「いや~いいところまではいったんだがな」
画面の向こうにいる安達行平が心底残念そうにぼやく。
賃貸マンションの一室で滄史は椅子の背もたれに深く寄りかかり、鼻で息を抜く。
季節は冬、年末の空気が段々と濃くなってきた平日に滄史の担当編集である安達との打ち合わせ。
議題は現在連続刊行中のシリーズについてだ。既に5巻まで発行されているシリーズのメディアミックスをという話だった。
「そんな気にしないでいいですよ。どのみちあの人気じゃアニメ化は普通に無理ですって」
柄にもなく落ち込んでいる安達へ声をかける滄史。そう、メディアミックスといっても様々な形があるのだが、安達が狙っていたのはアニメ化だ。
どう考えても時期尚早だ。作者である滄史自身そう思っていたというのに、安達はなぜか強気で交渉に向かったらしい。
その結果がこれだ。滄史としてはまったく悔しくないわけではないが、それでもダメージはほとんどない。
「まぁ僕もまだまだ実力不足だったという話です。だから安達さんが――」
「いいや、滄史それは違う」
滄史の言葉を遮って、安達が前のめりになる。
「売れる作品を作れないのは作家のせいだが、作品が売れないのは編集者のせいだ。今回もそう、出来上がった作品を様々な方法で売るのは私の仕事だ。それができなかった」
「だとしても、十分やってくれてますよ。僕がこうやって小説を書くだけでなんとか生活できているのはまぎれもなく安達さんのおかげです」
いつになく謙虚で内省的な安達の態度に滄史は慌ててフォローを入れる。
実を言えば滄史としては週4でもいいからアルバイトをすればもっと楽な生活を送れるのだが、それをしないのはひとえにしたくないからだ。
働きたくない。ただそれだけの理由で滄史はアルバイトをしていない。そしてそれが許される生活ができているのは間違いなく安達が仕事を回してくれるからなのである。
そんな彼が自分の仕事っぷりを許さず落ち込んでいるというのだから、お世話になっている滄史として励ますほかない。
「そうだ。今のは悪いニュースでしょう? いいニュースっていうのはなんなんですか?」
滄史の言葉でなんとか空気が柔らかくなったところで、話題を変える。
そう、そもそも今日の打ち合わせのはじめに安達が「いいニュースと悪いニュースがある」なんて言ってきたのだ。
「あぁ、そうか、そうだったな。いいニュースっていうのはだな。アニメ化はダメだったが、コミカライズされることになった」
「おぉ~……あっ、ほんとですか!?」
とりあえず言葉を受け取って、遅れてその意味に気づく。
コミカライズ。ラノベがコミックになることはままあることで、それ自体がステータスになるのかケースによるが、それでも間口はグッと広がる。
「しかも今人気のイラストレーターだ。まぁ商業の漫画はほとんど初挑戦らしいが……」
「はぁ、それはまた、なんとも言い難い……いやまぁ、ありがたいですね。ほんとに」
イマイチ歯切れの悪い『いいニュース』に滄史は思わず嫌味と苦言を呈す。
イラストレーターと漫画家は全く別の生き物だ。
一枚絵と話がメインの物語では出力に使う筋力が違ってくる。コメ農家とフルーツ農家を同じ農業だからといって一緒くたにする人は中々いないだろう。
どれだけ絵が上手い人でも、漫画を描かせると途端につまらないなんて話はざらにある。
せめて経験さえあれば良かったのだが――滄史はボイスチャットとは別のウィンドウでブラウザを立ち上げ、検索バーにカーソルを合わせた。
「えっと、そのイラストレーターさんの名前というのは?」
「あぁ、今リンクを送る」
ネットで検索をする前に正体が送られてくる。
リンクから察するにSNSのアカウントのようだ。なんの気なしにアクセスして――滄史はキュッと心臓が締め付けられた。
「……この人って」
「おっ、知ってるのか? 最近話題のバーチャルライバーで」
「イラストレーターが本業の主婦、ですよね?」
「知ってるんじゃないか」
安達の言葉に無言で頷く滄史。飛辛ひなべ。つい最近見つけた人物だ。
なにを隠そう滄史が高校生のときに知り合った同人作家のひとりで、いつの間にか普通に結婚した『ポリエステルの火鍋』その人だ。なんなら裏垢まで知っている。
