第1章 森の妖精
秋の風が、森を優しく駆け抜けていく。
午後の柔らかな陽射しを受けて、木々は黄金色に染まり、カサカサと葉擦れの音が耳に心地よく響いていた。
公爵夫妻は、日常の喧騒からしばし逃れるように、その森を連れ立って歩いていた。
足元には落ち葉が絨毯のように広がり、踏みしめるたびにふわりと甘い秋の香りが立ち上る。
「ねえ、あなた。あそこを見て……」
ふいに、夫人が小さな声で囁いた。
公爵も視線を向けたその先に、信じられない光景が広がっていた。
白いノースリーブのワンピースを身にまとった、儚げな少女が、一本の大樹のそばに静かに立っていたのだ。
彼女は森の中に自然と溶け込み、まるでこの世の存在とは思えぬほどに静かだった。
「……まるで、森の妖精のようだ。」
夫人は息を呑み、そっと手を胸に当てた。
「確かに……こんな場所に一人でいるなんて、尋常じゃない。」
公爵も慎重な表情で頷く。だがその瞳には、少女に対する強い興味と、言葉では言い表せない親しみが宿っていた。
二人はそっと歩み寄り、できるだけ優しい声で話しかけた。
「お嬢さん、こんなところでどうしたんだい?迷子になったのかい?」
しかし、少女は何も答えなかった。
ただ静かに、公爵夫妻を見上げる。
その大きな瞳は、どこまでも澄んでいて、知恵と優しさ、そしてどこか寂しさをたたえているようだった。
「……言葉を話せないのかしら。」
夫人はそっと呟き、そして自然に、少女の小さな手を取った。
その手は驚くほど温かく、しかし同時に、とても繊細で、今にも壊れてしまいそうな儚さを感じさせた。
その瞬間、夫人の心に不思議な感覚が芽生えた。
まるで、ずっと以前からこの子を知っていたかのような、確かな縁を感じたのだ。
「あなた、この子を……私たちの家族に迎えましょう。」
夫人の瞳は決意に満ちていた。
公爵も、短く頷いた。何のためらいもなかった。
二人はその場で、少女を抱きしめるようにして迎え入れた。
そして、その場で名前を与えることにした。
彼女の持つ神秘的な雰囲気にふさわしい、美しい響きの名を。
「リリス」と。
それが、少女の新しい名前となった。
リリスは相変わらず一言も発さなかったが、ただその澄んだ瞳で、公爵夫妻をじっと見つめ、微かに笑った。
その微笑みは、言葉以上に彼らに伝わるものがあった。
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変わりゆく日々
リリスが公爵家に迎えられてからというもの、奇跡のように領内に変化が訪れた。
厳しい冬も穏やかになり、夏の干ばつも影を潜め、作物は豊かに実り、民たちの暮らしは安定していった。
公爵夫妻もそれを「リリスが幸運をもたらしているのだ」と、心から信じるようになった。
リリス自身は、日々を静かに、淡々と過ごしていた。
言葉を話さず、ただ微笑み、静かに屋敷の中を歩き、花々に水をやり、小鳥たちと戯れる。
ある日の午後――。
庭に設えられた白い石造りのベンチで、リリスは眠っていた。
真っ白なワンピースが陽光を受けてふわりと光り、風に揺れる黒髪が金色の糸のように輝いていた。
優しく吹く秋風が、木々の葉をさやさやと揺らし、やがて一羽、また一羽と、小鳥たちが集まってきた。
リリスの足元に、肩に、そして、頭の上に。
小鳥たちはまるでリリスに守られるかのように、そっと羽を休めた。
その光景は、まるで絵本の一頁のようだった。
少し離れたバルコニーから、その様子を眺めていた公爵夫妻は、自然と手を取り合った。
「見てごらんなさい……。彼女は、本当に特別な子なのね。」
夫人が涙ぐみながら囁いた。
「ああ、リリスが我が家に来てから、屋敷全体が明るくなった。
まるで……太陽がもう一つ、我が家に灯ったようだ。」
公爵もまた、深く頷きながら言った。
リリスがもたらしてくれた、あたたかく、優しい日々。
それは夫妻にとって、何ものにも代えがたい宝物だった。
