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第34話 〈番外編2〉夏の合宿、始まる③

 福田と2人きりになり、また気まずくなってきた泰生は、話題を探す。しかし福田のほうが先に口を開いた。


「長谷川って、井上旭陽と仲ええよな?」

「えっ?」


 思いがけない名に、弓を出そうとする手が止まった。福田は泰生を見ていたが、ホルンの席とコントラバスの席との距離が、福田の表情をやや不明瞭にする。


「……うん、吹部で低音パート仲間やったから」

「俺、井上と一緒のゼミなんやけど」

「ああ、福田は社会学部なんや」


 泰生は明るく応じてみたものの、後が続かない。旭陽の名を出された時点で、軽く動揺していた。

 福田はホルンの3つのレバーを順番に押さえながら、話す。


「テスト期間に入る直前に、井上めっちゃ落ちこんでて、何でか聞き出したら、クラブで一番仲良かったやつが、俺のせいで辞めたとか言うんやわ」


 それを聞いて、更にどきっとした。福田は探るような口調になる。


「長谷川のことやろ?」


 暑さと満腹感に緩んでいた泰生の脳内が、せわしなく動き始める。旭陽のせい、でもあった。しかし泰生は、それを誰にも話さないと心に決めている。

 あいつ、ゼミ友にそんなこと言うてたんか。微かに腹立たしかったが、旭陽ときちんと話し合い和解した今、やはり申し訳なさが胸いっぱいに広がった。


「俺個人の問題やったんや、伏見で授業終わってクラブのために下京行って、また大阪向いて帰るんが、しんどなったから」


 そらそうやな、と福田は呟いたが、微妙に納得していない様子だ。


「ほな何であいつ、そんな風に受け止めたんやろ」


 深掘りしないでほしいところだった。旭陽のセクシャリティについて、福田が知っているとは思えない。


「あー……もしかしたら俺、練習終わって早よ帰りたいのに、井上が話をしたがるんがちょっと面倒くさい時あって、それが顔に出てたんかも……」


 苦し紛れだったが、それも嘘ではなかった。泰生は旭陽に胸の内で謝った。福田が、なるほど、と応じてくれたので、密かに胸を撫で下ろす。


「井上、割とおしゃべりさんやからな」


 おしゃべりさん。その言葉に独特の面白味があり、泰生にとってはやや緊張感を伴うやり取りにもかかわらず、笑いそうになった。

 確かにそうで、旭陽は男女問わず誰とでもよく話した。だから彼は皆に好かれている。吹奏楽部の同期たちは、旭陽の懸命の慰留を反故にした泰生に対し、非難めいた気持ちを抱いたに違いなかった。

 福田にとってもきっと、旭陽は大切な友達なのだろう。だから、萎れた彼の様子を気にしていた。ただ福田は、夏休みに入ってから旭陽と連絡を取り合っていないようなので、旭陽が落ち着きを取り戻していることも知らなさそうだ。


「井上とテスト終わった直後に話し合って、吹部のサマコンの終演後にも会ったから、もう俺に対してわだかまりは無い……と思うんやけど」


 泰生が説明すると、福田は軽くうつむいた。


「サマーコンサート、井上が誘ってくれたのに行けへんくて」

「そうか……定演は管弦楽団より後やから、俺たぶん観に行くで」


 福田はぱっと顔を上げた。


「え? てことは、こっちの定演には来てもらえへんかな」

「うーん……井上が余裕あったら来てくれるんちゃう?」


 福田は、高校時代に吹奏楽部で楽器を始めたと話してくれた。オケでホルンを吹きたくて、1回生の時からずっと、授業後に下京キャンパスから伏見キャンパスに移動して練習に参加している。この男も移動をものともせずクラブを続けていると知り、泰生はまた自己嫌悪に陥りそうになったが、福田はちらっと笑顔を見せた。


「俺の家は宇治やし、伏見は途中下車になるからそんなしんどないねん……そら長谷川の移動は辛いと思うわ、帰りの電車代も自腹やったんやろ?」


 え、と泰生はホルニストの顔を見た。福田って、いいやつ?

 その時、クラリネットの戸山と、ペンケースを持った岡本がこちらへやってきた。泰生と福田が語らうのを見て、戸山がちらっと岡本に目配せをしたのを、泰生は見逃さなかった。


「沈黙の福ちゃんが、大型楽器新人と話を弾ませてる……」


 戸山が言うと、福田は首を傾げた。


「おかしいすか? だって同期ですし」

「ううん、素敵やと思う」


 沈黙の福ちゃんて。泰生は笑いを堪えた。戸山と岡本が、泰生と福田の間に座る。戸山は膝の上に置いた黒いケースを開けて、中に入っている楽器を組み立て始めた。


「ええ天気やし、今夜、星空鑑賞会しよか……花火は明日にするわ」


 吹奏楽部の合宿では入浴後はフリータイムだったが、管弦楽団では夜のイベントもいろいろ用意されているらしい。泰生は戸山と線香花火をする想像をちらっとして、密かに楽しくなった。まあ実際は、そんなロマンティックなことにはならないだろうが。

 やがて音楽室に並んだ椅子は、部員たちで埋まっていく。泰生は聴覚を満たし始める大小の弦の音を心地良く感じた。聞き慣れた管楽器の音は、その中でぴりっと浮き上がって響いてくる。

 泰生も少し弓を引いた。ぶうん、と深い音が鳴る。これから3日と半日、音楽のことだけ考える時間が始まる。福田と話ができたことも嬉しくて、泰生はちょっとわくわくしていた。



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