:新年と三学期のはじまり
「カウントダウン警備、今年も無事に完遂っすねぇ…」
境内の裏手、風を避けるように立てたパトロール用の仮設テントの中で、真田真子がダウンの襟元をすぼめながら、ぽつりとつぶやいた。
「参拝者の列も思ったより早く落ち着いたわね」
隣に座る服部倉子は、湯気の立つ紙コップの甘酒を口に運びながら頷いた。時刻は午前四時を回っていた。毎年恒例、神社の年越し警備と初詣の安全管理。澪を含めた風紀委員たちは、年末年始返上での勤務を無事に終えようとしていた。
「おつかれさまです、先輩方」
警備の交代で戻ってきたのは、風紀委員長の水城澪だった。吐く息が白く、肩に降り積もった雪を軽く払いながら、三人の間に腰を下ろす。
「澪ちゃんも大変だったっすね。あんな寒い中、マイク片手に誘導とか…」
「人混みは慣れてますから。それに、あのマイク、倉子先輩の声より聞き取りやすいって評判でしたよ?」
「むっ、それはどういう意味かしらね?」
「まぁまぁ。どうせこの後、境内の片付けもあるし、今のうちに和んどきましょーよ。おせちの残りもありますし」
夜明け前の薄明かりの中、彼女たちは境内の静けさと、達成感に満ちた年のはじめを噛み締めていた。
*
そして年が明けて、あっという間に――三学期の始業式の日。
寒さの残る朝の空気の中、生徒たちはコートの襟を立てながら校門をくぐっていく。通い慣れたはずの坂道も、卒業が近づく今ではどこか名残惜しい風景に見えた。
校舎の廊下には、養護教諭の手書きとおぼしき貼り紙が目立つ。
「卒業まであと48日」
それを横目に教室に入った倉子は、息を吐くように言った。
「あと四十八日、かぁ……」
「いよいよって感じっすよねぇ」
真子は自席の椅子に腰を沈め、机に頬をつけた。
「卒業まで、カウントダウンって感じ。でも私、感傷的になる前にまず、受験に勝たないといけないわけで……」
「試験が終わるまでは、うかうか涙も流せないわね」
そんなやりとりを聞きながら、後ろの席にいた澪が静かに笑う。
「そう言えば、私、まだ自分の進路の話ってしてませんでしたね」
その言葉に、倉子と真子が同時に動きを止めた。
「え? 澪ちゃん、国立狙いじゃなかったの?」
「えっ、まさかの指定校推薦っすか?」
「いえ、留学です」
その一言に、ふたりの表情がぱきりと固まった。
「「えええええっ!?」」
:澪の衝撃発表
放課後の図書室は、いつもより静かだった。受験直前のこの時期、生徒の多くは自習室や帰宅勉強に切り替えている。そんな中、窓際の席に並んで座っていたのは、水城澪、真田真子、そして服部倉子の三人だった。
「で、さっきの“留学”ってどういうこと?」
倉子が読みかけの問題集をぱたんと閉じて、澪の顔を覗き込んだ。
「マジっすか澪ちゃん。てっきり旧帝大か早慶かと思ってたんすけど…留学って、どこに?」
真子もノートを閉じ、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「イギリスです。ケンブリッジ大学に、進学が決まりました」
「……け、けんぶりっじ……?」
「ケンブリッジ大学っすか!? あの、テレビでしか聞いたことないやつ!?」
「実は、去年の夏に一度だけ短期研修で行ってたんです。そのときに“ここで学びたい”って、思ったんですよね」
真子が目を丸くして叫ぶ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!? 研修って、そんな話、聞いてなかったっす!」
「言ってませんから」
澪は涼しげに笑う。
「言ったら、なんだか話が大きくなりそうで……。奨学金も取れましたし、ようやく正式に決まったんです」
「な、なるほど……。てか、すごすぎない?」
「うん、完全にスケール違うわね……」
倉子も思わずため息をついた。成績優秀、風紀委員長としての手腕、文武両道。そのうえ海外進学とは、彼女はやはり“できる女”だった。
「ケンブリッジって、何を学ぶの?」
「専攻は政治学と公共政策です。将来的には、国際機関で働けるような力をつけたいと思って」
「うわー、完全に“日本代表”って感じじゃないっすか……!」
真子は机に突っ伏して呻いた。
「いやでも、すごい。すごいけど……寂しくなるっすよ、澪ちゃんいなくなるとか」
「うん、それは本当にそう。いなくなる実感が、いま一気に来たわ……」
しん、と空気が落ち着いた。窓の外には、オレンジ色の冬の夕日が差し込んでいる。
澪は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「でも、きっとまた会えますよ。私たち、そんなに簡単に途切れる関係じゃないと思いますし」
「……うん、ま、確かに」
「帰ってくるときは、また報告しろよなっす。おみやげも忘れずに」
「はい、了解しました」
倉子も、頷いた。
「澪。すごく格好いいわ。その決断」
「ありがとうございます。少し、不安もありますけど……。でも、きっと、大丈夫」
その言葉にこめられた力強さが、真子と倉子の胸に静かに響いた。
彼女たちは、同じ時間を過ごしていた。だけど――これから歩く道は、確実にそれぞれ違う。
それでも――今、この瞬間だけは、同じ空の下、同じ教室で、未来を語り合っていた。
昼休みの教室。窓の外には、薄曇りの空からちらちらと雪が落ちてきていた。
ストーブの効いた教室の中で、弓子は自分の弁当箱をぼんやりと見つめていた。箸は持っているが、まったく動いていない。
「……」
考えごとに沈むその姿を、隣の席からちらりと見ていた倉子が、静かに声をかけた。
