リーベル大陸一の大国、その心臓部たる王都は冒険者ギルドによって活気に満ち溢れている。広大な領土と豊かな資源、高度な文明を誇るこの国において、冒険者は魔物討伐、資源採取などを通じて人々の生活と経済を支える重要な存在。
冒険者たちが持ち帰る成果はギルドを介して流通し、日々の暮らしと国の発展を後押ししている。そして、そんな王都には三十を超えるギルドが存在し、それぞれの思惑と夢が交錯していた。
その王都の片隅にある宿屋の一室にオレはいた。『精霊の剣』――今、王国で5本の指に入ると言われるほどの実力者のギルド冒険者パーティー。その一員として。ただ、正直な話、ここにいるのが少しばかり場違いな気もしていた。
オレの名前はエミル=ハーネット。21歳。元々は商人の息子だった。親父は「商人は何よりも人との繋がりが重要だ」という信念を持っていた。
その親父が亡くなり、築き上げてきた店も皮肉なことに親父の親友に騙されて追い出されることになった。しがない元商人となったオレは、人通りの少ない路地裏で、親父の教えとは真逆の誰とも深く関わらないようなひっそりとした形で露店商を営んでいた。
明日の見えない状況の中、そんな時になぜかリリスさんと出会い、この『精霊の剣』に加入することになった。オレの仕事はアイテムの補充や管理、買い出し、宿の手配、移動中の荷物持ち……言ってしまえば雑用だ。それでも、かつての孤独な露店商よりはずっとマシな毎日を送れていた。
リーダーのリリスさんは、いつも通りの落ち着いた佇まいだったけど、その表情にはどこか張り詰めたものがあった。その瞳が、オレたち一人一人を静かに見つめる。部屋の中には、リリスさんの他には、剣士のカルム、魔法使いのロゼ、戦士のバルドがいる。こんな朝早くから、わざわざこうして全員を集めたんだ。きっと、何か重要な話があるんだろう……
リリスさんが静かに口を開いた。
「みんな集まってくれてありがとうございます。早速だけど本題に入りますね」
その声に、皆が真剣な顔でリリスさんを見つめる。何だろう?強敵討伐の依頼か?それとも、もっと大きな冒険の予感か?期待と、少しの不安が入り混じる中、リリスさんの次の言葉が、オレたちの世界をひっくり返した。
「実は私……パーティーを解散したいんです」
目の前が真っ白になった。解散?この『精霊の剣』が?王国最強とまで言われ始めたこのパーティーが?そんな馬鹿な。現実味が全くない。最初に声を上げたのは剣士のカルムだった。その顔は驚きから一瞬で怒りに変わる。
「ちょっと待ってくれ!いきなり解散なんて納得できないぞ!」
「そうよ!それに何があったのかちゃんと説明しなさいよ!」
「何か不満でもあるのか!?」
オレも混乱していた。何が起こったのか、全く理解が追いつかない。3人の怒りや困惑は、そのままオレの気持ちでもあった。どうしてだ?何か理由があるはずだよな?
