「面白いものあるから、今度うちまで来いよ」
そう言われて慎也のマンションまで行くと、手渡されたのは「眠れる森の美女」のパンフレットだった。ルキが、公演前にわざわざ慎也の仕事場に送ってきてくれたらしい。
「結構、すごい仕上がりになってるぜ」
慎也がそう言うので、星はパンフレットをぱらぱらとめくった。刷り上がったばかりの、真新しい紙の匂いが鼻孔をくすぐる。ワクワクしながら読み進めていくと、思わず「あ」と声が上がってしまった。
「すげぇ……」
ページの中ほどに、ルキの姿はあった。
寝椅子に身を投げ出す、気だるげなオーロラ姫。その上に、触れるか触れないかぎりぎりのラインで覆い被さって、頬に唇を寄せているのが――ルキだった。
多分、おとぎ話と同じように「王子様のキスでオーロラ姫を眠りから覚まそうとしている」瞬間なのだろう。ルキは普段の黒髪を栗色に染め、真っ白な開襟シャツと黒いズボン、ぞれにロングブーツという出で立ちだ。体重もだいぶ絞ったのかすっきりとしていて、「王子様」が板についている。寝椅子に横たわるヒロインも(中身は男だそうだが)、ブロンドの鬘をまとい真っ白なネグリジェを着て、まさに王女様という風格。二人の背景は、うっそうとした森のセットがあり、「眠れる森の美女」の世界観がしっかりと築かれていた。
「こんなこと、できるんだ……役者ってすげーな」
「ふん、俺のほうがもっと綺麗に撮れるさ」
ダイニングでコーヒーを淹れながら、慎也がそんなことを言う。カメラマンという職業柄、撮影にはそれなりに一家言あるらしい。
「へぇ、たとえば?」
「俺だったら、背景はそんなふうにしないね。わざとらしく森のセットなんか作って……せっかく見開きにしたのに、主演の表情が生きてこないじゃないか」
「ふぅん?」
先日、「俺を置いてきぼりにするな」と言ったばかりだったが、こうして「プロ」の話を聞くのは星としては結構楽しかった。コーヒーを啜りながら、次の言葉を待った。
「ここは、バックは白にして、主演の二人にもこんなゴテゴテの衣装を着せるべきじゃない。ルキだって髪なんか染めなくてよかったんだ。普段の黒髪のままで、詰襟のシャツを着せてサスペンダーでズボンを吊らせたほうが、ずっと奴のスタイルが映える。それに……」
慎也は、はっとした顔になって口をつぐんだ。
「悪い……なんか、俺がベラベラしゃべるだけになっちまった」
「別に……? だって、俺にその話を聞いてもらいたくて、呼んだんだろ?」
意外なことに、慎也の顔が赤くなった。珍しい、この男でも気まずくなることがあるのか。
「そーゆー相談なら万時オッケーなんだよ」
「基準が、わからんなぁ」
「いーから、いくらでも愚痴れって」
「はは……うちの姫様には敵わんな」
慎也はそう言うと、パンフレットをぱらぱらとめくった。
出演者紹介のページには、慎也が撮影したルキの宣材写真が載せられていた。メインのグラビアが見開きだったのに対しこちらは切手くらいの大きさだったが、さっぱりとした白シャツを身にまとい、余計な装飾は一切身に着けていない出で立ちのほうが「ルキらしい」と言えた。
「初日が楽しみだね」
ぽつり、と星が言うと、いつの間にか隣に座っていた慎也が肩を抱いてきた。
口から、飲んだばかりのコーヒーの香りがする。
「実は、これも一緒に送られてきた」
慎也が、封筒をテーブルの上に置いた。
中にはチケットが入っているのかと思いきや、出てきたのは一枚の紙だった。
読むと、「関係者各位」と書いてあり、当日は一般チケットではなく関係者専用の受付を通ってから会場に入ってくれとある。
「ひょっとして、関係者席ってやつ?」
「おそらくな。きっと前のほうに座れるぞ」
「すげー」
ルキがすごい奴に思えて、嫉妬の気持ちがないわけではない。しかし、慎也と一緒にそんな特別な席に座れるなんて――幸せだった。
「……おい、聞いてる?」
「え?」
気がつけば、慎也が星のことをじっと見つめていた。
目は潤み、表情も心なしか陰っている。
(待てって。別に機嫌が悪くなってるわけじゃないって……)
自分の気持ちを逐一気にしてくれる慎也が可愛くて、星も慎也を見つめ返した。お互いの毛穴が見えるくらいじっと見つめ合い、ほんのちょっといたずら心が芽生えた星は、そのまま慎也の頬に唇を寄せた。
「おい!」
水をかけらた子供のように、慎也が体を引く。
目を見開きながら本気で驚いている様子が面白くて、今度は唇にキスをお見舞いしてやった。
「やめ、ろって……」
自分からこんなふうに責めたのは初めてだった。
そう思うと、今日という日まで一方的に責められ、貪られてきた恨みがふつふつと沸いてきた。このリードを逃したくなくて、一度離れた慎也の肩を星は抱き、その勢いのまま慎也の唇に舌をめり込ませた。
「うう……っ」
くぐもった呻き声が漏れる。舌と舌を絡め、相手の歯列をなぞり、二人の境界線が曖昧になるまで星は慎也を貪った。
「はぁ……あ……っ」
一息つくために、ようやく唇を放すと二人の間に粘っこい糸が引いている。その様子がどうにも滑稽で、星の口から乾いた声が漏れる。
「なんなんだよ、今日は……」
なじるような声で、慎也が訊いてくる。こんなふうに慎也を慌てさせる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
「いつも俺がやられてばっかりだから、仕返し……」
「意味わかんねーよ」
「慎也、お前はお姫様なんだよ。俺がキスして、目覚めさせてやる」
「くっさいこと言うな!」
目を血走らせながら、今度は慎也が星に飛び掛かってきた。首の後ろを抱かれ、もう片方の手で後頭部を抑えられ、まるでヘッドロックを決められているかのようだ。それなのに、唇に降ってくるキスは雪のように軽くやわらかで、星の体がじぃん、と痺れてくる。
「んっ、ぐ……」
あっという間に、攻守が逆転してしまった。
建付けの悪い椅子に座ったままかぶりつくようなキスを交わしているので、床と椅子が擦れて途端にバランスが取れなくなる。
「しん、や……っ」
いい加減椅子ごと倒れると思ったとき、慎也の両手が星の脇の下に入り、そのまま持ち上げられてしまった。
「わぁ!」
気づいたときには、星は床の上に倒れていた。
そんな星の手を、慎也が縄のように引っ張る。
「何すんだよ」
「うるせぇ! 俺をからかった罰だ」
そのまま、星をずるずると引きずっていく。向かう先は――。
「おい、まだ晩飯前だぞ!」
「誰のせいだと思ってる、先にお前を食ってやる!」
部屋中に響く大声で、慎也が叫ぶ。
しかし、星の手首を掴む手はやわらかで、本当に怒っているわけではないのは、星にもわかっていた。
(恥ずかしいんだな、こいつ……)
普段はめちゃくちゃに蹂躙している男に一瞬でもリードを取られて、それが慎也は恥ずかしいのだろう。
もののように廊下を引っ張ってゆかれながら、星はそんなことを思った。