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第9話 銀の神子の赦し、そして闇の継承者

「皆の憧れのお前らが……生者を殺すのかよ!!」


 あの言葉が、ずっと耳に残る――

 耳を塞いでも、胸の奥から響いてくる。まるで、自分自身の心が責めているかのように。


 **


 幼い頃、私は両親を目の前で魔物に殺された。

 血の匂い、肉が裂ける音、父と母の叫び声――

 世界が崩れる音を、私は確かに聞いていた。


 あの瞬間から、世界は音を失った。

 耳に届くはずの悲鳴すら、遠く霞んでいった。


 気がつけば、私は光に包まれていた。

 暖かく、優しく……けれど、どこか悲しい光だった。

 その光にすがるようにして、私は初めて“救い”を知った。


 その日、私は“聖なる力”を手に入れた。

 ヴァチカンはそれを“神の奇跡”と称え、私は特別な存在になった。

 選ばれし者、神の子、救世主――

 世界は私に、光の名を与えた。


 訓練の日々は過酷だった。

 心を殺し、涙を捨て、ただ“正しさ”を学び続けた。

「弱き者を守るために」

「闇を払うために」

 ――そのためならば、自らの感情すらも切り捨てろと教えられた。


 でも、私は忘れられなかった。

 困っている人を見るたび、あの日の自分を重ねてしまう。

 泣きながら助けを求めていた、あの時の“私”を。


 震える手を、私は無視できなかった。

 たとえそれが規律違反であっても。

 その手を振り払うことが――どうしても、できなかった。


 **


「セレナ、貴女は優しすぎる。それは規律違反に繋がる」


 ヴィザの冷たい声が、胸を突いた。

 彼は間違っていない。

 私たち聖騎士は、秩序を守る存在でなければならない。


 ――けれど。


 光では救えなかった。ならば私は――あの闇に、手を伸ばす

 あの時の屍鬼の叫びが、何よりも“人間らしかった”。

 私の中の“聖性”が、軋んでいた。

 ……もう、割り切れない。切り捨てられない。


 玲の首が落ちたあの瞬間。

 その瞳に浮かんでいたのは、怒りでも恐怖でもなかった。

 まるで……安堵に似た、悲しい微笑みだった。


「間違っていたのは……私だったの?」


 **


「……あの日、私が助けられたように……

 彼女にも、光を与えられたはずだったのに……」


 胸の奥が、焼けるように痛んだ。

 私のこの手は、聖なる力に満ちているはずなのに。

 なのに、彼女を救うことは――できなかった。


 正しさとは、いったい何だったのか。

 救いとは、誰のためにあるのか。


 ――あの場で、最も“正しかった”のは、あの屍鬼だったのではないか?


 下位のアンデッドに意思はない。

 それが、私たちが教えられてきた“常識”だった。

 だが――彼は違った。


 あの屍鬼は、玲を庇い、何度もその身を投げ出した。

 痛みを感じ、傷を負いながらも、ただ彼女を守ろうとしていた。

 誰よりも、真っ直ぐに。


 **


「……私たちこそ、間違っていたの?」


 その問いが、胸の奥にずっと居座っていた。

 揺らぐ信仰、崩れる正義。

 聖なる光は――本当に“救い”だったのか?


