今日もまた、頭の痛い一日が始まる。
「ジャスミン、ジャスミンはどこだ?」
クレマンの声。溜息をつく。
「ここです、クレマン様。」
そう言いながら、部屋を出ると、クレマンが私を見つけ、ニヤリと笑って私に何かを差し出す。
「これ、処理しとけ。」
渡されたのは領収書だ。一体、何を買ったのか。見てみるとそこには服飾代と書かれている。
「またですか。」
そう言うと、一気にクレマンの顔に苛立ちが見える。
「うるさいな、お前は黙って処理すれば良いんだよ。」
そう言い捨ててクレマンは私に背を向けて歩き出す。これをどう処理するか…。
「ジャスミン様。」
そう言って声を掛けて来たのは執事のバーノンだ。バーノンを見ると、バーノンも呆れた顔をしている。
「ジャスミン様、これ以上、我慢なさらなくても、良いのでは?」
そう言われて笑う。
「そうよね、私も最近になってそう思うようになったわ。」
そう言った直後、響く甲高い声。
「クレマンさまー!」
階下ではマデリン嬢がクレマンと抱擁している。
「素敵なお洋服、ありがとうございますぅ。」
間延びした話し方、媚を売っているのが手に取るように分かる。
「あぁ、良いんだよ、マデリンは何を着ても似合うからな。」
もう視界にも入れたくない。部屋に戻って、執事のバーノンと話し合う時間を作った方がどれだけ有益か。溜息をつき、バーノンと共に部屋に入る。
ここ、クレマン・マイヤー邸は伯爵家だ。伯爵家とは言っても、その規模は小さく、それほど裕福という訳では無い。それなのに、先代の伯爵様はクレマンを甘やかして育てたらしく、彼は横暴で粗野で、我儘だった。更に言えば手を出すのも早い。そんなクレマン様を育てたご両親は既に他界されている。つい数か月前に婚約を結んだ私が無事なのが、不幸中の幸いかもしれない。クレマンに手を出されそうになった時はいつも、領内の事を持ち出すようにしている。そうすれば面倒臭がりのクレマンなら、逃げ出すからだ。私は常に領内の事について、クレマンに処理を命じられ、今まで黙って処理して来た。家計は火の車。それなのにクレマンは湯水のごとくお金を使う。ギャンブルに女遊び、手に入れた女の服飾代…。今、一緒にいるマデリン嬢は子爵家の子女だと聞いた。女という武器を最大限に使って、少しでも上の爵位を持つ男性に擦り寄っていると聞く。私は溜息をつきながら、自身の部屋のものを見渡す。マイヤー家を維持する為に、持って来た自身のものはほとんど売り払ってしまった。伯爵家へ嫁ぐと決まってから揃えたドレスも、それに付随した服飾品も。一番手元に残しておきたかったお母様の形見のブローチ、お父様から頂いた形見の懐中時計も売ってしまって、もう手元には無い。
「ジャスミン様、もう本当に見限ってしまってはどうですか?」
マイヤー家の執事であるバーノンがそう言うのだから笑えない事態ではある。
「そうね。」
そう言っても私はまだ踏み止まっていた。それは何故か。それは私の家がもう無く、それがここへ嫁ぐ事になった要因でもあった。
それに…私を縛っているものがもう一つあった。
「ジャスミン様なら、ここを出られても、立派にやっていけると思います。」
バーノンにそう言われて苦笑いする。
「もしジャスミン様がここを出られるのであれば、私共もお供致します。」
そう言われて笑う。
「ありがとう。」
◇◇◇
その日の午後。昼下がりの時間。私は質素な食事を終えて、執務に頭を悩ませていた。ノックが響く。
「入って。」
そう言うと、顔を出したのはジェーンだ。ジェーンは私付きの侍女。
「ジャスミン様、その…」
言いにくそうにしているところを見ると、きっとクレマンから何か伝言があるのだろう。
「良いから、言ってみて。」
そう言うとジェーンが言う。
「その、クレマン様からというよりは…その…」
そう言われて察する。
「マデリン嬢なのね。」
私は溜息をついて聞く。
「それで、マデリン嬢が何て?」
ジェーンは言いにくそうに言う。
「ジャスミン様を呼ぶように、と。」
私は立ち上がり、言う。
「分かりました。」
◇◇◇
クレマンの部屋に向かう。部屋の前に着いて、ふぅーと短く息を吐く。ノックをする。今度は何を言われるのだろう、そう思いながら。
「入って。」
マデリン嬢の声がする。扉を開けて、目の前の状況に私は目を疑った。目の前には応接に使うソファーがある筈なのに、その場所には大きなベッド。いつの間にこの部屋はベッドルームになったのだろうか。そのベッドの上でマデリン嬢は半身を起こして私を見て微笑む。ベッドにはクレマンも居たが、クレマンはどうやら眠っているらしかった。マデリン嬢は何も身に付けておらず、シーツを引き上げてその豊満な体を隠している。
「喉が渇いたの、何か用意してくださる?」
この人は自分の立場を分かっているのだろうか。自分が今、何をしでかしているのか、きっと理解が出来ていないのだろう。
「それなら侍女にそう言い付ければ良いのでは?」
そう言いながら扉を閉めようとした時、ベッドから声がした。
「飲み物くらい用意しろよ…」
面倒臭そうにそう言う声はクレマンのものだ。
「私は侍女ではありません。」
そう言うとクレマンが体を起こして言う。
「あぁ、確かにお前は侍女では無いな。だが私の婚約者という立場を剥奪して、侍女にしてやる事も出来るんだぞ?」
そう言われて笑いが込み上げて来る。私を侍女に? マデリン嬢の侍女にしようとでもいうの?
「もしそうお考えなら、婚約は破棄して頂いても構いません。ですが婚約が破棄されるのであれば、私はここから出て行きます。」
私がそう言うとクレマンが笑い出す。
「ここを出てどこへ行くんだ? 行く宛など無いだろう? お前の実家はもう潰れている。帰る場所なんて無いじゃないか。」
そう、この人はそれを理由に私を縛り付けようとしている。でもそれが私を縛る理由になどならない事をこの人は知らないのだ。可哀想な人。
「婚約が破棄されれば、私はマイヤー家とは何の関係も無くなります。故にここに居る理由も無いのですよ。」
そう言うとクレマンは苛立ったのか、ベッドヘッドにあるグラスを投げ付けて来る。グラスは私には当たらず、私の脇を通り抜け、壁に当たり砕ける。
「いちいち、うるさいんだよ、お前は。」
そう言ってベッドに居るマデリン嬢を抱き寄せて言う。
「もう止めだ! お前との婚約は破棄だ! マデリンと婚約するぞ!」
そう聞いて私はニヤリと笑う。
「そうですか、そのお言葉、撤回はできませんが、よろしいですか?」
聞くとクレマンは高笑いをする。
「撤回? 俺が自分の発言を撤回するとでもいうのか?」
そして私を睨み付けて言う。
「撤回はしない。お前との婚約は破棄だ!」
私はにっこりと笑い、人差し指で円を描く。指先から金色の粒が溢れ出し、何も無い空中に文字が浮かぶ。
━━婚約は破棄━━