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流れ星ブラッドジャーニー
流れ星ブラッドジャーニー
宵更カシ
現実世界ラブコメ
2025年05月02日
公開日
9.2万字
完結済
 薄灰の流れ星が瞬く。  使用人をクビにされ続けた主人公『七見 光莉』が出会った吸血鬼『クリスカ・アルタリィ』。  屋敷も持たない旅人は、傷ついた光莉に新たな世界を見せる。  血を廻るジャーニー。終点の見えない二人の旅は夜行列車に運ばれて始まる――

流星

 列車のお好きな主様との旅路はハイケンスのセレナーデにのせて。オルゴールの音色を小耳に授かってから到着の案内放送が始まります。

 前髪を綺麗に切り揃えた黒髪がゆらりゆらりと横に振れる列車の客室。深緑色の機関車に牽かれた夜行列車が春先のまだ肌寒い大阪の街を出て六時間が経とうとしていました。

 眠気を誘う暖房の陽気に意識を奪われそうになっていた私は、いっそこのまま終着まで眠ってしまおうかと思っていました。

 共用スペースの窓を向く長いソファー。フカフカで寝心地も良く、拍車をかけるような不規則な列車の揺れ、凛々しくも囁き掛けるような車掌さんの声音。

 もはやこれは寝てしまえと言っていて然りな状況。しかし二十歳そこそこの小娘が通路にもなる出来の良い公衆ベンチの真ん中では危険でした。けれど誘惑には勝てず、うたた寝してしまいます。

——あなたの血、錆臭いのよ。今すぐ出て言ってくれないかしら。

 脳裏を過った言葉に血相を変えた私はハッと目覚めて辺りを見渡します。

 と、油断が案の定。大きく見開いた霞んだ視界が暗転してしまい、パニックになった鳩のように手をばたつかせます。

「さてさて、愛しの機関車の後ろ姿を眺めに行った主についでとばかり御使いをさせておきながら、こっくり船を漕いでうたた寝しそうになる人間、だーれだ」

 暖気の回る部屋でも異質な冷感。瞳を囲った玉の肌に生命の温度はなく、無邪気で健気な金鈴の声音に焦ることを止めてしまいました。

「私でございましょう?」

 答えると視界がぱっと明転。

 スレンダーな身体に幼さを多少残した端正な顔立ち。寝台列車だからか高揚されている主様へ目が行くと、勝手を働いた無礼への負い目と不覚にも持っていらしていた袋の中身に期待が膨らみます。

「大正解。大層な身分の使用人ね?」

「ご無礼をお許しください」

「お許し? フフッ」

 少女の笑みが邪悪さを帯びました。フレアスカートが大きく華を開いて回ると袋を背で隠し、ガサゴソ漁ると私の頬に主様のとはまた違う、無機質な冷気が直撃して、声を上げてしまいます。

「冷たっ?!」

「これで半分。車内販売の人を捕まえて買ったの。夏じゃないけど、新作もあったから食べよ?」

「い、いきなりアイスを頬に当てるのは心臓に悪いですよぉ! もう!」

「拗ねちゃった? 可愛い」

「拗ねてません! 怒ってるんです」

 それも冷凍庫から出したばかりの物で、真冬の今日にはなんと不似合いな凍てついたアイス。

 しかし、それでも春のように温かいこの部屋で頂くのは格別だと、旅に次ぐ旅の中で知り得た発見でもあり、大切な思い出でした。

 蓋を開いてバニラアイスを頬張り始めると、そんな一刻の剥れも吹き飛びました。濃厚な牛乳の風味も束の間、滑らかなくちどけの一口は消えるが如く溶け出して、喉を抜けます。

 アイスも顔も蕩けてしまう、至福の表情。忽然な目線で隣を向くと主様の姿が映ります。私と同様で、けれど食べているのはチョコミント味のアイスで、満面に幸せを表現していました。

「にゃはぁー」

「はふー」

 二人揃って漏らした気の緩んだ声音。私は脱力し切っていましたが、主様のは風情を感じて感嘆というより、日常に辿り着いた安心感を纏っていたようでした。

 そしてスッと意識を戻したのか、隙だらけの私の手を取って口元へと運んでいきます。

「主様?」

「お仕置きの半分。ここでさせてもらうわね」

「お仕置きの半分……ってあの、ひゃん!」

 場所を弁えず、今度は甘い喘ぎが響きます。幸いとして生憎として、この車両は二人だけで誰彼構うことはありません。

 そこを突いたのか、困惑する私に主様の牙が指の皮膚を無慈悲に貫通。精緻に通された毛細血管を幾重か破って、舌で掬うように舐め始めていました。

「あ、の。ちょ……と、こんなとこ……ろで!」

 流石に見知らぬ旅人が来たらと、必死に止めるよう説得します。だって傍から見たら、小柄でさながらお人形さんにも見間違える可憐な少女二人が、指を頬張り頬張られて喘いでいるところなんて、性癖の歪んだカップルにしか見えないですから。

 けれど主様は一向に口を離す気配が感じられません。血が主食の鬼が齎す何度も押し寄せる濃密な快楽。指なのに容赦ない寄せては返す大きな波に、もう思考アルゴリズムは機能を止めています。

 体感こそ数十分でしたが、実際は三十秒も吸っていません。主様が唇を惜しみないしたり顔で指を離すと、艶めかしい息遣いで凭れ掛かった私。血を吸うのは夜と決まっているのに、不意打ちなんてズル過ぎます。

「ちょっとやり過ぎちゃったかな……あはは」

 主様も思わず苦笑い。内心は慌てふためいているはずなのですが、ちょっとしたら吹っ切れて眠りについた使用人を持ち上げました。

 それも軽々と、身長差は数十センチある小柄な体躯で。お姫様を寝室に連れて行くかのよう。

 溶け始めたアイスを眠る使用人の絶妙なバランスを誇るおでこに載せて、個室寝台の一室へと戻っていった主様。すれ違う車掌さんや約一日の鉄路を共にする他の乗客も思わず二度振り返って見直します。

 抱えている眠り姫の寝顔を一瞥。使用人の癖にと思いながらも、まんざらではない主様。夢の中でもわかってしまいます。長い旅で育んだ絆が、容易に想像させるのでしょうか。

 使用人は思います。走ってきたレールを振り返って、岐路を跨ぐ度に迷っていたことを。そして、隣にいる主様を、恩人を信じて付き従った旅は、血となり身体を巡っていることを。

 これは棄てられ続けた使用人『七見 光莉』と、海を、山を、この国を旅で渡る吸血鬼『クリスカ。アルタリィ』の物語。そして、私達の大切な思い出の足跡。


 物語りの始まりは二年前、出会いは唐突で最悪でした。

 列車が目まぐるしく行き交う都会の中心駅。高速列車の改札口を出ると、乗り換え通路に犇めく色とりどりの土産物屋の軒先と通路を埋め尽くす人の波。攫われそうになりながらも必死に逆らい黒髪を揺らしながら歩く私は、自分に敷かれた道をなぞっています。

 覇気のない虚ろな目で、忙しない人々に眼も暮れない闇を纏って。

 Uターンするように回った私は二つ隣の改札口を再び通り、高速列車のホームへ立つと、未だ消えることのない強いオフィスビルの白光が目に飛び込みます。無機質な鉄柱とコンクリートのオフィスビル、暗がりに溶け込んだそれは星を散りばめた夜空のよう。

 太陽が無いからこそ望める煌々と輝く摩天楼に眼を奪われて、トランクが鈍い音を立てて地面へ落ちました。

 二年前、思い描いていた将来の展望と重なって、感極まります。正反対の今の自分を、さながら嘲笑しているその光達に、私の頬は涙を伝わせたのです。

 黒く滲むプラットホームのアスファルト。かき消すようなブレーキの金切り音を傍目に、奏でられる透かした歌声が前を過りました。

 見られまいと、流れ続ける涙を乱暴に袖で拭き取って、その歌声を私は絶望に浸された瞳で一瞥します。

 物珍しそうに覗き込む円らな紅い瞳。目線に気づいたのか朗らかにはにかんでくれました。正直、今はそういう気分ではないのでやめて欲しいのですが、それでも仕掛けたのはこちらです。

 小さく手を振ってトランクに手を掛け、扉の開け放った列車へ逃げ出しました。昼間であれば抜群の景観を誇る二階席の指定席で、屈託のない純粋な笑みに一言溢します。

「今の私でも、あんな風に笑えたらいいのに……」

 手を振られた少女にその言葉はきっと届かないだろうと、その瞬間は考えていました。列車は大都会のターミナル駅を定刻通りに発って、私を終身閉じ込める目的地へと誘っていきます。

 その少女が私の目に気を留めて、隣の座席を占有するまでは、少なからず私の人生は、色を変え切った果てに塗りつぶされた、二度と返り咲かないものだと、諦観していたのです。


 探るような目線が私を釘付けにしたのは、始発駅を出てそう経たずしてのことです。

 最高時速240キロで走る二階建て高速列車の先頭車。二列ずつのゆったりしたシートに暖色の照明。この列車の最高グレードの座席に腰を掛けている私は、これが普通の座席と疑いもしません。

 リクライニングを目いっぱい倒して、一刻の気休めを求めるように車窓へ意識を移します。

 離れていく街。こんな光景を何度も。

 頬杖をついて、引き結んだ口元。黄昏に夢中の私を呼び戻したのは、

「切符の拝見に参りました」

 車掌さんした。

 きっちり着こなした黒炭色の制服でタブレット端末を片手に爽やかな笑顔の男性が私の席のすぐ袂で優しく尋ねていました。

 穿いていたロングスカートのポケットから薄水色の切符を取って見せようとしますが、彼の目線が私ではなく、少し下を向いています。ちょっと妙です。

「座席、間違っていましたか?」

 そんなに影薄かったでしょうかと皮肉も付け加えたかったのですが、決して気づいていないわけではなかったのです。振り返って首を振ると、

「あぁいえ、こちらのお客様です」

 と左手でいつの間にか隣へ座り込んでいた人物を指しました。

「飛び乗ってきたから自由席のだわ。空いていたら付けてくれるかしら?」

「差額分は現金のみの清算になりますが、よろしいでしょうか?」

「えぇ、結構よ。むしろニコニコ満点笑顔のキャッシュの方が好みでしてよ」

「左様でございますか」

 では、とトントン拍子に進んでいますが待ってください。

 いつの間にか隣に居たのは、ホームで眼があった金髪の少女が座り込んでいるではありませんか。シートのリクライニングを最大に倒していて、影が彼女を隠していたようでしたが、物音一つ聞いていませんよ私。

「えっと車掌さん?」

「なんでしょう?」

「隣の席って埋まっていました?」

 発車までは誰もいませんでしたし、いつから? しかしそれを問い詰めようとすると、少女が辛辣に撃ち返して来ます。

「埋まったわよ。たった今ね」

「そんな屁理屈な!」

「大変恐縮なのですが、そろそろ乗務員室へ戻っても?」

「えぇ。ごめんなさいね。私のわがままに付き合って貰って」

「いえいえ。お客様の最善を共に導き出し、快適な旅をご提供するのが我々乗務員の責務ですから」

 心を穿つようなセリフが飛んできましたが、私はそれどころじゃありませんし、まだ話は終わっていませんよ。

 けれど訴える隙も与えられず、車掌さんは去っていきます。

「ふぅ、一悶着ってところかしらね」

「一悶着って……」

 顰めた顔を悟られないように下へ向けて、それでも苛立ちを露わにしないよう愛想笑いに作り替えて上を向きます。

「い、移動しても?」

「ダメに決まっているでしょう。私、あなたが居たから座ったのに」

「えっと、指図ですか」

「勿論」

 そうされる覚えはないのですが、ともツッコみたかったですが、我慢です。

「眼があったときから気になっているのよね。あなたのこと」

「ついさっきのことだと思うんですが、私の何を?」

 皮肉っぽく笑って、私は言いました。矛先の違う相手に厭悪を込めて。

 しかし彼女の表情は一寸のブレもなく、淡々と核心を突きます。

「あなたの眼、空っぽだったから」

「空っぽ?」

「まるで燃え尽きた灰を見ているようで、力は愚か、無抵抗に絶望へひれ伏した哀れな目をしていた」

 幾重に張り巡らされた何かを言葉の刃がなぞり斬り刻む音色が頭を過っていきます。精緻で憐憫な紅い瞳が嘲笑うように、私を見つめていました。

 感情が爆発してしまいます。そんな、全てを知っている風にされたら、私。

 ほんの数舜、キリっと走った眉間の皺とそれに気が付いて引き攣った顔を彼女は見逃してはくれません。丸くじっと据えていた視線が鋭く眇められて、心まで覗かれてしまうのではと私の視線は離れていきました。

「私から目を離したのはなぜ?」

 固唾を飲んで、沈黙を貫こうとします。話しても、どうしようもないと。誘うような、彼女の話術に引き込まれてしまわないために。

 けれど引き際は潔く、呆気がなかった。私の感想はその一言に尽きるでしょう。

 その必要がまるでなかったから。

「まぁいいわ。抱えているのは触れられたくない問題のようだし。根掘り葉掘り尋ねられるのも、腹が立つでしょう」

「……ごめんなさい」

「あなたが謝る必要なんてないのよ。こちらこそ変なところに食い下がって悪かったわね」

 努めて冷静を纏うようにも自己の探求心を抑圧しているようにも見えたその姿。

 そして、しばらくの沈黙を置いて鋭い牙のような真っ白い犬歯を見せつけながら放った一言が私の背筋を凍り付かせました。

「今夜、私とご一緒してくれないかしら?」

 顔の血の気が引いていきます。彼女は隠すことなく自らを——吸血鬼と示したのです。


 吸血鬼。人間の数百倍の寿命を持ち、血液を糧に生きる種族。生まれてから数十年は白日の下に出られない夜に生きる生命。

 人間の始祖とも、地球上最初の猿人類とも語られる彼女達は、今や莫大な富と権力を握る家柄もあるほど繁栄を遂げていました。

 かつて汚らわしい民族と迫害を受けていた時期もありましたが、彼女達は立ち直って人間と共生しています。

 そんな悪ししき時代はとっくの昔に終わっていて、勿論その正体を隠す必要はないのですが今の私にはその真実が毒であり、心を蝕んでいきます。彼女は何も悪くない。そう言い聞かせて、とにかく平静を取り戻そうと深呼吸を続けました。

「驚いた?」

 ニシシと得意げに笑う少女。それに一夜を共にするというのは、そのつまり。

 考えに耽った挙句、頬を紅潮させていると、今度は悪びれる様子もなく高く笑い、顔に出た勘違いを正してくれます。

「如何わしいことなんてしないわよ。清廉潔白よ私は。処女だし」

「あの、一応ここ公共交通機関の中なんですけど」

「あなたがお望みなら、慰めも買って出るわよ?」

 平然で周囲を勘違いの渦に巻き込もうとするのは、私にも火の粉が掛かってくるのでやめていただきたいのですが、反省の色はなく、むしろ人を揶揄って愉悦に浸っていたのか、目の端に涙がついていました。

 私のとは違う、笑いの涙。お茶目な彼女はしばらく堪えてからドリンクホルダーに入れた紅茶で一息ついて、本題を切り出しました。

「さて、誤解も解けたところで本題だ」

「本題?」

「導き出せないのよ。結論づけるには——あなたから聞かないとね」

 意図をすぐに理解できない私に怒りを感じてしまったようで、眼をぎゅっと瞑ります。暴力的なお方だと知っているわけではありませんが。

「瞑られると余計に見えないでしょう。その目」

「目……?」

「滅多に身を預けない高速列車を前に、冴えない目と表情されてたら、誰だって気になるわよ」

 私服のビジネスマンという筋はないでしょうか。偏見を前に彼女はすっ飛ばして話を続けます。

「だから、旅をしましょう」

「……旅?」

「そう、旅」

 旅と言えば、遠出して現地の人に触れ合ったり、特産品を食べたり、旅館の温泉でのんびりと非日常体験の事ですよね。

 足に履く奴とかじゃないですよね。と私は邪魔な質問を喉元で抑え込みます。

「あなたの街を案内してほしいの。この私に」

「私の街ですか」

 嫌気を全面に押し出した表情で少女に面持ちを向けると、顔を近づけて問います。

「嫌?」

「嫌ではないのですが」

「なら決まり」

「何もないですよ?」

「新幹線は通ってるでしょう?」

「まぁ、この電車の停車駅ですから」

「なら、秘境駅よりはマシよ。ご飯食べて、お風呂でも一緒に入ったら、そのしょげた物憂げな顔も変えられるでしょう? 奢るわよ、それくらい」

 質問というボールを特大ラケットで盛大に返した挙句、変な理屈まで持ち掛けて私を捻じ伏せようと畳みかけるこの吸血鬼。そこまでして私を引き留める理由があるのでしょうか。

「いいですけど」

「ほんと? やった」

 あどけなさ全開の無邪気な笑み。けれど条件があります。

「ただし、許しが貰えれば、ですけど」

「許し?」

「帰る予定を曲げてしまうと心配すると思うので、一応連絡を」

「窮屈なお家柄ね」

「あはは」

 幼少期から出掛けるときは常に父上に報告を、というのが義務でした。大事な一人娘の身に何かあったら眼も当てられないと、保険を掛けているのでしょう。

「私もちょっと仕事が残っているの。席を外すわ」

「仕事?」

「えぇ。吸血鬼だって無職って訳じゃないのよ」

 誇らしげに語りますが、就労はこの国の義務ですよ。かくいう私も人の事を指さして言えませんが。

 すると少女は席を立って、

「自己紹介、まだだったわね。私、クリスカ。よろしく、流浪のお嬢さん」

 軽い自己紹介を述べてきたので、こちらも名乗らないわけにはいきません。

「七見 光莉です。お見知りおきを」

「七見……ひょっとして、実家は赤城山の?」

「ご存じなんですか!?」

「風の噂であなたのことならちょっとだけ」

 それはまた、悪い噂ですね。喉元まで出た言葉を必死に飲み込んでいると、クリスカはデッキルームの列車の喧騒へ飛び込んでいきました。

 そして後に知ることになるのです。彼女の本性と正体を。

 クリスカさん、実は——。


 実家へ連絡すると、父は驚くほど即答で私の夜遊びを快諾してくれました。声音はとても重苦しかったですが、帰ってそれからのことを考えるには良い気晴らしになると思ったのでしょう。

 夜を切り裂きクルーズしてから一時間後。電車は高崎駅の二面六線、島式ホームへ据え付きます。

「高崎なんて何年ぶりかしら」

「ふぅ、懐かしい、この感じ」

 扉が開いて間もなくトランクを片手に列車を降りると、乗り込む影のないホームを見限った列車は暇も与えずドアを閉め、発車します。

 大きく息を吸うと肺を一杯にする排気ガスの雑味がない澄み切った空気。

列車がいなくなった二本のホームに挟まれた通過線。そこを速達の高速列車が颯爽と走り抜けていき、夜風の沈黙を打ち破るように冷え切った風を送り込んでいました。

「さっすがに冬の高速通過は冷たいわね」

 全くです。16両という長い編成が数瞬で遠ざかり、都心の方面へと逃げていきます。

「地元と言えど、あんまりクリスカさんが楽しめる場所はないと思うんですけど」

「それは行ってみないとわからないわよ?」

 高崎は地元『赤城』の二つ隣の街。案内を買って出たはいいのですが、時間はすでに夜の七時を過ぎていて、レジャー施設は軒並みシャッターを下ろすか、閉店間際の作業に追われているはずです。

