◇◇◇◇◇
「あ~、きっつ……。勉強なんて学生のとき以来だわ」
自分用にあてがわれたベッドに腰を下ろしながら、シュウはため息まじりにうなだれた。
なかば強制的に戦場に駆り出された翌日、シュウは朝から研修という名の知識の詰めこみ作業にいそしんでいた。休憩時間もそこそこに長々とした研修から解放されたのは、すでに外が暗くなってからだった。
シャワーと夕飯を済ませて今朝ぶりにこの部屋に戻ってこられたのは、つい先ほどのことである。
「トイレと風呂がついてないってのが、この部屋の難点だよな」
ひとつしかない入口を中心にシンメトリーにレイアウトされた二人部屋は、実に殺風景だった。あるのはありきたりなデスクと本棚、シンプルなベッドとクローゼットのみである。
「っあー、背中いてぇ……」
シュウは座学で凝り固まってしまった筋肉を伸ばそうと、指を組んだ両腕を上げて背をそらせた。そのままベッドの上に仰向けに寝転がる。
くたびれたマットレスのスプリングが、反動で大きく軋んだ。
「……落ち着かねぇ」
初日のうちに荷物はすべて片づけたとはいえ、あまり部屋に生活感はない。
二十二時すぎを示す枕元の時計の秒針の音だけが、規則正しく響いていた。
「……今日も、帰ってこないっぽいな」
シュウは首だけを動かして、部屋の反対側へと目を向けた。名前も知らない同居人には、まだ一度も会えていない。
部屋を左右に仕切る互いのカーテンは開け放たれたままだが、明かりが灯されているのはシュウのいる片側半分だけである。
――戻ってきた痕跡はあるんだけどな。
おそらくシュウが研修へ行っている間に戻ってきたのだろう。奥にあるイスの背もたれに、どこかで見たようなワンピースが脱ぎ捨てられていた。
薄暗い右側のベッドの上で、ウサギのぬいぐるみがじっとシュウを見つめている。
――同居人が女の子って聞いたときはビビったけど、エリカじゃなかったってのは救いだな。
事情が事情なだけに個人的に呼び出され、「くれぐれも問題を起こさないように!」と何度も念を押したマリアの姿を思い出して、シュウはおもわず苦笑いを浮かべた。
すぐに彼女の怒りの矛先は独断で部屋割りを決めたらしいユキノリへと戻されたが、冷たい床に正座させられた最高責任者は「居住区画がせまいから仕方がない」と開きなおったのである。
当然マリアが納得するはずもなく、現在急ピッチで居住区画の拡張計画が進行中だそうだ。工事が終わり次第、シュウには正式に部屋が与えられることになっている。
いわばこの部屋は、仮住まいといったところだ。
「できれば、エリカにばれる前に移動したいもんだな」
異性と相部屋などとエリカに知られたら、それこそおおごとになりかねない。部屋に来たがるエリカをなだめるために、しぶしぶ自分がエリカの部屋を訪ねることを約束したのだ。部屋を変わるまではなんとか無事にやり過ごしたいと願っても、バチは当たらないだろう。
「……なんか、いろいろありすぎたな……」
天井を見上げたまま、シュウは深々と息を吐いた。
ペッカート。
スペランツァ。
キューブ。
それらに関する現時点での情報は、シュウにとっては現実離れしすぎていた。
この三日間で起こったできごとを消化するには時間が足りない。あまりにもいろいろなことが起こりすぎたのだ。
動揺。期待。歓喜。疑心。恐怖。
複雑に入り交じるさまざまな感情をかかえたまま、現実逃避したくなる心を必死に飲みこもうとしている。否、無理やりにでも自分を納得させ、現実を受け入れるしかないのだ。
――そうしなきゃ、前には進めねぇんだよな。
だが頭では理解していても、心がついていかなかった。
「……わっかんねぇよ、ハル……」
脳裏に浮かぶのは、モルテの雨を全身に浴びながら戦場を舞う、ハルのうしろ姿ばかりだった。
――あんなハルは知らない。オレが捜していたハルはいつだって泣き虫で……。
あんなのはハルではないと、心のどこかで叫んでいた。
ましてや戦場で、命がけで戦っているなんて。
「なにやってんだよ、お前……」
行方不明になっていたこの三年の間になにがあったのか。
どうして一方的に別れを告げられなければならなかったのか。
聞きたいことはそれこそ山ほどある。
「どうせ、答えちゃくれねぇんだろうな……」
シュウの独り言は、吐き出したため息とともに白い天井へと吸いこまれていく。
そのとき、不意にドアのロックが解除された。
やっと同居人のお出ましかと、シュウは上体を起こして乱れた髪をなでつけた。
これからしばらくは同じ部屋で生活することになるのだ。それが女の子だともなれば、不謹慎だが興味が湧かないわけがない。
期待に高鳴る鼓動に気づかないふりをしながら、シュウはゆっくりと下がるドアノブを見つめた。
「っ!?」
一瞬、心臓が止まった気がした。
ひらいたドアの向こうから姿を見せたのはまぎれもなく、いましがたシュウの心を支配していた人物で。
「……ハ、ル……?」
膝丈のエンパイアワンピースの裾が、足を止めた彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。下ろされた髪の毛先は、胸の位置あたりでくるくると踊っていた。
「相変わらず、猫っ毛なんだな」
記憶よりも伸びた髪が、年月の経過を物語っていた。
とはいえ一瞬垣間見えた彼女の穏やかな表情に、自分のよく知るかつてのハルを感じ、シュウの顔につい笑みがこぼれる。
「まさか、ルームメートがハルだったなんてな」
内心でユキノリの独断に感謝しつつ、シュウはあらためてハルを見遣った。
ハル自身、ルームメートがシュウだとは聞かされていなかったのだろう。驚愕で見開かれたまなざしが、信じられないとでも言いたげにシュウを見つめていた。
「っなんで、あなたがここにいるの」