だが、彼らはまだ知らなかった。
この穏やかな日常に、やがて試練が忍び寄ることを――。
リリスという奇跡の少女が、やがてこの世界に何をもたらす存在なのかを――。
静かに、物語は幕を開けたばかりだった。
第2章 変わらぬ少女
リリスが公爵家に迎えられてから、気づけば五年の月日が流れていた。
けれども、彼女はまるで時の流れから取り残されたかのように、出会ったあの日のままの姿をしていた。白いワンピースをまとい、つややかな黒髪を風に揺らし、大きな瞳を瞬かせて静かに佇むその姿は、まるで絵画の中の少女そのものだった。
「リリスって、本当に不思議な子ね」
夫人はある日、バルコニーから庭を眺めながらぽつりと呟いた。「こうして見ていると……まるで時間が止まっているみたい。あの子だけ、歳月の外側にいるような気がするわ」
隣に立つ公爵もまた、しみじみとした面持ちで頷く。
「確かに……あれから五年も経ったのに、あの子は少しも変わらないな。背も伸びていないし、顔立ちもあの頃のまま。だけど……不思議とそれが自然に思えてくる。リリスは、そういう存在なのかもしれない」
夫妻の言葉に偽りはなかった。リリスはただそこにいるだけで、周囲の空気をふんわりと和らげ、人々の心を癒す不思議な力を持っていた。彼女が現れてからというもの、公爵領には奇跡のような変化が次々と訪れた。
干ばつの年にも作物は豊かに実り、寒さが厳しい冬には不思議と野菜の保存が利いた。病に倒れる者が少なくなり、街に疫病が広がることもなかった。まるで、見えない何かがこの地を包み、守っているかのようだった。
領民たちは公爵夫妻への信頼と敬愛を深め、それと同時に、あの「不思議な少女」リリスにも自然と畏敬の念を抱くようになっていた。彼女が笑えば街は明るくなり、彼女が祈れば病が癒える――そんな噂さえ、いつしかささやかれるようになっていた。
それでも、リリス自身は変わらなかった。
言葉を発することはなく、ただ静かに微笑み、優しいまなざしで人々や自然に接していた。
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その日の午後もまた、穏やかな陽射しが屋敷の庭に降り注いでいた。
リリスは一人、庭の花畑の中にいた。
春に植えた色とりどりの花々が、夏を越え、初秋の光の中で咲き誇っている。リリスはその中を裸足で歩きながら、指先でそっと花を撫で、一輪一輪、大切に摘み取っていく。
草の上を舞うように歩く姿は、まるで森の精霊か、祝福をもたらす少女のようだった。
摘んだ花は、手にした小さな籠に一輪ずつ収められ、やがてカラフルな花束となっていく。
ふと、花畑の片隅から、白い猫が現れた。ふっくらとした体、澄んだ青い目。
猫はリリスの足元に音もなく近づくと、ためらいなく彼女にすり寄った。
リリスはしゃがみ込んで猫の頭を撫でる。すると、猫は満足げに目を細め、喉を鳴らしながら彼女の膝にぴょこんと飛び乗った。
膝の上に丸く収まった猫の頭に、リリスはそっと一輪の花を置いた。
猫は不思議そうに彼女を見上げるが、逃げることはなかった。むしろ誇らしげに胸を張るようにして、そのままじっとしている。
リリスはにっこりと微笑んだ。
まるで王冠のような花の冠が、猫の頭の上でそっと揺れていた。
それは、花と静けさと、優しさの調和した美しい時間だった。
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屋敷の中、窓辺からその様子を見守っていた夫人は、思わず胸に手を当てた。
「見てください、あなた……」
彼女は目を細め、公爵に向かって声をかけた。「リリスが、あの猫に王冠を……」
「ふふ、王様ごっこかな」
公爵は頷きながら微笑む。「あの子が触れると、すべてのものが幸せそうになるな。人間も、動物も、植物も……まるで彼女自身が、祝福の源みたいだ」