 列車を降りる直前も「現地の案内は基本的に任せるし、口は出さない」と明言していたが故に、クリスカさんは黙ってホームに突っ立ち続けます。

 その結果、とりあえず電車に乗るということで一階の別のホームへ降りました。

「えっと、それじゃあ横川ってところまで電車で行きましょう」

 スマホで粛々と調べた末、軽井沢の手前に位置する横川という場所に夜でも開いているレジャースポットがあるということなので、さっそくそこへ舵を切ります。

 電車の発車時刻まで五分を切った電車へ飛び乗って、いざ横川へ。走り出した電車は三十分も掛からず、群馬と長野の県境地帯へと私達を誘いました。

 そこは暗がりでも見える断崖絶壁、線路の伸びていた背後を除いて三面に広がっています。しかし空気だけは美味しいです。今は何よりも頼りにならなそうですが。

「ふぃーここも久々ね」

「来た事あるんですか?」

「前にね。でも昔はもっと賑やかだったわ」

「こんなこざっぱりしたところがですか?」

「案外ズバズバ言うのねあなた」

 クリスカに直球の言葉を突かれますが、表情一つ変えません。身の程は弁えますよこれでも。

「釜飯が有名なんだそうで」

「ちなみに、光莉は来た事あるのかしら?」

「——え?」

 その後、絶妙な沈黙が流れました。県内とは言え、用事が無ければこんな異境に来ることはまずありません。

 愚直に答えようとしたところで、咄嗟に自らの手で口を塞ぎます。

「ふぅん」

 訝るクリスカさん。勘づきましたか。

「私が案内してあげましょうか?」

「ほんとですか?!」

「端から案内してくれる気なんてサラサラなかったでしょう」

「そ、そんなことないですよ!」

 呆れ気味に言うクリスカさんに光莉は首を振って否定した。勿論、嘘を繕っているのはもはや自明でしたが。

 しかし見透かされていて罪悪感を覚えるような親切心を微笑みに含んで言いました。

「決まりね。でも、山の中だからあんまり遠くへは行けないよ」

「大丈夫です! ガイドさんがいる旅なんて、修学旅行以来ですよ!」

「やっぱり、その前から案内する気なんてサラサラなかったんじゃ」

 クリスカさんの言葉は虚しく、啖呵を切ってしまったからにはやらざるを得なくなる状況で出来上がります。

 裏を返せば、彼女の本心もそれを望んでいた様で、利害の一致という奴です。

 コインロッカーにトランクを預けて駅舎を出て、すぐ前に現れた駅前道路の坂道を進まず、その場で左転進。山の中では一際黄色いの彩を放つ電球の集合体が遠目に映ると、クリスカさんは夜の生き物らしからぬ行動に移りました。

「さっ、あそこよ」

 と指を差した直後、光に向かって走り出したのです。

 吸血鬼は夜闇でこそ本領を発揮する種族。太陽の光が煌々と照り付ける日中は、個人差こそあれ吐き気、眩暈などの知覚症状や発狂などの精神的疾患に繋がると言われています。

 太陽がトラウマで光すら嫌い、真夜中ですら照明を一つも灯さず生活する方もいると聞きます。反対に太陽を克服した吸血鬼もいるので光が苦手とは限らないのですが。

 それを思い出し引き留めようともしますが、駆け足がとても速い。追いかけても距離は縮まらず、ついていくので精いっぱいで、息を切らしながらようやく追いつきました。

「基礎体力もつけて貰わないと困るわね」

「へはぁ…ふぅ…どういう意味ですか?」

「ちょっとした独り言よ。最近、考え事をすると出るようになるの」

 意味ありげに訝りながら私を睨み、口端を上げます。

「ささ、行きましょう」」

「名前くらいしか調べてないので、どういう場所か、詳しく知らないのですが」

「もしかして、県民なのに知らない?」

 夥しい数の提灯をぶら下げて、眩い輝きを放つこの施設。光の集合体で中は殆ど見えませんし、こんな山奥のロケーションじゃロクな集客も得られないでしょう。時間も時間ですし。

 それと、クリスカさんの煽り口調からのニタニタにやける顔が癪に障ります。

「入ってみたらわかるわよ。もう目の前にあるし」

「じゃあ入場券、買ってきますね」

「気が利くねぇ。あっちに進めば受付だから、頼まれてくれるかしら?」

「お任せください!」

 余計な気遣いかとも思いましたが、人を使うのがこれまた上手い。さっきのムカつきも忘れて、気づけば私はスタスタと呑気にスキップなんてしていました。

 そういえば、誰かと出掛けるなんて、いつ以来でしょう。


 チケットを二枚、門の横に佇んでいた受付で所望すると、手慣れたようにスタンプを押して代金と引き換えられました。

 ジャケットには機関車と思しき二両の青い電車が写ったフォト。ようやくこの場所の察しがついて、クリスカさんに手渡します。

「ありがとう」

「文化村というそうなのですが夜にやっているのがここしかなくて、お気に召すかどうか」

 チケットにはそう記載されています。その復唱でした。

「あなたが選んだのだもの。心配ないわ」

 旅先がここしかなかったとは言え、あの場から三十分とアクセスの良好さを選んだのが失敗でした。

 不安でいっぱいの私をクリスカさんは何気なく励ましますが、流線型の車両をすべて新幹線と思ってしまうくらい疎いので、何か聞かれても応えられませんごめんなさい。

 二人並んで正門を潜ると、宵闇に提灯のぼんやりとした灯りが鉄筋の屋内展示館やプレハブの工場、正面広場に静態保存されている鉄道車両達を淡い緋色に彩ります。

 塗装の隙間から漏れる赤茶けた錆、劣化を物語る展示の数々。来場客がいることにはいるのですが、閑散としていてどこか賑わいを失いつつある印象でした。

 まるで、誰もいないお屋敷みたいで、少し悲しい。

「さぁて、どこから回りましょうか……ねぇ光莉」

「あ、はい。えっと、私、初めてなのでパンフレット貰ってきます!」

 逃げ出すように走ろうとしたとき、クリスカさんは袖を引っ張って止めました。

「ストップストップ。その必要は微塵もないよ」

「はい?」

「最初は案内してもらってたどたどしくも必死なあなたの姿をディナーの一品に添えようと思ったけれど、考えが変わったわ」

 そんな恐ろしい野望を秘めていたんですね。ちょっと怖いですこの人——いえ吸血鬼。

「それだと私の目的に反する。だから私がガイドを務めて差し上げよう。喜びなさい」

 地元を案内してほしいと言っていたのを思い出し、そもそもこのチョイスがナンセンスだったことにハッとなって気が付きました。

 けれどクリスカさんは端からそんなことがなかったように、私の手を引き込んでいきます。

「まぁ、私の趣味に合う場所をたまたまでも当てたことは、褒めてつかわそう」

「え?」

 するとクリスカさんが口から炎でも吐き出すのではないかという勢いで、目につく車両の解説を始めたのです。

「この電車は特急型の礎を気づいた車両で、日本全国で活躍していたの。あっちは旧型客車と言って、電車が登場する前に機関車で牽引して走っていた列車。それで向こうは——」

 唖然と頷きだけを返します。その時思いました。

大丈夫に込められた意味と、ホームで歌っていた訳。あれは単に高速列車、つまりは新幹線を目の当たりにして、気分が高揚したいたんだと。

 しかし、一抹の不安が撫で下ろされてほっと安堵の息を溢しました。

 あの悪戯な笑みとは違う、無邪気な楽しそうな笑顔。

 暗くても良く輝く紅い瞳。靡いて頬に軽く触れる艶やかなブロンドヘア。私より少し背の低い前を行く背中。

 黄色くてとても明るいオーラに、眼を眇めてしまいます。けれどきっとこの方も私の血が欲しくて、こうしてるんだと詮索してしまいます。そして、その結末も——。

 提灯の数が奥に進むにつれてだんだんと少なくなっていき、コンクリートで舗装された薄暗い上り坂を上り切ると、芝生に静態保存された車両が展示されている広場に出ました。

 すると草の上で彼女は徐に寝転がり、空を仰ぎます。

「光莉もほら」

「寝転がるのですか?」

「えぇ。良い景色が見れるわよ」

 服が汚れるので、と断ろうとしますが、しばらく逡巡して促された通りにしました。

 藍黒の空を埋め尽くす名も知らぬ星々の煌き。どんな絵画よりも雄大で美しい光景に、茫然としてしまいました。

「ね?」

「は、はい!」

 都会では無駄な光が多すぎることを痛感させられます。宇宙に数多存在する無数の星々が、手の届かない場所で誰の為でもなく輝きを放ち続けています。

 きっと、そんな彼らに人間が理解し得る感情があったら、その一つくらい輝いている意味さえ掴めない星もあるでしょう。

 きっと、今の私に重なる星が一つくらいは。

「冬は空気が澄んでいるし、新月だから星がよく見える」

「星がお好きなんですか?」

「好きよ。月が無ければ燦然と輝くから」

 遠回しに月を貶めるような口ぶりでクリスカさんは言いました。

「ひと昔前までは星空で自分の現在地を確かめたりもしてたものよ」

「……現代人にはとても生きていける時代じゃないですね」

「今にも通ずるものはあるわ。全地球測位システム《GPS》だって人間が打ち上げた人工衛星の捕捉して、機械が場所を示してくれている。先人が積み重ねてきたことを機械が代替しているだけよ」

 ふと横を見ると紅い瞳はじっと星を捉えていました。独特の解釈に妙な納得を覚えると、藪から棒にクリスカさんが話題を振ってきました。

「星空を見たら、センチメンタルになるでしょう。あんなに悲しい顔をしていた理由、そろそろ教えてくれても良いんじゃない?」

 黙りこくる私。思わず目線を反らしました。

 深淵の闇、名前も知らない星が広がる空へ、未知なる空へ。しばらく胸の鼓動と感情の激動に整理をつけて、口を開こうとしました。

「わ、たし」

 その闇は不思議です。巨大な夜空を眺めていると、抑えていたはずの感情が漏れてしまいます。まるで降り注いだ一筋の流れ星が心に穴を穿つように。

 そして、頬に瞬いた生温かい流星は逃れられない引力で落ちていきます。顔の輪郭を縦に切り、ナチュラルメイクがその航跡を灰黒に染めて。

 それを目の当たりにして、クリスカさんはその後の言葉に詰まります。

 しばらくして決意を固めたのか瞬きを一つ。あくまで星空を意識しながら、綴ります。

「本当に嫌なら、言わなくていいの。私が勝手に始めたことだし、血を吐くような苦痛だったら、無理強いはしない。けれど、自由人な私でも良ければ、話を聞かせてほしい」

 ならば、話してあげましょう。

「——私、吸血鬼の方々に棄てられたんです。二年間、雇われては棄てられてを繰り返して、あなたと出会いました」

 感情が声音を揺さぶって、けれども淡々と語り始めていました。

「自分で言うのはちょっと恥ずかしいんですけど、給仕とかは誰にも負けない自信がありました。求められることを忠実にと、小さい頃から教わっていましたので」

 視界がぼやけて、焦点が定まらなくなっていました。綺麗な星空も模様を変えていて、そこで初めて、まだ知り合って間もない人の前で泣いているんだと気が付きます。

「使用人としては精一杯頑張っているつもりでした。多分、性格や仕事に不備はなかったと思います」

 思う、というのは実際に関わってきた吸血鬼の主様や他の使用人たちがどのように感じていたか、確かではなかったので曖昧にしました。

 クリスカさんは相槌を打って訝ります。

「ずっと棄てられ続けて、見かねた家族が実家の使用人として働かせるために連れ戻そうとあの列車に乗ったんです。そしたら、貴方が横に座ってきた」

「ふーん。さっきの虚無はそれ?」

「……はい」

「綺麗事を言って、貴方に奮起してもらおうとは思わないけど、諦めてしまうなんて少し勿体ないじゃない?」

「勿体ないですか。そうかも知れません」

 肯定はします。勿体ないと思います。けれど、持て余さなければならない理由もあります。

 それは不可逆的で、天は私に何かの恨みでもあったかのような、その訳をボロボロ落ちる涙の中で、吐露しました。

「私の血が、すべていけないんです。その、みんな不味いって吐き出すから」

 吸血鬼はその名の通り、血を糧にして生きる種族の方々です。そのため、安定した血の供給が不可欠となります。

 いつから始まったのか、正確な文献や記述などはなくその発端は定かではないですが、血の供給者を使用人として雇う文化が彼らの中には根付いています。古来より人間の生活に深く馴染んできたのも、こういった人間と吸血鬼の共存関係が成立していたおかげとも言えます。

 その使用人として、私は吸血鬼の主様のお屋敷に仕えてしました。けれど、身体に流れる血が恐ろしいほど不味いのです。

 だから、と続けようとしたとき、クリスカさんが口を挟みました。

「そんなに使用人がいいの?」

 固執する必要はないと言いたいのでしょう。弾くように続けました。

「私の家系は男女関係なく、代々使用人として吸血鬼の方々に仕えてきました。その血の品質と能力を買われて、今もかなり良い生活をさせていただいています」

「吸血鬼として、私達も誇り高いわね」

「けど、私はそんな家でも落ちこぼれで、いくらお世話が上手だからって血の味が良くなければいけないのです。吸血鬼の皆様だって人間と同じで、食事をするならよりおいしい物を、食べられる味の物を求めるでしょう?」

 掠れた声で私は呟きました。

 吸血鬼にも使用人にも、家柄や血筋による序列や文化が当然存在します。私の家は得てして血の味に定評があり、吸血鬼でも社会的影響力の強い家へ仕えることの多い血筋でした。特に私の母は吸血鬼の始祖に最も近い『アルタリィ家』の使用人として現在も家には帰ってきません。

 そしてその娘である私にも大きな期待の眼差しが浴びせられました。だから私はこの血と、家の名が嫌いになったのです。

 いくら主人の身の回りの世話が完璧でも、食事である以上味の悪い奴に意味はなく、居場所はない。当然の摂理です。例え話ですが、不味い料理屋が軒を置き続けたことなんてただの一度もないのですから。

「血も伴わないといけないんですから、いくら使用人として出来が良くたって、皆さん血を求めてますから」

「そっか。これから実家に帰って、吸血鬼とは一切関わらないように暮らすんだ」

「……他に当てもありませんし、今のご時世、人間でも使用人を雇っているところなんてないでしょうから」

 吸血鬼の皆様から願い下げでしょう。そうでなければ、点々とした中で一人くらいは手を差し伸べてくれたはずです。

 しばらく沈黙が流れて、クリスカさんは問います。

「誰も恨まなかったの?」

「恨むなんて、とんでもない。立場が違いますから」

「でも、それだけ捨てられ続けたら、吸血鬼の事を恨むのは当然ではなくって?」

「すべて、私が悪いんです。期待に応えられないダメな娘だから」

 棄てられる痛みは知っています。だからこれ以上、その槍が突き刺さり続けるのならば、いっそ離れて静かに人間としての長い余生を全うしたい。

 悪い噂はすぐに回ります。現に七見家の長女は、と囁かれていたのを私は耳にしました。

 私の父も、その噂を耳にしているはずです。だから私は家族の皆から嫌われてしまったのかもしれません。少なくとも、かつての主様から直接小言を言われていた父は、きっとそうなのでしょう。

 一家に泥を塗り続ける地獄から抜け出せるなら、実家でひっそり培った技術を存分に振舞えるなら、それでいい。甘んじてその運命を受け入れたい。

 いや、もう選択肢なんてないのかもしれません。これしか道は。

 袖で目元を拭って、立ち上がった私は、静かに別れを告げようとしていました。この短い旅で見えたのは己の惨めさだけでした。クリスカさんはきっとこんな話を聞くために付いてきたわけじゃないし、続ける意味などもうどこにもありません。

 自己解釈で勝手に決めつけて、背中を向けました。一度立ち止まって、さよならを発そうとしたとき、彼女が引き留めました。

「待って」

「……もう旅は終わりました。クリスカさんの要望とは離れてしまいましたけど、こんな無様な私に用はないでしょう?」

「私の旅をあなたが勝手に決めるのは許さない」

「……どうしてですか」

 強張る金鈴の声音。クリスカさんの方へ振り向くと、その表情は明らかに不快感を示し、私の意思なんて無視するようです。

「逆に問うわ。なぜ終わりなのか」

「終わりです。私の事はすべて話しましたし、戻らないといけませんから」

「戻らないといけないから? それがあなたの意思なの?」

「その、意思というか」

 今までの話、聞いてました? そう問い詰めたいところですが、間髪入れずにクリスカさんから追及を受けます。

「あなたの意思なら、引き留めはしないわ。けど、仕方ない、全て自分が背負っていれば、何も問題なんて起きないと思っているなら、今なら考え直せる。それにこの旅自体は私が嗾けたこと、あなたが勝手に終わらせるなんて許さない。次の目的地まであなたを連れて行く」

「……強引ですね」

「でないと、貴方の本音が知れない気がするから」

 放っておいてほしいですが、抗ってもしがみついて話さない気配をそれとなく察したので、もう止めません。

 結局、私の実家に辿り着いた時点で、門前払いを受けるだけでしょうから。嫌な気分になるのは自明です。

「じゃあ、私行きますから」

 あとは何も語る口を持ちません。それでもついてくるというのなら、私にはどうしようもできないことです。

 クリスカさんも立ち上がって、その後ろを少し離れたところで追ってきます。まるで、餌をおねだりする野良猫のように、その相貌は一転して和やかで、とても不愉快でした。

 二人で文化村を後にして、一路新たなお屋敷へ旅立った私でしたが、運命の悪戯は逆転どころか天地を入れ替えたような予想だにしない場所へ連れて行ったのです。


 実家のお屋敷は街の外れ、山肌を切り崩した麓にひっそりと佇んでいます。

 外壁は夜に溶け込むような薄灰色で、屋根は藍色の尖った三角屋根。宵闇に溶け込む色合いと朝まで途絶えることのない灯りが気味悪さを醸す洋風の豪邸です。

 道中、距離を少しだけ離して歩いていた私は、守護霊のように付きまとうクリスカさんに半ばうんざりしていました。

「いつまでついてくる気ですか?」

「あなたの家に着くまで」

 そう言って聞かないので、もう忠告は一切しないつもりですが、ちょっとだけ心配になってきました。

 好奇心で人の家とか勝手に入ってしまいそうで、痛い目に遭わないかと。

 囲いに沿った道を歩いていると、扉から光が差して人影がぞろぞろと現れて、すぐに玄関へ通じる一本路の沿道を埋め尽くしました。

「随分と手厚い歓迎じゃない?」

「なんだか物々しいですね……」

「そう? あなたって、使用人志望のお嬢様じゃなかったかしら?」

 この豪邸の持ち主、つまり父の娘です。並んだのも父が雇っている使用人の皆様ですが、帰るたびにどうしても離せない仕事以外の全員が集まって出迎えることなど、一度もありませんでしたから。

