大一番を前にした人間に、周囲は何と言うべきなのだろう?
初日を翌日に控え、星はルキにLINEを送れないでいた。
給料もほとんど出ないような小劇場の舞台。それでも主演であることに変わりはなく、チケットもほぼ完売しているという。さすがのルキも緊張しているはずだった。
だから、今はそっとしておこう。
「おめでとう」を言うのは初日の幕が下りてからでも遅くないと星は思った。
そう思っていたから、ルキからLINEが送られてきたときは驚いた。
時刻は、金曜日の23時ちょっと前。星が、コンビニの夜勤に入ったばかりの時間帯だった。
レジの下でこそこそとスマホを見ると、メッセージはグループLINEではなく星個人に送られていた。
「緊張して、眠れない」
「眠れる森の美女」の主演が眠れないなんてどんな皮肉だよと思いながら、星は無難に「FIGHT!」とスタンプを送ってみた。すると、すかさずメッセージが返ってくる。
「いや、冗談じゃなくてマジで緊張してるんだって」
真に迫った様子なので、そのまま返事をできないでいると、メッセージが怒涛のように流れてきた。
「実は、さっきまで稽古場にいたんだ」
「演出家が、俺たちの演技に全然納得してなくて」
「特にオーロラ姫がやばい」
「まともに演技ができてないって言われて、台詞が全カットになった」
それはなかなかにやばいなと星も思った。しかし、スタンプひとつ挟まず流れてくるメッセージは、中途半端な突っ込みを許さない雰囲気に溢れていて、星は何も言えなかった。
「こんなんじゃ、明日の初日に間に合わねぇよ」
「俺だけでもしっかりしなきゃいけないのに」
珍しく、ルキは弱気だ。
なんだかんだでルキは芯の強い男だ。入れ墨男に顔面を殴られてもへこたれないし、顔に傷を作ったまま舞台にも上がるし、迷惑をかけた相手に謝りに来る漢気もある。だから、星は彼のメンタルを心配したことはあまりない。しかし、こうも弱気になっていると、年上の男として何か気の利いたことを言ってやりたかった。
けど、どうやって――?
星は、舞台のことに関してはとんと素人だ。慎也とルキが「仕事モード」に入っていると、仲間外れにされたと感じてヘソを曲げてしまうような――そんな頼りない大人だ。
しかし、ルキに晴れ晴れとした気持ちで初日を迎えてほしい気持ちは、周りのどんな「関係者」よりも大きかった。「カルメン」の舞台で見た、ルキの美しさと堂々とした出で立ちは、彼の才能が成せるものだと思ったからだ。
「あのさ……」
震える手で、スマホの画面を叩いた。こんなこと、素人の自分が言ってもいいのだろうか?
「俺、お前の舞台が好きだよ」
「役者をやっているお前が、好きだ」
心の内を、稚拙な文章でどうにか吐き出していく。
「『カルメン』でお前がホセをやったとき、こんな綺麗な人がいるんだって、本当にびっくりしたんだ」
「正直、俺は舞台が終わるまでずっとお前のことを見てた」
メッセージを送信した瞬間、星は辺りを見渡した。客が来るのではと心配だったが、それ以上に慎也に(ここには絶対いるはずもないのに)このメッセージを見られたらやばいと思ったのだ。
「俺は舞台のことなんて何もわからないけど、お前の持ってるオーラは天性のものだと思う」
「だから、演出家に何を言われても気にするな」
「お前は、自信を持っていい」
素人のお前に何がわかるんだと言われたら、それまでの話だった。
しかし、今打ち明けたのはすべて本心だった。あんなにも舞台上で輝けるルキだ。明日の初日も、堂々とした態度で臨んでほしかった。
メッセージを送り終えたあと、既読が付いたまましばらく返信はなかった。
怒らせたかなと思ったとき、ぽこん、と返事が送られてきた。
「ありがとう」
たった五文字の言葉。それでも、ルキの気持ちが読み取れるようだった。
「星さんに話聞いてもらえてよかった」
「なんだか、俺もがんばれそうな気がする」
がんばれそう――じゃない。お前はがんばれるんだ――。
そこまでは、言わなかった。ルキならきっと、自分の真意をわかってくれると思ったから。
「俺、ちょっと思ったんだけど」
「何?」
「オーロラ姫のこと、星さんだと思ったらうまく芝居できるかも」
「馬鹿か!」
店内に誰もいないのをいいことに、星は叫んだ。ちょっといいことを言ったあとだっただけに、心臓が変な跳ね方をした。
「どーしてそーなるんだよ?」
「だって、宣材写真撮るとき、星さんが隣にいたじゃん? 俺、星さんをオーロラ姫だと思ってポーズ取ってたんだよ」
ツッコミを入れようと思ったが、星は何も言わないことにした。
トーク画面をさかのぼると、弱気なルキの発言が目立つ。それが、いつもの人を食ったようなテンションに戻っている。からかわれたようで釈然としない気持ちもあったが、ルキが元気ならそれでよかった。
「馬鹿なこと言ってないで、演出家に絞られてこいや」
「ほーい」
(よかった、いつものルキに戻った――)
それにしても、初日の前って役者はこんなにもナーバスになるものなのか――。大変な仕事だと思いながらも、こんなふうに仕事に打ち込めるルキが、星はうらやましくもあった。
(俺も、もう一仕事しないとな)
誰もいない、店内。外は真っ暗なのに、店の中では蛍光灯が煌煌と輝いている。
胸の奥に一抹の寂しさを感じながら、星はレジカウンターの内側で両手を広げた。
俺は、舞台役者。
初日の舞台を終え、スポットライトに照らされながら観客の拍手を全身に浴びている、ヒロインは、俺だ。そして、カーテンコールで自分の隣にいるのは――俺を眠りの世界から連れ出してくれた王子様――ルキだった。