夫人も頷いた。「リリスの微笑みを見ると、どうしてこんなにも心が温かくなるのでしょう。言葉はなくても……あの子の存在自体が、何かを語っているような気がするわ」
二人はしばらくのあいだ、何も言わずにその景色を眺めていた。
リリスの周りには、小鳥が舞い、風が優しく花を揺らし、猫がくるんと尾を巻いて彼女の膝の上で眠っていた。
まさに、夢のような光景だった。
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リリスはその夜も、静かに眠っていた。
日が落ちたあとの屋敷の中でも、彼女の寝室の窓辺には、昼間の猫がいつのまにか戻ってきて、窓の外から彼女のことを見守るように座っていた。
屋敷の者たちも、もはやリリスの不思議な魅力に疑いを持つ者はいなかった。
彼女が公爵家にもたらした安らぎと癒しは、もはや伝説のように語られていた。
しかし――。
そんな穏やかな日々の中で、ほんのわずかに、不穏な気配が混じり始めていたことを、公爵夫妻はまだ知らなかった。
屋敷に届いた一通の封書。
それは王都からの通達であったが、その内容を目にした執事は、一瞬息を呑み、その顔色を変えた。
彼がその報せを主に伝える日が、やがて、静かだった日々に波紋を広げることになる。
リリスと共に過ごしてきた穏やかな五年――。
その優しい時の中に、静かに忍び寄る影があった。
それがただの偶然ではないことを、この時はまだ誰も、知る由もなかった。
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(第2章 完)
第3章 出頭命令と消えた微笑み
季節は移ろい、リリスが公爵家に迎えられてから、穏やかで幸福な歳月が流れていた。屋敷の人々は、まるで自分たちの家族に天からの祝福が降りてきたかのように、日々を慈しみながら過ごしていた。
リリスは今日も変わらぬ笑顔で庭を歩き、鳥たちと戯れ、花を撫でていた。
彼女がそこにいるだけで、誰もが自然と微笑みを浮かべ、心がやわらぐ。まるでその存在が、苦しみも不安も拭い去ってくれるような、不思議な力を持っているかのようだった。
そんなある日――
屋敷に、一通の封書が届いた。
王国の紋章が刻まれたその封筒は、重々しい赤い蝋で封じられていた。執事が震える手で開封し、その中身に目を通した瞬間、顔色を失ったのを、侍女が目撃していたという。
手紙は、公爵に対する「王都への即刻出頭命令」だった。
文面には、簡潔ながらも明確に「反逆の疑いあり」と記されていた。
それを受け取った公爵は、しばらく無言で手紙を見つめていた。
表情に浮かぶのは困惑と、わずかな怒り、そして深い諦め――だが決して恐れではなかった。
「……身に覚えはないが、これは命令だ。応じねばなるまい」
そう言った公爵の声は、静かで重く、決意のにじむものだった。
「そんな…」
夫人は目を見開き、すぐにその手を公爵の腕に添えた。「私も一緒に行きます。あなた一人を危険に晒すなんてできません!」
「駄目だ、君まで巻き込むわけにはいかない」
公爵は苦しげに微笑み、そっと夫人の手を取った。「それに……王都からの命令で、君は屋敷を出ることも許されていない」
その言葉に、夫人は凍りついたように固まり、唇を震わせた。
「……王都が、何を考えているのかしら。あなたはこの国に尽くしてきたのに」
「忠誠など、国の都合一つで色を変えるものだ」
公爵は静かに言い、旅支度のため奥へと向かう。夫人はその背に何かを叫ぼうとしたが、言葉が出てこなかった。
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その日、屋敷には重たい空気が漂っていた。
召使いたちは誰もが沈んだ顔をしており、料理長でさえ塩加減を間違えるほど気がそぞろだった。
そんな中――リリスだけが、静かに屋敷の一角に佇んでいた。
何が起こっているのかを察しているのか、それとも何も知らぬままなのか。彼女は普段通りの姿で、廊下を歩き、控えめに庭を見つめていた。