 そして私に追いついて横で平然と佇む彼女を摘みだそうなどという気が微塵も感じられず、首を傾げます。あのこの人部外者なんですけど。

 疑問を残しながら門の前に来ると、手近な家の使用人が手を煩わせまいと開きます。もはやここまで来ると、何が何だか訳がわかりません。

 そして敷地内へ。私とクリスカさんが一歩踏み入れると、列を成していた各々が一斉に頭を下げます。さながら打ち合わせでもしたかのようです。

「……あのぉ。皆さま、どうかなされたんですか?」

 普段なら聞けば返答を返してくれる方々なのですが、今日ばかりは口を利いてくれません。だからと言って怒りはしませんが、後で父に理由を訊ねるくらいはするつもりです。

 けれど、その必要もすぐになくなります。玄関扉の数メートル手前まで行くと、今度は紺色のスーツで身を固めた背の高い中年の男、私の父『七見 士郎』が微笑みを交えながら出迎えました。

「遠路遥々、よくお出でになりました」

 歓迎の挨拶と一緒にクリスカさんと握手を交わすと、私を一瞥して言います。

「光莉も、よく帰った。おかえり」

「……ただいま」

 私は嫌悪感を滲ませた顔を背けます。すると父は、

「部屋は前のままだ。少し休んできなさい光莉」

 と、私を部屋へ追い出すように告げました。

 長旅と言えど、私がお連れした方です。皆様の手を煩わせるわけにはいきませんし、お世話なら私がと買って出ようとします。

「いえ、私なら大丈夫ですから、そのすぐにでも!」

「疲弊しているだろう。長旅の疲れを残したまま、給仕してもかえって気を遣わせてしまうだけだから。私はお客様と少しお話をさせていただくから」

「お話? お客様?」

「えぇ。七見さんとちょっとだけね」

 補足でクリスカさんが説明をしてくれますが、イマイチ納得が出来ませんでした。

「そういえば」

 父が立ち止まって、藪から棒に振り向きます。

「こちらのお方と、どういう関係なんだい?」

「どういう? えっと、たまたま駅のホームで眼が合って、それから隣の席を強引に埋めてきた一風変わった人だなって」

 忌憚のない率直な意見です。だって、見知らぬ女性にいきなり旅を嗾けるなど、相手への警戒心を疎かにしていますし、普通なら変人扱いされていますよ。

 するとクリスカさんはクスっという薄ら笑い、部屋の中に戻ってきた使用人達が顔を青ざめ始めているのに気が付きました。そして、父の深い溜息も。

「無知な娘で大変申し訳ありません……」

「私も名前しか名乗らなかったから、非があるわ」

「へ?」

 状況が読めません。二人だけで進む会話に、終止首を傾げていました。

 しばらく眼を瞬くと、クリスカさんの正体が父から明かされます。そうして、私は今まで取り続けた自らの行動を恥じるのでした。

「光莉、この方はクリスカ・アルタリィ様。私共、七見家の使用人を雇っていただいている、吸血鬼の中でも純血に最も近い、一族を収められる名家の令嬢です」

 寝静まり始めた深夜の街角に私の絶叫が駆け巡りました。


 七見家でもメイド長と慕われる使用人に荷物を持ってもらい、最後に出た時からそのままにされた自室に入った途端、上着も脱がずベッドに飛び込んで顔を埋めました。

「やってしまいましたぁぁぁぁぁ!」

 絶叫です。それはもう腹や肺が苦しくなるまでの全力です。

「仕方ありませんよお嬢様」

「仕方なくないですよぉぉぉぉ! 知らなかった訳じゃないんです! 一度、お写真を拝見したときとは明らかに雰囲気が違ったんですよぉぉぉぉ!」

 近所迷惑もお構いなしの大声。けれど枕の柔らかな抱擁に包まれて、あまり響きません。

 言い訳がましいですが、本当の事です。

 吸血鬼にはかつて人間と同様に序列が存在していました。純血と呼ばれていた吸血鬼の始祖に近しいほど、その権力や権限を持ち合わせていました。

 アルタリィ家は現在、始祖に最も近い血筋の一つです。現在は人間と共存、共栄関係にある為、法律や制度、特に身分は特別視されるものではなくなりましたが、持て余すほど得ていた資産、財力は健在で、それを基にして事業を起こす方や人間社会の繁栄に寄与する方、企業や事業に投資する方が家族でも複数人いるとか。

 この国は愚か、世界の裏で暗躍しているなんて都市伝説が立てられるほど巨大なアルタリィ家は、同時に七見家のお得意様、大株主でもあります。

 吸血鬼の方が血の提供者、つまりは眷属を使用人として雇う慣習があり、私達の家柄はその血の味を見込まれて以来、アルタリィ家や他の名家の使用人になることが伝統でした。私もそうなるはずだったのですが、血の味がすべてを狂わせたのです。

 加えて、このたった数時間の蛮行の数々。気づかなかったとは言え、思いつくだけでも両手が塞がるほどの無礼を働いていました。最後の出来事がまさにその権化。

 羞恥心で爆発してしまいます。足をばたつかせて、落ち着きなく二人の話が終わるのを待っていました。


 その頃、下の階の応接間では、クリスカさんと父『七見 士郎』が正対して紅茶を前に、当事者抜きで談笑をしていました。

 暖色の落ち着いた照明に彩られる静かな高級感を放つ一室。革張りのアンティーク調のソファーにクリスカさんは座り、秘書も兼ねる壮年の使用人がすかさず紅茶を注いでテーブルに出します。

「こちらへいらっしゃるとお電話で頂いた時は驚きましたが、光莉と一緒だったとは」

「あの子とは偶々よ。高速列車のホームで声も漏らさずに泣いているのだもの。気になるじゃない?」

「娘がお見苦しい場面を。その寛大な慈悲に感謝を申し上げます」

 座ったまま一礼し、士郎はティーカップを取りました。澄んだ茜色のフレーバーティーは柑橘系の爽やかな香りを部屋に漂わせていて、クリスカさんも釣られて紅茶に口をつけました。

「先ほどの様子を見るに、道中数々のご無礼があったと見受けられるのですが、どうかお許し願いたい」

 カタンとティーカップが受け皿に置かれて、クリスカさんはキョトンと士郎を見つめました。身震いして小さく笑ったのはその直後の事です。まるで思い違いを面白がっているように顔を背けて、堪えるように丸めた身体を真正面に直します。

「無礼なんてとんでもない。突然連れ出したのは私ですし、名乗らなかったのは事実。顔が本家の使用人に空似していたから、躊躇ったというのもあるのだけど」

「左様でございますか」

 力強い視線がクリスカさんから返り、士郎もホッとした様子で肩の力を少しだけ抜きました。

「無礼と言えば、あなた達の方がよっぽど目に余るわ」

 それを悟ってか、クリスカさんの放った一言が二人の空気を凍らせます。

「……僭越ながら、理由をお伺いしても?」

「光莉の瞳、死んでいたわ。あそこまで娘を放置するなんて、常軌を逸している、としか言えないもの」

「事情を伺われたのですね」

「数多の星が輝く空の下で洗いざらい、ね」

「追い出され続ければ、傷だらけにもなりましょう。身の程を知り、大人になればいずれ自ずと道を開いてくれると、信じて好きなようにさせてはいましたが」

 刹那、クリスカさんの表情が強張りました。

「大人になる——ね。フフッ」

「何かございますか?」

「そしたら私は、まだ子供と言うことになるわよ?」

「クリスカ様が子供?」

「身の程も弁えず、屋敷を離れて好き勝手闊歩している小娘の方がよほど子供に見えないかしら。大人になれば諦めもつく、大人になれば現実を受け入れて他の道を自ら模索する。それって全員に果たして当てはまるかしら? 少なくとも光莉にはそうではないはずよ。これって余程あなたが娘に対して淡泊なのか、現実に打ちのめされ続け、傷を負った者から目を逸らすために都合の良い言い訳を重ね続けているだけかのどちらかなのよ」

 傷つくことが大人になることではないと、きっぱりとクリスカさんはこのとき言い切りました。

 両手を組んで、訝る士郎もそれ自体は想像に難くなかったはずです。クリスカさんも同様にそう思いました。

 問うこともせず、一方的に批判的な言葉を浴びせたのも、その裏に隠した自らの失態があったからと、士郎は悩んだ様子を見せた末に白状しました。

「——私も、手を差し伸べられれば、それで良かったと思っています」

「甘やかしすぎたと思っていたの?」

「お見通しなのですね。使用人を志すのなら、もっと縛りつけて育てたほうが良かったと、後悔しています」

「だから、娘を突き放して、敢えて何も手を出さなかった。ただそれが裏目に出て、見ていられなくなった。そうなのね?」

「その通りです」

 無知というのは恐ろしいと、クリスカさんの内心は総毛立っていました。

 もはやすれ違いなんてレベルの話ではありません。この親子は想像以上に深刻な軋轢を抱えているように感じたのです。

 なのでクリスカさんは何時か見た七見家に関する伝記の一部を記憶の片隅から掘り起こし、入れ知恵を呟きます。

「一つ、良い事を教えてあげる。あなたの娘、光莉の血に関する可能性のことよ。アルタリィ家に仕えた使用人達がすべて網羅された人事ファイルのようなものが屋敷にはあるの。勿論、複製版だけどね。好奇心が盛んだった私はその中である面白い記述を見つけたの」

「面白い記述?」

 あまりに見苦しく、哀れでならないこの男にせめてもの慈悲と本来羽ばたくべき才能の再起を込めて、シニカルな笑顔で告げました。

「かつてこの家から出た者に若い頃の血は恐ろしく不味かったと書かれていた人間がいたと記述されていたの。けれどその続きにはなぜか、天寿を全うするその日まで仕えたと追記してあったわ。なぜだかわかるかしら?」

「恋慕やそれに似た感情がお互いを引き寄せたとかでは、ないのでしょうか?」

「数百年前のお話だけど、当時から我が家は縁談に関してだけは厳しいわよ? ましてや、当主の権限が一家一族の全てを掌握していたから、現代の吸血鬼一族ほど、本人の意思を尊重するなんて弛みはないし、駆け落ちシンデレラストーリーなんてしようものなら追放よ?」

 ロマンチックなのは結構。さすがに命までは取らないが、戒律を乱そうものなら容赦はしない。アルタリィ家の家訓とも言うべき文化だが、現在は時代の流れで本人の意思も汲んでくれるようにはなったそうです。

 真っ向から切り捨てると、紅茶で一呼吸を置いてクリスカさんはその答えを示します。

「吸血を重ねるたびに血が変化し、主だけが感じられる魔性の味になったそうなの。特異体質なんて一時は家族でも話題になったけれど、数百年間の時が経つにつれて、偶然だったと誰もが思っていた」

「特異体質……?」

「後に原因不明の突然変異と結論づけられた。その再来とも呼ぶべきかしら」

 目尻を鋭く伸ばして睨むように士郎を見つめたクリスカさん。曇り始める表情にすかさず反応します。

「何か心配事でも?」

「いえ……こう申し上げるのは大変失礼に当たると存じますが……確証はあるのでしょうか?」

「確証? あぁ、そうね」

 考える素振りを見せ、口角を上げました。そんなの端から分かり切っていることのように。

「あるわけないじゃない」

 士郎が咽ます。唐突な不意打ちに慌てて呼吸を整えます。

「何かおかしいことでも?」

「いえ、てっきり光莉が伝記に当てはまるような体質なのだと、確信を得ているものと推測していたもので」

「可能性の話よ。境遇もその使用人と似ているし」

 でなければ、二年間も吸血鬼に棄てられ続ける理由が見当たりません。そもそも吸血鬼と契りを交わした使用人の血は配偶しようともその遺伝を消滅させます。吸血鬼の唾液には血液の変容を促す作用があるのも吸血鬼の間では周知の事実で、その法則に倣えば彼女の血も不味いはずがないと、クリスカさんは長年身内が培った研究成果を根拠に考えを固めました。

「では、どのように」

「確認する方法なら簡単よ。しばらく私の旅に付いてきてもらおうと思っているの」

「気は確かなのですか?」

 クリスカさんは首肯します。けれど士郎の懸念は、旅に出ることではなかったのです。

「万が一、クリスカ様の期待に適わない血であった場合、娘はどうなるのでしょうか?」

「あらぁ? 傷つけば大人になると宣っていたのは、どちら様だったかしら」

 嗤います。クリスカさんは、士郎が漏らした弱みに付け込んで、好き放題に嘲笑います。言葉を失い、黙りこくってしまいました。

 まるで手玉に取って遊んでいる様です。そんな嬉々とする笑みを消すためにカップの紅茶を飲み干すと、立ち上がって言いました。

「なんて、また彼女をゴミ溜めのような環境に放り出そうなんて、考えてもないんだけどね」

 横で雑務をこなしていた使用人は明らかに憤り、それを鎮めるように士郎は目配せを届かせていました。けれどそこにも静かな怒りがあったことに違いありません。

 ここをゴミ溜めと称したのは、クリスカさんなりに分析した彼女の感情でした。嫌悪感と諦観に満ちた顔。思い出すだけで、悪戯に切りつけられ続けた心が想起されました。

 伸ばそうとしたなど、結果論に過ぎない。本人に届かなければ、尚のこと。

 代弁者などと気取るつもりはなかったのですが、あまりに憐れで鈍感な彼に思わず漏らしてしまったのです。

「ただ、委ねるなら光莉本人かしらね。彼女の気持ち、意思を確かめないことには、私達の旅路も始まらないから」

「……では、そのように」

 もはや止める術も隙もありません。ここで変な気を起こせば、家が傾いてしまうのではと、士郎は危惧していて、クリスカさんの一挙手一投足に振り回されるがままになっていました。

 保身。眼前で見つめていると疑問が絶えませんでした。どうして彼は素直に罪滅ぼしをさせてくれと口に出さないのでしょうか。甘やかした、辛い思いをさせただのを言うのであれば、本人のそのことを未練がましく懺悔すればいい。クリスカさんは頭の片隅でそう思います。口には出しませんが。

「さてと、じゃあ早速なんだけど光莉に会わせてくれいないかしら?」

「承知致しました。ご案内して」

 部屋で付き添っていた使用人に彼が一声掛けると、扉が開いて彼女の部屋へ先導します。

 夜の明ける少し前、毅然と振舞うクリスカさんに頭を抱え始めた士郎。吐いた大きな溜息は痛みを重ね続けることへの呻きのような声色でした。


 ベットに一頻り八つ当たりして落ち着いた私は天井をただひたすら静止画のようにぼーっと見つめながら、下の階で対談する父とクリスカさんの事を想像していました。

 その内容は恐らく、私の処遇。お互い数時間とはいえ、あんな立ち振る舞いをされては業腹でしょう。それも明確な上下関係が存在する吸血鬼と使用人だった少女の間柄です。言い訳は愚か、弁明の余地もなくこの家にすら居られなくなってしまう。

 大袈裟のように聞こえますが、最後の最後で家の名にも泥を塗ってしまったのです。事の重大さに眼をやると、眼が潤んできました。

 気が付いたのか、部屋で私の世話をこなす使用人がベットの縁へ静かにハンカチを置いてくれました。恥ずかしさで思わず袖で拭ってしまいましたが、頭を上げてその背中に軽い会釈をして感謝します。

 すると、扉を控え目にノックする濁音が微かに聞こえました。

「お嬢様、お客様がお見えです」

 そう声を掛けられても、再び体重を預けた私はもう微動だにしませんでした。思考の迷宮に迷い込んだままで、扉が開いて中に入ってくる影にも、その人物の言葉で部屋から出ていく使用人の雑音にも、気が付きません。

 そして、白色の光をその相貌で経たれた時、驚いてまた悲鳴を上げてしまいます。

「のわぁぁぁぁぁ!」

 あまりに唐突すぎるクリスカさんの登場に私は片手で布団を握りしめて壁際に後退りします。

「ちょっと、驚きすぎよ」

「ど、どどどど、どうされたのですか?!」

「どうって、もうすぐ朝でしょう? だから眠たくて」

「ベットとか棺なら他の部屋に空いている箇所がありますので! 今、私めが案内致しますから」

 飛び起きて部屋着のまま、連れ出そうとします。

 しかし、それを断ち切ってしまうように、クリスカさんはさっきまで私が寝ていたベットへ倒れこんでしまったのです。

「んにゃは。眠たくて立ってでも眠れてしまいそう。アザラシみたいに」

「あの、起きててください」

 このまま爆睡されてしまっては、私一人で運べるかどうか。家の使用人に手伝ってもらうのも、今なら自分で出来ることをわざわざ頼むのは気が引けて、部屋から離れるのを止め、踵を返して傍へ寄ります。

 そして彼女の冷たい身体に触れようとした瞬間、腕を掴まれるとベットへと引き戻されました。

「びっくりしたでしょう?」

 言葉が出ません。視界が派手に横回転したと思ったら、クリスカさんの表情が目に飛び込みます。

 転げてしまったのでしょうか。引き込まれたように感じた腕もそれは気のせいで、足を踏み外してしまったから。また失礼を働いたとも思いましたが、鋭く煌いた真紅の瞳と艶やかな金髪の背景には、さっきまで眺めていた天井があって、不審に思います。

 けれど、焦って状況も分からずに謝り、立とうとします。

「申し訳ありません! あの、すぐに準備しますので!」

 力を込めて腰と足を上げようとしたとき、そこに強い力で抑え付ける冷たい何かが当たっている感触に気が付きます。

 私はクリスカさんの身体に沿って視線を足元へ落とすと、自分の身体にクリスカさんが乗っていたのです。さらに思考が混乱します。

 なぜ、馬乗りにされているのだろうと。

「ねぇ、こっち向いて」

「は、はい!」

 足がガクガクと震え始めました。無言で身体の自由を奪われた恐怖です。無礼への罰がこれから与えられるのだと、確信しました。

 しばらく瞳をじっと見つめられて、彼女の身体と口角の上がった口元が落ちてきます。瞼をぎゅっと瞑ると、淡く笑って頭の後ろに手を回すと、抱き上げるように私の顔を埋めます。

「ごめんなさいね。私達のせいで、こんなに傷つけてしまって」

 酷く悲しく、許しを求めているような声音でした。じっと抱擁されてから、ワンピースドレスに被さっていた視界が開けると、クリスカさんは私を見つめて呟きます。

「私達の傲慢で、あなたが傷つき病んでしまったこと。許してくれますか?」

 瞳を見るなり、クリスカさんの顔が歪んでいきます。先入観が薄れていき、私は気付かされます。

 このお方は誰よりも慈悲深く優しいのだと。でなければ、他人が他人に与えた痛みに自ら許しを請うことなんてしません。

「——痛かったです」

 私は声に出して言いました。素直な感想を、回りくどい言葉などで誤魔化さず、クリスカさんに言いました。

 とても、とても痛かった。目の前で血を吐き捨てられたりもした。屋敷を去るときの軽蔑するような目にも刺された。苦しくて、悔しくて、どうしようもないと諦め続けた。家の名を傷つけて家族にも迷惑を沢山掛けてしまった。

 ついには家の使用人になることを受け入れてしまった。今更、謝られたってとも思った。

 込み上げてくるのはそんな痛みの数々。灰黒の流星を見た時からクリスカさんはその様に思われていたと、背負うことを決めたのだと知ります。

 吸血鬼からしたら、ほんの一瞬の出来事だったはず。たった一人の、落ちぶれ廃れていくだけの使用人だった私の凄絶な痛みをこのお方は一人で引き受けようとしてくれていたのです。

