目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第3話 ハードル走

 ランニングシャツと短パンに着替えウォーミングアップをしていると視線を感じた。校舎を仰ぎ見ると三階の角部屋、三年四組の窓辺には俺の一挙一動を見つめる伊月の姿があった。いつもなら俺に手を振って来るがその気配はない。


「位置について、よーい!」


 グラウンドの白線に膝を突いた俺は400メートル先のゴールを見据えた。心臓が脈打つ。


「どん!」


 赤い旗が振り下ろされ白いレーンを全速力で走った。第一ハードル、第二ハードル、振り上げ足と抜き足を迷いなく踏み締めゴールを目指した。


200メートル。


300メートル。


 たぎる血、ほとばしる汗。


(伊月どうしたんだ)


 第七ハードル。


(なにがあった)


 第八ハードル。


(怒らないでくれ)


 第九ハードル。


(伊月!)


 十台目のハードルを飛び越えた瞬間、脳裏を過ったのは感情をあらわにし声を荒げた伊月の後ろ姿だった。突然機嫌を損ねた伊月に動揺している自分がいた。


(嫌われたくない)


 伊月はいつもどんな時も俺の隣で優しく微笑み、それが当たり前だと思っていた。


「はぁはぁ、はぁはぁ」


 息が上がり汗が頬を伝った。ゴールで膝に手を突き四組の窓を見上げるとそこに伊月の姿はなかった。




 朝練を終えた俺は慌てて着替えると一段跳びで階段を駆け上がった。リュックの中で筆入れがガシャガシャと音を立て、教師に「廊下は走るな!」と注意された。そんな事はどうでも良い。伊月の機嫌が直っているかそれだけが心配だった。


「はよーっす」


「おはよう長谷川くん」

「おう、はよっす」


「なに、陸斗、朝練?」

「そそ」

「暑いのによくやるわ」

「走るしか能がないからな」


 ホームルーム前の賑やかな教室。窓際の机、列の一番後ろが俺の席でその前が伊月の席だ。伊月は机から教科書を取り出していた。なんとなく話し掛けにくく伊月の気を引こうと多少乱暴にリュックを机の上に置いた。


「あぁ、陸斗さん」

「今日はあちぃわ、マジで疲れた」

「お疲れ様でした」


 いつもと変わらない伊月の柔らかな物言いに心から安堵あんどした。


「なぁ一限、古文だよな」

「ええ、そうですね」

「最悪だわ。伊月、俺寝るから先生来たら起こして」

「はい、わかりました」


 授業開始のチャイムが鳴り起立礼の号令が掛かった。ガタガタと椅子に座る音と同時に俺は机に突っ伏した。カーテンを揺らす心地よい風、かえでの葉が擦れる音、伊月のたくましい背中、伊月から漂う木の香りに包まれた俺はいつの間にか深い眠りに落ちていた。


(・・・・伊月)





「陸斗さん」


 誰かが俺を呼んでいる。


「陸斗さん、陸斗さん!」

「ん、うわっ!な、なに、なに!」


 突然、肩を叩かれた俺は勢いよく机から顔を上げた。


「陸斗さん、古文の授業は終わりましたよ」

「お、終わった?」

「はい」


 夢からめた俺の腕はよだれで濡れ、慌ててそれを袖で拭うと伊月は小さく笑った。


「陸斗さん、起きてますか?」

「あ、ああ」

「まだぼんやりしていますね」

「おまえがいると思うと安心して爆睡したわ」

「それは良かったです」


 俺は大きな欠伸あくびをした。


「次は移動教室ですよ」

「えぇ・・・マジか面倒。次なんだっけ」

「美術です。時間がありませんよ準備しましょう」

「お、おう」


 クラスメートたちはスケッチブックを手に次々と席を立っていた。俺も寝ぼけまなこでスケッチブックを持ち席を立った。そして伊月やクラスメートと昨日見たテレビ番組の話をしながら美術室に向かう階段を降りた。伊月は機嫌良く頷いている。こうしていると今朝の後ろ姿が嘘の様だ。



 美術室の黒板には友人の顔をデッサンするとあった。


「ゆ、友人、おまえの似顔絵を描くのか?」

「そうみたいですね」

「マジかよ、中学生かよ」


 高等学校三年生にもなって友人の顔を描くとは如何いかがなものかと思ったが俺は伊月の前に座った。伊月は慣れた手付きでイーゼルを組み立てるとスケッチブックを置いた。授業開始でそれぞれが鉛筆を握ったが友人と向き合う照れ臭さで吹き出して笑う者、顔をそむける者など美術室の中はざわめき落ち着きがなかった。


「あまり動かないで下さいね」

「お、おう」


 けれど俺と伊月だけがクラスメートのいる次元から切り離されていた。伊月は無言でスケッチブックに向かった。俺は伊月の真剣な眼差しのとりこになり何分、何十分の時間が経ったのかそれすらも麻痺まひした頃、伊月の顔からスッと力が抜けた。


