大学の裏山に、小さな祠がある。
杉木立の奥、薄暗い獣道を十分ほど進んだ先。手入れのされた様子はなく、苔むした石段の上に、ぽつんと佇んでいる。木製の小さな祠。屋根は歪み、戸は風に半開きになっていた。
誰が建てたのか、いつからあるのか、知る者はいない。けれど、誰も触れようとしない。誰も近づかず、けれど誰も壊さない。まるで、そこにあるべきものとして、森に溶け込んでいた。
俺は文学部の三回生。研究テーマは「現代都市と民間信仰」。けれど最近のゼミでは、もっと変わったジャンルが流行っている。
「祠壊し文学」——。
小説の中で祠を壊すと、何かが起きる。祟り、ループ、時間逆行、世界の崩壊。テンプレートはある程度決まっている。けれど、書き手によって微妙に展開が違う。崩壊の様式、祟りのかたち、時間の巻き戻り方。その些細な差異が、作品の個性になる。
「でもさ、どれも似たり寄ったりじゃね?」
そう言ったのは、工学部の伊坂だった。機械いじりと哲学が好きで、人工知能の卒論を書いている変人だ。いつもボロボロのリュックを背負っていて、髪はぼさぼさ、だけど目つきだけは妙に鋭い。
「どうせなら、本当に壊してみようぜ」
「は?」
「いや、マジで。文学ってのはさ、現実に干渉してナンボでしょ。祠を壊してみて、それで何も起きなかったら、それこそ最高の作品になる。虚構の無力さを証明できるし、何か起きたら……それもまた作品になる」
それはゼミの打ち上げの帰り、夜の大学通りをふらふら歩いていたときのことだった。彼は酔っていた。顔を赤らめながら、缶ビールを片手に笑っていた。空には雲が低く、街灯の光をぼんやり反射していた。
そのときは、誰も本気にしなかった。周囲の数人は「また始まったよ」と笑って受け流した。でも、俺は——笑えなかった。
家に帰って、布団に入っても、その言葉が耳から離れなかった。
本当に壊してみようぜ。
文学は現実に干渉してナンボでしょ。
——そのフレーズが、どこか背筋に冷たいものを這わせた。
三日後、裏山に登った。理由はない。ただ、何か引っかかるものがあった。
湿った落ち葉を踏みながら、祠のある場所へ向かう。風が冷たく、杉の枝がさわさわと鳴っていた。
そして、そこに“それ”はなかった。
祠は、無残に壊されていた。
木片がばらばらに散らばり、石段は崩れ、屋根の一部は土にめり込んでいた。誰がやったかは書いていない。けれど、俺には分かっていた。
——おそらく、伊坂だ。
山の空気が異様に澄んでいた。
音が消えたような錯覚。木々の揺れる音すら、どこか遠くに感じた。
息をのんだ。手が震えた。
それが寒さのせいか、それとも別のものかは、分からなかった。
翌日。ゼミの教室。いつものメンバーが揃っていた。
が、一人だけ、いなかった。
「なあ……未来人のやつ、どこ行った?」
何気なくそう言うと、周囲が怪訝な顔をした。
「誰、それ?」
「え、あの……いつもメガネかけてて、妙に丁寧な敬語で喋るやつ。科学技術の話ばっかしててさ、時間旅行がどうのこうのって……」
——あれ?
顔が思い出せない。名前も。何度も話したはずなのに、声すら曖昧だ。
いや、それ以前に。いたか? 本当に?
最初からいなかったんじゃないか?
でも、なぜだろう。何かが欠けたような。自分の中の一部が削がれたような。
心の奥に、ぽっかりと穴が空いていた。
そこには“何か”があった気がする。大切で、かけがえのない何かが——もう、思い出せない。
その夜。
昔のスマホを引っ張り出して、写真を見返してみた。ゼミの合宿、飲み会、学園祭。
——どの写真にも、彼は写っていなかった。
それなのに、俺の中には彼との記憶がある。笑い声、議論の熱、細かい癖、未来の話。けれど、証拠はどこにもなかった。
まるで、彼は最初から存在しなかったかのように。
でも、それは違う。確かに“いた”んだ。
ただ、世界が彼を削除してしまった——まるで、祠と引き換えに。
数週間後、伊坂の作品が文学コンテストで佳作に選ばれた。
タイトルは「祠を壊しただけだった」。
受賞インタビューの映像で、彼は穏やかに笑いながら言った。
「フィクションを現実が超える瞬間が、文学には必要だと思います」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥がぞわりとした。
あの祠を壊したことで、俺たちの“未来”は失われたのかもしれない。
誰にも気づかれずに。誰にも記録されずに。
物語の中で起きるはずだった“消失”が、現実の中で、すでに起きていたのかもしれない。
それでも、物語は「佳作」として、きちんと評価された。
世界は、何もなかったかのように進み続けている。