 凍り付いてしまいそうな肌がとても暖かく感じられました。呼吸も乱れて泣きじゃくる私を離して、目配せをします。

「辛い思いをずっとさせ続けたこと、吸血鬼の長だった者達の一員としてあなたにお詫びしたい」

「ちょっと変ですよ」

「変?」

「確かにいっぱい酷いことをされました。でもクリスカ様は、クリスカ様です。私に謝る道理なんてどこにもない」

 けれど、彼女が背負う必要なんてどこにもありません。恨んでもいません。だから、私を連れ出したときの笑顔を、吸血鬼には似つかわしくない燦然と輝く笑みを濁さないでください。

 懇願を言葉に出力しようと口を動かした時、声が被ります。

「クリスカ様」

「光莉」

 重なった地点で押し黙ると譲り合いが始まって、結局はクリスカさんが喋ることになり、黙々と耳を傾けました。

「もし、もしさ。私の旅のお供になってほしいって頼んだら、あなたは引き受けてくれるかしら?」

 言葉の真意はそのままで理解するのにそれほど時間は掛かりませんでした。けれど、私は即答できず、目線を彷徨わせます。

「こっちを向いて」

「えっと、あの、ひゃっ」

 ベッドが私の身体を優しく受け止めす。

「どうなの? 私の隣に来るか、それとも、この屋敷の壁を見るだけの人生を送るか」

「考えさせ」

「ダメ。私にはあまり残ってる時間がないの。ここで決めなさい」

 迫られてしまい、さらにおどおどと目まぐるしく視線が迷い、沈黙を作り出してしまいました。

 何もできない私を連れて、あなたになんのメリットがあるのでしょうか。黙りこくって、私は答えを出し渋ります。

 すると、私の疑念を察したクリスカさんは、不意に牙を立てて首筋に唇を差し向けます。

「吸っちゃ、ダメです!」

「抵抗しない。はい——力抜いて」

 拒絶。失望されたくないと、私は身体を捩りますが、それも呆気なく吸血鬼の力の前に捻じ伏せられてしまいます。

 辛うじて動く頭でクリスカさんの方へ向くと、獲物を前に涎を垂らす獣が、私の首筋に狙いを据えています。

 僅か数瞬で私は首筋を奪われてしまいます。何度も差し出したこの素肌と血を、拒絶され続けた鮮血を、強引にクリスカさんは口を付けます。

 脱力感にジワジワと体中へ広がる快楽。抵抗していた身体は力なくマットに落ちていつの間にか悶え始めてました。

 喉を鳴らして訴えます。血を吸ってはなりませんと。矛盾するようにもっと、もっとくださいと。願っていました。

 そんな願いの一つを叶えるクリスカさんの喉がペースを上げました。謙虚だった快楽の波が血液の流れ出す勢いに呼応して、波形を大きくなりました。

 きっとお互い初めて味わう感覚にまだ慣れていないのです。私の身体はクリスカさんの拘束を振り切って、思い切り跳ねました。

 理性が、感情が、意識が、巨大な波に攫われてしまいます。締まることを忘れた口元からだらしなく涎を垂らして、どこに焦点があるかもわからない私の眼に、少し驚いて震えを帯びる声音でクリスカさんが語り掛けます。

「あなたの血、皆が口々に噂するほど不味くない」

 その表情は少しだけ軋んでいます。私は瞼が完全に閉じ切る前の暇に、口角を上げて微笑みました。

 嘘だとしても、気休めや気遣いでも、否定されなかったことが嬉しかったのです。この家から旅立った頃は何気なかったはずの感情に、私は流されるがまま、意識を身体の水底へ落としていきました。

 次に裏切られるその日まで、そんな嘘でも私の心の支えになっていたと思いました。すがるような思いで、しがみつこうと暗い意識とも呼べる感覚が残らない頭の片隅で誓ったのでした。


 明くる空は眠って逃して、眼が覚めたのは夕方でした。

 目線の霞を払うように瞬きしていると、差し込む蛍光灯の光が目に飛び込みます。身体は以前よりも軽くて、腕に力を入れると少しだけ痛みました。

 そして、目の前にいたあのお方の素顔もなく、慌てていつの間にか掛けられていた布団を剥ぎました。

「あら、おはよう」

 まず耳にした透き通る肉声。もう決して聞き間違えることのない声に私は眼を向けます。

 私の机を拝借して、端麗な紅い眼光を据える体躯は見るからに少女のそのお方は、見紛いませんクリスカさんです。蒼白の指でキーボードをさぞ忙しなく打ち込む彼女にまるで付け入る隙がなく、たじろいでいます。

 ですが、何をしているのでしょうか。ちゃっかり私のパソコンを使っているようにも見えるのですが。

「五月蠅かった?」

「い、いえ。むしろ心地良いです」

 ぼんやりする思考回路と腑抜けた私の声音にクリスカさんがタイプに励む手を止めました。

「あっ寝るなぁ!」

「ごめんにゃひゃい」

「まったく」

 背中に腕を回してくれて、倒れかけた私は仕方ないので起きることにしました。

 するとクリスカさんは眼を眇めて私の首筋を見つめます。

「……なんでしょう?」

「ちょっと痛そうだったから、どうなのかなって」

 その痛そうな傷を作ったのは昨晩のクリスカさんですよと、頭の中で一言。

「痛みはないんですが、熱を帯びていてちょっと落ち着かないです。腫れてしまっているような感覚です」

 と素直に告げました。

 クリスカさんの介護を糧に自力で立ち上がって、窓際の椅子に腰かけます。彼女も仕事の続きを始めながら、まるで医者のように体調を伺ってきました。

「吸血の量は?」

「身体に異常はありませんし、大丈夫です。それと」

「それと?」

「クリスカ様の吸血を拒んだことを謝りたくて……申し訳ないです」

「些細な事よ。気負うことはないわ」

 些細と一蹴。トラウマも克服する努力をしなければいけませんね。

「この仕事が片付いたら、話の続きをしましょう」

「話の続き?」

「あなたの進退よ。私に付き従うか否かのね」

「あ……はい」

 気まずく眼を細めて反らす私。考えは未だ纏まっていません。

 きっと、父が差し伸ばした庇護で暮らしていければ、不自由のないことは自明です。二度と病むことのない世界は、理想です。

 仮に手を引かれたとしても彼女はまるで私を使用人とは見ようとしてくれません。私は使用人一家の娘で、吸血鬼の使用人として働くことが天命だった。それは叶えられそうになくとも、この家に留まって仕えることになっています。それが運命だったのです。

 そう生きるようにプログラムされた人間がいきなり主となる筈の身分の方と対等な関係になるなど、無茶苦茶も良い所でした。

 けれど、今すぐにでも飛び出して行きたい気持ちは私の中で燻っていました。クリスカさんにお供して、色んな場所に赴くなんて言う人生も、悪くない。父が下した決断、私の痛みを打ち消す鎮痛剤を拒んで、空高く羽ばたく鳥のように、見たことのない景色を見てからでも、歩む道を選ぶのを、良いのではないのか、と。

 両極端の想いに収集がつけられず、迷い続けていました。時間がないというのに、私は決断し切れず、だけど口に出すこともできないジレンマに陥っていたのでした。

「……まぁ難しいかしらね」

 手を止めて諦めた物言いをクリスカさんはしました。しかしそれが、私の紡いだ口をこじ開けます。

「——私は、行ってみたいです。クリスカさんの隣で色んな景色を見たい。いずれは貴方様にお仕えする使用人になりたいです。吸血鬼の主様に仕えることが私の夢です……一度は折れましたけど、私はクリスカ様のお傍でずっと」

 思わず漏れた本望。クリスカさんは立ち上がり傍へ寄って、

「なら、決まりね」

 そう言って、ノートパソコンを消して私の手を取りました。

「決まりなのですか」

「行ってみたいんでしょう。旅に」

 その通りなのですが、私には返せるものは何もない。だから正直に言います。「私が返せるものなんてありませんよ」

「あるじゃない。その身体に」

「身体……?」

「なぜ顔を赤くするのよ」

「だって、私の身体って申しましたので」

 そりゃ、身体を求めるなんて言われたら赤くなります。

「あぁそういう事。勘違いしないでよ。私はあなたの血で贖ってと言っているの。年下の幼気な少女を抱く趣味なんてないわよ?」

「はいごめんなさい」

「よろしい」

 嘆息されながらも、お許しをいただけました。私は視線が外れているのを良い事に微笑みます。

「これがひと段落したら、出発するわよ」

「もう、ですか!?」

「思い立ったが吉日。もうチケットも取っちゃってるから」

 薄青の切符を背のまま誇らしげに掲げていました。いつ取られたんでしょうか。未来でも見据えているような行動力です。

 私は立ち上がりました。門出は唐突ですが、それもまた旅の楽しみ方というものなのか、今の私にはわかりません。

 私物の入ったトランクを開けて、私は荷物を入れ替えました。いらない私物は乱雑に放り投げて、数日分の着替えと、カメラと、正装でもある給仕服、棚の中にいつしか主となる方にと用意した紅茶の茶葉のボトルを詰め込んで、私は吸血鬼と旅に出ることにしました。




 海底に貫かれた長大トンネルをブライトブルーの客車と先頭で率いるワインレッドの機関車が電動機を唸らせ、北海道の広大な大地へ馳せていました。

 屋敷から連れ出された私は真紅の瞳を持つ吸血鬼のお嬢様と、オレンジ色の光と静謐な空間に包まれた食堂車で朝食のパンを頬張っていました。

「初めて夜行列車で越した夜は、どうだったかしら?」

 光沢が煌く金色に茜色のシートが据え付いた席に座り、凛々しく眼を覗かせた旅の吸血鬼、クリスカ・アルタリィさんが私に夜行列車バージンの感想を伺います。

「ベットがちょっと硬かったです」

 旅へ連れ出した主に忌憚のない意見を言いました。クリスカさんは首肯して苦笑いを浮かべます。

「ざっと三十年近く前の設計だもの。時代が違いすぎるわよ」

「あははは……」

 パンを口に運んでいた手が止まります。夜行列車への憧れと個室の快適な一時を想像していた私でしたが、ベットが思いのほか硬かったので、背もたれに当たる背中が少しだけ痛みます。

 しかし、私が是非とも語りたいアクシデントは、そんな些細な睡眠のことではなかったのです。それこそ列車ならでと言っていい問題でもあり、人生史上初めての危機でした。

「まさか、お風呂に湯船がない上、シャワーを出すのに時間制限があるなんて」

 虚ろな目を窓の外へやって、苦い思い出を振り返ります。クリスカさんは頬を膨らませて今にも噴き出しそうな面持ちを必死で保っています。

 この列車は首都と北海道を結ぶ寝台列車で、帰宅ラッシュの只中、世間一般で言うディナータイムより少し前の夜七時に始発駅を発ち、終着駅には翌十一時の到着、片道の所要時間は十六時間にも及びます。乗客は夕食と朝食を列車内で取らざるを得ません。

 そうなれば、清潔感を保つ入浴も然りです。しかも全員にその権利があるわけではなく、A寝台という列車でも上位クラスの部屋に宿泊する乗客と、ロビーカーで販売されるシャワーカードを手にした乗客だけです。

 私達は前者だったので、その特権も手に入れることが容易だったのですが、問題はそのシャワー。一人が使用できる水の量でした。

 列車とはいえ、積載できる水の量は限定されます。生活用水の他に使用済みの水を溜めるタンクも必要になるからです。故にシャワーには時間制限が設けられていて、それを過ぎるとどんなに泡塗れだろうが、問答無用で止められてしまいます。

 知らずに出し続けていた私は危うく、その犠牲者の一人になり掛けました。クリスカさんは誇らしげに、

「敢えて言わないで正解だったよー」

 とまるでそんな危機を嬉々として傍観するサイコパスのように言いました。

「敢えて!? 今、敢えてって言いましたよね!」

「そうよ。恥じらいながらも外に出るしかなくなって、涙目で私が入るシャワールームの扉に泣きついている姿を想像すると、なんか可愛いなって想像しちゃって」

 私は頬を膨らませて、精一杯の怒り顔をします。けれどそれもツボに入ってしまい、逆効果でした。

 このお方は、悪い悪戯が好きなようで、もしかして付いてきてしまったことが間違いだったのかもしれません。

「知りませんからね! いつお返しが来ても」

「えぇ、望むところよ。むしろ、お返しも貰えるなんていいじゃない」

 まんざらでもない様子。癪に障りますが、よくよく考えてみれば寝静まって起床放送まで随分と時間があったので、公衆の眼には触れないよう配慮をしてくれている気持ちは伝わります。

 だからこそ、怒るに怒れないのです。度を過ぎているとは思いますが。

 不貞腐れて乱暴にパンを噛み千切ります。

「けど、昔を思い出すなぁ」

「昔? 何か、思い入れでもあるのでしょうか?」

「こうやって食堂車でくだらない雑談してってさ。初めて旅したときのことを思い出す」

「初めての旅……差し支えなければ聞かせてください!」

「あれは旅っていうよりも、家出に近いかなー」

 クリスカさんが私の顔から車窓のトンネルに視線を逸らしました。どれ恥ずかしいエピソードを掘り返してやろうとも思いましたが、その面持ちが何故か少しだけ苦しいような、悲しいような顔に見えてしまい、口が動かなくなります。

 返ってくるのは振動でカタカタと音を立てる食器と沈黙。私は成す術無く、残り一個のパンをぼーっと齧ると、彼女が雰囲気に察したのか、話題を切りました。

「ごめんごめん。昔を思い出すといつもしんみりしちゃってさ。食べましょ」

「は、はい」

 クリスカさんの静止した手が、引き返すことなど無駄だと暗黙で語る様に再び動き出しました。


 家柄の呪縛に囚われ続けるのが、吸血鬼として生きる私の一生かと、自問自答したことがあった。きっと流浪の旅烏になったのはそれがきっかけと振り返る。

 四十余年も前の話。家族に黙って家を抜け出した私は、初めて一人で目にした外の世界に眼を輝かせた。何十台も往来する車と人、渋滞に並走する華奢な路面電車、飛び込む物全てが新鮮で、普段は眼も暮れないような大衆食堂の味に舌鼓を打った。

 アルタリィの名を継ぐ定めを捨て、名誉と家業に縛られない生き方を選ぼうとした。その私を冷めた目で見る者が大半なのは必然だった。

 全てを得た者達は奇異な眼で、何も持たざる者達は嫉妬の眼で、加速度的に心を喰い尽くそうと蝕んでいった。

 先代の当主、父も私の生き方には猛反発した。幸せだの、将来だのを口々に拘束しようと強い言葉で迫る。自己満足に付き合わされる道理はないと一蹴してやったけれど、それから互いに気まずさを抱いたまま、顔を合わせては無言で終わってしまう関係が続いている。

 そんな自由を探求した人生の岐路から四十年余り。すれ違い続けたまま、私は中途半端に家の名を借りて生きている。奔放に、ないがしろにされているように。

 しかしそれもいずれ終焉が訪れる。遠からずして。


 全長40キロ超の海底トンネルを抜けたら、そこは一面の雪景色でした。個室寝台の部屋に戻った私達は、各々が食後の自由時間を過ごしていた最中、列車はトンネルを抜けきって北海道に入ります。

 春先の気配などカレンダーからは微塵も感じられない真冬の北海道。当然の事ながら外は雪がしんしん——なんて可愛らしい擬音ではなく、濁音まみれのドカドカに近いような、そんな降り方です。その豪雪を難なく弾き飛ばして列車は足並みを進めていました。

 クリスカさんは私達に宛がわれた部屋へ戻るなり、ベットの一段目に転がって本を開くとやがて誘われるように眠ります。

 出発前に買った彼女お気に入りのシリーズのライトノベル。タイトルは『凛としてイブキ』、田舎の学園を舞台にした恋愛物だそう。

 曰く、著者の『黛 キエル』先生のキャラクターの心情が繊細で、脆く打たれ弱い主人公がヒロインやクラスメイト達と波乱万丈な日常を過ごしながら恋をするというストーリーに撃たれたと、出発前に熱く語っていました。しかし完結してから新作を出していないから気掛かりではあるとも漏らします。

 大半の吸血鬼と人間の時間軸は真逆。朝に寝て、夕方頃から活動を始めるのが彼女にとっては常なのです。

 人間らしく生きようとするのは、きっと私への気遣いなのでしょう。勿論、想像の範疇は超えないのですが。

 私はその寝顔を少し拝見してから、探検とばかりに部屋を出ます。退屈していた訳ではないのですが、ちょっとした好奇心からでした。

 今いるのが八号車、A寝台の個室が立ち並ぶ車両を最後尾の方へ抜け、朝食時間帯よりまだ少し早い食堂車を通りつつ、そのさらに奥へ。昨晩、事案が発生しそうだった六号車ロビーカーの自動ドアを通ると、窓際に配された薄い小豆色のソファーに腰を掛けました。

 打鍵音に気が付いたのは、相変わらず吹雪く車窓にちょっとだけ飽きてきた頃です。その音に気が付き、振り向いた拍子、背後に座る人と目が合います。

「あ?」

「えっと」

 ちょっと威圧的でしどろもどろになってしまった。もう何やってるんだ私。怪訝な表情をすると、睨むような視線が和らいで、

「あぁすまん。少し神経質なだけだ。怖がらせるつもりはないよ」

 と、勇ましい顔立ちの彼女が宥めました。

「こちらこそ、作業中にじっと覗くようなことして、申し訳ないです」

「あぁ気にしなくていい。どうせ没だ」

「没?」

「没原稿。あたし、売れない作家だから」

 きょとんとします。それも口をあんぐり開けて、行儀悪く。

「聞いてないって顔だね」

「作家さんですか……取材か何かでこの列車に?」

「夜行列車なら少しは静かで書けると思ったんだけど、やれ床下から音は響くし、個室でもお構いなしに車掌は尋ねてくるしで、当てが外れたよ」

 参ったと、遠回しにはそう聞こえます。彼女にとって風情がさぞ仕事の障害になったのでしょう。肩を竦めて答えてくれました。

「私も夜行列車って初めてで、ベットの固さに驚かされました。環境を選ぶって難しいですよね」

「本当、苦労するよな。人がどう足掻いたって、変えられるのは今立ってる足元ぐらいなのに」

「足元?」

「今すぐにどうこうできるのなんて床の色くらいだろう? 次の駅で降りて、また別を目指すか、乗り続けて終点まで居座るか、はたまたここで窓を突き破って吹雪の中に飛び込んで死ぬか。三つに一つってところかな」

 流石に最後の選択肢はないにしても、裏付けされた理屈に私は首肯します。

「えっと、仮に決めるとしたらどうするんですか?」

「三番かな」

 本当にやる気ですか? 辺りを見渡して、誰か一緒に止められる人を探していると、

「冗談さ。次の駅で降りるかな。一人旅だし、気まぐれで動くのもありだろう」

「旅の醍醐味ですよね」

「そういえば、君もかい? 一人旅」

「私は二人旅です。夜逃げと言いますか、そのー」

「夜逃げ?」

「シチュエーションとしてはそうかも知れなんですが、なんと言いましょうか……連れ出して頂いたというのが正しいかも、です」

 事の成り行きはどうあれ、今の私は付き人でしかありません。使用人と名乗りたい心を抑えて、正直に言いました。

「なるほど良くわからん」

「口下手ですいません」

 謝る必要はないような気がしましたが、口先からはすでに出てしまっています。

「でも旅してるのは事実です。気まぐれに目的地を変えてって流浪の旅」

「ふーん。タフなことしてるねぇ。今日で何回目?」

「初めてです」

 思わずこけてしまった彼女に茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべました。でも気まぐれで北の方角に目を向けたのは本当です。

