地球の大気は、甘かった。
薄く漂う花の香り、どこまでも広がる青空、地面を撫でる風には、草のざらつきと土の湿り気が混ざっていた。遠くで小鳥がさえずっている。その音色は我々の母星〈フェリニス〉には存在しなかった、繊細で震えるような響きだった。
――この星には、まだ命が満ちている。
我々〈フェリニアン〉は、銀河の片隅に文明を築いた知的種族だ。しかし、母星フェリニスは長年に渡る資源の枯渇と地核の不安定化により、爆縮の危機に瀕していた。星はもはや“死に体”であり、文明の維持すらままならない。逃げ場を求め、我々は宇宙をさまよった。
そして、最後の賭けとして選ばれたのが――第三惑星、地球だった。
「受け入れられる見込みは低い。人類は自らを“頂点”と見做している」
着陸船の制御室で、船長がぼそりと呟いた。鋭く尖った耳と立派なヒゲを持つ彼の横顔は、重力に慣れていないせいか、やや不安定に揺れていた。何度も尻尾を振ってバランスを取る姿は、彼の緊張を如実に表していた。
「最悪の場合、我々は研究所送りだ。細胞ひとつ残らず調べられ、記録され、剥製にされるだろう」
「それでも、星に残って死を待つよりはマシさ」
誰もが腹を括っていた。命を捨てる覚悟を持って、地球に降り立ったのだ。
……だが、その覚悟は、着陸からわずか五分で呆気なく裏切られた。
「みてー!なにあれ、超かわいい!」「ちょっと、しっぽふわふわじゃん!」「SNS映え確定!」
周囲を取り囲んだのは、武装した兵士でもなければ、厳つい研究者でもなかった。スマートフォンと呼ばれる光る板を構え、瞳を輝かせる少女たち。彼女たちは無邪気な笑顔で我々を見つめ、その小さな手でいともたやすく抱き上げてきた。
我々は地面に座らされ、頬ずりされ、光る板で何度も写真を撮られた。ある者はリボンを首に巻かれ、ある者は「キャリーケース」に入れられ、またある者は「おうちに連れてくー!」と叫ばれて攫われていった。
「……これは、好意……なのか?」
「いや、まさか……これは“飼われてる”?!」
彼らは我々を“猫”と呼んだ。
古くから存在し、人類を魅了してやまない小さな哺乳類。柔らかな毛並みと、俊敏な動き、何よりもそのミステリアスな振る舞いが、人々を虜にしてきたという。そして我々フェリニアンの外見は、驚くほどその“猫”に酷似していた。
二本の大きな耳、しなやかな尾、丸く大きな瞳――それは、猫そのものだった。
こうして、我々は“宇宙人”としてではなく、“猫”として地球に迎え入れられた。
人類は実に単純だった。こちらが喉をゴロゴロと鳴らせば、彼らはうっとりと目を細める。脚の間にすり寄れば、「愛されてる〜!」と勘違いして、すぐに餌を出してくれる。
我々はすぐにその心理構造を解析した。
どう鳴けば効果的か、どの角度で伸びをすれば可愛く見えるか、瞬きの回数、転がるタイミング、ひっかく強さの限度――すべてを緻密に計算し、完璧な“癒し”を演出する。文明の叡智を注ぎ込み、理想の“猫”として振る舞うのだ。
それから数年――
私は今、一軒の日本家屋に住んでいる。縁側には雪が舞い、古びた掛け時計がぽっぽと音を立てる。木目の床、障子の隙間から差し込む柔らかな光。静かな冬の午後だ。
掘りごたつの中は、まるで天国だった。
柔らかな布団に身を沈め、四肢を折りたたみ、背中を丸める。じんわりと伝わる熱が、全身を包むように広がる。地球という星は、寒さと温もりの対比を知っている。それは、快楽という意味で非常に洗練された気候だった。
「にゃあ」
何気なくひと鳴きしてみる。
すぐに奥の台所から足音が近づいてきた。飼い主の少女、ユカだ。ふわふわの部屋着に身を包み、顔には笑みを浮かべている。
「どうしたの、タマ? お腹すいた?」
違う。ただ、呼んでみただけだ。それでも彼女は膝をつき、私の頭を撫でながら言った。
「もう、甘えん坊なんだから」
……これが、地球という星の現実だった。
言葉を捨て、知性を隠し、“猫”として振る舞うこと。それによって、我々は安全と快適を手に入れた。文明? 権力? そんなものは必要ない。この掘りごたつこそが、真の楽園だ。
地球征服? 必要ない。
人類を支配するよりも、飼われて甘やかされる方が、よほど幸福なのだ。支配者よりも、愛玩される者として生きる方が、はるかに心地よい。
朝にはご飯が出てきて、昼は日なたぼっこ、夜は一緒に布団で眠る。無償の愛情と、最高の寝床。それが、我々が手に入れた“理想郷”だった。
今日もテレビから天気予報が流れている。
「今夜から本格的な積雪となるでしょう。暖かくしてお過ごしください」
私はこたつの中で伸びをしながら、飼い主に向けて小さく鳴いた。
「にゃあ」
「うふふ、タマ、雪見たいの? でも寒いよー?」
うん、それでいい。そうやって気遣ってくれるだけで、十分だ。
――宇宙猫は、今日もこたつで丸くなる。