朝が来た。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、ジリジリと僕の皮膚を焦がす。
ただ触れているだけなのに、微かな焼け焦げの匂いが鼻を突いた。
(……やっぱり、まだ完全には慣れない)
ベッドの上で上体を起こし、手の甲を見つめた。
そこには薄く赤みを帯びた跡が残っている。けれど、慣れというのは恐ろしいもので――
これくらいなら大丈夫だ、と自分に言い聞かせる癖がついていた。
下の階からは、カップが重なる音と、コーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。
日常のようで、どこか“偽物”のような、そんな朝だった。
階段を降りると、カウンター越しに芳村がゆっくりと顔を上げた。
「さて、今日から働いてもらうよ」
変わらぬ穏やかな口調。けれどその目には、確かな“試すような光”が宿っていた。
「吸血鬼は陽の光に弱い。でもね、夜だけ活動してたら“
芳村は軽く肩をすくめた。
「杭。G.O.Dを、吸血鬼たちはそう呼んでいる。まるで、棺に打ち込まれる最後の杭のようにね」
その言葉に、背筋がわずかに冷える。
確かに――奴らは、躊躇なく殺す。吸血鬼にとって“存在しているだけで狩られる理由”を持つ者たち。
「その前に、遠藤くんにはこれを飲んでもらおう」
カップに注がれたコーヒー。その香りはどこか甘く、焦がした果実のような香ばしさがある。
芳村はポケットから、小さな銀の容器を取り出した。
その中から角砂糖に見えるものを一つ摘まみ、僕のカップにそっと落とす。
「よく混ぜて飲んでね。君が――まだ“人間でいたい”なら、中身は聞かない方がいいよ」
カラン、とスプーンがカップの中を回る音が静かに響く。
問い返すべきなのか、飲むべきなのか。迷いがなかったわけじゃない。
けれど、僕はスプーンを置き、カップを口に運んだ。
一口。
温かくて、わずかに鉄のような苦みを含んだ甘さが舌に広がる。
けれどそれは、冷たく乾いていた体の奥に、染み渡るような感覚だった。
(……ああ、楽になる)
胸の奥で燻っていた渇きが、少しだけ収まっていくのを感じた。
乾いた喉。疼くような衝動。ずっと、自分の中で蠢いていた“それ”が、今は静かになっていた。
「どうかな?」
芳村は笑みを浮かべながら問いかける。
僕はカップをテーブルに置き、息を吐いた。
「……効いてます。久しぶりに、少し落ち着いた気がする」
「それは良かった」
そう言って、芳村はふと窓の外を見た。
喧騒の向こうには、あの杭たちの気配がちらつく街。
僕が生き延びなければならない、“人間のふりをして”暮らす場所。
僕は一つ深呼吸し、エプロンを手に取った。
朝はもう来た。否応なく、時間は動き始めている。
カランカラン
お客さんがやってきた。
昼間から大反響だそれだけ芳村さんの人柄良いということだろう。
カランカラン――
扉のベルが軽やかに鳴る。
「お疲れ様でーす」
その声と共に入ってきたのは、肩まで髪を伸ばした制服姿の少女だった。
鋭く跳ねた前髪、細めた目元からは、人の懐に入るのが上手そうな雰囲気はまるでなかった。
「お、いいところに来た。昼間は学校だったから紹介できなかったけどね、遠藤くん。彼女は
芳村が手際よくカウンターのグラスを拭きながら言うと、少女――響華は肩をすくめて言った。
「ちょっと店長、私なんも聞いてないんですけど? それにさぁ、なんかナヨナヨしてる男って、見てるとイラッとくるんだよね」
その言葉に僕は、無意識に視線を逸らした。
確かに、自信に満ちたタイプじゃない。今の僕はただ、なんとか今日という日をやり過ごしてるだけの存在だ。
「まぁまぁ、そう言わず。君が適任だと思ったのさ。教えるのも上手いし、なにより――優しいからね」
「は? どこ見て言ってんの?」
響華は呆れたようにため息をついたが、目元だけはどこか照れ臭そうだった。
その様子が少しだけ、彼女の“棘の奥”に柔らかい何かがあることを匂わせる。
「……よ、よろしくお願いします」