「いいじゃん。そういう、目的のない旅って」

「そうでしょうか?」

「あたしも何か目標とか目的とか、雁字搦めにならず生きてみたかったよ」

 懐古に溺れながら遠くを仰いで彼女は言います。何故かその瞳は鬱蒼としていましたが、立ち上がって通路を去ろうとしていました。

「あの! パソコン!」

 あろうことかノートパソコンを置きっ放しで。大事な商売道具でしょうに。

 私が折りたたんで渡そうとしますが、液晶へ刻まれた文字に視線が吸い込まれました。

「悪いね。近頃は物忘れが多くて、歳かな」

 薫さんは頭一つ分高かった目線を見下ろすように合わせると空返事を呟きました。

「まだお若く見えますけど」

 気さくに応じますが、奪うような手つきと顔の動揺は隠せてませんでした。何か見られてはマズい物だったらしいです。それも赤の他人に。

「礼を言うよ。ありがとう」

「でも、ありがとうじゃ足りませんね。んー」

「借りを作ったって言いたいのかい?」

「まぁ、そんなところですね。お名前を教えてください。それで手を打ちましょう」

 目を眇め、嘆息されてしまいましたが間を開けて、

「佐伯だよ。佐伯 薫」

「さえきかおるさん——ですね? 覚えました。七見 光莉です」

「まぁ、もう会うこともないだろうけどさ」

 薫さんは去り際に捨て台詞を吐いて行ってしまいました。

「没原稿なんて、とてもな嘘じゃないですか」

 私は誰もいないそこで列車の疾走の音色へ被せるように呟きました。


 薄黒く厚い雲が空を閉ざす空の袂、列車は北海道では最初の停車駅でもある第二の都市『函館』に到着します。

 函館で降りる予定の私とクリスカさんは早々に荷物を纏めて扉を潜りました。

 色違いのフレアスカートですがこの酷寒には一枚の布にも勘定できず、防寒用のウィンドブレーカーに着替えてしまいました。せっかく気に入っていたのですが、命に関わりますから仕方ありません。

 すると外では分厚い作業着に黄色や緑のベストを羽織った係員の方々が忙しなくホームを行き来している姿が目に映り込みました。

「何やら騒がしいのですね」

「機関車の付け替えをやってるのよ」

「付け替え?」

「そう。青森で交代した青函トンネル用の電気機関車からディーゼル機関車にバトンタッチするの」

「ディーゼル機関車?」

「ガソリンとか化石燃料を燃やして動く機関車のことだよ。函館から札幌までは電線ない区間が多いからほとんどの列車がディーゼルエンジンを積んでいるのだ」

「へぇ。そんな特色が」

 関東では既に絶滅しつつある気動車が北海道では沢山走ってるのだそう。博学なクリスカさんが誇らしげに、そして楽しそうな面持ちで語る姿に私も寒さが吹っ飛んで聞き入っていました。

「まだ発車まで時間あるし、行きたい場所があるんだけど」

「えっと。今日は函館のホテルでってお話でしたよね? キャンセル致しますか?」

「いやいやここで済むよ。実はな、ディーゼル機関車にはデッキがあって、そこに乗らせて貰えるんだ。今日の機関士さん知り合いだし、一緒に写真でもと思ったんだけど」

「行きます! いえぜひ一緒にお願いします!」

「すんごい勢いで即答したね吃驚した」

 きっとクリスカさんは自分が手を引いて強引に連れていくのを想定していのでしょうが、逆でした。私が手を引き、走り出します。

 函館駅は終端式ホームと言われる、片方に車止めがある行き止まりの駅でした。乗ってきた列車は先頭と最後尾を反転させて終着の札幌を目指します。

 大海原のミッドナイトブルーに銀の流れ星を引いた二両の大型ディーゼル機関車がエンジンの重低音を唸らせて、発車の刻を見計らっていました。

 横では客室アテンダントの方と思しき女性が寄せては返す人の波を誘うように声を掛けています。

 許可を取って、そんな旅のトリを飾る機関車のデッキに失礼して、シャッターを一回、切って貰いました。

「ありがとうございます。でも良いんでしょうか?」

「構いませんよ。せっかく列車の旅を選んでくださったんですから、その思い出になれば」

 アテンダントさんは気さくに応じてくれますが、普段は立ち入れない場所に入った時、たとえ許可があっても罪悪感があるのはなぜでしょうか。

「いやぁ毎度の事とはいえ、血が沸騰してくるよー。あっ私、吸血鬼だけど」

 クリスカさんはユーモアで口が綻んでいて、穏やかに笑っていました。

 発車の準備が整って撮影会が終幕すると、ハスキーな警笛を一声して二両の機関車は力強く一面の雪原に埋もれた線路を走り出しました。

 青色一色に染まった十二両の客車列車は薄赤いテールランプの光跡を残して消えていきました。

 軽く身体を伸ばすと、一瞥して足早に駅舎へ入っていきました。寒さで震え始めた私の身体を憂いでくれたのでしょう。気づけば鼻水が凍り掛けていて、それを見てハンカチを差し出してくれます。

「ほら、鼻水拭きな?」

「すいません。お気遣い頂いてしまって」

「そういう時はありがとう、だよ。謝ってどうするのよ」

 虚を突かれ、困惑しながらも居直しました。

「あ、ありがとうございます」

「そう。良い子ね光莉」

 そう言って、クリスカさんが額に軽い口づけをすると、それに気づいた周りの人達から刺さるような視線がありました。

「あ、あの」

 頬に熱を感じてそっぽを向き、引かれるがままクリスカさんの往く道を辿ります。

「眷属の額にキスするのくらい、何てことはないでしょう? 照れる所が見れたのはちょっとしたラッキーだと思ったりしたけど」

 とても不思議そうに尋ねて、私の顔を覗き込んできました。

「時と場合があります! 大勢の目の前であのようなはしたないをされては」

「怒ってる?」

「怒ってなんていません! けどお淑やかにと」

「いっつも、屋敷で言われてたような怒られ方してる。懐かしいなー」

「はぐらかさないでください!」

 そう叫んで私はクリスカさんの手を引いて去ります。念のために言いますけど、照れ隠しなんてしていません。恥ずかしかったのはその通りですが、決して違うと断言できます。

 太陽が昇る前に、その逡巡の暇さえ与えられず、雪深い駅のロータリーからタクシーに乗り込んで一路目的地へと足を向けたのでした。


 やはり寝台列車という選択が間違いだったかも知れない、と私は急遽変更を余儀なくされた函館のホテルのロビーでノートパソコンを徐に広げて一考に耽った。

 仕事と関係ないから余計に手が捗ってしまった。列車の出発からずっとロビーの虫でこの駄文が完成へ向かいただ真っ直ぐ走る。

 この言葉さえパソコンで文章に起こしているのは職業病だろうなと、納得して嘆息していた。

 しかしあの旅人たちに出会って時針が狂ってしまった。その遅れを取り戻さないと。もう会う事もないし、一切忘れてしまおう。

 覚えていても仕方ない。もうすぐ私、『佐伯 薫』というアイデンティティは消えるから。あの少女の記憶からも、私はきっとすぐにその体を失うはずだ。

 そう、考えていてもダメだと雑念を振り切って、私は筆を執った。結界を張って誰の干渉もない世界に浸って。

 悩みながら集中力を研ぎ澄ませて進めていたら、気づけば夕方だった。外の様相は相変わらず、濃い雪の壁に覆われて、次第に雲の向こう側の太陽の明るみさえも失いつつあった。

「光莉あなた、スキーできるの?」

「バッチリです! 地元だって山一つ越えたら雪国なんですから」

「と言って、生まれたての小鹿のように足をビクつかせてる人をよく見るのだけど」

「あんなの迷信です! そのジンクス、私が打ち破って差し上げますよ!」

 ロビーで無邪気に反響する声。数時間と続いた集中という一本の糸が解けて、私はパソコンから目を離した。

 赤の他人なら不随反射では至らないであろうと自覚はある。けれどそれが名前を交わした誰かの声、旋律ならば別だ。間違いない。終点まで走るつもりが途中で降りたことが失敗だったと訝って後悔した。

 ロビーカウンターの前に二人の女性。金髪の方は頭にない。その横の黒い髪の妙に低姿勢で丁寧な言葉遣いの、年端もいかない少女は存じている。

 七見とか言った。私のこの文章を視た一人。そして、一瞬固まって、去り際に嘘と捨て台詞を吐いた奴だ。

 オーバーアクションにも思える身振りや手ぶりで、意気揚々と話すその姿に何故か嫌悪感が沸いた。生き生きとしているその顔に、表情に、瞳に苛立ったのだ。

 瞳が合う。こちらに気づいて隣の彼女に耳打ちすると、駆け寄ってくる。自然とノートパソコンを折りたたんで迎えた。

「また会いましたね。なんて奇遇」

「後をつけてきたのかい?」

「不躾なことはしていません。本当に偶々ですよ。お仕事の進捗はどうです?」

「作家にそれを聞くかい? それも遅筆の私に」

「不粋ですか? なら謝ります」

「構わないよ。慣れてる。順調——とはとても言えないかな」

 あなた達と出会ったから。口が裂けても棘のある言い草はせず心で噛み殺した。

 光莉はならばと、前屈みになって手にしたチケットを差し出した。

「気分転換も兼ねて一緒にスキーでもどうですか?」

「……本気かい?」

「リフト券です。偽物じゃないですよ?」

「連れがいるだろう。迷惑にならないか?」

「さっき伝えて用意していただいたので大丈夫です」

 柔和な微笑みだったが、その隙のない性格に慄いた。答えを渋っているといつの間にやら横にいた金髪の少女が私に、

「私からのお願いでもあるわ。この娘のエスコートだと思って引き受けてくださらないかしら? お礼もするわ」

「……わかったよ。けれどあまり期待しないで欲しいな。修学旅行以来だから」

 結局根負けしてスキーをする羽目になった。ロビーにパソコンを預けて、黒に染まりつつある雪原へ躍り出た。


 時間は少し遡って数十分前。手配していたホテルの一室に到着してからのことでした。

 夜を徹して走る列車で一睡もしていないクリスカさんはぐっすりと寝てしまって暇を持て余していた私は一人ぼっちの部屋で悶々としていました。

 ロビーカーで遭遇したあの文字列。あれはきっと空想じゃないと勝手に思い込んでいたのです。

 紅茶を備え付けのティーポッドに用意しては呑み干して、しばらくしてまた淹れる。腕を錆びつかせぬようにとそんなことを反芻して夕刻。ぼーっと窓際のティーカップを握り考えていたところに彼女がやってきます。

「私にも紅茶ぁ」

「は、はい! 只今!」

 寝ぼけたか細い目で私を見て、クリスカさんが言いました。きっと屋敷に居る時の癖が出ているのだろうなぁ。口が綻びながら、満更でもない笑みでティーカップをテーブルに置きました。

「お目覚めの一杯です」

 ゆっくりと口を付けて一口含むと、そのスッキリした風味に覚めたようで眇めていた瞼が広がりました。

「エレファンブランを選ぶなんて博学ね」

「ありがとうございます。朝だと、やはり柑橘系のスッキリした紅茶が良いかと思いまして」

「そういう気遣い、嫌いじゃないわ。ありがとう」

 そっとカップを持っていない右手で撫でてくれました。

「ありがたきお言葉」

「あなたも飲んで。冷めてしまうわよ?」

「で、では。反対に失礼します」

 ぎこちなく、座って紅茶を飲み交わします。

 ミルクや砂糖はありません。けれどお互いそんなことなど気にも留めず、弱まる気配のない吹雪を眺めながら、飾り気のない夕方のお茶会はのんびりと時を動かします。

 紅茶はとても不思議な魔力を持っていて、考えに耽ってしまいます。それをクリスカさんは見逃しませんでした。

「鬱蒼としてるの?」

「考え事です。私個人のことですから」

「言ってみなさいよ。頼りになるかどうかはわからないかもだけど」

「いえ、クリスカさんの手を煩わせるわけには——」

 そう怪訝に言うと、彼女は不適な笑みを浮かべて両手を開けて顔を近づけます。

「私達は対等と言ったでしょう。頼りなさいよ」

「で、ですがクリスカさん」

「もう、生意気な口にはこうしてやる」

 肩を寄せて八重歯を唇に刺すと、じんわりと甘い快楽が流れ込みます。憂いが温かくぼんやりと蕩けて、肩の力ががっくりと墜ちました。

 病みつきになってしまいます。私は唇を少し強引に離して告げます。

「これ以上は……ダメです。私が私でなくなって」

「壊れる? じゃあ全部受け止めてあげる。壊されるか、話すか、どっちかにしよっか」

 半ば脅しに聞こえる言葉でも私の心は逡巡します。

 頼っても良いのでしょうか。本来、使用人であるはずの私が主となるはずの高貴な吸血鬼の彼女に。

 だったらいっそ、このまま壊されてしまった方が私のこのもどかしさは晴れるのではないかとも思ってしまいます。そんな迷い、ある種の苦しみを捨てられるのならその方が良い。

 けれど眼が泳いだ私を見て、クリスカさんは冷めたのか手を解きました。

「壊すのは冗談。まだ信用も信頼もされてないと思うと、残念かも」

「そ、そんなことありません。ですけど」

「じゃあ話してよ。悶々とされてたら私も苦しいから」

 息を呑んであの時見た物の全てを「もう過ぎたことですけど」と前置きして、赤裸々に吐露しました。

「そう急くこともないはずなのに」

 クリスカさんは口角を上げて呟きました。

「なんとかしてみるよ。まずはその佐伯さんって人を探すところからだね。降りる駅の当てとかある?」

「……それが、降りる駅までは聞いていなくて」

「そう。まぁでも手立てなら幾らでもある。私に任せなさい」

「はい……」

 俯きがちな返事。心底私はやる瀬なく、情けないと自責に狩られました。

 それを察してか、沈む表情の顔を覗き込んではにかみます。

「一人で気負わないの。私達は対等よ。さっきにも言ったけど、今のあなたは使用人じゃなく私の付き人、旅の友よ。血を吸うのは、まぁ矛盾していると詰められた返す言葉がないけれど、今のあなたにそれ以上を求めるのは私には出来かねる」

 気を遣ってくださるのは、とても嬉しくございます。しかし対等という言葉が私を雁字搦めに縛る、ある種の呪縛だったのです。

 吸血鬼の主様に付き従うために生まれてきた、それを望む私には彼女との関係が腑に落ちません。

 焦燥感に胸を撫でられながらも、不粋な問い掛けを喉元で抑えて唾を飲みました。

「さぁて、不安も鬱蒼も全部雪に溶かしてしまおう」

「雪?」

「冬の北海道よ? ウィンタースポーツやならいで帰れないでしょう」

 いいからと手を引かれて、私は支度も満足にできないまま部屋から連れられました。


 屹立する雪山の斜面をクリスカさんは雪上車の如く颯爽と滑走していました。小さな二つの紅玉がジグザグの航跡を描いて、向かってきます。

 身も強張る急斜面。時折ジャンプしてみせたり、周りのスキーヤーの歓声を知ってか、宙返りしたりと、人が閑散としている超上級者向けのコースを逆手にやりたい放題です。怪我しないかとても心配ですが、血を吸えば大抵の病や怪我が治ることを思い出して杞憂だと悟りました。

「ふぅ! 二人も一緒にどうかしら?」

「あんな人間離れした技はできんぞ。五輪選手じゃあるまいし」

「それもそっか」

「それで私は何をすればいい?」

「そうね。そこの小鹿ちゃんのエスコートかな」

「エスコートか。わかった」

 赤面。思い出して縮みます。

「撮影用パネルかと思ったわよ。あはははは」

 高笑いを上げるクリスカさんにぶんぶんと拳を縦に振って抗弁します。

「だ、だって。久々なんですもんスキー!」

 件の出来事は遡ること数十分前。意気揚々とリフトを降りた私の身に降りかかりました。

「のわぁぁぁぁ!」

 絶叫と共に私は雪山を駆けています。滑走よりは滑落の方が正しいでしょう。悍ましい音を立てながらゴロゴロと転がる様は、さながら昔話のおむすびころりん。運動神経は良い方です。けれど雪上を滑るとなるとまるで勝手が違いました。

 なお特殊な訓練を受けてる私は多少のことで怪我などしない身体です。吸血鬼に血を献上する身、治癒の能力が遺伝として残っているおかげか、見るからに重症な傷も一瞬で跡形もなくなります。

「お、おい大丈夫か?」

 えへへと笑って見せましたが、結構痛かったです。クリスカさんについていこうと無理をして選んだのが祟ってしまいました。

 その後も、緩急の穏やかなコースを選んで滑っていましたが、結果は同じ。変わったことと言ったら怪我の度合いくらいなもの。そりゃ、実家の裏山を超えたらすぐに雪国ですけど、スキーは家を出てからやっていませんでしたから。

「雪だるま……光莉の顔が入った雪だるま」

 そして現在、リフトの袂で可憐な滑りを視た後、こうして初心者からやり直した私は薫さんに手取り足取り教えられているところでした。

 顔を伏せて必死に笑いを堪えていましたが、笑い過ぎです。

「私だって頑張って見返してやりますからねクリスカさん!」

「悪かったって! ごめん光莉。謝るからさ。ね?」

「雪を物にした暁には、クリスカさんの背後をストーカーのように付きまとってやりますから! 覚悟しておいてください!」

「流石にそれは気が散るわね! だから悪かったって。ホント、反省しています!」

「それって下剋上……なのか?」

 見回す薫。ムキになる私と妙にほくそ笑むクリスカさんに呆然としていました。

「それじゃ、エスコート頼むね」

 彼女の背中がリフトの背もたれにつき、どんどん山袖へと昇っていきました。

「啖呵を切ったはいいけど、勝算あるのか?」

「あります! 絶対にあっと言わせるんですから!」

「雪が解けそうなくらい熱い返事をどうも」

 迸る熱に身を焦がし、絶対にクリスカさんみたいな宙返りをしてみせる。スキー板を履き直した私は固く交わした誓いを胸に、追うようにして薫さんとリフトに乗り込むのでした。

「あの人、何者なんだ?」

「クリスカさんですか?」

 藪から棒に薫さんが問いますが、

「直にわかりますよ」

 とはぐらかします。彼女の衝動を煽ったようで訝りました。

「ふーん。君とはどういう関係なんだ?」

「今のところは旅仲間じゃないですかね?」

「曖昧な言い回しだな」

「自分でもよくわかっていないんです。クリスカさんに連れ出された時から今まで、まだ何も定まっていない。定義づけとかすべきかどうかはわかりませんけど」

 旅人のクリスカ、私の家系が代々仕えている主家の令嬢に連れ出されてから、ずっと考えていたことでした。

 クリスカさんにとって私は何者になるのでしょう。対等とだけ答えるその実、彼女は私をどうしたいのか。

 吹き込んできた風が冷たい氷人を運んできて肌を撫でると、思考の渦に呑み込まれそうな私を引き上げます。気づけば宙づりになった足が雪原に接地、そのまま推されて前へ進んでいました。