 私には、もうわからない。



 **


 声が聞こえる――



 それは、死んだはずのトレイナの声だった。

 もう滅びたはずの、あの歪んだ存在の、嘲るような声。


「エンド……玲も死に、お前も太陽が昇れば塵となる……哀れだなぁ……」


 その言葉に、胸の奥が冷たく凍る。

 だが――それ以上に、目の前の光景が信じがたかった。


 セレナの聖光で滅せられたはずのトレイナの亡骸――

 その傍らに、ぽつりと転がる一つの核。

 宝石のように、妖しく輝きながら脈動している。


 それは、ただの魔石ではなかった。

 魔力の核――トレイナの魂の残滓。

 あれが、この世と彼の存在をかろうじて繋ぎとめていたのだ。


「フフフ……あの時、儀式を受け入れていれば玲はまだ生きていたかもしれんのに……」


「哀れだ……全てはお前の選択の結果だ……」


 その言葉は、傷口を抉るように胸へと突き刺さった。

 だが、怒りや後悔に呑まれている時間は――もう残されていなかった。


「……うるさい……」


 俺は、唸るように呟いた。

 喉は焼け、声は掠れていたが、それでも確かに響いた。

 怒りと悲しみと、祈りにも似た強い意思が――声に宿っていた。


 ジリ……ジリ……

 肌を焼く音がする。太陽が、昇る。


 焦げた肉が剥がれ落ち、煙が立ち上る。

 もう歩けるはずの身体じゃない。

 だが――それでも、俺は進んだ。


「せめて……わしの器となれ……」


 トレイナの囁きが、耳元で響くたびに、

 魂が少しずつ削られていくような感覚に襲われる。


 足はもう、残っていない。

 地を這い、指を焦がし、骨を軋ませて――


 一歩、また一歩。

 焼かれながら、僕は核に手を伸ばしていく。


(玲……僕は……まだ……)


 胸の中に残る、彼女の最期の瞳。

 守れなかった悔いが、背を押していた。


 **


 そして、指先が核に触れた瞬間――


「終わりだ、トレイナ……!」


 喉を裂くように叫んだ。

 そして、全ての力を込めて――その核を、握り潰した。


 パリン――!


 高く、乾いた音が辺りに響き渡る。

 同時に、核は砕け散り、漆黒の瘴気が爆ぜるように空へ舞った。


 その闇の一部が、逆流するように――僕の中へと流れ込んできた。


 **


「ほぉ……」


 内側から響く声――トレイナの残響。


「進化をとばして……もう、なったか……『あれ』に……」


 俺の身体が――変わり始めた。


 骨が悲鳴を上げ、血が沸騰し、皮膚の下で神経が軋む。

 焼け落ちたはずの肉が、ねじれながら再構築されていく。


「――ッ!!」


 喉が裂けそうな叫びを上げるが、声はすでに声ではなかった。

 それは、断末魔にも似た――再生の咆哮だった。


 **


 視界が、闇に沈む。

 意識が歪み、世界の形が変わっていく。

 光も音も、触れられるはずの感覚も、すべてが遠のいて――


(これは……進化……? それとも……)


 **


「だが哀れだ……」


 再び耳に届く、あの声。


「もう……太陽が、森の闇を照らす……」


 **


 太陽が昇る――


 そして、僕を焼き尽くす。


 **


 ジリ……ジリ……


 血肉が炭となり、煙となって昇っていく。

 再生と崩壊が交錯し、限界を超えていた身体が――ついに、沈み始める。


「くそ……まだ……やれる……のに……」


 声が、届かない。

 視界が揺らぎ、心が千切れるように遠ざかっていく。


「玲……すまん……墓、作ってやれそうにない……」


 **


 僕の身体は――

 太陽の光に包まれ、ゆっくりと、確かに塵へと変わっていった。


 ――魂すら、炎に溶けるようにして。


「……これで、終わり……か……?」


 その瞬間、見えたのは――

 太陽に揺れる、木々の影。

 あの日、夢見た“平和”のような、静かな光景だった。


 **


 ――だが、運命はそう簡単には終わらなかった。


 ⸻


「……これで、終わり……か……?」


 意識が朦朧とするなか、口をついて出た言葉だった。


 身体の感覚は、もうほとんど残っていなかった。

 焦げた肉体はひび割れ、砕け、風にさらわれるように崩れていく。

 魂までもが、太陽の熱に溶かされ、空へと還ろうとしていた。


 ――不思議と、怖くはなかった。


 あまりにも静かな、死。

 焼け焦げる音すら、もはや遠く感じる。

 光に包まれ、視界の端に、揺れる木々の影だけが残っていた。


 それは、かつて見た“理想の世界”に似ていた。

 血も争いもない、ただ風が通り、葉が揺れるだけの、静かな場所。


(……玲……ごめん……)


 約束を守れなかった。

 守りきれなかった。

 何も――届かなかった。


 自分が信じた“正義”も、“愛”も、“希望”も、何ひとつ救えなかった。


(……それでも……)


 どこかで、まだ誰かが――誰かだけは、生きていてくれたらと思った。


 そうして、ゆっくりと、すべてが白く染まり始めた。


 **








 ――だが、その“白”の中に、ふと――

 ひとすじの“銀”が差し込んだ。


「……お待たせ。」


 微かに、耳に届いた声。

 柔らかくて、優しくて、けれど、どこまでも悲しげだった。


 それは夢か、幻か――


(……誰……?)