それにしてもまさか彼女とは。というか向こうは滄史のことを知っているのだろうか。
「知り合ったのは私のコネだが、仕事をこぎつけたのはお前の実力だぞ。なんでもお前の作品がかなりツボだったみたいでな、ぜひお仕事をと言ってきたわけだ」
「……ありがたいことですね」
滄史はなんとも複雑な気分に見舞われる。かつて片恋慕していた女性とこんな形で再び関わることになるとは夢にも思わなかった。
しかも向こうはかなりやる気らしい。人生というものはどう動くものなのか、ちっとも予想がつかない。
「今度打ち合わせをしたいと向こうが言っててな。ひとまず私を通してって感じになるが大丈夫そうか?」
「いえ、連絡ならこちらからします。知らない間柄ではないので」
現在刊行中のシリーズとはまた別の話を進めるため、滄史は夜に喫茶店『夜光猫』を訪れていた。
今日もネオン管でできた猫を見上げながらドアを開ける。
店長らしき男性が低い声で「いらっしゃいませ~」と迎え入れ、滄史は軽く会釈をしていつもの席に着く。
冬ということで頼むのはもっぱらブレンドだ。砂糖なし、ミルク2杯、くるくるとかきまぜてズッと啜る。
もう何年も使っているノートパソコンを出して起動する。書きかけの原稿を立ち上げ、画面をにらんだ。
まずは前日分の見直しだ。心の中で文章を読み上げていると、カランカランと来客を告げるベルが鳴った。
視界の端に来客の姿をとらえる。ハイヒールに目が大きい網目のタイツ、蝶ネクタイ付きの真っ白なつけ襟に真っ黒なレオタードと両手首に真っ白なカフス、そしてぴょこんと上に飛び出たウサギの耳のヘアバンド。
いわゆるバニーガールだった。それもディスカウントストアで売ってるような量産品ではなく、縫製がしっかりとした一点物だ。
上等なのは服だけではない。豊かな黒髪はふわりと巻かれていて、艶々と輝きを放っている。
ほとんど左右対称の整った顔立ちに、豊かな胸元とくびれのある腰つき、背丈はそれほどだが、脚は長い。細くて、白くて、柔らかそうで、どこか肉感的ですらあった。
バニーガールの女性は滄史と目を合わせるとふくよかな笑みを浮かべる。
滄史は打鍵を止めることはせずにぺこりと軽く頭を下げ、またパソコンへと視線を戻す。
バニーガールは滄史の斜め後ろ、カウンターの席にちょこんと座る。
店員といつものやりとりをして、バニーガールもまたブレンドを頼む。
滄史が座っている道路側のカウンター席は、前がガラス張りになっていて、暗い通りのおかげでうっすらと鏡のようになっている。
そして見えてくるのは彼女の後姿だ。網タイツとレオタードに包まれたお尻には白いふわふわのしっぽがついていて、彼女が身じろぎするたびにほわほわ揺れた。
滄史はキーボードを打つ手を止めて、バニーガールの後姿に見入ってしまう。
頬杖をついて数分程度見つめ、ハッとして原稿の作業に戻る。それの繰り返しだ。
そうやって、どうにか原稿を進めていると、不意にバニーガールが動き出した。
パッと立ち上がって会計を済ませる。そのまま軽やかな足取りで店を出て行ってしまう。
店に来たときは羽織っていたコートを椅子にかけたまま。
「あら、あのお客さん……」
女性店員が忘れ物に気づく。滄史はすぐさまパソコンを閉じて、荷物をまとめて立ち上がる。
さっきまでバニーガールが座っていた席に近づき、かけっぱなしの上着を回収した。
「これ、帰り道に店の前を通るので、僕が届けてきます」
上着を丁寧に畳んで滄史が女性店員に言う。彼女は滄史とバニーガールの関係をどことなく察してくれているので、素直に「分かりました。お願いします」と言ってきた。
もう一度ぺこっと頭を下げ、会計を済ませる滄史。店を飛び出して早歩きで進む。
ナイトクラブ『Jewel Dream』の近くまで来たところで、見覚えのある、というよりも目立つ後姿を見つける。
間違いなく彼女だ。滄史はコートを持ったまま走り、彼女の名前を呼んだ。
「光矢さん!」
ネオンが照らす夜の闇の中で、彼女が振り向く。
なによりもまばゆい輝きを瞳に秘めて、滄史を見つけると、腕を広げて迎え入れた。
「滄史さん」