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第31話 雪は夜を覆い隠す

「ねぇ、雪……! 雪だよ!」

「初雪かな……冬、来ちゃったね」

「おい写真撮れ、映えるやつ!」



 街はざわめきに包まれていた。

 どこかで流れるクリスマスソングに合わせて、笑い声と足音が交差する。

 駅前のイルミネーションが光を反射し、

 降り始めた雪が、まるで星屑のように空から舞い落ちていた。



 誰もがスマートフォンを掲げ、肩に触れた冷たさに驚いては、

 嬉しそうに空を仰ぐ。

 その白は、日々の喧騒すら一瞬だけ、美しく見せてくれる魔法のようだった。


 すれ違う他人も、すれ違った誰かも、今だけは皆同じ空を見上げていた。

 喧嘩も、失恋も、明日の不安さえも――

 まるで雪に包まれ、覆い隠されていくように。


 今日だけは、戦争も悲鳴も、知らなくていい。

 今日だけは、誰もが無垢でいられる――


 そんな夜だった。

  •


 だが、その街の片隅。

 灯りの届かぬ瓦礫の下で、一人の男が血にまみれ、静かに崩れ落ちていた。


 もはや風前の灯となっていた芳村の意識が、微かに揺れた。

 焦げた空気。瓦礫に埋もれた胸部が苦しげに上下する。

 だが、その胸の奥で疼くのは――肉体の痛みではなかった。


(あぁ……また、失ってしまうのか)


 その思いは、ただの後悔ではない。

 それは、5年前の夜に刻まれた“罪”の記憶だった。

  •


 あの日。

 G.O.Dが突入してきた瞬間、芳村は何かの“違和感”を感じていた。

 しかし、気づくのが一歩遅れた。

 張り込まれていた事実に、もっと早く気づいていれば――


 娘の泣き声が耳に残っている。

 妻が、最後に自分をかばって庇った姿を、今もまぶたの裏に焼き付けている。

 人間と共に生きたいと願っていた二人が、“ただの吸血鬼”として問答無用で処理された。

 撃たれ、倒れ、呼吸を止めた――そんな当たり前の現実が、芳村を突き刺した。


 あの悲しみは、彼を“理性の檻”から解き放った。


 そして起きた――あの事件。


 5年前の《第三区吸血鬼暴走事件》。

 G.O.Dの精鋭部隊、数名を殲滅。

 巻き添えで民間人十数名が命を落とし、街は炎に包まれた。


 全てが「吸血鬼による暴走」とされ、芳村の名は闇に消された。

 それでも、彼の中で燃えていたのは怒りではなかった。

 ――ただ、悔しさと、喪失だった。


(それでも……私は、守れなかった)


 再び目を閉じようとしたその瞬間――

 彼の頬に、ふわりと何かが落ちた。


 白い、雪だった


(遠藤君……君の”正義”を、君の”選択”を見届けられなかったのが……心残りだよ)


(――戦わない者が、戦わずに済む場所を……ただ、それだけを守りたかったんだ)


 潰れた肺から漏れたのは、もはや声ともつかない、かすかな息だった。


 芳村の視界はすでにぼやけ、世界の色は灰に近づいていた。

 その中で――ただひとつの“影”が、彼の前に立っていた。


 仄暗い夜の中で、凛と立つその姿。

 血の臭いも、悲鳴も届かぬ静けさの中、彼はその顔をようやく見上げた。


「……君か……」


 かつて自らが導こうとし、導かれた青年の姿が、そこにあった。


 芳村の呼吸が、ふっと止まりかけたその瞬間――


 微かに、唇が動いた。


「……君は、まだ迷っているのかもしれないね……」


 ほんのわずかに、笑みが滲む。


「でも……それでも……君の歩みは、正しいよ……」


 その言葉とともに、芳村の目から光が静かに消えていく。


 芳村の呼吸が、完全に止まる。

 最後の意識が、その“影”へと微かに笑みを向けるように揺らいだ。


 静かに、命が消えた。


 ――白は、何色でも覆い隠す。

 それが“血”であっても、“記憶”であっても。

  •





 残された者が、膝をつく。

 崩れた瓦礫の上で、冷え切った芳村の手を握りしめる青年――エンドは、声を震わせた。


「芳村さん……貴方が守ろうとしたYume、全部を守ることは……できませんでした」


 雪が降る。


 赤く濡れた地面に、冷たい白が降り積もる。


 エンドは、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には涙ではなく、強い光が宿っていた。


「でも……だからこそ、俺が継ぎます」


「貴方のYume《夢》を……この夜の未来に、必ず残します」


 彼は立ち上がる。

 その手には、まだ温もりの残る芳村の指輪が握られていた。


 夜は終わらない。

 だが、それでも歩き出さねばならない――

 この終わりの先に、“夜を継ぐ者”として。


 その背に、雪が静かに降り積もっていた。





「エンド……」


 セレナの声は、いつになく柔らかかった。

 降りしきる雪の帳の向こうから現れた彼女は、瓦礫の残骸に沈んだ芳村の亡骸と、それを見下ろす俺の背を、しばらく見つめていたのだろう。


 白銀の髪が風に揺れている。

 その瞳は凛として、それでいて、どこか痛みをたたえていた。


「……それが、あなたの答えなのね」


 静かに、けれど確かな意志で問いかけてくる。

 それは戦士としてではなく、ひとりの人間としての声だった。


 俺は、ゆっくりと振り返った。


「……ああ」


 短く、だが決して揺るがない声で応じる。


 拳を握りしめた。

 その中には、まだ微かに温もりの残る指輪――芳村の意志の欠片があった。


 沈黙が流れる。

 風が吹き、雪が頬をかすめていく。


 そして――


「……なら、その答えに、私の想いも乗せて」


 セレナが、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 その瞳には、凍える夜の冷たさではなく、静かに燃えるような光が宿っていた。


「私は――あなたが選んだ道を信じる。……信じたい。

 かつての私が手放してしまった“誰かを救いたい”という気持ちを、あなたがまだ持ち続けているのなら」


 彼女は一歩、俺の隣へと並んだ。


「その背中に、寄り添わせて。

 光滅の名の下に斬ってきた者としてではなく……あなたと共に、“夜を歩く者”として」


 その言葉に、胸が熱くなるのを感じた。


 誰かと共に歩くことが、こんなにも力になるとは思わなかった。

 誰かと共に戦うことが、こんなにも怖くなくなるとは――


 俺は、もう一度、空を見上げた。


 雪は降り続ける。

 だが、それはもはや“痛み”を閉ざすものではなかった。


 それは、旅立ちを祝福する白。

 誰かの“夢”を継ぐための、純粋な祈りのように舞っていた。



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