「少し君達の間柄に興味が沸いたよ。後で彼女にも聞いてみる」

「それが最善化ですね」

 薫さんに注意を引けて、彼女に目を向けていた私はほっと白い吐息を漏らしました。

「それより、斜面に向かってるけど……」

「え?」

 振り返ると斜面へ一直線。心の準備なんて整っているわけありません。

「だ」

「だ?」

「誰かたしゅけてぇぇぇぇぇ!」

 減速する術を持たない私は断末魔を響かせて雪野を駆け下りていきました。


 二度も雪だるまになった私のナイタースキーはお開きになり、クリスカさんを残して私と薫さんはホテルへ帰りました。

 用具を返却して、彼女を迎えるべく途中の喫茶コーナーへ入りました。つい数分前まで温もりとは掛け離れた厳寒に肌を晒していた私達に、湯気の立ち昇るコーヒーと紅茶は格別なご褒美に映ります。

「スキーなんて、修学旅行ぶりだ」

「私と同じくらいブランクありましたね」

「あんた程、鈍っちゃいなかったけど」

「言わないでくださいよーそれ」

「また腹抱えて笑ってたな」

「えぇ。けれど満更でもないかも」

 紅茶を片手に私がクスリと笑みを溢すと、神妙そうな面持ちを薫さんが向けていました。

「さっきまでの威勢が嘘のようだ。風にでも攫われたのか?」

「ちょっとしたおふざけです。凄かったなぁクリスカさん」

 鮮明に焼き付いた勇姿を振り返って惚け顔になります。控え目に言って格好良かったんですもの。

「本当、不思議な旅人達だ」

 深い溜息に混ぜた呟き。

「案外、捨てたものでもないと思ってしまった」

「捨てたもの?」

「列車の旅も良い物だと思った。仕事が捗るとか、そういう不純なことを抜きにして」

「私も教えられた気がします。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」

「なら私達は愚者だな」

「ですね。それも悪くない」

 初めて知る感動。初めて触れる体験。五官の記憶にないことを経験するというのも存外悪いことではない。旅立ちから数日と思い知らされた気分です。

 仮に私が賢者だとしたら、きっと文字だけの世界で終わっていたと追認させられます。

 感嘆が呼び起こされて悦に浸り、惚けた表情を前に薫さんが立ち上がりました。

「私に与えられたエスコートの務めはこれで果たしたはずだ」

「クリスカさんに伺ってみてください。直接、頼んだのは私じゃないので」

「いや、スキー場でも山だ。それも雪山。柵や仕切りで囲まれていようと、初心者一人置いておくのはリスクが大きい。けれど今はこうして温室で呑気に談議をしていられる。エスコート、護衛の意味も必要性ももはや感じられない」

「でも終わりという言葉をまだ言っていません」

「その言葉が無ければ、解放されないというのか。私は君達の奴隷か?」

 沈黙。返す言葉が見つからず、何を言っているのと呆気に取られた表情をしていました。

「君が始めたことだろう? クリスカとかいう金髪の女はただ君に利用されているだけで」

「何を言って」

「君は私の要らないところまで見てしまった。ここにいるというのも、まさにそれが君達がここにいる理由なのだろう?」

「……想像ですよね?」

 誰も寄せ付けまい。そう取れるように淡々とかごとがましく言い連ねる薫さん。私はその推理を否定しようと、憶測であるとレッテルを貼りました。

「想像——私がそれを生業に生きているから、自分達が至らない飛躍的な妄想を抱いている、ようは異端者だとでも思っているのか?」

「違います。私はただ、列車の中で聞いた言葉がまるで正反対に動いたみたいで嬉しくて。もう会う事はないなんて悲しいことにならなくて、それがひたすらに嬉しくて」

「あはは——そうか」

 シニカルな高笑いがカフェの一角を埋めました。

「嘘偽りない純真な気持ちだと良かった。けどその本音は違う。私の足を引っ張ろうと必死だ。君は君自身が思っている以上に怖い女だよ」

「そんなの決めつけです!」

 流石に頭に来た、と私の平手がバンと机を殴打します。言わせておけば、やれ嘘だの利用しているだのと好き放題に宣って、暫く我慢していた怒りが現れて青筋を立てねめつけます。

 薫さんはそれでも動揺などなく、狂気に包まれたように声を上げて笑っていました。

「では訊くとしよう。なぜ私を邪魔する? 目指す先になぜ立ちはだかろうとするんだ?」

「あなたが描こうとしている道筋は間違っているから」

「君の手前勝手な価値観だろう?」

「それでも私の目の前でしようものなら、看過できない。貴方は愚かで惨めよ! 何もかも間違っている!」

「はっきりした。君はやはり愚者だ。自らの価値観で他人を縛り上げようだなんてことをやってのけようとしているんだ。きっと次の言葉はこうだろう。まだ変われる、引き返せる。無知だから口に出せるんだろう。でも、もうダメなんだよ。一度走り去った刻には二度と引き返せない。過ぎ去った駅に列車が戻れないよう、不可逆的なのさ。私はもうこれ以上の変化を望めないし、望まない」

 咄嗟に目を逸らして、彼女が呟きます。

 勝手な価値観で縛りあげようとしている。それは最もらしくも聞こえます。けれど、でも他に手立ては幾らでもあるはずだとも思うわけです。諦観して、全てを悟ったような姿がただ無気力なだけでどこかみすぼらしい。

 気を悪くさせたのなら謝りたいと願い出ようとしますが、そのまま背を向けて薫さんは一言だけ、

「これで最後。さよなら」

 文字通りです。我に返って私は去り際の彼女の背に手を伸ばしました。しかし虚しくそれは届きません。

 消えた背中の輪郭がぼんやりと浮かんできます。膝から崩れ落ちて、無力さを呪うように私は泣き出しました。

 その流星の色は一体何色なのか。それは顔を眺めた人以外にわかるはずのない問い。訊きたくもその泣きっ面を見られるのが酷く恥ずかしくて、逃げ出すように代金だけを吐くようにテーブルに置いて走り出しました。


 意味を成さないと感じた瞬間、キーボードに触れていた指が止まった。言い合いを終えて無性に自分の世界にかぶりつきたくなって、溜飲が下がった途端に突き動かされた。

 こんなことをしている場合ではない。宅配で部屋に送るバックにパソコンを詰めコート一枚を羽織って、私は外へ出た。雲一つない星の煌く夜空を一瞥すると、ロビーにいたコンシェルジュから「お出かけですか佐伯様?」と声を掛けられた。

「星を見に」

 ただ一言。それを聞いて朗らかな笑みを浮かべ、そのコンシェルジュは去る背中を見送る。

 夜空は満点の星空だった。黒い世界で輝くその星々は都会の喧騒ではまずお目に掛かれない光景で、新鮮味さえある。

 私が私自身を殺す日にはとても勿体ないくらいの空模様だ。深々と積もる雪野に足を沈めながら、か細い木々の枯れた森へと呑み込まれていった。

 ここが自死の名所とか、そういう噂はない。ただ広大なわりに人の気配がない、厳戒な自然に律せられた、謂わば隔地だったからというのが理由の一つだ。

 書き積んでいたパソコンの遺書は途中で投げ出してしまった。もはや必要もないんじゃないかとも。誰かに自分の秘めた感情や想いを伝えようとしたことが、この雪のように積んできたことの全てが無駄だった。そう結論づけて、私は手近で体重が掛かっても音一つ上げない丈夫な木を、俗にいう死に場所を求めて探した。

 適当で良い。探し始めて十分と経っていない一角に剛腕な枝の大樹を見つけて、そこにしようと即断した。

 バックから縄を取って頑丈そうな太い枝に巻き付けると、余った残りで輪っかを結わいて私の前に差し出す。バックから折りたたまれた踏み台も出して広げて置いて、質素で飾り気のない絞首台が完成した。

 あとはこの輪に首を入れて、踵でもつま先でも良い。乗った台を蹴り飛ばせばそれで私はこの世界から発てる。

 最後に星空を拝む。数えるのも億劫になるような夥しい数のそれらが色彩豊かな輝きを放って、人々を見下ろしている。ちっぽけな一人の死を眺めるように、暗闇を一筋の光が流れた。

 心の中で唱える。願わくば、来世では理不尽を打ち破れるだけの力がありますように、と。

 私は二度と戻れない旅に出る。暗く、孤立無援で、彩も声も人という存在もない旅に。そして絞首台の足場を落とした。

 重力が身体を吸い寄せ、抗うように縄が首を支点にして私を吊るす。酸素を断つ感覚は苦しくもだんだんと身体から力が抜ける、不思議な快楽で心地良い。

 嗚咽する口と引き攣る表情はまるでその意思を拒絶しているようだった。

 死ぬという感覚を初めて味わって、小説では簡単に人を殺せるし、死なせられるけれど本当の死はジワジワと身体を熟すように訪れるのかと、私は感慨に浸っていた。

 そして視界すらなくなりかけたところで目線ががらりと変わる。雪原でも無ければ、肌を刺す寒さもない。

 宙づりのはずの足が地面についていて、シャンデリアの飾られたホールに小高い舞台には壇が設けられた。周りにはタキシードやドレスで談笑する人々の影。自分の姿はわからないけれど、あの時着ていた華やかさとは隔たれたブレザーだったことを薄れる思考で思い出す。

 私はもうそんな年齢ではない、という不粋なことは口からは出ない。というより嗚咽でかき消されて言えない。けれどまだ残っている感覚が僅かに口の端を吊り上がったことは逃さず捉えていた。

 アレは授賞式。新人賞を取った時のだ。まだ学生だった——と言っても二年程前のことだけれど——エネルギーと希望に溢れていた頃の事だ。

 皆が祝福してくれて心が満たされたあの日。仕事のパートナーと共に笑って、未来について熱く語り合い、そして誓い合った。私を率いてくれると、連れて行ってくれると信頼していた人たちの顔が思い浮かび、殺意に沸いた。

 私の死が彼らに何かしらの変化を齎すのは明らかだろう。全てを破壊され立ち直れず後を追う者、それでも這い上がり記憶にすら留めない者。けれどそおれは裏を返せばまるでこいつらの為に死ぬようなもので、癪に障った。

 嗤う口が冷めて真一文字に戻る。白目をむき始めたとき、墜ちる様に私の意識が飛ぶのを覚えた。

 まるで縄が外れて地面の雪に刺さったような、そんな死の感覚だった。

「お礼も受け取らずにとんずらなんて、節操がないんじゃない?」

 声。聞き覚えのある偉そうな口調。繋ぎ留められた意識が戻ったとき、思いっきり咽て地面でのたうち回った。

 どうして私はまだ……訊こうとするも喉が塞がれてて叶わない。視界が黒から星明りを拾って明転し、立っていた影に目が行った。

「ディナーの誘いをしようとしたのだけれど、ロビーで見かけたからついてきちゃった」

 そう言い放つと、身体を持ち上げて生死を彷徨う私を断りもなく攫ったのだった。


 人生というのは数奇な巡り合わせの連続で、幸福と災難、不幸が絶妙に均衡し合って続いているのだと、そう物思いに耽っていました。

 薫さんを見つけて保護したという連絡をクリスカさんから受けた私は祈る様に繋いでいた両手を振り解いて安堵します。

 そして数十分が経過した現在。私は対面で食事を嗜む二人の傍で、彼女達の対談を見守るという大役をクリスカさんから与えられたのでした。それも吸血鬼の主様へお従えする給仕の正装、俗にいうメイド服の姿で。けれど彼女から一つだけ至上命令とも呼ぶべき禁忌を告げられます。

「勝手な行動はしないこと。私の言うことに忠実に従いなさい」

 拒否する理由は見当たりません。自信をもって頷いて了承しました。

 ただ、会話のない重苦しい空気が漂う貸し切り状態のそこは現実感すらつかめない虚の世界。入り込む余地はない。人物は私達三人だけ、まるで他の人がこの世界からその存在を消し去ってしまったような静寂です。

「……いつ」

「え?」

 破ったのは薫さんでした。死に際で前にした光景が蘇るのか、あるいは首を吊った時の苦痛が肌を撫でているのか、憔悴しきった表情と瞳で問いました。

「出会ったその瞬間からよ。貴方が列車に乗っていたとき、というほうが正しいかしら」

 飄々としながらも、少し誇らしげに語り始めたのはクリスカさんです。

「正確には私の同行者、要するに連れのこの娘かしらね。よく見つけてくれたと褒めてあげたいところだけど」

「あ、はい! ありがとうございます!」

「あなたのパソコンのフォルダに遺書というタイトルのテキストファイルがあった時点で、傍目だと希死念慮のある人間だと勘づくわ。けれど、貴方は作家。外面では腐っていても体裁ではそう。だからこそ、そういうタイトルの作品なのかともその事前情報さえあれば思えたかもしれない」

 例え誰かを欺く嘘だったとしても、赤の他人なら関心なんてないのですから、鵜呑みにされるでしょう。

「迷いはなかったのか?」

「それはご本人さんから聞いてください」

「えっ?! 私ですか!?」

「他に誰がいるの? 小さな救世主さん」

「えっとその。貴方と書いている文章の雰囲気が、まるでフィクションじゃないように感じたからです」

 触れた程度でしたが、その文中や文末に「この命の代償に」とか「今までありがとう、ごめんなさい」などと述べられていることで気がつきます。もしフィクションなら、もっと憐憫を思わせるような他の言い回しがあってもいいはず。

 ようするに、リアリティが突出していたのが、この結果を招いたと言ってもいい。

「……意味がわからない」

「上手く言葉にはできないんですけど、少し前の私と同じに見えたんです。瘴気を放っているというか。それに薫さん自身も言ってたじゃないですか」

「覚えがないな」

「今変えられるのは足元ぐらいで、次の駅で降りるか、終点まで居座るか、はたまた窓を突き破って死ぬかの三つだと。仮に選ぶとしたら」

「思い出した。三番だ。でも冗談と突き返したはずだ」

「冗談にはとても思えなかった、というのが私の本心です。でも確信はありませんでした」

「大切な友人、もとい付き人の憂いている姿にもどかしくてむず痒くなった私はもう居てもたってもいられなかった。曰く、遺書というタイトルの付いた作品を目にしたけれど、登場人物の名前も無ければ、創作というような感じもしなかった、とか。それで私が持てる力の三割くらいを使って調べ上げた」

 年齢や出身、住所から経歴まで全て。厳密には彼女の友人たちと言うべき人々に頼んだというのが正しいでしょう。


 高校卒業を目前に迫った十八歳の冬。小説の新人賞で奨励賞という栄冠に輝いてから、壮絶な一年を過ごしたと聞き及んでいます。趣味ではなく、仕事として付き合うようになった創作は地獄の日々。社会へ投げ出され、右も左もわからない彼女はとにかく周りの大人達から指図されるとおりに動きました。

 そして彼女は数多くの嫉妬と侮蔑を込めて、マリオネットと呼ばれるようになりました。しかしネットからデビューした作家の多くは必ずどこかで敵を作る——高度に情報化した社会でそれは沙我であり、ある意味での通過儀礼でもあります。

 辛辣な意見や眼差しの矢面に立たされても悲憤なんか抱く暇も隙もなく、淡々と仕事をこなし、書き続けていたそうです。

 事件が端を発したのは薫さんの作品の売れ行きに暗雲が立ち込め始めた、ちょうど半年くらい前の事。担当の編集者が変わったその日に告げられた一言でした。

「君の作品は次巻で完結させて、別の企画で書いてもらう」

 電話口の言葉。いつも掛けられていることとはニュアンスが違っていたけれど、導の彼らに疑いも考えもそんな余地なんてなく、即答で了承しました。

 方針転換から三か月後。デビュー作は無事に完結を迎え、新企画の立ち上げがスタートする、最終巻まで付き合ってくれた元担当さんや応援してくれたファンにもっと佐伯 薫という人間の思い描く物語に心酔してもらう機転になる——はずでした。

 企画書を整えて送付しても返答がない。まして彼女に関わる全ての人間から音信が途絶えたのでした。不信に思って編集部を訪れると待っていたのは心ない仕打ちの連続だったのです。

「もううちのレーベルでは出せない」

「魅力的だけどうちじゃレーベルカラーにそぐわないから他を当たってくれ」

 皆が口を揃えて投げ掛けてたらい回しに。そして極めつけが担当の言葉、

「売れない作家に構っている暇はない。趣味としての小説を出す余力はないから、さっさと消えてくれ」

 薫さんは愕然としました。デビューの時の温かさや交わした決意なんかは蝋で固められた能書きに過ぎなかったのです。

 ふとした時、彼女は自らを示す蔑称『マリオネット』を思い出します。

 人形は主人の掌で、彼らが満足するように踊り笑う。物の善悪、道徳、倫理、まして意思なんて人形にありはしない。繋がれた糸を切ったり離したりしたら、それでもうおしまい。喋ることは愚か動くことすらままならない。

 あぁと悟ってしまいます。誰が言い出したのかもわからないそんな渾名は私を表していたのだと。皮肉にもそれをパートナーだと信じて疑わなかった、猜疑心なんて欠片もなかった彼らに証明されてしまうとは、と。

 そして薫さんは死に物狂いで喰い付いていた自分が途端に馬鹿馬鹿しく思え、五官が捉える世界に嫌悪感を抱くようになってしまったのです。存在意義もない、人生の意味がまるで不可解で、ただ無意味に痛みだけを伴うことが嫌になって、自死を選んだ。


 クリスカさんから語られたことに間違いはないかと問われ、暫しの沈黙を置いた後に頷いた薫さん。

 ようやく自分が相対している相手がただの旅行者ではないことを悟り、一転して緊張で顔が強張りました。

「そろそろ一品目の料理が来る頃合かしら」

「……ディナーを頼んだ覚えはないのだが」

「細やかなお礼よ。受けて損はないわ」

 タキシードに身を包んだ初老の支配人が直々に銀の大皿を運び、静かにテーブルへ置くと淡々と料理の説明をして去ってしまいます。

「たんとお食べ」

 誘うようにクリスカさんは手を差し出して促すと、ギロリと睨むような視線で一瞥してから食べ始めました。

 銀のナイフとフォークの喧騒。誰かの施しを受ける勇気はきっと死を決意させるほどではないはずだと、私は黙々とローストビーフを刺して口に運ぶ姿から想像します。

 ではなぜ、一度睨んだのか。同情されることへの嫌悪感で至ったのか真意を確かめようにも、硬く引き結んだ口が開きません。

「この中で嫌いな物はなかったはずよね? って、聞くまでもないって顔してる」

「下調べは完璧って訳だな。私を肥やしてどうする? 何が目的だ?」

「助けた理由を聞いているのなら……そうね。助けたかったから。暇つぶしに星を見に外へ出たら偶々首を吊っていた人間が居て、その人間がたまたま私を満足させられる鬼才で、あの程度で死んでしまってッは惜しいとも思っていた」

「片腹痛い。私に何を期待しているのかな? 見返りもない、希死念慮に憑りつかれた死にぞこないに」

「えぇ。勿体ないというのはね。今の貴方がこれから自分で死ぬということなの。自らの手でケリをつけるなんてあなたにとっては過ぎた贅沢だわ」

「自殺行為を贅沢だなんて言われたのは、心外だ。生きる権利があるならば、死ぬ権利だってある。いや、義務かな。人間には皆、死ぬ義務が付きまとう」

「そう。等しく死は訪れるもの。華が枯れるように、人間も寿命を迎えればそれは避けられない。今の貴方がその寿命を自ら決めるなんていうのが甚だ傲慢。状況を見て、わからない?」