夫人がひとり、バルコニーで沈んだ面持ちを浮かべていると、リリスがそっと近づき、その手をぎゅっと握った。
その手の温かさに、夫人のこわばった指がゆっくりと緩んでいく。
「……ありがとう、リリス」
絞り出すような声で、夫人は言った。「あなたがいてくれるだけで、どれだけ心強いか、分からないわ」
リリスは言葉を返すことなく、ただ優しく微笑む。
その笑みは、どんな慰めの言葉よりも深く、夫人の胸に沁みわたった。
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しかし、その日の夜――
いつもなら必ず夕食の席に姿を見せるリリスが、忽然と姿を消していた。
最初に気づいたのは侍女だった。リリスの部屋をノックしても返事がなく、扉を開けても誰もいなかった。
「リリス様が……いらっしゃいません」
その報せに、夫人は顔色を変え、屋敷中を駆け回るようにして探し始めた。庭、温室、書庫、納屋、離れの客室――ありとあらゆる場所を調べさせたが、リリスの姿はどこにも見つからなかった。
「リリス……どこなの……?何があったの……?」
夜が更けても彼女の所在は分からず、夫人はまるで心を抉られるような焦燥と不安に襲われていた。今朝まで一緒に微笑んでいた少女の面影が、手の届かぬ霧の中へと消えてしまったようだった。
「どうして……こんな時に……」
その夜、夫人は一睡もできなかった。
公爵が王都へ旅立った日と重なるように、リリスまでいなくなったのだ。偶然にしてはあまりにも出来すぎている。もしや何か陰謀が動いているのではないか――その疑念が、じわじわと心を侵食していた。
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夜が明けても、リリスの姿はどこにもなかった。
庭の小道にも、ベッドの枕元にも、彼女の痕跡は一切残されていなかった。
「リリス……どうか無事でいて」
夫人は胸に手を当て、朝の光が差し込むサロンの窓辺で、じっと祈るように空を見上げていた。
その背に、使用人たちは何も言えず、ただ静かに頭を垂れていた。
――リリスは、どこへ消えたのか。
――彼女は、なぜ姿を消したのか。
その答えを知る者は、誰一人としていなかった。
けれどこの時、誰も知らぬところで、リリスはすでに静かに動き出していた。
誰にも告げることなく、ただ一つの「目的」のために――。
第4章 リリス、潜入する(たぶんこっそり)
王都の夜。
月明かりが石畳を照らし、静まり返った王宮に、ひときわ小さな影がこっそり忍び寄る。
そう、それは――リリスである。
そろりそろり”と侵入していく。
そして目的地――大臣執務室の窓枠に、リリスは両手をかけ、足をかけ、よじ登る。が。
「すっ……(引っかかった)」
リリスの足が窓の取っ手に引っかかり、バランスを崩した。
そのまま、顔面から豪快にドシャァンと室内の床へ落下。
普通なら悲鳴の一つも上がるところだが、リリスは声を出せない。
その代わり、彼女は床にうつぶせになったまま、ピクリと体を揺らし、しばらくのちに上半身をもぞもぞと起こした。
しゃがみ込み、小さな手で額を押さえながら、涙目で天井を見つめる。
しゃべらずとも、「なんでこうなるの……」という空気が全身からにじみ出ていた。
だが、リリスは負けない。
そっと立ち上がり、ぐるりと室内を見渡してから、デスクへと向かう。
ところが――
「カンッ!」
見事に机の天板に頭をぶつけた。
勢いよくのけぞったリリスは、またもや無言で額を押さえ、しゃがみこむ。
その姿は、まるで自分の不運に抗議している小動物のようで、部屋にいた誰かが見ていたら、間違いなく「うちの子になって」と言いたくなる光景だった。
ともかく、なんとか机の引き出しにたどり着いたリリスは、上から順に引き出しを開けていく。
が、書類を見ても文字が読めない。
彼女は軽く首を傾げてから、読めない書類を次々に取り出して、床にポイ、ポイ。
