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首都 名古屋の日

 令和七年五月八日。今日は「758なごやの日」だ。語呂合わせというだけで作られた記念日——そう思っていたが、数年前に東京からこの街へ引っ越してきて以来、少しずつこの土地の文化に染まりつつある自分に気づく。最初は違和感しかなかったことも、今では自然と受け入れている。


 例えば、モーニングの文化。これは本当に衝撃的だった。コーヒー一杯の値段で、トーストとゆで卵、さらにはサラダやヨーグルトまでついてくる。東京では考えられないサービスだ。初めてその話を聞いたときは、冗談かと思った。案の定、半信半疑で喫茶店に入った私は、目の前に出された豪華なプレートに目を疑ったものだ。


「これ……本当に、コーヒー代だけですか?」


 そう店員に尋ねたとき、にこやかに返ってきた「そうですよ」のひと言が、今も印象に残っている。


 窓の外では、5月のやわらかな日差しが街を包んでいた。初夏の風がビルの隙間をすり抜け、街路樹の葉をさらさらと揺らしている。名古屋駅前の高層ビル群は今日も堂々とした姿で立ち並び、その足元を、758のロゴ入りTシャツを着たスタッフたちが慌ただしく行き来している。


 今朝の新聞には、見出しがでかでかと踊っていた。


「祝・名古屋の日!」


 各地でイベントが開かれるらしく、名古屋城では入場料が758円になるとのこと。他にも、地下鉄のフリーパスが当たる抽選会や、商店街のスタンプラリー、さらには758円均一セールなど、名古屋を満喫するための仕掛けが街中に散りばめられているようだ。


 普段なら1,200円以上するようなランチも、今日は758円になるところが多いらしい。ふと、行きつけの喫茶店の広告が目に入った。


「名古屋の日限定!モーニングセット、758円でご提供!」


 私は思わず苦笑した。


「いや、なんでも758にこだわるのは、ちょっとやりすぎじゃないか……?」


 正直に言うと、今日は小倉トーストを食べに行こうと計画していた。あの、香ばしく焼かれたトーストの上にたっぷりと乗せられた甘い小倉あん——そして、少しだけ塩気のあるバターが溶け合う瞬間の幸福感。それを楽しみにしていたのに、価格設定が逆に高くなってしまったのでは、と戸惑ってしまう。通常は500円以下で提供していたはずなのに、名古屋の日というだけで値上げとは……。


 テレビをつけると、ローカル番組のアナウンサーが満面の笑みでこう言った。


「みなさん、今日はかに過ごしましょう!」


 明らかにダジャレだ。思わず額に手を当てたくなるような寒さだったが、スタジオではスタッフたちの笑い声が響いている。ここまで突き抜けていると、もはや清々しい。


 東京にいた頃は、こんな日常はなかった。記念日といえば、全国規模の祝日か、バレンタインデーのような商業イベントがほとんどだった。都内のカフェは洗練されていて、確かにお洒落ではあったが、どこか無機質な空気が漂っていたように思う。名古屋の喫茶店には、もっと人間味がある。常連客と店主が冗談を言い合い、新聞を広げて一日を始める。そんな空気が、今では心地よく感じられる。


 私は部屋を出て、商店街へ向かった。道沿いには屋台が立ち並び、焼きそばや味噌カツ、手羽先といった名古屋グルメが並んでいる。小さな子どもたちが手に風船を持ち、笑いながら走り回っている。


「名古屋って、ほんと、自由だな……」


 思わず口に出していた。


 ふと、立ち止まってスマホのカレンダーを眺める。令和十年。そうなったらどうなるのだろう、とふと考える。


「今日が令和十年のだから、毎日が東京の日?」


 馬鹿げた発想かもしれないが、記念日を作るのが得意な名古屋なら、そんな発想も現実になりそうで怖い。


 だが、仮に毎日が「東京の日」だったとしても、こんなに街が一丸となって楽しんでいる風景は、東京ではあまり見られなかったように思う。東京出身であることに、少しばかり誇らしさを感じると同時に、名古屋という街に馴染み始めた自分をどこか嬉しく思った。


 さあ、今日は何を食べようか。せっかくだし、イベント会場で何か珍しいものを探してみてもいい。午後には名古屋港で花火が上がるらしいし、夜まで一日中楽しめそうだ。


 そう思いながら、私は758円のモーニングを提供している喫茶店を通り過ぎた。きっと、あの店にはまた別の日に行けばいい。今日は、「名古屋の日」なのだから。名古屋らしく、なごやかに、気ままに過ごせばいいのだ。


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