「ねぇ、雪……! 雪だよ!」
「初雪かな……冬、来ちゃったね」
「おい写真撮れ、映えるやつ!」
街はざわめきに包まれていた。
どこかで流れるクリスマスソングに合わせて、笑い声と足音が交差する。
駅前のイルミネーションが光を反射し、
降り始めた雪が、まるで星屑のように空から舞い落ちていた。
誰もがスマートフォンを掲げ、肩に触れた冷たさに驚いては、
嬉しそうに空を仰ぐ。
その白は、日々の喧騒すら一瞬だけ、美しく見せてくれる魔法のようだった。
すれ違う他人も、すれ違った誰かも、今だけは皆同じ空を見上げていた。
喧嘩も、失恋も、明日の不安さえも――
まるで雪に包まれ、覆い隠されていくように。
今日だけは、戦争も悲鳴も、知らなくていい。
今日だけは、誰もが無垢でいられる――
そんな夜だった。
•
だが、その街の片隅。
灯りの届かぬ瓦礫の下で、一人の男が血にまみれ、静かに崩れ落ちていた。
もはや風前の灯となっていた芳村の意識が、微かに揺れた。
焦げた空気。瓦礫に埋もれた胸部が苦しげに上下する。
だが、その胸の奥で疼くのは――肉体の痛みではなかった。
(あぁ……また、失ってしまうのか)
その思いは、ただの後悔ではない。
それは、5年前の夜に刻まれた“罪”の記憶だった。
•
あの日。
G.O.Dが突入してきた瞬間、芳村は何かの“違和感”を感じていた。
しかし、気づくのが一歩遅れた。
張り込まれていた事実に、もっと早く気づいていれば――
娘の泣き声が耳に残っている。
妻が、最後に自分をかばって庇った姿を、今もまぶたの裏に焼き付けている。
人間と共に生きたいと願っていた二人が、“ただの吸血鬼”として問答無用で処理された。
撃たれ、倒れ、呼吸を止めた――そんな当たり前の現実が、芳村を突き刺した。
あの悲しみは、彼を“理性の檻”から解き放った。
そして起きた――あの事件。
5年前の《第三区吸血鬼暴走事件》。
G.O.Dの精鋭部隊、数名を殲滅。
巻き添えで民間人十数名が命を落とし、街は炎に包まれた。
全てが「吸血鬼による暴走」とされ、芳村の名は闇に消された。
それでも、彼の中で燃えていたのは怒りではなかった。
――ただ、悔しさと、喪失だった。
(それでも……私は、守れなかった)
再び目を閉じようとしたその瞬間――
彼の頬に、ふわりと何かが落ちた。
白い、雪だった
(遠藤君……君の”正義”を、君の”選択”を見届けられなかったのが……心残りだよ)
(――戦わない者が、戦わずに済む場所を……ただ、それだけを守りたかったんだ)
潰れた肺から漏れたのは、もはや声ともつかない、かすかな息だった。
芳村の視界はすでにぼやけ、世界の色は灰に近づいていた。
その中で――ただひとつの“影”が、彼の前に立っていた。
仄暗い夜の中で、凛と立つその姿。
血の臭いも、悲鳴も届かぬ静けさの中、彼はその顔をようやく見上げた。
「……君か……」
かつて自らが導こうとし、導かれた青年の姿が、そこにあった。
芳村の呼吸が、ふっと止まりかけたその瞬間――
微かに、唇が動いた。
「……君は、まだ迷っているのかもしれないね……」
ほんのわずかに、笑みが滲む。
「でも……それでも……君の歩みは、正しいよ……」
その言葉とともに、芳村の目から光が静かに消えていく。
芳村の呼吸が、完全に止まる。
最後の意識が、その“影”へと微かに笑みを向けるように揺らいだ。
静かに、命が消えた。
――白は、何色でも覆い隠す。
それが“血”であっても、“記憶”であっても。
•
残された者が、膝をつく。
崩れた瓦礫の上で、冷え切った芳村の手を握りしめる青年――エンドは、声を震わせた。
「芳村さん……貴方が守ろうとした
雪が降る。
赤く濡れた地面に、冷たい白が降り積もる。
エンドは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には涙ではなく、強い光が宿っていた。
「でも……だからこそ、俺が継ぎます」
「貴方のYume《夢》を……この夜の未来に、必ず残します」
彼は立ち上がる。
その手には、まだ温もりの残る芳村の指輪が握られていた。
夜は終わらない。
だが、それでも歩き出さねばならない――
この終わりの先に、“夜を継ぐ者”として。
その背に、雪が静かに降り積もっていた。
「エンド……」
セレナの声は、いつになく柔らかかった。
降りしきる雪の帳の向こうから現れた彼女は、瓦礫の残骸に沈んだ芳村の亡骸と、それを見下ろす俺の背を、しばらく見つめていたのだろう。
白銀の髪が風に揺れている。
その瞳は凛として、それでいて、どこか痛みをたたえていた。
「……それが、あなたの答えなのね」
静かに、けれど確かな意志で問いかけてくる。
それは戦士としてではなく、ひとりの人間としての声だった。
俺は、ゆっくりと振り返った。
「……ああ」
短く、だが決して揺るがない声で応じる。
拳を握りしめた。
その中には、まだ微かに温もりの残る指輪――芳村の意志の欠片があった。
沈黙が流れる。
風が吹き、雪が頬をかすめていく。
そして――
「……なら、その答えに、私の想いも乗せて」
セレナが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その瞳には、凍える夜の冷たさではなく、静かに燃えるような光が宿っていた。
「私は――あなたが選んだ道を信じる。……信じたい。
かつての私が手放してしまった“誰かを救いたい”という気持ちを、あなたがまだ持ち続けているのなら」
彼女は一歩、俺の隣へと並んだ。
「その背中に、寄り添わせて。
光滅の名の下に斬ってきた者としてではなく……あなたと共に、“夜を歩く者”として」
その言葉に、胸が熱くなるのを感じた。
誰かと共に歩くことが、こんなにも力になるとは思わなかった。
誰かと共に戦うことが、こんなにも怖くなくなるとは――
俺は、もう一度、空を見上げた。
雪は降り続ける。
だが、それはもはや“痛み”を閉ざすものではなかった。
それは、旅立ちを祝福する白。
誰かの“夢”を継ぐための、純粋な祈りのように舞っていた。