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第11話 閉所の死闘と束の間の安息

グルルルル……。


獣の低い唸り声と、暗闇の奥で爛々と光る二つの赤い点。

俺は咄嗟に美羽を庇い、鉄パイプを握りしめた。

懐中電灯の光が揺れ、その正体をぼんやりと照らし出す。


それは、中型犬ほどの大きさだったが、全身の体毛はところどころ抜け落ち、皮膚は赤黒く爛れたように見えた。

剥き出しにされた牙の間からは、絶えず涎が滴り落ちている。

明らかに普通の犬ではない。

地震の影響で狂暴化したのか、あるいは未知のウイルスか何かによるものか。

いや、おそらくは「異形」の一種なのだろう。

目は血走り、飢えた捕食者の光を宿していた。


「…くそっ、こんな狭い場所で…!」


小屋の中は、大人二人がやっとすれ違える程度の広さしかない。

鉄パイプを思い切り振るうスペースもなさそうだ。

異形の犬は、ゆっくりと、だが確実に、こちらとの距離を詰めてくる。

その喉からは、威嚇ともとれる低い唸り声が漏れ続けていた。


「陽太…!」


美羽の声が震えている。

俺は彼女を背後に押しやり、自分もじりじりと後退する。

しかし、すぐに背中が壁にぶつかった。

逃げ場はない。


異形の犬が、床を蹴って飛びかかってきた。

鋭い牙が、俺の喉元めがけて迫る。


「うぉっ!」


咄嗟に鉄パイプを盾のように突き出すが、犬はそれを巧みにかわし、俺の肩口に噛みつこうとする。

その瞬間、俺は小屋の隅に転がっていた、古い金属製の工具箱をイメージした。


『置換(リプレイス)!』


異形の犬の目の前と、工具箱の位置が入れ替わる!

ガギン!という鈍い音と共に、犬の勢いが止まり、工具箱に頭をぶつけたのか、キャン!と短い悲鳴を上げた。


「美羽、ライトで目を!」


俺の叫びに、美羽がハッとして懐中電灯の光を犬の顔に向けた。

強烈な光に、犬は怯んだように数歩後ずさる。

チャンスだ。


(こいつ、動きは素早いけど、直線的だ…!)


犬が再び飛びかかってくる軌道を予測し、その犬が立っている床の一部と、真上の天井から剥がれかけている、手頃な大きさのコンクリート片を捉えた。

この狭い空間では、これが一番効果的かもしれない。

精神を集中させる。

頭の中で、二つの位置がカチリと入れ替わるイメージを鮮明に描く。


『置換(リプレイス)!』


成功した!

犬の足元の床が、一瞬にしてコンクリート片と入れ替わり、そのコンクリート片が、重力に従って犬の背中に叩きつけられた。


グギャイン!!


甲高い、断末魔のような悲鳴を上げ、犬は床に叩きつけられ、ぐったりと動きを止めた。

口から、黒い血のようなものが流れ出している。

完全に仕留めたのかは分からないが、少なくとも、もう襲ってはこないだろう。


「はぁ…はぁ…っ…!」


連続した能力の使用と、極度の緊張で、激しい頭痛と倦怠感が俺を襲った。

額からは冷や汗が噴き出し、立っているのがやっとだ。


「陽太、大丈夫!?」


美羽が駆け寄り、俺の腕を支えてくれる。


「ああ…なんとか…」


ふらつきながらも、俺たちは小屋の外へ出た。

外の空気はひんやりとしていて、火照った体に心地よかった。

しかし、小屋の中には、まだ血の臭いと、あの異形の犬の死臭が残っている。

この臭いが、他の異形を呼び寄せないとも限らない。


「…陽太、ここも、もう危ないよ」


美羽が不安そうに言う。

俺も同感だった。

せっかく見つけた休息場所だが、安心して眠れそうにない。

時刻は、まだ真夜中を少し過ぎた頃だろうか。

空には星が瞬いているが、月は雲に隠れている。


「…ああ。

悪いけど、もう少しだけ頑張れるか?

別の場所を探そう」


「うん…!」


美羽は力強く頷いてくれた。

彼女も限界のはずなのに、弱音一つ吐かない。

その健気さが、俺の心を支えていた。


幸い、さっきの小屋の中での戦闘音は、それほど大きく響かなかったはずだ。

俺たちは、懐中電灯の光を最小限に絞り、再び夜の闇の中を慎重に進み始めた。

あの公園から少し離れた、住宅街の奥。

以前、地図で確認した際に、比較的大きな建物がいくつかあったはずだ。


三十分ほど歩いただろうか。

俺たちは、少し高台になった場所に建つ、三階建ての公民館のような廃墟ビルを見つけた。

窓ガラスはほとんど割れているが、鉄筋コンクリートの頑丈そうな建物だ。

周囲に異形の気配はない。


「あそこなら…」


俺たちは、ビルの裏手にある、地下駐車場へと続くスロープを見つけた。

駐車場のシャッターは半分壊れて開いており、そこから中へと滑り込む。

地下駐車場は広く、ひんやりとした空気が漂っていた。

車の姿は一台もない。

隅の方に、管理室のような小さな部屋があった。

ドアには鍵がかかっていなかった。


「ここなら、外からも見えにくいし、少しはマシかもしれない…」


俺たちは管理室に入り、ドアを内側から机で塞いだ。

食料は、あのサバの缶詰を食べてしまってから、もう何も口にしていない。

水も、残りわずかだ。

疲労は限界に達していた。


「陽太、本当にありがとう…」


美羽が、俺の手をそっと握りながら言った。


「俺の方こそ…。

美羽がいてくれなかったら、とっくに心が折れてた」


「そんなことないよ。

陽太は強いもん」


「強くなんかないさ…。

この力だって、いつまで使えるか…」


俺は、ズキズキと痛む頭を押さえながら、自分の無力さを噛みしめていた。

それでも、進むしかない。

美羽を守って、九州へたどり着くまで。


俺たちは、交代で短い仮眠を取ることにした。

まずは俺が見張り番だ。

美羽は、すぐに疲れ果てたように眠りに落ちた。

その寝顔を見ていると、少しだけ、この地獄のような現実を忘れられる気がした。


地下駐車場の暗闇の中で、俺は壁に背を預け、耳を澄ませる。

今はただ、静かに夜が明けるのを待つしかなかった。

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