ピンポーン。
軽やかで電子的なチャイムの音が、私の鼓膜を撫でた。
「配達でーす!」
その声が聞こえた瞬間、私は待ちきれない子どもみたいに弾む足取りで玄関へ向かった。ドアを開けると、そこに立っていたのはごく普通の青年だった。配送業者の制服を着て、髪は寝癖混じり。どこにでもいるような風貌。ただ、一つだけ、印象的なものを身に着けていた。
それは、左右でレンズの色が異なる、奇妙なデザインのメガネだった。
「もしかして、お兄さんも使ってるんですか?」
思わず尋ねると、彼はにこりと笑ってうなずいた。
「ええ、もちろん。便利ですからね、このメガネ。片方は未来を見れて、もう片方は過去を見れる。そして……」
「両目で見れば現在が見える。そうでしょ?」
言われなくても分かっている。私はずっとこのメガネが届く日を心待ちにしていたのだから。
「ここに押印をお願いします」
「はい、どうも」
タブレットに指でサインをすると、青年は少しだけ顔をしかめた。
「使い心地はどう?」
「うーん……思っていたほど便利ではないですね」
えっ、と私は口を開けた。過去も未来も見えるのに便利じゃない? この人、発明の素晴らしさが分かっていないな、と軽く肩をすくめた。
「では、私はこれで。人気商品なので、配達が山のようにありまして」
「お疲れさま」
私はそっけなく言って、重厚な段ボールを抱えながら室内へ戻った。リビングに腰を下ろすや否や、ビリビリと包装を破いた。
仰々しい黒い箱が現れる。表面には銀色の文字で「パスト・フューチャー・グラス」と記されているが、そんなことはどうでもいい。私はクリスマスの朝のような気分で、箱の蓋をもぎ取った。
中には説明書らしき紙が丁寧に収められていたが、私はそれを無視した。
「これが、夢のメガネ……!」
左右のレンズは、それぞれ赤と青に塗り分けられている。赤が過去、青が未来。まるで昔の3D映画のメガネのようで、少しダサい。だが、その見た目を補って余りあるほどの機能が、これには詰まっているはずだ。
メガネをそっとかける。最初は両目を開けた状態。視界に特別な変化はない。今見えているのは、現実。つまり現在だ。ふつうの部屋、ふつうのソファ、ふつうの私。
「そりゃそうよね……じゃあ、右目だけ」
右目だけを開けて、左目はそっと閉じる。すると、視界が微妙に変わった。数分前の私が、包装紙を破っている姿が見える。過去を見ている——ほんとうに。
「へえ、面白いじゃん。でも、過去はすでに分かってるんだから、未来を見なきゃ意味ないのよね」
次に、左目だけを開けてみた。視界の先には、キッチンで包丁を持ち、タマネギを刻んでいる私の姿。今夜はカレーに決まったようだ。
「助かるわ。迷ってたから。さて、買い出しに行かなきゃ」
街へ出ると、人々の顔が目につく。ほとんどの人が、このメガネをかけている。だが、彼らは両目を開けている。
「それじゃ、ただの伊達メガネじゃない……」
思わず、独りごちる。
「いらっしゃーい。いつもの、買っていくかい?」
八百屋の店主が、陽気な声で声をかけてくる。「いつもの」とはトマトのことだが、今日はカレー。トマトは不要。
「今日はカレーなの。カレー用の食材、お願い」
「了解。少し待っててね」
手際よく野菜を袋に詰めていく彼の姿を見ながら、私は先に財布を出して代金を差し出した。
「はい、代金」
「まだ袋詰めの途中ですよ?」
はっとして、自分の早とちりに気づいた。未来を見ていたせいで、すでに終わった気になっていたのだ。
「すみません、ちょっと……先走ってしまって」
「はは、慣れですよ慣れ。未来ばっかり見てると、今を忘れちまうもんです」
店主の言葉に、私は少しだけ胸がチクリとした。
帰り道、ちょっと寄り道してデパートに向かおうとしたときだった。突然、バイクの轟音が耳をつんざき、すぐそばを猛スピードで通り抜けていった。
「ちょっと! 危ないじゃない!」
「危ないだと? そっちの方が危ないだろ、おばさん!」
運転手は明らかに中年男性だったのに、声は若者のものだった。また、未来映像に音声が追いついていない——。
「おばさんって……まだ三十代なんだけど!」
「分かった、あんた未来しか見てないだろ。何が見えたか知らないが、かけ続けると危ないぜ」
「分かってるわよ、今日だけ! 明日は過去でも見るつもりなんだから!」
「……説明書、読んだか?」
「読むわけないでしょ!」
バイクは遠ざかっていったが、その言葉だけが脳裏に焼きついた。
「ただいまー」
家の鍵は開いていた。夫が先に帰っていたのだろう。玄関から入ると、リビングで彼がソファにもたれていた。
「おかえり。お、さっそく使ってるな、そのメガネ」
「うん、未来の私がカレー作ってたから、買い出しもバッチリ」
「ところで……説明書、読んだ?」
またそれ? ため息をつきたくなる。
「あなたまで、説教しないでよ!」
「お前が機械に弱いのは分かってる。でもな、読むべきものは読まないと」
夫は真顔で、説明書の一部を読み上げた。
「『このメガネの使用は最大でも一分まで。それ以上使うと、幻覚・幻聴の危険あり』……お前、どれくらい片目でかけてた?」
「えーと……半日?」
「半日!?」
彼の声が跳ね上がる。そして、私はそのとき初めて、自分の中の違和感を自覚した。
妙に現実味がない。周囲の音が遅れて聞こえる。視界にノイズが走るときもあった。
「とにかく、今すぐ外せ!」
夫の強い口調に押され、私は渋々メガネを外した。
そして、目にしたのは、想像もしなかった光景だった。
部屋の中央、商品箱の前に、私は座り込んだまま動いていない。その姿は、まるで時間が止まったようだった。ソファにいたはずの夫の姿も、消えていた。
「……え?」
私の口から、かすれた声が漏れた。
幻だった? 過去か? 未来か? あるいは——
私は、いつにいたの?