「弓子。お弁当、冷めるわよ」
「……あ、はい」
弓子ははっとして顔を上げたが、その表情にはまだ曇りが残っていた。
「進路、迷ってる?」
倉子は、核心をつくような静かな声でそう言った。
弓子は一瞬黙り込んだが、やがて小さく頷いた。
「……第一志望の大学、最近になって“これでいいのかな”って思い始めて。親とも先生とも話してるんですけど、自分の気持ちが定まらなくて……」
「そう。それなら、まだちゃんと悩めてるって証拠よ」
倉子は、弁当を食べながらも、弓子を正面から見据えている。
「最初に決めた夢や憧れが、途中で違うと思えてくるのは、むしろ当たり前よ。だって、高校生活の中で私たちは成長して、考え方も広がるんだから。進路選びって、“今の自分”で決めなきゃ意味がないの」
「……でも、間違えたらどうしようって思って」
「間違えたら、やり直せばいいのよ」
倉子はさらりと、それでいて確信に満ちた調子で言った。
「人生はトライアンドエラーよ。失敗を恐れて動けないほうが、ずっともったいない。やってみて違ったと思ったら、修正すればいい。試してみるって、そういうことだから」
弓子は驚いたように目を瞬かせた。
「……そんなふうに考えたこと、なかったかもしれません」
そのとき、背後からひょっこり現れたのは真子だった。ジャムパンを頬張りながら、ひょいと弓子の後ろに顔をのぞかせる。
「ま、倉子先輩は“トライアンドエラー”派っすけど、あたしは“セーブとロード”派っす!」
「ゲームかいっ」
倉子が即ツッコミを入れると、真子はへらりと笑った。
「進路だって、セーブしたポイントから分岐するんすよ。で、バッドエンドになりそうだったら、ロードして別ルート!って感じで」
「……でも、人生って、そう簡単には戻れませんよね?」
「まぁ、そうなんすけど。気持ちの問題っすよ。セーブし直せばまた走り直せるっす。心が折れなければ、それでセーフ!」
弓子は吹き出した。
「ふふ……なんか、気が楽になったかも」
「焦らなくていい。大事なのは“自分の意志で選ぶ”ってこと。人に言われたからじゃなくて、あなたがそうしたいって思ったなら、それはきっと前向きな選択よ」
倉子はそう締めくくり、静かに笑んだ。
「……はい。ありがとうございます。もう少し、自分と向き合って考えてみます」
「うむ、よろしい!」
真子がなぜか教師のように腕を組んで頷き、再びパンにかぶりついた。
三人の笑い声が教室に広がるころ、窓の外には、春を待つ雪が舞い続けていた。
:それぞれの未来へ
冬の夕陽が、教室の窓を橙色に染めていた。
放課後の時間。ほとんどの生徒はすでに帰路につき、教室には数えるほどしか人が残っていない。
澪、倉子、真子、弓子。
四人はいつもの席に集まり、ゆっくりとした時間を共有していた。夕焼けが、彼女たちの髪や制服に柔らかな影を落とす。
「ねえ……なんか、あっという間だったね」
ふと、弓子が呟いた。
「うん。三年間って、こんなに早いんだって思う」
真子が頷き、窓の外を見つめる。運動場の端に積もった雪が、夕日を受けて薄桃色に輝いていた。
「私たち、あと何回ここでこうして話せるのかな」
弓子の言葉に、少しだけ空気がしんと静まった。
「あと……何日だったかしら。卒業まで」
倉子が教室前方の黒板脇を見やると、そこには生徒会が掲げた大きな紙が貼ってあった。
《卒業まで、あと42日》
「数字にすると、リアルよね」
真子が苦笑する。
「でも、意外と悲しくない」
澪が微笑みながら言った。「もちろん寂しい気持ちはあるけれど、それ以上に——ここで過ごしたこと、出会えた人たち、それが全部宝物みたいに感じるから」
「……澪ちゃん、詩人っすね」
真子がからかうように言い、澪は照れたように笑った。
「……で、その宝物はイギリスに持っていくんでしょう? ケンブリッジ大学生さん」
倉子が言うと、澪は苦笑しながらも頷いた。
「うん。英語の壁もあるし、簡単じゃないと思う。でも……日本にいたままじゃ見えない世界があると思うの。だから、行ってみたいって思った」
「うん、澪ちゃんらしいや」
弓子が優しく頷いた。「私も、やっと“自分で決める”ってことの意味、ちょっとだけ分かった気がする」
「立派立派」
真子が両手で拍手する。「弓子ちゃんが自分のことを話すようになるなんて……一年のころじゃ考えられなかったっす」
「人は成長するのよ、真子さん」
倉子が冗談めかして言うと、四人の間にまた、笑い声がこぼれた。
窓の外、夕陽は少しずつ沈んでいく。
橙から紅、紅から藍へと、空の色が変わっていく。
「進む場所は、きっとみんな違う。でも、それでも……私たちは私たちだと思うの」
澪の言葉に、全員が静かに頷いた。
「きっとまた、会えるよ」
倉子が静かに言った。「どんなに遠く離れても、再会できる。だって——」
「友達だもんね」
弓子が続ける。
「うん、最高の仲間っす」
真子がにかっと笑って右手を差し出す。「じゃ、再会の約束に——円陣、いっときますか!」
倉子、澪、弓子も笑って手を重ねる。
「せーの——」
「未来へ、ファイトーっ!」
パチン、と四人の手が軽やかな音を立てた。
その音は、夕暮れの教室にいつまでも残っているかのようだった。
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卒業まで、あと42日。
彼女たちの“高校最後の春”が、もうすぐ始まろうとしていた。
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