地球の大気は、甘かった。湿り気を帯びた緑の匂い。足元を撫でる風。遠くで鳥が鳴いていた。
――この星には、まだ命が満ちている。
我々〈フェリニアン〉の母星は、爆縮の危機に瀕していた。銀河の端で細々と文明を築いてきた我々が、逃げ込める星など、そう多くはなかった。最後の賭けとして選ばれたのが、青と緑の美しい第三惑星――地球だった。
「受け入れられる見込みは低い。人類は自らを“頂点”と見做している」
船長のヒゲが震えた。重力に慣れないせいか、彼の尻尾がしきりにバランスをとっていた。
「最悪の場合、研究所送りだ」
「剥製にならないだけマシかもしれん」
我々は覚悟していた。身を裂かれ、記録され、終わっていく可能性を。それでも、星に残って死を待つよりはマシだった。
……しかし、その覚悟は、着陸から五分で裏切られた。
「みて!なにあれ、超かわいいんだけど!」「しっぽフワッフワ!」「写真撮ってインスタに上げよう!」
気づけば、我々は地面に座らされ、柔らかい声で話しかけられ、光る板を何度も向けられていた。ある者は抱き上げられ、ある者はリボンを巻かれ、またある者はカバンに入れられて連れ去られていった。
「これは……好意……か?」
「……え? もしかして“飼われてる”?」
彼らは我々を、猫と呼んだ。古くから存在し、人類を虜にしてきた“癒し”の象徴。その姿と我々フェリニアンの体躯は奇跡的に酷似していた。二本の耳、しなやかな尾、丸い瞳と、ふわふわの毛並み――
結果、我々は人類に拾われ、抱かれ、飼われた。
人類は実に単純だった。ゴロゴロと喉を鳴らせば喜び、脚の間にすり寄れば「愛されている」と錯覚した。我々はその感情構造を素早く解析し、“理想の猫”として振る舞う方法を編み出した。伸びをする角度。瞬きのリズム。転がるタイミング。すべてが計算された、生存戦略だった。
それから数年――
私は、一軒の民家に住んでいる。和室。掘りごたつ。湯気の立つみそ汁。古びた掛け時計が、ぽっぽと時を告げる。季節は冬。雪が降り始めていた。
私は、こたつの中にいた。温かい布団に潜り込み、四肢をたたみ、丸くなる。外から聞こえるのは、飼い主が台所で立てる音と、テレビから流れる天気予報だけ。
「にゃあ」
何気なく鳴いてみると、すぐに飼い主がやってきた。
「どうしたの、タマ? お腹すいたの?」
違う。ただ呼んでみただけだ。それでも、彼女は笑って言う。
「もう、甘えん坊なんだから」
そう、我々は甘やかされている。この星では、主従の関係が逆転している。文明を捨て、言葉を捨て、ただ“猫”として生きることで、我々は楽園を手に入れたのだ。
地球征服? 必要ない。支配よりも、こたつの方が、遥かに尊い。文明の維持より、ふかふかの布団と無条件の愛情の方が、はるかに価値がある。
さあ、今日も一日が始まる。人類よ、せいぜい我々の機嫌を取ってくれたまえ。
――宇宙猫は、こたつで丸くなる。