まるで大臣の机に“片づけが必要です”と意思表示するかのような行動で、部屋の中はたちまち紙の吹雪となった。
そのとき――ガチャリとドアが開く音。
「……なんだ、これはっ!」
リリスはビクリと身を固めた。
戻ってきたのは大臣本人。部屋に広がる紙の山に顔をゆがめ、異常事態を察知する。
「誰だっ! そこにいるのは――」
そして視線の先に、小さく立つ影。
頬かむりで顔を半分隠し、紙だらけの床に囲まれたリリスが、ちょこんと立っていた。
「ほう、これはこれは……小さな泥棒さんか? 何を探していたのかな?」
にやりと笑った大臣は、リリスに歩み寄り、タオルをはがして顔を見た。
「へぇ、なかなか可愛い顔を――」
しかし、次の瞬間。
リリスがまっすぐに見上げた、その瞳に――大臣は凍りついた。
小さなその瞳に、自分の醜い欲望や、過去に隠した不正の数々が、全部映っているような気がした。
「ひ、ひぃっ……!」
全身が震え出す。
冷や汗がにじみ、喉の奥から嗚咽のような音が漏れる。
「わ、わたしが……やったんだ……あの文書の改ざんも、密売も……! すべて……私がっ……!」
リリスは一歩も動いていない。ただ、じっと見ているだけだった。
けれど、大臣は勝手に自白を始め、自らの罪を語り出していた。
そして次の瞬間――
リリスの姿は、どこにもなかった。
「う、うそだろ……? あの子……どこに……」
がらんとした執務室の中、大臣は一人、膝をつき、崩れ落ちていた。
まるで夢だったかのように、リリスは姿を消していた。
けれど確かにそこにいて、ただ静かに“見ていた”。
そしてその静かな“瞳”こそが、彼の中の良心を揺さぶり、ついにはすべてを告白させたのだった――。
第5章 暴かれた罪
夜が明け、王宮の長い廊下はまだ静寂に包まれていた。だがその静けさを破るかのように、一人の男――大臣ガズは、緊張に顔を強張らせながら王の執務室の前に立っていた。
重厚な扉が開く。
中では王が、冷たい瞳で静かに彼を見据えていた。
「……入りたまえ。」
王の一声に、ガズは震える手で扉を押し開け、ゆっくりと中へ進み出た。
王は玉座代わりの椅子に深く腰掛け、肘掛けを指で叩きながら言った。
「何用だ、大臣ガズ。」
その声音は冷ややかで、すでに何かを察しているかのようだった。
ガズは膝を突き、深く頭を下げた。
額に浮かんだ汗を拭う暇もなく、ひとつ、深呼吸。
「……陛下。私は……取り返しのつかない過ちを犯しました。」
「ほう。」
王は一切の感情を見せず、ただ短く促した。
ガズは喉を震わせ、ついに口を開いた。
「私は、公爵家を陥れるために、偽りの罪をでっち上げました。本来ならば、忠誠を誓うべきお方を……己の嫉妬と欲に駆られて……!」
語るほどに、ガズの声は震え、次第に涙まじりになっていった。
「王国の信頼を損ねたばかりか、陛下の御名をも汚してしまいました……私は、私は……」
王はただ黙って、厳しい目でガズを見据えている。
そして――
ガズはふいに、さらに低い声で続けた。
「……昨夜、私は……奇妙な存在に出会いました。」
「奇妙な存在だと?」
王が眉をひそめる。
「はい。あれは、夢ではありません。
小さな少女……白い服を纏い、言葉を発さず、ただ私を見つめていました。
その瞳が……私の心の奥底を暴き立てたのです。
あの子を見た瞬間、私は逃げられぬと悟りました……!」
必死に語るガズの顔は、青ざめ、震えきっていた。
まるで昨夜の出来事を思い出すだけで、膝が砕けそうだった。
しばし沈黙が流れたのち、王は静かに告げた。
「……お前が何を見たかは問わぬ。だが、お前自身が罪を認めた。
それがすべてだ。」
冷酷な声だった。情け容赦はない。
「ガズ、大臣としての職責を裏切り、王国を欺いたその罪――重いぞ。」
ガズはひざまずき、必死に懇願した。
「陛下!どうか、どうか命だけは……!
すべてを告白し、公爵家の無実を明らかにすることを誓います!