しかし、そんなこと全て承知の上だったかのように、リーダーのリリスさんは落ち着いた口調で話し始めた。
「やりたいことが昔からあるんです。だからギルド冒険者は終わりにしたいんです」
やりたいこと?一体何なんだろう?その理由は、彼女ほどの人間が冒険者を辞めるに足るものなんだろうか?そして、その答えは、オレたちの予想を遥かに超えていた。
「ギルド受付嬢になりたいんです」
「「「はっ!?」」」
思わず、3人が声を合わせて驚愕した。冗談だろ?あのリリスさんが?ギルドの受付嬢に?まさか、そんなことを言い出すなんて夢にも思わなかった。
リリス=エーテルツリー。彼女はいわば天才。年齢24歳にして、すべてのジョブをマスターした存在。それは文字通り、この世界のあらゆるジョブのスキルを使いこなせる、例えばあらゆる剣技の奥義、敵を一瞬で殲滅する高位属性魔法、どんな傷も瞬時に癒す回復術、あらゆるアイテムや素材を見抜く鑑定眼や錬金術……あげればキリがないが、そういったもの全てを身につけているということだ。
オレでさえ、このパーティーに入ってまだ1ヶ月だが、その力は肌で感じていた。だからこそ、突然の脱退宣言には、驚きしかない。それに、その理由が『ギルド受付嬢』だなんて……
「はぁ?ふざけんなよ!おいリリス!お前自分が何を言ってるか分かってるのか!?」
「そうよ!それに何があったのかちゃんと説明しなさいよ!私たちはこのパーティーに全てを捧げてきたのよ!」
「何か不満でもあるのか!?俺たち『精霊の剣』が王国最強になるのも目の前だったんだぞ!それをぶち壊す気か!」
今にもリリスさんに3人が掴みかかりそうな剣呑な雰囲気が部屋に満ちた。オレは思わず息を飲んだ。こんな緊迫した状況、見たことがない。パーティーに入ってまだたった1ヶ月なのに。まさか、こんなにも早くこのパーティー解散の瞬間に立ち会うとは……
「とにかく私はもう決めたんです。今までありがとうございました」
そして、深々と頭を下げた。リリスさんの表情には、一切の迷いが見えなかった。こうなっては何を言っても無駄だろう。3人は、まるで悪態をつくように舌打ちしながら言い放つ。
「チッ!勝手にしろ!ギルド受付嬢?勝手にしろ!せいぜい落ちぶれるんだな!」
「ふんっ!後悔するわよ!私たちがいなくなって、あんたに何ができるっていうのよ!泣きついてきても知らないからね!」
「後で泣き言を言っても知らねえぞ!」
と言い捨てると、勢い良く扉を開けて部屋を出ていった。バタン!と大きな音が響き、あっけなくパーティーは解散となった。
部屋には、リリスさんとオレだけが残される。静寂が訪れた部屋には、先ほどまでの怒号と、出て行った3人の苛立ちの残滓だけが漂っているように感じた。
気まずい……ものすごく気まずい……何て声をかければいいんだ?いや、そもそもかけるべきなのか?
「ふぅ……」
と、リリスさんが大きく息を吐いた。その溜息は、何か重い荷物を下ろしたかのような安堵にも似た響きを持っていた。そして、次の瞬間、オレは目を疑った。彼女は椅子に座ると、テーブルに肘をついて頬杖をつき、窓の外を見ながら、全く別の人物になったかのように、ぽつりぽつりと呟き始めた。それは、オレに聞かせているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか……
「なんか物語の雑魚が言うような捨てゼリフを吐かれましたね。別に構わないのですけど。というか誰のおかげでここまでのしあがってきたと思ってるんですかね?実際、あの3バカの実力なんてせいぜいランクCレベルですよ。私のおかげでAランクパーティー気取りでしたからね。本当に……弱い者は良く吠えます。あ~清々しましたね」
え?リリスさん今なんて?いつもの、あの優雅で淑やかなリリスさんからは想像もできない、底意地の悪い……まるで別人のような言葉遣いだった。彼女の横顔は、窓から差し込む光を受けているのに、どこか冷たい影を宿しているように見えた。