僕は少し緊張しながらも、頭を下げた。
「ふぅん……ま、よろしく」
響華は僕をじっと見てから、興味なさそうに目を逸らす。
「で、なに? コーヒーの淹れ方とか、席案内とか、私が一から教えんの?」
「うん。昼は芳村さんが見てたけど、夜は君が見る方が効率がいいと思ってね」
「マジかー……ま、しゃーない。やるからにはちゃんとやってもらうから」
そう言って、彼女はカウンター内にすっと入っていく。
「響華君には私から軽く君の事情を説明しとくから」
制服のシャツの袖をまくり、店の空気に自然に溶け込むようなその動きには、すでにこの場所が“彼女の日常”であることが見て取れた。
「まずは、グラスとカップの位置から覚えな。常連さんはこの並びで落ち着くんだから」
「あ……うん、分かった」
「言葉だけじゃ覚えられないから、実際にやって」
キツい言い方ではあるけれど、指示は的確だった。
彼女の動きを見ていると、何気ない所作に経験の積み重ねが滲んでいる。
(……ちゃんと見て覚えないと)
それに、何となくだけど――
響華は“裏の事情”を何も知らない、まっさらな人間のように思えた。
だからこそ、彼女の前では下手に動けない。
ここにいる限り、僕は“普通の人間”として振る舞わなければならない。
仕事終わり、夜の街を歩く。
ネオンの残光がアスファルトを照らし、夜風がシャツの袖を揺らした。
静かだった。けれど、それは“平穏”ではない。
耳を澄ませば、どこか遠くで何かが呻いているような気がした。
そんなときだった。前方の路地で、人影がもみ合っていた。
制服姿の少女が、男に腕を掴まれている。
「……響華?」
一瞬で脳裏が冷えた。
慌てて駆け寄り、後ろから声をかけた。
「ちょっと、響華ちゃん、大丈夫か?」
彼女がこちらを振り返る。その目は――鋭く、光を宿していた。
睨まれた、というより、“値踏みされた”ような気がした。
「はぁ、もう……めんどくさい。いや、マジで」
その言葉の直後だった。
バキィッ。
響華の脚が唸りを上げ、男の頭に叩き込まれた。
次の瞬間、首が不自然な方向にねじれ、男は崩れるように倒れ込んだ。
――首から上が、繋がっていない。
「……えっ」
言葉が出なかった。
それは戦闘じゃない。ただの“処理”だった。
迷いも、怒りもない。ただ“喰う”ことに対する、飢えた者の行動。
「まじでさー、今日飯喰うつもりなかったんだけど」
響華は口元をぬぐいながら、つまらなそうに言った。
「なんかイライラするし、新人は仕事できねーし、そもそも……どうせ、あんたも吸血鬼なんだろ?」
目が合う。その瞬間、背筋をなぞるような冷気が走った。
「見た感じ、身体はそこそこ引き締まってるけど……根本的に弱そう。なんも喰ってないっしょ?」
その言葉に、喉の奥がギュッと締めつけられる。
(……ゾッとした。これが、本物の吸血鬼なんだ)
ただの人間だと思っていた存在が、“喰う者”としての本性をさらけ出した瞬間。
僕の中にあった日常のバランスが、一気に崩れた。
「おいおい、響華。そこ、俺の喰い場だぜ?」
不意に、声が割って入る。
見ると、路地の先から歩いてくる影。
――あの時、僕をボコボコにした男。血塗れの笑みを浮かべた。
「うるせぇよ、錦。《にしき》」
響華は肩越しに言い放った。
「アンタのせいで、この辺に“杭”が来るだろ。まったく迷惑なんだよね」
「はっ、今人を殺した奴が何言ってんだ?」
錦は嗤う。けれど、響華の目は笑っていなかった。
「そもそもさ、ここはアンタの喰い場じゃないだろ。弱いから追い出されたくせに」
錦の目が吊り上がる。言葉を選ばず叩きつけた彼女に、本気の怒りがにじみ始める。
「……前々から、お前のことは気に食わなかったんだ」
「それはこっちの台詞。そろそろ蹴りつけようぜ」
一歩、二歩――二人の間に緊張が走る。
(これ、始まる……!)
僕は思わず身構えた。
だけど――今の僕に何ができる?
吸血衝動を抑えたままの体。
けれど、目の前で始まろうとしているのは、“喰う者同士”の本気の殺し合いだった。