鎌のように鋭い三日月が、夜空に浮かんでいる。
墓石のような廃虚が、無数に立ち並ぶ通りを走り抜けながら、若者は激しい後悔の念に襲われていた。
時折、後ろを振り返り、アレが近くまで迫っていないか確かめながら。
こんなところに来るんじゃなかった。
恐怖に顔を引き釣らせながら、若者は走り続けた。
泥棒のマネ事なんてやめなさいよ、という婚約者の警告を聞くべきだった。
――その都は何かの呪いで、一日で住人を皆殺しにされたんだと……。
友人の行商人は、よく太った腹をさすりながら、若者にこう話を持ちかけた。
――なあに、十年以上も昔の話さ。噂じゃとんでもないお宝が眠ってるって話だ。放っておく手はないだろ?
これでお前も、婚礼の資金が手に入るってもんだな、と気楽に笑っていた友人が実に恨めしい。
友人は、この廃虚の都に到着した途端、命を落としてしまったが。
その惨たらしい死に様を若者は、生涯忘れることはないだろう。
眠る度に悪夢にうなされるに違いない。
もっとも、それはこの廃墟の街から生きて帰れたらの話だ。
と、若者の足が止まる。
荒れ果てた広場のような場所に若者は迷い込んでいた。
「ここ、さっきと同じ場所だ……」
絶望に打ちのめされながら、若者は震える声で呟いた。
これで何度目だ。
こんなことなら、大人しく自分の店で商売に励んでいればよかった。
「おやおや、ここにいらっしゃったか」
背後から柔らかな女の声が聞こえた。
ひぃ、と情けない声をあげて、若者は振り返った。
「随分と元気な殿方だこと。走り回るのがよほどお好きとみえる」
そこには青白い光に包まれた女がたたずんでいた。
輝く宝石で装飾された美しいドレスに身を包み、長い金髪をなびかせながら、ホホ、と女は笑った。
優雅に宙を舞う女の姿は美しいと言えた。
身体の右半分が焼き爛れ、すさまじい腐臭を漂わせているということを除けば。
「ゆ、ゆるして……」
へなへなとその場にしゃがみ込みながら若者は、両手を合わせ哀願した。
「あれ、謝ることなどなかろ?」
半身を焼き爛れさせた女は怪しく微笑み、首を傾げた。
「わらわはそなたらがここに来てくれたことを嬉しく思っているのだから。そなたのお友達に頂いたもののおかげで、わらわは元の姿をまた少し取り戻したわ」
と、女は握り締めていた左手を開いてみせる。
その上に乗せられていたのは、赤黒い肉の塊――、先程、抉り出されたばかりの友人の心臓だった。
女は手の平の肉塊をぬるり、と飲み込み、若者に微笑んでみせた。
「さ、そなたもわらわに贈り物をしておくれ」
歌うようにささやきかけながら、女は若者にゆっくりと手を伸ばしてくる。
若者は泣き叫び、逃れようとしたが、身体が動かない。
少しでも恐怖を和らげようと目を固く閉じる。
「――ついてねえな、兄ちゃん」
聞き覚えのない、甲高い声が聞こえた。
続いて、ドン、という何かが地面に突き刺さる音。
迫りくる女の動きが止まり、若者は恐る恐る目を開いた。
石畳の上には、奇妙な細工が施された銀のステッキが突き立っていた。
朽ち果て斜めに崩れた塔の上。
そこに――、どんな闇よりも黒い人影が降り立つのを若者は見た。
夜風に煽られ、長い外套の裾が音を立てて揺れる。
「ま、これに懲りたら迂闊に廃墟なんかに近づかねえこったな」
そう言って、クケケケッと笑ったのは、外套の下にぶら下げられた木偶人形だった。
腹話術の操り人形なのか。
はめ込み式の二つの目玉がグルグルと回っている。
「これは、これは。何とも珍しい」
女が手の甲を口元に当て、クスクスと楽しげな笑い声をたてた。
「あの御方と契約を結んで久しいが――、同族と、それも殿方と出会うのは始めてじゃ」
月光に照らしつけられ、鴉を模した仮面に覆われた男の顔が露わになる。
仮面の男は、唇を歪め、声もなく嗤っているようだった。
「やつを――、マクバをここに呼べ」
不吉な翼のように外套の裾が大きくはためいた。