「大体何様なんですかね?あのイキがり剣士。いつも魔物にトドメをさしたくらいで『大丈夫かリリス?』とかオレが助けたんだぜ?みたいなドヤ顔をしてくるし、私が弱らせてたんだっつーの。本当にウザイです。少し強い魔物を倒しただけで鼻を高くして。私が事前に情報収集して、地形を読んで、魔物の弱点まで洗い出しておいたのに、ただ言われた通りに剣を振ってただけでしょう?少しでも想定外のことが起きるとすぐパニクるくせに、『リリス、指示を!』なんて情けない声を出す。普段の威勢はどうしたんですか?使えない。いつも私に庇われてるくせに『油断するな』なんて言ってくる。油断してたのはどっちですかね?本当にイライラします」
カルムのことだ。確かに彼は手柄を誇るところがあったかもしれないけど、リリスさんがここまで思っていたなんて……オレが驚き絶句していると、その毒舌はどんどん加速していく。
「あの時代遅れのおさげ魔法使いもそう。火力こそ正義みたいな?私がいつも被害が出ないように防御魔法を使いながら戦ってたんです。何度言っても直らないですし、それにあの火力バカおさげが使える魔法は私にも使えるっつーの。本当にバカでイライラします。あの火力の権化、脳筋魔法使い。敵の配置も、味方の位置も考えずにドカン!ドカン!と派手な魔法ばかり使って。周りにどれだけ迷惑をかけてたかこれっぽっちも理解してないんでしょうね。新しい魔法や連携を提案しても、『別に今のままのやり方で十分よ』の一点張り。時代遅れにも程がある。脳みそもあの古くさいおさげと一緒に固まってるんじゃないですか?ちょっとした偵察や撹乱に便利な魔法を使おうとすると、『そんな地味なこと、私がやる必要ある?』と。ええ、無いです。あなたには脳が必要ないのと同じくらいに」
ロゼのことだ。彼女の攻撃魔法は強力だった。でも、リリスさんの細やかなサポートがあってこそ、被害を出さずに戦えていたのか?そんなこと、オレは全く気づかなかった。自分の無知を思い知らされる。そして、ロゼへのリリスさんの評価は、オレが思っていた以上に酷かった……
「そして、あのでくの坊戦士。一丁前に戦ってますみたいな感じだしてますけど、図体がデカイだけで戦闘もスキルもどれも中途半端。あと私のこと好きなのか知りませんけど、いつもイヤらしい目で見てきますし、こっちはタイプじゃないっつーの。本当にキモいです。あの図体だけの役立たず。防御も中途半端、攻撃も遅い。ただデカいってだけで、盾役としても壁としても穴だらけ。動く的の方がまだ役に立ちますね。危険な状況で私が庇ってあげてるのに、モタモタしてるせいで隙を作る。足手まといにも程がある。疲れただの、腹が減っただの、子供みたいなことばかり。そのくせ、いざとなると何もできない。ただの粗大ゴミですね」
バルドのことまで……ひ、酷い……こんなにも、あの3人のことを……内心では、こんなにも蔑んでいたのか……
めちゃくちゃ毒吐くじゃんこの人。あれ?なんかリリスさん、キャラ変わりすぎてないか?いつものお淑やかな感じはどこ行ったんだ?これが彼女の素なんだろうか?そう思うと、今まで見ていたリリスさんは、全て作られたものだったのかと少し怖くなった。オレはただ椅子に座って、この嵐のような毒舌が過ぎ去るのを待つしかなかった。
そんなことを考えていると、リリスさんがふいっとオレの方に顔を向けた。ジトっとした目で見られる。うわ、次はオレの番か?今まで散々聞かされた本音を直接ぶつけられるのか?オレの仕事ぶりとか、役に立たない戦闘能力とかを、ズバズバ言われるのか?そんなことになったらオレの精神が崩壊してしまうかもしれない……!ゴクリと唾を飲み込む。
「ふぅ。スッキリしましたね。で。エミルくん、私の本性を知った今。君はこれからどうするつもりですか?」
毒は吐かれなかった。少し安堵しつつも突然の問いに困惑が勝る。
「えっと……特に決めてません……」
パーティーは解散してしまった。かと言って元々やっていた商人に戻るにしても、この王都リーベルでツテがあるわけじゃない。また明日の見えない日々に戻るのは嫌だ。でも、どうすればいいのか検討もつかない。
「ふむ。なら私についてきませんか?」
「へっ?」
思わず間の抜けた声が出た。ついていく?どういうことだ?ギルド受付嬢になるという夢を追いかけるのに、オレがついていく必要があるのか?
