グルルルル……。
獣の低い唸り声と、暗闇の奥で爛々と光る二つの赤い点。
俺は咄嗟に美羽を庇い、鉄パイプを握りしめた。
懐中電灯の光が揺れ、その正体をぼんやりと照らし出す。
それは、中型犬ほどの大きさだったが、全身の体毛はところどころ抜け落ち、皮膚は赤黒く爛れたように見えた。
剥き出しにされた牙の間からは、絶えず涎が滴り落ちている。
明らかに普通の犬ではない。
地震の影響で狂暴化したのか、あるいは未知のウイルスか何かによるものか。
いや、おそらくは「異形」の一種なのだろう。
目は血走り、飢えた捕食者の光を宿していた。
「…くそっ、こんな狭い場所で…!」
小屋の中は、大人二人がやっとすれ違える程度の広さしかない。
鉄パイプを思い切り振るうスペースもなさそうだ。
異形の犬は、ゆっくりと、だが確実に、こちらとの距離を詰めてくる。
その喉からは、威嚇ともとれる低い唸り声が漏れ続けていた。
「陽太…!」
美羽の声が震えている。
俺は彼女を背後に押しやり、自分もじりじりと後退する。
しかし、すぐに背中が壁にぶつかった。
逃げ場はない。
異形の犬が、床を蹴って飛びかかってきた。
鋭い牙が、俺の喉元めがけて迫る。
「うぉっ!」
咄嗟に鉄パイプを盾のように突き出すが、犬はそれを巧みにかわし、俺の肩口に噛みつこうとする。
その瞬間、俺は小屋の隅に転がっていた、古い金属製の工具箱をイメージした。
『置換(リプレイス)!』
異形の犬の目の前と、工具箱の位置が入れ替わる!
ガギン!という鈍い音と共に、犬の勢いが止まり、工具箱に頭をぶつけたのか、キャン!と短い悲鳴を上げた。
「美羽、ライトで目を!」
俺の叫びに、美羽がハッとして懐中電灯の光を犬の顔に向けた。
強烈な光に、犬は怯んだように数歩後ずさる。
チャンスだ。
(こいつ、動きは素早いけど、直線的だ…!)
犬が再び飛びかかってくる軌道を予測し、その犬が立っている床の一部と、真上の天井から剥がれかけている、手頃な大きさのコンクリート片を捉えた。
この狭い空間では、これが一番効果的かもしれない。
精神を集中させる。
頭の中で、二つの位置がカチリと入れ替わるイメージを鮮明に描く。
『置換(リプレイス)!』
成功した!
犬の足元の床が、一瞬にしてコンクリート片と入れ替わり、そのコンクリート片が、重力に従って犬の背中に叩きつけられた。
グギャイン!!
甲高い、断末魔のような悲鳴を上げ、犬は床に叩きつけられ、ぐったりと動きを止めた。
口から、黒い血のようなものが流れ出している。
完全に仕留めたのかは分からないが、少なくとも、もう襲ってはこないだろう。
「はぁ…はぁ…っ…!」
連続した能力の使用と、極度の緊張で、激しい頭痛と倦怠感が俺を襲った。
額からは冷や汗が噴き出し、立っているのがやっとだ。
「陽太、大丈夫!?」
美羽が駆け寄り、俺の腕を支えてくれる。
「ああ…なんとか…」
ふらつきながらも、俺たちは小屋の外へ出た。
外の空気はひんやりとしていて、火照った体に心地よかった。
しかし、小屋の中には、まだ血の臭いと、あの異形の犬の死臭が残っている。
この臭いが、他の異形を呼び寄せないとも限らない。
「…陽太、ここも、もう危ないよ」
美羽が不安そうに言う。
俺も同感だった。
せっかく見つけた休息場所だが、安心して眠れそうにない。
時刻は、まだ真夜中を少し過ぎた頃だろうか。
空には星が瞬いているが、月は雲に隠れている。
「…ああ。
悪いけど、もう少しだけ頑張れるか?
別の場所を探そう」
「うん…!」
美羽は力強く頷いてくれた。
彼女も限界のはずなのに、弱音一つ吐かない。
その健気さが、俺の心を支えていた。
幸い、さっきの小屋の中での戦闘音は、それほど大きく響かなかったはずだ。
俺たちは、懐中電灯の光を最小限に絞り、再び夜の闇の中を慎重に進み始めた。
あの公園から少し離れた、住宅街の奥。
以前、地図で確認した際に、比較的大きな建物がいくつかあったはずだ。
三十分ほど歩いただろうか。
俺たちは、少し高台になった場所に建つ、三階建ての公民館のような廃墟ビルを見つけた。
窓ガラスはほとんど割れているが、鉄筋コンクリートの頑丈そうな建物だ。
周囲に異形の気配はない。
「あそこなら…」
俺たちは、ビルの裏手にある、地下駐車場へと続くスロープを見つけた。
駐車場のシャッターは半分壊れて開いており、そこから中へと滑り込む。
地下駐車場は広く、ひんやりとした空気が漂っていた。
車の姿は一台もない。
隅の方に、管理室のような小さな部屋があった。
ドアには鍵がかかっていなかった。
「ここなら、外からも見えにくいし、少しはマシかもしれない…」
俺たちは管理室に入り、ドアを内側から机で塞いだ。
食料は、あのサバの缶詰を食べてしまってから、もう何も口にしていない。
水も、残りわずかだ。
疲労は限界に達していた。
「陽太、本当にありがとう…」
美羽が、俺の手をそっと握りながら言った。
「俺の方こそ…。
美羽がいてくれなかったら、とっくに心が折れてた」
「そんなことないよ。
陽太は強いもん」
「強くなんかないさ…。
この力だって、いつまで使えるか…」
俺は、ズキズキと痛む頭を押さえながら、自分の無力さを噛みしめていた。
それでも、進むしかない。
美羽を守って、九州へたどり着くまで。
俺たちは、交代で短い仮眠を取ることにした。
まずは俺が見張り番だ。
美羽は、すぐに疲れ果てたように眠りに落ちた。
その寝顔を見ていると、少しだけ、この地獄のような現実を忘れられる気がした。
地下駐車場の暗闇の中で、俺は壁に背を預け、耳を澄ませる。
今はただ、静かに夜が明けるのを待つしかなかった。