 薫さんは小首を傾げて周囲を見渡します。

 手足の自由は効くし、言葉の自由もある。それでも不適に笑うクリスカさんにどこか含みを感じていて、気味の悪さだけが増していました。

「まだわからない? 私の手中にいる時点であなたはもう自身で死を選ぶことはできない」

「……やってみるかい?」

 薫さんの手が止まり、左手のナイフの矛先が首元へ向きました。

「ダメっ!」

 控えていた私は咄嗟に抑え込もうと飛び出しますが間に合わいません。しかしナイフは首元に刺さることはなく、寸前で停止。

 止めたのはクリスカさんでも無ければ私でもなく、薫さん自身の腕。潜在意識ともいうべき、生存本能でした。

 本来なら風情もなく無機質に地へ落ちるナイフがテーブルを弾いてひらりと着地します。

「これ以外に方法が見つからなかったんだ!」

 雫がカーペットの色を黒く変えました。

「私はマリオネットなんかじゃない。誰かに糸で操られていたわけでも……尽して、最善だと信じて付いていっただけなのに……! 全部、全部彼らが、この世界が悪いんだ! 私にだけ酷薄だから。特別強く育ったことはない……なのに!」

 死とは反対に人生は理不尽の連続、修羅です。当事者にその気がなくとも、むしろその逆で幸福になろうと進んでいるつもりでも意匠返しのように向かい風が吹く。過去の自分と重ねて私は共感を抱いていました。

「生きる意味すら分からない。何がしたいのか、突き離す彼らに何を言えばいいのか、どうしたら私は幸せに、悲しまず病まないで生きられるのか、私にはわからないよ……」

 男勝りで凛々しく立ち振る舞っていたのが嘘のよう。どれを取ってもその言葉の全てが凄絶な被虐を物語っていました。

「そう。生きてる意味なんて誰しも確かに持ってなどいないの。分からないのが正常よ。だから私は価値のある死を貴方に与えようと思ったの」

「……え?」

「クリスカさん?」

「私は貴方に生きていて欲しいとは微塵も思っていない。けれどただ死ぬのはちょっとだけ味気ない。だからね。一つにしてしまえばいいって考えたの。名案でしょ?」

「一つに……?」

 薫さんは涙で一杯になった瞳を眇めて訝ります。理解できないというような仕草を見せて、縋るような目つきを向けてきました。

 私には両者の真意を何の気なしに察していました。吸血鬼のクリスカさんを知らなければ、辿り着けない答え。

 ブロンドヘアの幼げな女性だと錯誤している薫さんが想像もしないそれを、牙を突き立てて示します。

「言葉のままよ。私はね、吸血鬼なの。この鋭い二本の牙で首筋に噛みついて、生き血を全て呑み干して貴方を私の中で生きさせてあげるって言ってるの。物凄く素敵じゃないかしら!」

 私は彼女の表情から色が薄れていくのを感じ取りました。

 この世界で生きられないのなら、痛みのない場所へ誘ってやるのがせめてもの救済。不器用に傷くらいなら、それがクリスカさんの思いやりでした。

 ナイフとフォークを置いた手がだんだんと近づいてきます。誰かに殺されてしまう恐怖を味わうことなんて滅多になく、後退ろうと椅子から彼女が転げ落ちます。

 死神の手。私達と出会う以前から望んでいたことのはずなのに、なぜ怖がるのか私には不思議で仕方ありません。首を傾げてその様子を見守っていました。

 そして伸びていったその手が振り返って、私の頬を優しく撫でます。

「……え?」

「その前に一つ。貴方からね」

「私——から?」

「うん。お仕置き。なんでかわかる?」

 笑顔の裏にそこはかとない狂気。殺意だったはずの彼女の牙が、だんだんと私を餌として見る目に変貌して、首筋に向きました。

 噛まれた痛みはきっと故意です。これはお仕置き、私への懲罰なのですから。

 藻掻く肉体からだんだん力が抜けていきます。

「どう……して」

「私が命じたことは何?」

「めいじた……こと?」

「そう。でも、答えられそうにないね。ゆっくりお休み。私の——」

 そこで私の意識は途絶えました。けれどそんな痛みすら、快楽に置き換わってしまった私はきっと、毒され始めていたのでしょう。彼女の狂気に。


 私が命じたのは、絶対に手出ししてはならないということ。それを破った光莉には少し眠って貰っただけで、勿論殺してはいない。

 一点して冷静になった薫がその光景の整理に追いついたとき、また青ざめた顔でこちらを見ていたのが脳裏に焼き付く。

「死んでないわよ?」

 そう言いながら、彼女を抱えて遠くの椅子へ運ぶと、一度グラスに入った軟水をしゃくって深呼吸した。

「ちょっと聞かれたくないから眠って貰っただけ。もし血を吸い尽くして死んでたらもっと干乾びてるわよ」

「……まるで読めない。何がどうなっているんだ」

「さっきのはね、全部読んだ上で演技してたの。貴方にはまだ死ぬ気があって、ナイフを与えれば行動を起こすのは必然。それで光莉が咄嗟に前へ飛び出して来たのを責め立てて眠らせる。悟られないようにちょっと回りくどいやり方をしたけれど」

「……回りくどすぎる」

「あと貴方を殺す気はない。明言しておくわね」

 全て計算づくで、危険な博打でもあった。語る声音は狂気が抜けて、優しさ宥めるようだ。光莉に二人きりにさせろと言っても後で何かしらのアプローチはあったと思うし、何より彼女は訊き出すのが上手だし、直感が鋭い。

 だがお仕置きという名目なら、有無を言わせず排除できる。スキーの疲れも相まって朝まではぐっすりなはずだと自負している。

 私は邪魔者がいなくなったと胸を撫で下ろして薫を席に促した。

「さて、ここからは私と貴方の話をしましょう? 薫」

「まず、あんたのことは何て呼べばいい?」

「クリスカでいいわよ。あと先に言っておくけど私達は対等よ。無為な気遣いとか上下意識は感じないで」

「わかったよクリスカ」

「よろしい。あぁそれと、貴方の事は薫で良いかしら? もし本名が嫌ならペンネームの『黛 キエル』でも構わないのだけど」

「はぁ——薫でいいよ。人前でペンネーム呼びは慣れていないし、先生って言葉は鼻につく」

 やっぱりお見通しだと嘆息して薫が頷く。

 それを見て、光莉とは対照的だと無意識に思ってしまった。他意はない。

「それでその回りくどい事をした訳を聞かせてくれよ」

「いいわよ。ただし、光莉には内緒よ?」

 前置きと間を挟んで、私は薫を救ったことと光莉を眠らせた訳を赤裸々に示す。

「私はね。もうすぐ死ぬの」

 始発点は家出だった。アルタリィ家は過去、吸血鬼を統べるブラッディ家の親族であり、その名残や権力はこの現代にも受け継がれている。その名こそもはや一般の眼から遠のいたのだが、影響力は計り知れず、家族にはそれを矜持とする者も少なくはなく、大衆や身内からの体面を崩さぬようにと時代錯誤な教育や慣例が根強く残っていた。

 私の父もその一人だ。幼少期の口癖は「将来の我が家はお前が背負うんだ」だ。思い出すだけでも吐き気がする。

 要するに私は生まれながらにして自らの肉親に糸を引かれた自由のない憐れな吸血鬼の少女だった。付き合う人間も、将来の許嫁も、嗜む娯楽も、着ていた洋服も全部全部、家族や従える使用人たちが取り繕った。

 私の存在が行動で否定される。まさに薫に向けられた『マリオネット』という揶揄がちょうど良い扱い。

 屈辱的で、しかし少女の私には覆す力なんてなくて、十年の月日が経ったある日。屋敷の窓から見える鳥を見つめて思った。あんな風に自由に空を飛べたなら。自らの意思で、自らの足で踏み出せるならば。

 なら私を操る糸を全て断ち切って、屋敷を飛び出せば良い。そして私は羽ばたいた。拙い翼で未知な世界へ。

「連れ戻されて家出してを三回くらい繰り返して、今の私に至るのよ。どう? バカでしょう」

「けど後悔はしていないんだろ?」

「勿論よ。私は自由を得た。父との溝は抱えたままだけど、それでも思い出はあるものよ」

 話したことだけを切り抜けばとんだロクでなしだ。個人の権利に煩い現代人なら、まず間違いなく拒否感や嫌悪感を抱くだろう。

 それでも、愛情がなかったというのはまた違う。思い出も沢山ある。だからこそ、切ろうとも切り離せない。

 お互いの誤解が解けるにはまだ時間が掛かりそうで、私が生きているうちにはきっと叶わない。

「だが、君が死ぬこととの関連がとことん見えない」

「血の盟約。吸血鬼が百の夜を超えるために交わされる儀式」

「血の盟約?」

「長く付き添い捧げられてきた眷属と血を交わすことで、吸血鬼は百の夜を超えられる。私達には本来猛毒である人間の生き血を唾液との混合で無害にして打ち込むことで太陽への耐性を獲得し、永久に近い寿命を得る」

「吸血鬼が白日の下で生きるための儀式と考えて良いのか」

「そうでもあるし、眷属を生き長らえさせる儀式でもある。唾液だけじゃ寿命への耐性は薄いから。だけど反対に吸血鬼がその盟約を交わせなければ、私は月の光に焼かれて灰に変わる」

 薫の喉が唸ったが、同時に顎へ手を当てた。

「でも君達は血を飲んでいる。猛毒という意味が少し腑に落ちない」

「スズメバチの毒と同じよ。経口で摂取するなら問題はないの。その毒素は吸血鬼が持つ唾液の酵素で打ち消せる」

「傷口からも入るだろう?」

「吸血鬼の外傷はほぼ一瞬で完治する。病気や怪我に究極的な耐性を持っているからこそ、そういう強い呪縛があるの。傷のことなんて考えもしなかった」

 身体の傷なんてつかないのが当たり前だったから、彼女の問い掛けに少し意外な顔をしてしまった。

 吸血鬼だから不死身というわけではない。百の夜、つまりは百歳を迎える満月の夜までにその盟約を結べなければ、言った通り私は地に還る。

 小説家ならこの言葉の意味を取り違えるはずがない。茫然と、まるで死期を悟った老いぼれを見るような瞳でこちらを見ていた。

「どう? 迫る死を無抵抗に待ち構える吸血鬼を、目の前にした気分は?」

 尋ねると彼女は俯いて暫く沈黙してから、身震いを一つして呟いた。

「どうしてもっと早く伝えてくれなかった」

「言うにも人の眼とか、信用の問題があったからさ。光莉には聞かれたくなかったし」

「なら彼女にちゃんと説明してやれよ! 私を助けるためにクリスカを頼った彼女を!」

「本当はそうしたい。けど、きっと私の心が彼女といること、そうしようとする私自身を許さないと思う」

「死のうとした私が惨めじゃないか……私に、こんな私でも君の為に何かできることはないか?」

 無気力で絶望視しかできない薫の眼には、そんな私が憐れに見えたはずだ。死を定められた吸血鬼と死を自ら選んだ人間の、なんとも不思議な会話。衝き動かす起爆剤になったのなら、私も話した甲斐があったというもの。

「自分の事を手に掛けようとしていた癖に掌を返すのが早いのね。でもどうしようもないわ。こればかりはもう避けられない。命ある者に死を拒んだり、逃れるのは不可能だから」

「そうかもしれない。だが、悲し気に笑う人を見過ごしたくない」

「けど救える手立てなんてないのよ」

「あんたは生きたいと思ってるんだろう?」

「……残念ながらね。未練は沢山あるわ。だからこの旅で全て消化してやろうと思ってる」

 もはや自分の死になんて興味がないように振舞う薫。気に掛けられるほどの身分でもないだろうにと、そんな皮肉を喉元で押し殺した。

「でも貴方にしかできないことがあるとしたら」

「なんだ?」

 唇を切れんばかりに噛み、自分の無力さでも呪うような険しい表情に私が漏らす。

「あの物語の続きが気になるの。凛として伊吹の最終巻、主人公が結局誰も選ばずにヒロインたちと生き別れるのはちょっと切なすぎるから、その続きが知りたいな」

「……やってみる」

「私が生きている間に書き上がるかは、わからないけど」

「書き上げて見せる。絶対に」

「絶望していたのが嘘のようね。わかった、楽しみにしておく」

 虚ろだった瞳に炎が宿っていた。薫にもう死ぬ気なんてないと胸を撫で下ろす。

「だが、寿命を延ばす方法はないのか?」

「……あるとするなら」

「なんだ?」

 屋敷の地下に眠る書物の中で記述があったことを思い出す。危険で命の保証は恐らくないにも等しい方法だが、呟くように私は言った。

「一条の光を灯せるのだとしたら——彼女しかいない」


 ここは夢の中。クリスカさんのちょっぴり激しい吸血で眠らされてしまった私の頭の中の世界。

 アンティーク家具が犇めくノスタルジックなお屋敷の寝室。多分、行ったことのない私の想像の産物です。

 真っ白なシーツを乱すクリスカさんの手から力が抜けて、眠るように安らかな表情に変化していきます。知らない使用人がハンカチで目尻を撫でて、私は茫然と立ち尽くして冷たい手を必死に握っていました。

「私を」

 見捨てないで。言い募ろうとして唇が凍り付きました。

 お願い。捨てないで。私も連れて行って。貴方が連れ出したのだから、連れて行ってください。先に逝かないで。私を、また一人にしないで。

「クリスカさん!」

「わぁっ吃驚した!?」

 掛けられていた厚手の布団を天井に突き飛ばした私は、現在地がいたはずのレストランではなく私達に宛がわれた部屋であることに気がつきます。後ろで控えていたはずの記憶が途中からは断片的に残されていたからか、この光景に既視感を抱きつつも時計の針が確実に進んでいるからタイムリープはしていない。

 つまりここは紛う事のない現実で、あそこで寝てしまった可能性が高い。それを裏打ちするようにフリルの配された純白のエプロンは脱がされていました。

「申し訳ありません! 私ったら寝てしまったみたいで!」

「ミイラかと思うくらいのお目覚めだったね。魘されてた?」

「……はい。クリスカさんが一人、天国へ旅立ってしまう……そんな夢を見ました」

 アレが正夢にならないことを心の中で願いながら告げます。

「そ、そう。吸血鬼が死ぬ夢なんて珍しいわね。殆ど永遠に近い命だというのに」

「そうですよね。あっでも、それって血の盟約を交わさないといけないって習った気がしますよ。見込まれた眷属が吸血鬼の主様と永遠を誓うための儀式とかって」

 なんでも眷属と結ぶと吸血鬼は一生に近い命を得るらしい、と使用人に憧れていた私が家の者から習った知識です。

 少しだけ狼狽えたようにも見えたクリスカさん。まさか私の口から吸血鬼が死ぬなんて単語が出て驚いただけで、すぐに平静な心持ちに戻りました。

「熱でもあるのかな私。クリスカさんの前では失敗してしまうし、ましてこの服を着て寝るなんて」

「良い反応だったわ。主人の護衛についても申し分なしね」

「私を試されていたんですか?」

「まぁね」

 顔が青ざめました。あのナイフが仮にクリスカさんに向いていたらと思うと、死んでしまう夢も単なる夢想ではなかったことです。

「それに私も急に血が欲しくなっちゃっただけだから、貴方は何も悪くないわよ」

「それより薫さんは?!」

「もう安心して良いわよ。死ぬ気はなくなったって言ってたから。でも光莉の手、大丈夫かしら」

「手?」

「でも首を切ろうとしたナイフをどうやって止めるつもりだったの? 怪我をしていなければいいのだけど」

「幸い、傷はありません。最悪、私の手を串刺しにされても別に問題ないかなと思いまして……」

 吸血鬼がいるんですもの。その治癒能力を頼らないのは宝の持ち腐れです。けれど不服そうにクリスカさんは訝って、

「痛みで拉げた表情が見たくないから言ってるのよ。不問な訳がないじゃない。貴方は私の大切な友達なんだから」

「ごめんなさい……」

 しゅんと俯いて余計な手出しをしたと反省します。

「でも些細な気遣いで一人救えたのだからめっけものね。勲章ものよ」

 最後は頭を撫でて私を褒めてくれました。親の毛づくろいを受ける子ウサギのような恍惚な表情で受け入れて、動けなくなってしまいます。

 このまま時が止まってしまえばいいのに。私の願いも虚しく、秒針はカチリ、カチリとリズムを鳴らして刻んでいたのでした。


 そんな事件が過ぎ去って、クリスカさんとの処女旅は四日の月日が経過しようとしていました。

 部屋に置き土産、とどのつまり忘れ物がないかをすべからく確かめて、私達は四日間お世話になったホテルの一室を後にします。

 あの夜以来、薫さんと顔を見合わせることはなく、クリスカさんの言葉に頼りっきりになっていました。何度か様子を見に行って曰く、生きていることと作家として再出発するべく原稿と戦っているそうです。

 前に進みだした彼女の健闘を祈りながら煌びやかに輝くホテルのエントランスに辿り着くと、私達を見送るホテルマンたちの花道が伸びていました。

「盛大なお見送り……ですね」

 ちょっと引きました。これが現代にも蔓延る吸血鬼の影響力。それを前にして、素直に出た感想がコレです。

 特別扱いというのも、なんだか心苦しいような気がしていたのかも知れません。口には出せませんが、その花道をすかさず潜ってタクシーへと乗り込みました。

「あの見送りって毎回なんですか?」

「えぇそうよ。私も出来れば避けたいんだけどね。悪目立ちするし。避けようとしても彼らの心遣いというか、直感には勝てないのよね。どんな手遣ってもこっちのチェックアウトの時間読んでくるから」

 避けようがないとクリスカさん。言われてみれば出る直前から視線を向けられていた感覚もありました。

 贔屓というのも良い事ばかりではない。思い知らされた気分です。

 雪国の只中を行きと同じように何食わぬ顔で進む地元のタクシーは、ものの三十分程度で函館市内に入り、そのまま高速フェリーが発着する七重浜の函館港へと滑り込みます。

「次の目的地は何処に?」

「北陸かしらね。また夜行列車だけれど、飽きてない?」

「愚問です! もう慣れましたから!」

「頼もしい。でも、またシャワールームで叫ばないでよ?」

「あ、あれはクリスカさんがぁ!」

 情けない声が港のロータリーについた車内で響きました。

 押し固められた雪の大地に再びその足がついた矢先、遠巻きに聞こえるフェリーの汽笛が私達に挨拶をしてくれています。北の雄大な大地に接岸するその船は、まるで舞踏会へ連れて行ってくれる魔法の馬車のように、燦々と金色の輝きを放っていました。