 もう何も見えないはずの視界に、ひらひらと揺れる銀色が映り込む。


 ――光の中、銀髪が揺れていた。

 まるで陽炎のように、ぼやけた世界に滲んでいる。


「セ……レナ……?」


 言葉にするのもやっとだった。

 けれど、それでも確かにそう感じた。


 彼女は、祈るように、壊れかけた僕の身体を抱き上げる。

 その目に、涙はなかった。ただ――強い決意があった。


 両腕で抱えたのは、首から下をほとんど失った、僕の“骸”。

 だが、彼女はまるで宝物を扱うように、静かにその身体を支えた。


「もう……我慢しなくていい。」


 そう囁きながら、セレナは自らの首筋を、僕の唇へと静かに導いた。

 その指先に、ほんのわずか震えがあった。けれど、その瞳には、迷いがなかった。


 唇が肌に触れた瞬間――


“カチリ”と、口の奥で何かが変わった。


 朽ちかけた肉体の奥で、疼いていた本能が静かに目覚める。


 ゆっくりと、犬歯が伸びていく。

 上顎も下顎も、鋭く長く、まるで獣のように――

 だがそこにあったのは、飢えではない。ただ、彼女の赦しに応える“覚悟”だった。


 そして、僕はそっと牙を沈めた。


 皮膚を破る感触と共に、温かな血が舌に触れる。

 それは、かつて知ったどんな味よりも深く、どこまでも優しかった。


 彼女の鼓動が、僕の内側に流れ込んでくる――

 まるで、生きろと願われているように。


 胸の奥で、何かが弾けた。

 消えかけていた鼓動が、微かに脈を打つ。


“生きたい”と願ったわけじゃない。

“死にたくない”と泣き叫んだわけでもない。

 ただ――この温もりが、あまりにも懐かしくて、あまりにも――救いだった。


 最後にもう一度、彼女の名を、声にならぬ声で呟く。


「……頂きます。」


 **


 そして、世界が反転する。



 **


 溢れる。

 脈打つ。

 全身の隅々まで――それが満ちていく。


 それは命ではなかった。

 それは、祝福ではなかった。


 ――呪いだった。


 **


 焼け爛れた肉体が音もなく再生していく。

 骨が軋みを上げて組み直され、筋肉がひとりでに盛り上がっていく。

 焦げた皮膚は剥がれ、血の気を取り戻した白い肌が露わになっていく。


 けれど、それは“人の形”をなぞっただけの何か。

 肉体の再生ではなく、構造そのものの“作り替え”だった。


 **



 目が深紅に染まり、夜そのものの輝きを湛える。

 視界が鮮明になりすぎて、世界が異様にゆっくりと見える。

 空気の振動、音の波、セレナの脈打つ鼓動――

 すべてが肌に、骨に、魂にまで突き刺さる。


 **


 そして、髪が揺れた。


 もともと黒だった髪は、音もなく、滑らかに――

 まるで雪が落ちるように白く染まっていく。


 それは死の象徴。

 けれど同時に、夜を統べる者の印。


 かつて僕を包んだ“光”とはまったく異なる、

 静かで、冷たく、どこまでも深い――“闇の力”。


 **


「……これは……」


 呟いた声は、自分のものとは思えなかった。

 低く、冷たく、内側で反響するような響き。

 言葉ですら、もはや“生者の声”ではなかった。


 **


「貴方は……なったのね……」


 セレナの声が震えていた。

 それでも、そこに恐れはなかった。


 すべてを受け入れた人の顔で


 **


 僕は――感じていた。


 胸の奥に渦巻く、かつてないほどの“力”。

 それは熱ではなく、冷気のような静けさを持っていた。


 怒りも悲しみも、すべてを凍てつかせるような、深い力。


 それは、誰かに与えられたものではない。

 僕自身が“選び、背負った結果”として、この身に刻まれた進化だった。


 **


「『吸血鬼ヴァンパイア』に――」


 呟いたその言葉は、祝福でも呪詛でもない。

 ただ――始まりを告げるためのものだった。


 **


“死”の先にあったのは、“終わり”ではなかった。


 生きながら死に、死にながらなお生きる――

 そんな存在として、僕はここに立ち上がる。


 この力で、あの日の正義に、終止符を打つために。


 この力で――もう一度、彼女に誓うために。


 **


 そして、“夜”が静かに始まった。


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