僕は知らない天井を見上げていた。
天井の色は白く、どこか清潔感がある。だが、その場所がどこなのか、全く分からなかった。
ふと、少しの間だけ目を閉じると、背中に伝わる布の感触がやけにあたたかく感じる。
寒さの中で冷え切った身体が、じんわりとその温もりに溶けていく。外は冬――その感覚だけが確かだった。
「目を覚ましたかい?」
その声に驚き、体を起こす。
目の前には、白髪が混じり、オールバックにした60代くらいの男性――見た目は人間そのものだが、どこか異様な雰囲気を漂わせる男が立っていた。
彼の手には、湯気の立つカップが握られていた。
「目覚めの一杯でもいかが?」
差し出されたコーヒーは、室内の乾いた空気の中でいっそう濃い香りを放っていた。
寒さに縮こまっていた体が、湯気のぬくもりにほっと緩む。まるで、命を取り戻す儀式のようだった。
「あの、ここは……?」
恐る恐る尋ねる。自分が吸血鬼であることがバレているのではないかという不安が胸を締め付けていた。
「君のような吸血鬼が安らげる場所だ」
その言葉に、僕は言葉を失う。目の前の男――見た目は人間だが、間違いなく吸血鬼だった。
彼の言葉に、背筋が凍ると同時に、心の中で何かが解けたような感覚を覚える。
「えっ!?」
驚きが口をついて出た。
「それに、君は最近、血を吸っていないだろう。瞳孔が赤くなっている。」
その通りだった。最近は、吸血衝動を抑えるため、自分の腕を噛んで誤魔化していた。人間でありたいという一心からか、見苦しいほどに自分を抑え込んでいた。
この男は、信頼できるかもしれない――そう感じた。何か、人間らしい感覚を持っているような気がしたからだ。
僕はここに来るまでの経緯を話し始めた。
「なるほど。そういうことか。それで、君は宿と収入に困っていると。」
「はい…」
「どうだい、ここでコーヒーでも入れてみないか?部屋も寝泊まりしていいよ。君が言っていたセレナという少女にも、ここに連絡を取るといい。」
少し黙った後、男は続けた。
「ただし――光滅騎士団の次代の英雄だということは、他の者には黙っていてくれ。君の立場が知られれば、混乱を招くことになる。」
僕は頷き、少し考えた。
「ありがとうございます……その、セレナにはどう伝えればいいんですか?」
「君が連絡する必要はない。ただし、君が今後、何をするかによって、こちらからも動くことになる。まずは、君の望みを聞かせてもらおう。」
僕は深呼吸をしてから答えた。
「吸血鬼の問題を解決するために――東京に来たんです。あいつを探すために。」
男は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに落ち着いた顔になった。
「そうか……君がその“あいつ”を探しているなら、ここにいても良い。しかし、急ぐことはない。まずは力を蓄え、準備を整えてからだ。」
「分かりました。」
僕は一歩踏み出し、男が差し出したコーヒーを受け取る。香りが鼻をくすぐる。
⸻
その瞬間、まるで東京に新しい太陽が昇ったような錯覚を覚えた。
店の前に立っていたのは、セレナだった。
「あまり店の前でそのオーラを出さないでくれ。客が寄り付かなくなる」
セレナの目は、僕に向けられたままだ。
「エンドはどこ?」
短く、力強く問う声に、僕は少し緊張した。
「まずは上がりなさい。コーヒーでも飲むかい?」
「吸血鬼の言葉なんか信じれるか」
セレナは無表情で答えるが、その声には一切の迷いがない。
「そうやって相手を知らないから我々は争っている。少なくとも私は人間を学んでいる。」
「吸血鬼の戯言なんて気にしてられるか」
そう言って腰の剣に手を伸ばす。
その動きに一瞬の緊張が走った。
「そうかい?エンドと君が言う彼は元人間だと言うじゃないか?確かに嘘をついてるように見えなかった。だから私は彼を信じた。人間の様に私達には私達の秩序がある。まずは話し合わないかい?」
セレナはしばらく黙ったまま立ち尽くしていた。
そして――ため息のように一歩を踏み出した。
セレナは無言で店の中に足を踏み入れた。
「彼は2階の部屋の中だ、私はコーヒーを入れる準備をしよう」
階段の下から、ゆっくりと足音が近づいてくる。
セレナだ。彼女の気配を感じた瞬間、僕は無意識に深く息をついた。
(あの時、セレナは僕を信じてくれたんだ。あれから、ずっと一緒に歩んできた。)
その思いは今も変わらない。けれど、ここに来て――僕はどうすべきかがわからなくなっている。
彼女がいてくれるからこそ、僕はまだ歩けている。けれど、その先の道が、今は見えない。
少しの不安が胸に渦巻く中、僕はそっとドアの方へと目を向けた。