は、あのドラゴンの鋼鉄な肌も簡単に切り裂くように、切れ味がいいからね』
突然、私の頭の中から直接、声が伝わってくる。
この言いぶりは
テレパシーが使えるなら、チョコを切る前から、そう教えてほしかった。
『まあ、これも練習だからね。これから手料理のチョコを作るのなら、慣れてもらわないと』
「こんな危ない包丁使えないわよ」
『大丈夫、慣れたら寸止めで切れるから♪』
「もはや、それ普通の包丁の扱い方じゃないよね?」
食材に猫の手を添えて切るとは、勝手が違いすぎる。
その一方で美希ちゃんには、ミコトちゃんの声は聞こえず、私がひとりごとを言ってるように見えるらしく、怪しげな視線で私の動きを目で追っていた。
やがて、私は
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さあ、最後にラッピングして完成した私の作品。
でも、ここまで辿り着くまでが大変だった。
お湯でチョコを溶かすと分かっていたから、鍋に火をかけて温めていたら焦げちゃって、不審に感じて、途中から学習塾のバイトに出掛けた美希ちゃんとLINAで質問したら、そのやり方は違うと言われたり……。
私自身、チョコの
だから、すぐにトマトの湯剥きみたいのを想像したけど、チョコには皮がついていないし、無理だろうと思っていた……。
まさかお湯をはった深底の鍋に金属ボウルを入れて、その中で、じんわりと溶かすとはね……。
初めてのお菓子作りも、中々奥が深い経験だった。
──そこへLINAの通知音がぽんっと響く。
私の旦那様からだった。
内心ドキドキしながら覗いて見ると、『今日は同僚と飲みに誘われたから、帰りは遅くなる。
夕飯もそこで済ますから、俺の分はいらないから。ごめんな』と書かれていた。
また飲み会か。
いそいそとサラリーマンとして働き、一ヶ月に五回はくだらなく、結婚してから早くも今月一回目。
『同僚とは女の子も一緒なの?』
と聞きたい思いだったが、その気持ちを押し殺しながら、無表情でスマホを打つ。
『分かった、なるべく早く帰って来てね』
そう、文章を並べるしかなかった。
今日は竜太の好物なハンバーグを作る予定だったのに、拍子抜けしちゃう。
私は冷蔵庫に寝かしていたハンバーグのタネを、冷凍庫に閉まった。
これで竜太は、いつでも食べられる。
「こんな妻に心から愛されて、竜太は幸福者なんだから……」
私はラッピングされたチョコを、指で優しくつつきながらポツリと呟く。
ここは竜太を信じるしかない。
数ある魅力的な女性の中から、私だけを選んでくれた旦那様を……。
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「やべ、遅くなっちまったな」
最寄りの駅から降りた俺は、真っ先に家路へと急いでいた。
もし、同僚の女性から、あれを貰えなかったら気づかなかった。
今日は大切な日だということに……。
終電間際の電車に飛び乗ったが、降りた時刻はとうに深夜の12時を過ぎていた。
もう十分に恋する乙女の有効期限は切れている。
それでも一分一秒でも、由美香に会いたかった。
まだ彼女は、俺の帰りを待って起きているだろうか?
──この前、結婚したのにこんな感じだ。
その歓迎会で
一言、彼女に謝らないと。
だが、最近覚えたLINAで通話しようとしたが、運が悪くスマホは充電切れ。
コンビニで充電器を買おうかと思ったが、意外と値が張り、それをしたら三日分の昼飯代がなくなってしまう。
三日間、あんパンとコーヒー牛乳だけでは腹にこたえるし、何より周りからの視線が痛い。
『この前、式場で大量のお祝儀貰ったはずなのに、何、その食生活?
そんなに苦しいのなら、身内だけで式をあげれば良かったのに……』
借金生活の中で、借金を返済するために盛大に行った式……何てデマが、周りから飛びかねない。
──そんなマイナスな思考を
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家に帰ると、部屋の電気は消えていて、真っ暗だった。
だけど、どこからか人の話し声がする。
俺は声の主を探して、リビングへと踏み入れる。
──彼女はそこにいた。
恐らく、お風呂上がりなのだろう。
濡れた髪に白いバスローブ姿で、ソファーに腰かけて、テレビを見ていた。
今にも溢れそうな胸元がセクシーで、リップクリームを塗った
「ねえ、竜太、私達、これでも夫婦なんだよね……?」
由美香がテレビ画面から目をそらさずに、俺に問いかける。
しかし、『何がそんなに夢中にさせて、面白い番組なのか?』と画面を見ると、見覚えのある映像が、俺を捉えて離さなかった。
それは、つい一週間前に行った、俺達の結婚式の映像だった。
「竜太、私達、幸せだよね……?」
今度は由美香は、帰宅してから初めて、俺の顔を真剣に見つめる。
彼女の頬は、鮮やかに
手前の木のテーブルには、空となった茶色の細長い瓶とグラスが置いてある。
「……なっ、由美香。ワインを丸々一本飲んだのか?」
「だってこうでもしないと、竜太から誘ってくれないでしょ……」
由美香が、そのまま俺にバタリともたれかかる。
「ねえ、忘れられない夜にして……」
そうやって、俺の腹に顔を埋めて……、
あれ?
「ぐー、すやすや……」
あーあ、一丁前にグースカと寝てやがる……。
「しょうがないお姫様だな。湯冷めして風邪ひくぞ」
俺はお姫様抱っこをして、彼女を寝室へと運び、彼女のおでこに軽くキスをする。
「そんな誘惑しなくても、お前は十分魅力的な女だぜ。それにまだ、夫婦になって間もないんだ。これから
二言、彼女の耳元でキザな言葉を発して、俺はリビングへと戻る。
そして、ふとテーブルにあるワイングラスの横に置かれた、ピンクのハート型の包装紙が目に飛び込んだ。
その横には、可愛らしいピンクの便せんが一枚。
紙をめくると、大きな文字で『竜太、大好き♪』と書かれてある。
「ははっ、
俺は包装紙を破って、大人の拳並みの1センチほどの厚みがある平たいチョコを、ガブリとかじる。
ほのかに広がる、ココアとミルクの食感。
市販の物に比べて味は劣るが、由美香の一生懸命さは存分に伝わってくる。
台所のゴミ箱に炭と化した、大量のチョコレートだったものらしき
こんな俺なんかのために、苦労して作ったんだなと……。
「めっちゃ甘いな……でも
いつもありがとう」
由美香の手作りチョコをバリボリと食べながら、彼女の真っ直ぐな想いを噛みしめ、揺るぎない妻への愛を誓った……。