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第43話 :新年と三学期のはじまり

:新年と三学期のはじまり


「カウントダウン警備、今年も無事に完遂っすねぇ…」


境内の裏手、風を避けるように立てたパトロール用の仮設テントの中で、真田真子がダウンの襟元をすぼめながら、ぽつりとつぶやいた。


「参拝者の列も思ったより早く落ち着いたわね」


隣に座る服部倉子は、湯気の立つ紙コップの甘酒を口に運びながら頷いた。時刻は午前四時を回っていた。毎年恒例、神社の年越し警備と初詣の安全管理。澪を含めた風紀委員たちは、年末年始返上での勤務を無事に終えようとしていた。


「おつかれさまです、先輩方」


警備の交代で戻ってきたのは、風紀委員長の水城澪だった。吐く息が白く、肩に降り積もった雪を軽く払いながら、三人の間に腰を下ろす。


「澪ちゃんも大変だったっすね。あんな寒い中、マイク片手に誘導とか…」


「人混みは慣れてますから。それに、あのマイク、倉子先輩の声より聞き取りやすいって評判でしたよ?」


「むっ、それはどういう意味かしらね?」


「まぁまぁ。どうせこの後、境内の片付けもあるし、今のうちに和んどきましょーよ。おせちの残りもありますし」


夜明け前の薄明かりの中、彼女たちは境内の静けさと、達成感に満ちた年のはじめを噛み締めていた。



そして年が明けて、あっという間に――三学期の始業式の日。


寒さの残る朝の空気の中、生徒たちはコートの襟を立てながら校門をくぐっていく。通い慣れたはずの坂道も、卒業が近づく今ではどこか名残惜しい風景に見えた。


校舎の廊下には、養護教諭の手書きとおぼしき貼り紙が目立つ。


「卒業まであと48日」


それを横目に教室に入った倉子は、息を吐くように言った。


「あと四十八日、かぁ……」


「いよいよって感じっすよねぇ」


真子は自席の椅子に腰を沈め、机に頬をつけた。


「卒業まで、カウントダウンって感じ。でも私、感傷的になる前にまず、受験に勝たないといけないわけで……」


「試験が終わるまでは、うかうか涙も流せないわね」


そんなやりとりを聞きながら、後ろの席にいた澪が静かに笑う。


「そう言えば、私、まだ自分の進路の話ってしてませんでしたね」


その言葉に、倉子と真子が同時に動きを止めた。


「え? 澪ちゃん、国立狙いじゃなかったの?」


「えっ、まさかの指定校推薦っすか?」


「いえ、留学です」


その一言に、ふたりの表情がぱきりと固まった。


「「えええええっ!?」」


:澪の衝撃発表


放課後の図書室は、いつもより静かだった。受験直前のこの時期、生徒の多くは自習室や帰宅勉強に切り替えている。そんな中、窓際の席に並んで座っていたのは、水城澪、真田真子、そして服部倉子の三人だった。


「で、さっきの“留学”ってどういうこと?」


倉子が読みかけの問題集をぱたんと閉じて、澪の顔を覗き込んだ。


「マジっすか澪ちゃん。てっきり旧帝大か早慶かと思ってたんすけど…留学って、どこに?」


真子もノートを閉じ、興味津々といった様子で身を乗り出す。


「イギリスです。ケンブリッジ大学に、進学が決まりました」


「……け、けんぶりっじ……?」


「ケンブリッジ大学っすか!? あの、テレビでしか聞いたことないやつ!?」


「実は、去年の夏に一度だけ短期研修で行ってたんです。そのときに“ここで学びたい”って、思ったんですよね」


真子が目を丸くして叫ぶ。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!? 研修って、そんな話、聞いてなかったっす!」


