目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第15話 日常と牙

 朝が来た。


 カーテンの隙間から差し込む陽の光が、ジリジリと僕の皮膚を焦がす。

 ただ触れているだけなのに、微かな焼け焦げの匂いが鼻を突いた。


(……やっぱり、まだ完全には慣れない)


 ベッドの上で上体を起こし、手の甲を見つめた。

 そこには薄く赤みを帯びた跡が残っている。けれど、慣れというのは恐ろしいもので――

 これくらいなら大丈夫だ、と自分に言い聞かせる癖がついていた。


 下の階からは、カップが重なる音と、コーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。

 日常のようで、どこか“偽物”のような、そんな朝だった。


 階段を降りると、カウンター越しに芳村がゆっくりと顔を上げた。


「さて、今日から働いてもらうよ」


 変わらぬ穏やかな口調。けれどその目には、確かな“試すような光”が宿っていた。


「吸血鬼は陽の光に弱い。でもね、夜だけ活動してたら“G.O.D”の連中に怪しまれるから」


 芳村は軽く肩をすくめた。


「杭。G.O.Dを、吸血鬼たちはそう呼んでいる。まるで、棺に打ち込まれる最後の杭のようにね」


 その言葉に、背筋がわずかに冷える。

 確かに――奴らは、躊躇なく殺す。吸血鬼にとって“存在しているだけで狩られる理由”を持つ者たち。


「その前に、遠藤くんにはこれを飲んでもらおう」


 カップに注がれたコーヒー。その香りはどこか甘く、焦がした果実のような香ばしさがある。


 芳村はポケットから、小さな銀の容器を取り出した。

 その中から角砂糖に見えるものを一つ摘まみ、僕のカップにそっと落とす。


「よく混ぜて飲んでね。君が――まだ“人間でいたい”なら、中身は聞かない方がいいよ」


 カラン、とスプーンがカップの中を回る音が静かに響く。

 問い返すべきなのか、飲むべきなのか。迷いがなかったわけじゃない。


 けれど、僕はスプーンを置き、カップを口に運んだ。


 一口。


 温かくて、わずかに鉄のような苦みを含んだ甘さが舌に広がる。

 けれどそれは、冷たく乾いていた体の奥に、染み渡るような感覚だった。


(……ああ、楽になる)


