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5-4

「光矢さん、僕は昔2人の女性が好きだったんです」

 ぽつぽつと滄史は語る。かつての自分の恋愛未満の恋煩いを。

 拙くて未熟な想いだ。引きずるほどの価値などなく、大事にするほど温かくもない。

 それでも滄史はその想いをずっと持ち続けていた。うじうじと悩んでのろのろと逃げるこの自分こそ、小説を書く上での原動力だったのだから。

「――今思い返してみると、僕が一方的に好きなだけだった。それにあの2人は知らない間に変わっていて、変わっていないのは僕だけだった。だから今も、僕が一方的に好きなだけじゃないかって思うんです」

「滄史さんは私に好きって言ってほしいんですか?」

「あぁ、いや、そういうわけじゃなくて。結局、特別に見てたんですよね。相手のことを。ちゃんとひとりの人間として見ていなかった。相手のことを『好きな人』としか見ていなかった」

 滄史の独りよがりな想いに光矢はなんとなく憶えがあるのか、なにも言わない。

 ただキュッと腕を回した状態で滄史の言葉を待っている。

「僕にとって『好きな人』はいつまで経っても『好きな人』だから、家族とか安達さんみたいな僕の日常に決して溶け込むことがなかった。いつまで経っても『好きな人』のままだから、僕はその人のことばかり考えてしまって、なにも手につかなくなってしまう。自分の不器用さとか、恋愛下手とかを呪うばかりです」

「だったら、当たり前じゃなくなればいいんじゃないですか? その『好きな人』といることが日常になれば、気にしなくなるかも」

「僕もそれは思いました。だけどその方法が分からなくって。だけど、光矢さんが僕を海から引き上げてくれたあのとき、なんとなく分かったんです」

 スッと、お腹に回っていた手をほどき、滄史が振り向く。

 目と鼻の先に光矢がいて、滄史を見つめている。

 あのとき、逃走の果てに海へ飛び込み、生きることを諦めたあのとき、光矢の瞳に秘められたあの輝きが、滄史を救ってくれた。

「必死になって逃げた先で、僕はきっと誰かに見つけてほしかった。自分じゃ止まることができないから、誰かに止めてほしかったんです」

 光矢の手を握りしめ、情けなく自嘲する滄史。それは、どこかでみたようなあまりにも陳腐な逃走劇だ。

 大層な理由もなく、貫くべき信念もなく、ただ『そこ』にいたくないから飛び出しただけのありふれた『はじまり』と『おわり』だった。

「小説を書き続けてるのも同じだ。僕はこの島でちっぽけな『ひとり』になんてなりたくなくて都会に飛び出した。でも島の外はそんな『ひとり』がひしめき合って町を作っていた。僕はそれを見て、自分のちっぽけさを認めたくなくて、ひしめき合う『ひとり』になりたくなかった。だから特別になりたくなくて、だけど人との関わり合いを極力避けて小説を書き続ける日々を送った」

 久我峰滄史の人生は矛盾で溢れていた。そのことに気づきながらも、自分で抜け出す勇気はなくて、ただ現状維持を図るために走り続けていたのである。

 そんなひとりの男の情けない独白を、光矢は静かに聞いていた。

 嗤うことも、憐れむこともせず、心の奥底にしまっていたであろう矛盾した想いを光矢は受け止める。

「でも、ずっと逃げ続けることなんてできない。きっとどこかで力尽きてしまう。そうなる前に、誰かに止めてもらいたかったんだ。だから僕は、小説を書き続けていた。もっと賢いやり方があるのに、僕はそれしかできないから。そしたら、光矢さんが僕を見つけてくれた」

 いつの間にか滄史は涙ぐんでいて、声も嗚咽まじりだった。

 罪を告白するかのように、滄史は光矢へと縋りつく。

「僕にとって光矢さんは『好きな人』でした。だけど話していくうちにこの人も同じ人間なんだって分かって、でも、だからといって僕は小説を書くことしかできなくて、それでも光矢さんは僕を追いかけてくれた。追いかけて、捕まえてくれた。それで、今こうやって話してる。当たり前みたいに」

 自分の愚かさを自覚して、だけどもうどうにもならなくて、ただみっともなく目の前の人へと救いを求める。

 そして光矢は、落ち込んでいる滄史を見つめ、ゆっくりと頬に手をそえた。

「滄史さん」

 光矢が温かい声色で滄史を呼ぶ。

 今にも零れ落ちそうな涙を拭い、滄史へと笑いかける。

「滄史さんが色んな言葉を尽くして、私に気持ちを伝えようとしてくれてるっていうのは、分かります。だけど、ちょっと長いです。もっとシンプルでいいんですよ?」

 微笑みかけられながらのクレームに滄史は恥ずかしさで顔を赤くしてしまう。

 そんなつもりではなかった。自分の気持ちを整理するために、話があっちこっちしてしまったのは完全に滄史の落ち度だが。それにしてもスムーズな指摘だ。

 ここまで言われた以上、言葉を尽くすのは良くないだろう。滄史はガクッと項垂れて、やがてゆっくりと頭を上げた。

「あー……つまりですね」

「つまり?」

「いやその、だからですね」

「だから?」

「本当のことを言うと……」

「なんですか?」

「小説が書けなくなってもいいから、僕はこれからも光矢さんと一緒にいたいです」

 ただそれだけ。最後にそう付け加えて、滄史は目を伏せて口をつぐむ。

 あんなにも色々話したというのに、最後はただのお願いだ。泣き落としと言ってもいいだろう。

 情けないところばかりだと思った滄史だったが、思い返せば彼女の前でいい格好ができた試しがない。

 そりゃ心配されて島まで来られるわけだ。滄史が自分の不甲斐なさを心の内で嘆いていると、不意に、頭になにかが触れた。

 撫でられるように感覚が滑る。ふと、顔をあげると、光矢がどこか嬉しそうに滄史の頭を撫でている。

「本当はもっとシンプルで良かったんですけど、まぁ今回はこれで許してあげます」

 上から目線の光矢に、滄史はにへらっと気弱な笑みを浮かべ、安堵の息を吐いた。

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