「言ってませんから」


澪は涼しげに笑う。


「言ったら、なんだか話が大きくなりそうで……。奨学金も取れましたし、ようやく正式に決まったんです」


「な、なるほど……。てか、すごすぎない?」


「うん、完全にスケール違うわね……」


倉子も思わずため息をついた。成績優秀、風紀委員長としての手腕、文武両道。そのうえ海外進学とは、彼女はやはり“できる女”だった。


「ケンブリッジって、何を学ぶの?」


「専攻は政治学と公共政策です。将来的には、国際機関で働けるような力をつけたいと思って」


「うわー、完全に“日本代表”って感じじゃないっすか……!」


真子は机に突っ伏して呻いた。


「いやでも、すごい。すごいけど……寂しくなるっすよ、澪ちゃんいなくなるとか」


「うん、それは本当にそう。いなくなる実感が、いま一気に来たわ……」


しん、と空気が落ち着いた。窓の外には、オレンジ色の冬の夕日が差し込んでいる。


澪は、少しだけ照れくさそうに笑った。


「でも、きっとまた会えますよ。私たち、そんなに簡単に途切れる関係じゃないと思いますし」


「……うん、ま、確かに」


「帰ってくるときは、また報告しろよなっす。おみやげも忘れずに」


「はい、了解しました」


倉子も、頷いた。


「澪。すごく格好いいわ。その決断」


「ありがとうございます。少し、不安もありますけど……。でも、きっと、大丈夫」


その言葉にこめられた力強さが、真子と倉子の胸に静かに響いた。


彼女たちは、同じ時間を過ごしていた。だけど――これから歩く道は、確実にそれぞれ違う。


それでも――今、この瞬間だけは、同じ空の下、同じ教室で、未来を語り合っていた。



昼休みの教室。窓の外には、薄曇りの空からちらちらと雪が落ちてきていた。

ストーブの効いた教室の中で、弓子は自分の弁当箱をぼんやりと見つめていた。箸は持っているが、まったく動いていない。


「……」


考えごとに沈むその姿を、隣の席からちらりと見ていた倉子が、静かに声をかけた。


「弓子。お弁当、冷めるわよ」


「……あ、はい」


弓子ははっとして顔を上げたが、その表情にはまだ曇りが残っていた。


「進路、迷ってる?」


倉子は、核心をつくような静かな声でそう言った。


弓子は一瞬黙り込んだが、やがて小さく頷いた。


「……第一志望の大学、最近になって“これでいいのかな”って思い始めて。親とも先生とも話してるんですけど、自分の気持ちが定まらなくて……」


「そう。それなら、まだちゃんと悩めてるって証拠よ」


倉子は、弁当を食べながらも、弓子を正面から見据えている。


「最初に決めた夢や憧れが、途中で違うと思えてくるのは、むしろ当たり前よ。だって、高校生活の中で私たちは成長して、考え方も広がるんだから。進路選びって、“今の自分”で決めなきゃ意味がないの」


「……でも、間違えたらどうしようって思って」


「間違えたら、やり直せばいいのよ」


倉子はさらりと、それでいて確信に満ちた調子で言った。


「人生はトライアンドエラーよ。失敗を恐れて動けないほうが、ずっともったいない。やってみて違ったと思ったら、修正すればいい。試してみるって、そういうことだから」


弓子は驚いたように目を瞬かせた。


「……そんなふうに考えたこと、なかったかもしれません」


そのとき、背後からひょっこり現れたのは真子だった。ジャムパンを頬張りながら、ひょいと弓子の後ろに顔をのぞかせる。


「ま、倉子先輩は“トライアンドエラー”派っすけど、あたしは“セーブとロード”派っす!」


「ゲームかいっ」


倉子が即ツッコミを入れると、真子はへらりと笑った。


「進路だって、セーブしたポイントから分岐するんすよ。で、バッドエンドになりそうだったら、ロードして別ルート!って感じで」


「……でも、人生って、そう簡単には戻れませんよね?」


「まぁ、そうなんすけど。気持ちの問題っすよ。セーブし直せばまた走り直せるっす。心が折れなければ、それでセーフ!」


弓子は吹き出した。


「ふふ……なんか、気が楽になったかも」


「焦らなくていい。大事なのは“自分の意志で選ぶ”ってこと。人に言われたからじゃなくて、あなたがそうしたいって思ったなら、それはきっと前向きな選択よ」


倉子はそう締めくくり、静かに笑んだ。


「……はい。ありがとうございます。もう少し、自分と向き合って考えてみます」


「うむ、よろしい!」


真子がなぜか教師のように腕を組んで頷き、再びパンにかぶりついた。


三人の笑い声が教室に広がるころ、窓の外には、春を待つ雪が舞い続けていた。



:それぞれの未来へ


冬の夕陽が、教室の窓を橙色に染めていた。

放課後の時間。ほとんどの生徒はすでに帰路につき、教室には数えるほどしか人が残っていない。


澪、倉子、真子、弓子。

四人はいつもの席に集まり、ゆっくりとした時間を共有していた。夕焼けが、彼女たちの髪や制服に柔らかな影を落とす。


「ねえ……なんか、あっという間だったね」

ふと、弓子が呟いた。


「うん。三年間って、こんなに早いんだって思う」

真子が頷き、窓の外を見つめる。運動場の端に積もった雪が、夕日を受けて薄桃色に輝いていた。


「私たち、あと何回ここでこうして話せるのかな」

弓子の言葉に、少しだけ空気がしんと静まった。


「あと……何日だったかしら。卒業まで」

倉子が教室前方の黒板脇を見やると、そこには生徒会が掲げた大きな紙が貼ってあった。


《卒業まで、あと42日》


「数字にすると、リアルよね」

真子が苦笑する。


「でも、意外と悲しくない」

澪が微笑みながら言った。「もちろん寂しい気持ちはあるけれど、それ以上に——ここで過ごしたこと、出会えた人たち、それが全部宝物みたいに感じるから」


「……澪ちゃん、詩人っすね」

真子がからかうように言い、澪は照れたように笑った。


「……で、その宝物はイギリスに持っていくんでしょう? ケンブリッジ大学生さん」

倉子が言うと、澪は苦笑しながらも頷いた。


「うん。英語の壁もあるし、簡単じゃないと思う。でも……日本にいたままじゃ見えない世界があると思うの。だから、行ってみたいって思った」


「うん、澪ちゃんらしいや」

弓子が優しく頷いた。「私も、やっと“自分で決める”ってことの意味、ちょっとだけ分かった気がする」


「立派立派」

真子が両手で拍手する。「弓子ちゃんが自分のことを話すようになるなんて……一年のころじゃ考えられなかったっす」


「人は成長するのよ、真子さん」

倉子が冗談めかして言うと、四人の間にまた、笑い声がこぼれた。


窓の外、夕陽は少しずつ沈んでいく。

橙から紅、紅から藍へと、空の色が変わっていく。


「進む場所は、きっとみんな違う。でも、それでも……私たちは私たちだと思うの」

澪の言葉に、全員が静かに頷いた。


「きっとまた、会えるよ」

倉子が静かに言った。「どんなに遠く離れても、再会できる。だって——」


「友達だもんね」

弓子が続ける。


「うん、最高の仲間っす」

真子がにかっと笑って右手を差し出す。「じゃ、再会の約束に——円陣、いっときますか!」


倉子、澪、弓子も笑って手を重ねる。


「せーの——」


「未来へ、ファイトーっ!」


パチン、と四人の手が軽やかな音を立てた。

その音は、夕暮れの教室にいつまでも残っているかのようだった。



卒業まで、あと42日。

彼女たちの“高校最後の春”が、もうすぐ始まろうとしていた。



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