必ず、すべてを、隠さずに……!」
王はしばらく無言だったが、やがて、低く鋭い声で命じた。
「よかろう。
公爵家にかけられた汚名を、真実で払拭するのだ。
もし一片でも虚偽があれば――その時こそ、命で償ってもらう。」
「は……はいっ!」
ガズは何度も頭を床に擦りつけるようにして礼をし、立ち上がると、震える足取りで執務室を後にした。
その背中には、かつての威厳など微塵もなかった。
王は一人、椅子に座ったまま、じっと扉を見つめていた。
(……あの小さな存在か。)
王もまた、ふと昨夜の不可思議な気配を思い出していた。
月明かりの中に、確かに何かがいた気がする。
だが、その正体が何であれ――今はただ、国を正すことが最優先だった。
静かな朝の中で、リリスの影は誰にも知られぬまま、確かに王国の運命を変え始めていた。
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了解しました。それでは、夫人のセリフから「昭和」といった直接的なワードを外し、時代感をぼかしつつ、優しいユーモアとリリスへの愛情を感じさせる表現に調整したリライトをご提案します。
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第6章 ごめんなさいと、ありがとう(修正版)
リリスが姿を消した夜、屋敷は不安と静寂に包まれていた。
しかし、明け方の柔らかな光とともに、リリスはひっそりと帰ってきた。
玄関に現れたその姿に、公爵夫人は思わず駆け寄る。
「リリス……!」
彼女を抱きしめる腕に力がこもる。リリスは何も言わず、ただ夫人の胸にそっと顔を埋めた。
その震える肩に、どれほどの思いが詰まっていたのか、言葉を交わさずとも伝わってきた。
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数時間後、公爵が王都から無事に戻る。玄関ホールに立つなり、真っ先に彼は声を上げた。
「リリスは? リリスはどこだ!」
夫人が静かに手を差し伸べた先――
廊下の隅に、小さなバケツを両手で持って立ち尽くすリリスの姿があった。バケツには、たっぷりの水。
「……あれは、一体?」
公爵が眉をひそめると、夫人はくすっと笑みを浮かべた。
「どうやら、反省してるみたいなの。」
「反省?何に対して?」
「昨日の夜、いなくなってしまったことじゃないかしら。」
「君がそうさせたのか?」
「いいえ。あんな懐かしいような、ちょっとおかしな反省の仕方……私は何も言ってないわ。」
二人は顔を見合わせ、思わず微笑んだ。
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公爵はリリスのそばにしゃがみ、優しく目を覗き込んだ。
「リリス、大丈夫。私たちは怒ってなんかいないよ。君が無事に戻ってきてくれて、それが何よりも嬉しいんだ。」
リリスは小さく首を横に振る。
自分がしてしまったこと――それによって、大切な人たちを心配させたこと――その思いが胸の奥を締めつけているのだ。
「君は、自分で悪いことをしたと思ってるんだね?」
公爵の問いに、リリスは小さく頷いた。
「それは……私に関係することかな?」
少しだけ困ったような顔をして、リリスは返事をしない。だが、その表情に、公爵はすぐに気づく。
「なるほど、図星か。」
そう言って立ち上がった公爵は、傍らのメイドに声をかける。
「バケツを一つ、頼めるかね。中に水をたっぷり入れて。」
「……え?」
夫人が目を丸くする。
「私も一緒に反省するよ。リリスと並んでね。」
その言葉に、夫人もふっと笑い、「じゃあ、私もお願い」と続いた。
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数分後――
廊下の片隅に、水の入ったバケツを両手で持った大人二人と小さな少女が並んで立つ、奇妙な光景が出来上がった。
リリスはきょとんと二人を見つめ、目を瞬かせる。
そして、困ったように顔を歪めたあと――静かにバケツを床に置き、二人に飛びついた。
その小さな体を、公爵と夫人はそっと包み込むように抱きしめる。
「もう大丈夫よ、リリス。あなたの気持ちは、ちゃんと伝わってるわ。」
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リリスが反省していたのは、屋敷を抜け出したことでも、大臣の部屋に忍び込んだことでもない。
――大好きな人たちを、心配させてしまったこと。
それだけが、彼女にとって許せない"過ち"だったのだ。
今、こうして三人がまた手を取り合い、同じ場所にいること。それだけで、すべてが満ちていた。
明日もまた、この穏やかな時間が続いていきますように。
リリスはそう願いながら、そっと両手を握りしめた。