 胸の奥で燻っていた渇きが、少しだけ収まっていくのを感じた。

 乾いた喉。疼くような衝動。ずっと、自分の中で蠢いていた“それ”が、今は静かになっていた。


「どうかな?」


 芳村は笑みを浮かべながら問いかける。


 僕はカップをテーブルに置き、息を吐いた。


「……効いてます。久しぶりに、少し落ち着いた気がする」


「それは良かった」


 そう言って、芳村はふと窓の外を見た。

 喧騒の向こうには、あの杭たちの気配がちらつく街。

 僕が生き延びなければならない、“人間のふりをして”暮らす場所。


 僕は一つ深呼吸し、エプロンを手に取った。

 朝はもう来た。否応なく、時間は動き始めている。


 カランカラン


 お客さんがやってきた。


 昼間から大反響だそれだけ芳村さんの人柄良いということだろう。





 カランカラン――


 扉のベルが軽やかに鳴る。


「お疲れ様でーす」


 その声と共に入ってきたのは、肩まで髪を伸ばした制服姿の少女だった。

 鋭く跳ねた前髪、細めた目元からは、人の懐に入るのが上手そうな雰囲気はまるでなかった。


「お、いいところに来た。昼間は学校だったから紹介できなかったけどね、遠藤くん。彼女は響華きょうかくん。この店では夜のシフトを主に任せている」


 芳村が手際よくカウンターのグラスを拭きながら言うと、少女――響華は肩をすくめて言った。


「ちょっと店長、私なんも聞いてないんですけど? それにさぁ、なんかナヨナヨしてる男って、見てるとイラッとくるんだよね」


 その言葉に僕は、無意識に視線を逸らした。

 確かに、自信に満ちたタイプじゃない。今の僕はただ、なんとか今日という日をやり過ごしてるだけの存在だ。


「まぁまぁ、そう言わず。君が適任だと思ったのさ。教えるのも上手いし、なにより――優しいからね」


「は? どこ見て言ってんの?」


 響華は呆れたようにため息をついたが、目元だけはどこか照れ臭そうだった。

 その様子が少しだけ、彼女の“棘の奥”に柔らかい何かがあることを匂わせる。


「……よ、よろしくお願いします」


 僕は少し緊張しながらも、頭を下げた。


「ふぅん……ま、よろしく」


 響華は僕をじっと見てから、興味なさそうに目を逸らす。


「で、なに? コーヒーの淹れ方とか、席案内とか、私が一から教えんの?」


「うん。昼は芳村さんが見てたけど、夜は君が見る方が効率がいいと思ってね」


「マジかー……ま、しゃーない。やるからにはちゃんとやってもらうから」


 そう言って、彼女はカウンター内にすっと入っていく。


「響華君には私から軽く君の事情を説明しとくから」


 制服のシャツの袖をまくり、店の空気に自然に溶け込むようなその動きには、すでにこの場所が“彼女の日常”であることが見て取れた。


「まずは、グラスとカップの位置から覚えな。常連さんはこの並びで落ち着くんだから」


「あ……うん、分かった」


「言葉だけじゃ覚えられないから、実際にやって」


 キツい言い方ではあるけれど、指示は的確だった。

 彼女の動きを見ていると、何気ない所作に経験の積み重ねが滲んでいる。


(……ちゃんと見て覚えないと)


 それに、何となくだけど――

 響華は“裏の事情”を何も知らない、まっさらな人間のように思えた。


 だからこそ、彼女の前では下手に動けない。

 ここにいる限り、僕は“普通の人間”として振る舞わなければならない。





 仕事終わり、夜の街を歩く。

 ネオンの残光がアスファルトを照らし、夜風がシャツの袖を揺らした。


 静かだった。けれど、それは“平穏”ではない。

 耳を澄ませば、どこか遠くで何かが呻いているような気がした。


 そんなときだった。前方の路地で、人影がもみ合っていた。

 制服姿の少女が、男に腕を掴まれている。


「……響華?」


 一瞬で脳裏が冷えた。


 慌てて駆け寄り、後ろから声をかけた。


「ちょっと、響華ちゃん、大丈夫か?」


 彼女がこちらを振り返る。その目は――鋭く、光を宿していた。


 睨まれた、というより、“値踏みされた”ような気がした。


「はぁ、もう……めんどくさい。いや、マジで」


 その言葉の直後だった。


 バキィッ。


 響華の脚が唸りを上げ、男の頭に叩き込まれた。

 次の瞬間、首が不自然な方向にねじれ、男は崩れるように倒れ込んだ。


 ――首から上が、繋がっていない。


「……えっ」


 言葉が出なかった。


 それは戦闘じゃない。ただの“処理”だった。

 迷いも、怒りもない。ただ“喰う”ことに対する、飢えた者の行動。


「まじでさー、今日飯喰うつもりなかったんだけど」


 響華は口元をぬぐいながら、つまらなそうに言った。


「なんかイライラするし、新人は仕事できねーし、そもそも……どうせ、あんたも吸血鬼なんだろ?」


 目が合う。その瞬間、背筋をなぞるような冷気が走った。


「見た感じ、身体はそこそこ引き締まってるけど……根本的に弱そう。なんも喰ってないっしょ?」


 その言葉に、喉の奥がギュッと締めつけられる。


(……ゾッとした。これが、本物の吸血鬼なんだ)


 ただの人間だと思っていた存在が、“喰う者”としての本性をさらけ出した瞬間。

 僕の中にあった日常のバランスが、一気に崩れた。


「おいおい、響華。そこ、俺の喰い場だぜ?」


 不意に、声が割って入る。


 見ると、路地の先から歩いてくる影。

 ――あの時、僕をボコボコにした男。血塗れの笑みを浮かべた。


「うるせぇよ、錦。《にしき》」


 響華は肩越しに言い放った。


「アンタのせいで、この辺に“杭”が来るだろ。まったく迷惑なんだよね」


「はっ、今人を殺した奴が何言ってんだ?」


 錦は嗤う。けれど、響華の目は笑っていなかった。


「そもそもさ、ここはアンタの喰い場じゃないだろ。弱いから追い出されたくせに」


 錦の目が吊り上がる。言葉を選ばず叩きつけた彼女に、本気の怒りがにじみ始める。


「……前々から、お前のことは気に食わなかったんだ」


「それはこっちの台詞。そろそろ蹴りつけようぜ」


 一歩、二歩――二人の間に緊張が走る。


(これ、始まる……!)


 僕は思わず身構えた。


 だけど――今の僕に何ができる?


 吸血衝動を抑えたままの体。


 けれど、目の前で始まろうとしているのは、“喰う者同士”の本気の殺し合いだった。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?