「はい、出来ました」

「うおっ!早いな!」

「陸斗さんはどうですか?出来上がりましたか?」

「みっ、見るな!」


 俺が描いた伊月は現実の伊月とはかけ離れ、まつ毛がびっしりと生えた目はキラキラと輝き髪の毛はグルグルと渦を巻いていた。


「上手じゃないですか、私にそっくりです」

「どこがだよ!」

「ほら、このグルグル感」


 伊月は指に髪を絡めて見せた。


「じゃっ、じゃあおまえの描いた俺の顔、見せてみろよ!」

「はい、どうぞ」

「・・・・・・」


 さすが美術部。柔らかな肌の質感、髪の流れ、顔の特徴、全体の陰影、どれを取っても素晴らしい出来栄えだった。


「美味いな」

「モデルが良いですから」


「おまえには俺の顔はこんな風に見えているのか」

「はい、陸斗さんは可愛くて優しくてずっと見ていたい。私の宝物です」

大袈裟おおげさだな」

「本当です」


「そんなめてもなんも出ないぞ」

「私は陸斗さんがいるだけで十分です」

「そうなのか」

「はい」



キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン



「はい!そこまで!続きは来週!」

「はーい」

「面倒ぅ」


 クラスメートたちは文句を言いながら美術室を後にした。


「大谷、長谷川、ちょっと手伝ってくれないか?」

「はい」

「うぇい」


 イーゼルの片付けを手伝わされた俺と伊月は他の生徒よりもやや遅れて美術室を出た。


「あーやっと終わった」

「・・・・・」

「伊月?」


 人気ひとけのない薄暗い廊下にさしかかると伊月は急に歩調を早くした。


「伊月、待ってくれよ。歩くのはえぇよ」

「・・・・・」

「なぁ、伊月」


 俺がすがる様に声を掛けると伊月は階段の踊り場で振り返った。


「陸斗さん」


 思い詰めた顔をしていた。


「あれはもう読みましたか?」

「あれ?」

「水色の封筒です」

「あぁ、あれか。なんか読む気分じゃないからリュックに入れた」

「リュックに入れたんですか」

「入れた」

「捨てないんですね」


 早足の伊月は真っ直ぐ前だけを見て俺はその後ろを着いて行くのがやっとだった。


「なぁ」

「なんですか」

「なんで朝、機嫌悪くなったん」

「・・・・・」

「俺、なんか言った?」

「嫉妬しました」

「俺がラブレターを貰ったから?」

「はい」

「おまえだっていつも貰ってるじゃん」

「そうですね」


 そう答えた伊月は押し黙り、気不味い雰囲気が漂った。


(意味わかんねぇ)


 今日の伊月はいつもと違った。



 放課後のグラウンドにはかえでの樹が列をなし涼しげな木陰を作っていた。そこにはイーゼルを持った数人の生徒の姿があった。


「なんだあれ」

「俺らの絵を描くんだと」

「ふーん」


 美術部の顧問から各運動部の顧問に「運動部員の動きをクロッキーさせて欲しい」との申し出があった。俺はウォーミングアップをしながら横目で伊月の姿を探した。


(・・・いた)


 伊月は左から三本目のかえでの樹の下でイーゼルを立てテニス部の素振りを凝視しカンバスの上に鉛筆を走らせていた。俺は背筋を伸ばし目の前に広がる光景をスケッチする伊月の綺麗な横顔に見惚れた。


(ん?)


 そこへ数人の女子生徒が集まり伊月のカンバスを指差しその肩に触れて談笑し始めた。なぜか俺の胸の奥がチリチリと痛んだ。


「おい!陸斗!おまえの順番だぞ!」

「お、おお」

「おせぇぞ!」

「すまん!」


 俺は慌てて自分のレーンに指を突いた。


「位置について、よーい」


 グラウンドの白線に膝を突いた俺は400メートル先のゴールよりもかえでの樹の下にいる伊月を意識していた。


「どん!」


 赤い旗が振り下ろされ俺は全速力で走った。第一ハードル、第二ハードル、振り上げ足と抜き足でグラウンドを蹴った。


(伊月!)


 一瞬の出来事だった。伊月の姿が目の前にチラつき集中力が途切れてしまった。


「あっ!」


 俺は第九ハードルと共にグラウンドに叩き付けられた。


「おい!なにやってるんだよ!」


 なぎ倒したハードルの中に崩れ込んでいると部員が集まって来た。


「おい!大丈夫か!」

「痛ててて、下手こいたわ」

「血、出てるぞ」

「大丈夫、大丈夫、ちょっと水で洗って来るわ」


 手洗い場で水道のカランをひねると蛇口からぬるま湯が出た。顔に付いた土をぬるま湯で拭い、伊月に対する意味不明な感情を洗い流そうと冷えた水を頭から被った。


(なんだこれ)


 髪からポタポタと冷たい雫が垂れた。


(なんだよ)


 俺は冷静になるどころか女子生徒に囲まれる伊月の笑顔にき乱された。


「なんだよ、これ」


 それはこれまでに味わった事のない初めての感情だった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?