「嫌なんですか?というより、私はそもそもギルド受付嬢になるために、毎日我慢してあんな役に立たないやつらとずっとこのパーティーにいて、その準備を進めていたんです。そして、その最後の準備が整った……いえ、その最後の準備そのものが君なんです」
えっ!?頭の中がぐちゃぐちゃになった。ギルド受付嬢になるためにあんなに毒を吐きまくるほど不満だった3人と我慢してまでパーティーを組んでいた?そして、その準備が整ったのがオレ?オレをパーティーに入れた理由がそんなことだったのか?驚きすぎて言葉が出ない。
「ちなみに私の本性を見せたのは、君と一緒に仕事したいと思っているからです。信頼して欲しいですしね?」
リリスさんが真剣な表情でオレを見つめる。その瞳には、これまで見たことのない、強い意志とほんの少しの期待のようなものが宿っていた。本当にオレを必要としてくれている……?
「あの、オレを必要としてくれるのは嬉しいですけど、どうしてそこまでしてくれるんですか?オレなんてただの荷物持ちですよ?それにまだ会ったばかりですし……」
オレの素朴な疑問に、リリスさんは呆れたような顔をした。
「はぁ……理由が必要ですか?少しくらいは察する努力くらいしてほしいものですが、まぁいいです。パーティーに加入してから、君にはアイテムと資金の管理をお願いしてました。それはこのSランクで最強の冒険者で、銀髪で美人の私のジョブやスキルではどうにもなりません。つまりギルド経営をするのに君が必要なんです。とりあえず1ヶ月間、君の仕事ぶりを見させてもらいましたけど、まあ……及第点ですね」
及第点……か。褒められてるのか貶されてるのかよく分からない言い方だけど、つまりギリギリ使えるってことだろうか。そして、リリスさんは少しだけからかうような響きを混ぜて続けた。
「そもそも君をあの暗い路地裏から救ってあげたのは私ですし、断る権利はないですけど。それに君は戦闘能力は皆無。なのに、そこそこ有名になっていた『精霊の剣』に在籍できている時点で察するべきですけどね?まぁ……こうして私の本性を見ても、すぐに逃げ出したり、余計な詮索をしないところはほんの少し評価できます」
うわっ……流れるようにスマートに毒を吐かれた気がする。でもあの嵐のような毒舌を聞いた後だと、これくらいなら、むしろ優しく聞こえてしまうのが恐ろしい。
確かにそうだ。オレのような戦闘能力ゼロの人間が、どうしてこのパーティーに入れたのか。リリスさんが気に入ったから、というだけでは説明がつかないと思っていた。何か、彼女の目的のために必要なピースだったから……?そうか、オレは彼女がずっと温めてきた計画のために必要な存在。
「というか、ギルド経営!?リリスさんはギルド受付嬢になりたいんじゃなかったんですか!?」
オレの驚きに、リリスさんはフッと笑った。その笑みは悪戯が成功した子供のような少しだけ楽しそうな表情だった。
「はい。私は、自分だけのギルドを設立してそのギルドの受付嬢になるんです。理解できましたか?ということで……私たちのギルドのギルドマスターは、よろしくお願いしますねエミルくん?」
「はい!?オレが、ギルドマスター!?」
今のオレには他に選択肢なんて、今の段階では全く思いつかない。元商人としての知識を必要とされているのは事実だ。そして『精霊の剣』を解散させてまで、リリスさんが本気でやろうとしていること……
その時、親父の言葉が鮮明に蘇った。
『エミルよく聞け。商人は何事も人との繋がりが重要だ。そして、お前を必要としてくれるなら、どんなことでも必ず意味がある。だから人を信じれば、その繋がりがきっとお前を助けてくれる』
親父が大切にしていた言葉……オレは今、こうしてリリスさんに必要とされている。これはまさに親父が教えてくれた最も大切なもの。
そうだ。必要とされたのなら断る理由はない。どんなことでもやるべきだ。
「分かりました。リリスさんの期待に応えられるように頑張ります」
「はい。口だけにならないようにしてくださいね?期待してますよエミルくん?」
こうしてオレは、最強ギルド冒険者のリリスさんと共にギルドを経営していくことになるのだった。王国一の王都リーベルの片隅にある、たった一つの宿屋の一室で新しい物語が幕を開けた。