「トンネルが通っても絶えずこの船はここと本州を結び続けている。不死鳥のように」

「詩的ですね」

「風情あるでしょう?」

「えぇ。溢れるくらいに」

 月下、クリスカさんに手を引かれて、私はタラップを伝いフェリーへと乗り込んで、北海道を脱出したのでした。

 出航から数十分。陸に挟まれた津軽海峡を往くフェリーの船上。デッキから望める底なしの大海原へ、私は耽る思いを垂らすように視線を伸ばしていました。

 あのレストランで言い合った一幕。あの時の薫さんが正気であったかは差し置いて、私に掛けた言葉の真意はなんだったか。ずっと考え込んでいます。

「薫とのこと?」

「ふぇっ!?」

「いや、なんか悶々と海を眺めているから、きっと言い争いのことで悩んでるのかなって」

「わかっちゃいます?」

「図星だったのね。適当、というより当てずっぽうだったんだけど」

 喧嘩別れの言葉通り、言い放ったことや我を忘れて感情的に責めてしまったことを謝れてない罪悪感と遣る瀬なさ、心残りが延々と私の中で回り続けていたのです。

 それを感づいて、ついに直接私へ尋ねたのでした。誤魔化しようがなく、首肯します。

「酷い事したって自覚はあるんです。乗せられたというか、感情任せに酷い事を言ってしまったことを、謝りたかった」

「後味が悪いか……若気の至りって煩わしいようで、過ぎてみると懐かしくて美化されてしまうのよね」

「クリスカさんも、こういう時期が?」

「まぁ、そうかな。昔、好きな人がいたの」

「好きな人……すすすすす、好きな人!?」

「ちょっと声が大きいわよ」

 顔を真っ赤にしながら、思わず大声で聞き返してしまいました。意外も意外、まさしく晴天の霹靂が如く言い放ったクリスカさんですが、そこには微塵も恥じらいもなく、むしろ哀愁すら漂っていて、表情も懐古に想い耽る微笑みが現れています。

「失恋したんだけどね。次の旅は件のその人に会いに一路日本海を伝って南へってところかしら」

「クリスカさんを射止めた方……ぜひお会いしてみたいです」

「……物凄くハードル上がるなぁ」

 上げたのは私ではありませんよ多分。

「まぁ話を戻すんだけども」

「無理やりですね」

「意外と恥ずかしいのよもう。光莉の心配は杞憂よ。あらかじめ言っておくわ」

「杞憂?」

「まだ薫との糸は切れていないという事よ。まぁ離れていても秒速で伝えたい言葉や想いが伝播する現代だと、離れ離れってことの実感が薄いけれど」

 それでもやはり、と食い下がりそうになりました。もはや戻る術などなく、いくらクリスカさんに弁じていても何も伝わらない。

 理解しつつも煮え切らず、言葉だけが込み上げてきます。けれどそれを伝えるためだけに私が泳いで戻るとかは不可能で、船を差し戻すということも考えましたが一個人の願いの為だけに周りを巻き沿いにするのは尚更無茶な発想でした。

 下唇を噛みながら、私は遠ざかる北の大地に目を向けます。あの雄大な大地に大切な何かを置き忘れた気分で。

「言いたいことがあるなら、叫んでみるといい」

「叫ぶ?」

「心を持つということは時に不思議でね。離れていても言葉が通じ合うことだってあるの。以心伝心という奴かな?」

 まさか、とも思いましたが気晴らしには丁度良いかもしれないと、私は腹に息を溜め込みます。

「薫さぁぁぁん! 酷い事言ってしまってごめんなさぁぁぁい!」

「そう叫ばなくとも聞こえているぞ、光莉」

 不思議です。手に取る様に薫さんの声が耳に残り、

「って、え?」

「さっきから見ていたぞ。クリスカも少し悪戯が過ぎるんじゃないか?」

「人の驚いた表情とか、愕然と立ち尽くす様を見るのが私の好物の一つよ。覚えておくといいわ」

「いつ……から?」

「階段のところでずっと出番を待っていた」

「じゃ、じゃあ、さっきまでクリスカさんに打ち明けてたことも全部」

「聞こえていた。それに関しては、何か悪いことをしたかな?」

 顔全体が沸騰するように熱くなっていくのが分かりました。なんだかずる賢い。

「とっても悪いですよ。心配……したんですからね」

 擦れた声で言い募ると気づけば視野が霞んで大粒の涙がこぼれていました。

「言い出すタイミングが分からなくて、ここに来るまでずっと黙ってたんだ」

「照れ隠しのつもりですか……でも良かった。また、顔を見ることが出来て。何も知らず、口任せに酷い事を言ってしまって、本当にごめんなさい」

「お互い様だ。私も君を蔑んだ。すまなかった」

 言い尽くせない。ごめんなさいでは足りない気がしました。けれど言葉が、何を言えばいいのかが分からない。

 ただじっと薫さんの瞳に視線を重ねます。彼女も私と同じで釈然としないまま別れるのが嫌だったのです。

 人間の本心を完全理解する術は今の人類にはないけれど、行動で示される意味は感じ取れていて、不安が霧散していきました。

「もう死なない、どんな事があっても。それを君に誓いたくて、ここに来た」

「私なんかで、良いんですか?」

「当たり前だ。君が見つけてくれなければ、ここに影すら留めていないから」

「では、その誓いを確かに受け取ります」

 硬い握手。その手は滑らかで大きく温かい。血脈の張り巡らされた生命の証明です。

「敬語は止してほしいかな。私達、奇しくも同い年な訳だし」

「同い年だったんですね」

 てっきり年上かと。

「それから」

 薫さんは顔を背けて言い淀み、一度咳払いをします。

「光莉とクリスカに恩返しがしたくて、しばらく旅に同行しようと思ってる。二人をモデルにして新作を書きたいんだ」

「わ、私達をモデルに?!」

「ダメかな?」

 モデルだなんて光栄ですが荷が重い。困惑して思わず顔を窄めると、薫さんの表情が曇ります。

「やはりだめか」

「ダメと言うわけではないのですが……」

「ハッキリしちゃいなよ光莉。喜ばしいけど気恥ずかしさもあるんでしょう?」

「え、えぇまぁ」

「物は試しよ試し。私達をそのまま使うんじゃなくて、モデルになるだけだから、誰も気づかないって」

「そ、それならいいです」

 快諾という表現が相応しくなのは百も承知ですが、その提案を呑みました。

「作家『黛キエル』先生の登場人物になれる日が来るなんて夢のよう」

「黛先生って、薫さんが?!」

「おい、その呼び方はあまり好きじゃないと言ったじゃないか」

「あら、つい口が滑ってしまったわ薫。でも打ち明けておかないと、光莉が辿り着けないわ」

「それは最もらしいが……」

 頬を掻いて目を泳がせる薫を愕然と私は凝視していました。

 後で由来とか、いろいろ聞いてサインを貰おう。秘かに画策して、私達は次なる旅の終着点へと馳せていきました。


 閑話休題。連絡船を降りて数週間、青森で滞在した後の事。列車が光拒む宵闇に発つ直前のお話です。

「あっ今川焼」

 駅構内のメインストリート。地元のお土産屋台がずらりと軒を連ねる中に、クリスカさんが一際異彩を放つお店を見つけて袖を引っ張り呼びました。

 何枚もの円盤状の鉄板が並んだガス台で焼かれるきつね色のお菓子。あんこやカスタードを中へ入れて食べる今川焼です。

 けれど私がすかさず、

「いえ、アレは今川焼ではなく大判焼きです」

「そうとも言うな」

「買っていかれます? 大判焼き」

「今川焼じゃないの?」

「大判焼きです」

 訂正して頑なに譲りません。紅い暖簾には黒い文字でしかと大判焼きと書かれています。

 世の中には名称や好みの争いが付きません。犬か猫か、ケチャップかマヨネーズか、あんこかカスタードか、半熟か固焼きか、きのこかタケノコかなどなど。数えていてはキリがないほど。

 かくいうこの目の前で次々と焼かれるコレも例外ではなく、しかも二者択一ではないのでした。

 足を止めて私と眇めた瞳で微笑するクリスカさんの視線が交錯しました。

「光莉は、そう呼んでいるんだ」

「大判焼きでしかないです。むしろ他の呼び方は初耳です」

「でも今川焼がしっくりこないかしら?」

「そうでしょうか?」

「ちなみに地域で呼び方が違いみたいだ。関東圏は今川焼で通用している」

「我が家では大判焼きと呼んでいるんです。関東ですけど」

「珍しいな。するとご両親のルーツは関東圏外か」

 割って薫がその差違を説き解くと、「なるほど」と私は納得していました。

「まぁ、どっちでもいいわ」

 そう言って、クリスカさんが屋台に寄って行き、私達も背中を追うように遅れてやってきます。

「カスタードを三枚」

「はいよ、回転焼きカスタード三枚!」

 私とクリスカさんは思いっきりずっこけました。それはもう、建物も揺らす勢いで、足を滑らせて。




 走り出せばいずれ終着は訪れる。列車がそうであるように人生も例外じゃない。三段ベットの一番下で徐に呟きました。

 クリスカさんは人の生きる道をよく列車に喩えられます。漠然として哲学的ながらも、万物が持つ死という概念を謳うそれは、私もはっきりと感じられました。

「藪から棒にどうしたんだ?」

「ぼんやりと浮かんできたのよ。他意はないわよ?」

「その一言で人生の深みを味わえる素敵な詩です!」

「光莉ってクリスカに結構毒されているんだな」

 毒されているというのは心外です。大判焼きにかぶりついていた私は手を止めてムッと頬に膨らませますが、最上階なので誰も気づくことはなく、スルーされます。

「家族ぐるみの付き合い、というよりは実家の屋敷に代々従えてる使用人の長女なの。敬語が常だったり、気遣いに長けてたりするのも、もはや遺伝子レベルで刷り込まれてるからなのかもね」

「気遣い……なのか」

「えぇ。そうよね?」

「何を——本心ですよ」

 三段寝台で繰り広げられるやり取り。勿論、クリスカさんのポエムに感無量なのは疑いようのない本心です。

「でも、そろそろ敬語は卒業してほしいかもね」

 とクリスカさん。

「敬語を卒業?」

「耳にタコができるほど聞かされているとは思うけど、私達は対等よ。歳の差とか家系とか、そういうシガラミはこの際全部なし」

「シガラミ……ですか」

 これがシガラミだなんて思いもせず、いざ払ってしまえと言われると言葉に詰まりました。

 私からすれば、クリスカさんは仕えるべき吸血鬼なわけで、今もその関係性、概念に変わりはありません。

 口を紡いで熟考します。果たして彼女が望む平等とは一体なんなのでしょうか。その答を掴めないことに焦燥感で一杯になりそうでした。

「まぁ、難しいのならいいの。私のわがままだから」

「左様ですか……」

「貴方らしく生きればいい。そうだ、ねぇどうして使用人を目指そうと思ったか教えてよ」

 やる瀬ない気持ちが霧散し一点、私の声に活力が漲りました。

「母の姿を視て、後を追いかけようって思ったんです。淑やかで凛々しくて、それでいて主様であるクリスカさんのお父様に尽くす姿が、私の脳裏から未だに離れない。あとは、給仕で着る給仕の服がとても可愛らしくてっていうのもありますね」

 脳裏に過る幼少期の記憶、お仕えする吸血鬼の方のお屋敷へ遊びに行ったときの事。

 黒いロングドレスと純白のエプロン、さながら舞踏を踊る様に身の回りの仕事をテキパキとこなす姿が、当時の私にはとても凛々しく秀麗に映っていたのです。

 何より激務を眉を顰めることなく、淡々と片づけていくそんな母に途轍もない衝撃と感動を覚えていたのでした。

「給仕の服、俗にいうメイド服にもいろんな種類があって、エプロンとかカチューシャにも細部で仕様が違ったりするんですよ」

「ついぞこの前、初めて動く実物をお目に掛かったばかりだから、動きづらそうとか思ったりしたのだが」

「肌触りなんかはとても滑らかで着心地良いんですよ。しっかり採寸されているので引っ掛かったり、スカート踏んじゃったりすることも殆どありません」

「ほぉ」

「興味ありますか?」

 薫さんは言葉を詰まらせました。まさかと感づいたのでしょう。

「見るだけなら」

「着てみましょう!」

「え?」

「え? 見てるだけではその真価は計り知れません。そうだ、いつか私のお屋敷へ遊びに来てくださいませ! 本物のメイド服をお召しいただけます故!」

「い、いや。私には似合わないと」

「そんなことありません! むしろその勇ましさがギャップと相まってうへへへへ」

 悦に浸っていました。獅子の鬣のように膨らんだ女性がフリフリのメイド服に身を包む姿はまさに至高。溢れ出んばかりの想像をハッと我に返って首を振りました。

「私も見てみたいかも。薫のメイド姿」

「冗談は止してくれクリスカ。でも、光莉の屋敷というのも一度ぜひ見てみたいものだ。取材も兼ねて」

「じゃ、じゃあわかりました。一日メイドを体験して貰って取材ということで」

「なぜ私がメイドになる前提で事が進んでいるんだ……」

 そんな約束を私は気ままに頭へ焼き付けました。


 寝台列車の終着は目覚めて間もない北陸の中心駅『金沢』。新幹線の建設でブルシートが目立つ高架駅に停車した列車の扉を降りたクリスカさんに続いて、私と薫さんもプラットホームの黒に色を付けます。

 まだ目的地というわけではなく、けれど次の電車までは時間があるというので小休止を挟むことになりました。

 駅前に出ると、一際巨大な鳥居のような門が現れます。

「よくテレビで見るアレですね!」

 名前が出てきません。

 二本の大木に絡んだ幾本の柱に均一な升目が掘られた天井。まずその荘厳な門構えに圧倒されて、どこまで行けば私のファインダーに収まるか、想像もできませんでした。

 しかしこの門、その姿形には既視感があるのですが、多分ほとんどの日本人はよくテレビに出てくる門としか認識していないのではないかと心で秘かに抱いています。

「鼓門ね。能楽で使われる鼓をイメージして建設された現代アートで、恐らく駅前であるモニュメントとしては東京駅の次くらいに大きい建造物よ」

「やはり、日本の駅というのはとてもユニークな物が多いな」

「薫にしては意外な反応ね。てっきりこういう建築物とかは創作の種にするから見慣れているかと思ってたけど」

 私は走って天井に目を凝らしてはしゃいでました。

「どちらかと言えば西洋風の館とかを参考にするんだ。こういう、あまりにスケールが大きすぎる建物は内部が複雑で迷うわ、外観のイメージとは掛け離れた近未来的な内装であまり参考にならないんだ。人にもよるが私はね」

「作家も複雑ね」

 難義な境遇に腕を組んで同情の言葉を掛けるクリスカさん。

「まぁ、クリスカほどじゃないさ」

 私から少し離れたところで内容は聞き取れませんが二人は談笑に盛り上がっているようでした。

 すると遠雷のように低く野太い鐘が鳴りました。その音源を探すように眼を走査すると、大通りの手前に聳える大時計を見つけます。

「あっそうです。クリスカさん、太陽が出るまであと一時間程しかありません! ホテルに急がないと」

 午前五時を指す針に私は慌てふためきました。けれど当の本人はとても冷静で、むしろ太陽なんてクソ喰らえと言うような余裕の表情です。

「心配ないわよ。多分、そろそろだから」

「そろそろ?」

 含み笑いでロータリーに目をやると、一台の大型バスが交差点を曲がってきます。夜行の長距離バスにしては派手な銀のエングレーブと豪奢で荘厳な巨体が徐に止まり、片開きの自動ドアが開きました。

「あー、あー居た居た。もうこんな朝早くから呼び付けるなんて老人には酷だと思わないのかしらクリスカったらーもぉー」

 出てきたのは初老の女性。サラリと靡く白髪に柴犬のような細くもくっきりとした眉。厚手のコートと変哲もないジーパンを召した見た目はごく普通の叔母様が見かけに外れて走ってやってきます。

 言葉でこそ過酷さを訴えていますが裏腹に顔は満更でもない開き切ったひまわりのような満開の笑顔が咲いていました。

「久しぶりねぇ。今度はどこの帰り? 大阪? 京都? あら九州かしら」

「残念だったわね美喜恵。全部外れよ。北海道」

「まぁ随分と遠くから来たのねぇ。っと、この方々は?」

「旅のお供。最近知り合った人たち」

「あらまぁこれは失礼を。私ったら年甲斐にもなくついはしゃいじゃって、自己紹介が遅れちゃったわ」

「いやまぁ、大丈夫だ……あっです」

「堅苦しいのは無しでいいの。茂木 美喜恵よ」

「薫、佐伯 薫」

「七見 光莉です! えっと、クリスカさんと旅をさせていただいてます!」

 頭を垂れて一礼。

「元気がある子大好き! ささ、外じゃ寒いし中でゆっくりお話しいたしましょう」

 背中を押されて車内へ。その勢いに気圧され、私と薫さんはもはや為すがままです。

 中には冷蔵庫やテレビ等々、誰の手向けなのかと首を傾げるほどの至れり尽くせりぶり。

「でもバスってなんか物々しくないでしょうか?」

「クリスカはド派手な演出が好きなの。もうとびっきりのね」

「もう卒業したわよとっくの昔に」

「あらーそうだったかしら? その割に巷では豪華と謳われる寝台列車を乗り回してるって聞くけど?」

 ぐぅの音も出ないと言った渋い表情。けれど嫌な気はしていないようで、バスに乗り込むと真っ先に美喜恵を隣に呼んで座らせると——

「意地悪は止してよもう」

 語尾が薄れていきます。顔を覗こうとするとそっぽを向かれてしまい、そんな様子を見る薫さんはあっけらかんとしていました。

「照れちゃってねぇ。若いって良いわねぇ」

「美喜恵は、その大分変ったわね。皺が深くなったって言うか」

「これでもお若いって言われるのよ人間の間では」

「人間? あの差し支えなければで良いんですけど」

「私、茂木美喜恵は人間じゃないんですか? って質問でしょう?」

「は、はい。読まれてた」

 暫し黙って含み笑い。

「そうねぇ。謎の女、というのはありきたりかしら。んー即興で何か考えるのはやっぱり苦手ね」

 苦悶しつつ、考え出された答えに私達は度肝を抜かれてしまいました。

「恋人かしら」

「恋人ですか!?」

「片思いだけれど、それはもう熱烈に私の事を好いてたみたいで」

「それ以上はたとえ美喜恵でも実力行使に」

「あらあら、大好きな人間に乱暴できないくせに」

 押し黙ってクリスカの目線は外へ。完全にペースを握られてしまい、何かを言い淀みました。

「恥ずかしい過去に苛まれてる……なんてことはないかな」

「んなぁぁぁぁぁ! 美喜恵喋るの禁止!」

「この二人、何があったんですかね」

「さぁな。でも、心配するようなことではないことは確かだ……他人様の恋路に口出しはしない方がいいな」

「……はい」

 他人事ではない気がして、私の頬を紅潮していました。

「けど、何年ぶりかな」

「七年かな。会いに行ってばっかりだったからここで会うのは久々だね」

「七年経っても変わらない。ここは、いつも私の安心できるところ」

「そう言われると誇り高いわね」

 車窓から望む紺色の空と密集した雑居ビル群の街並み。段々鉄筋と混凝土の森が自然に覆われ始めて、幹線道路は木々の合間を縫って未開の地へと誘うように駆け抜けていきました。


 美喜恵さんが得意げな様子で案内する古風な趣のこの旅館は何を隠そう彼女が統べるお屋敷でした。クリスカさんは以前から存じていて、よく通っていたとかで、気づけば彼女が抑えていた日当たりの悪い角部屋へ籠っていました。

「あの子はいつもそうなのよ。朝来て、すぐ部屋に籠るの。私が居てもそうだから、いいの。寝る子はよく育つ。あの子はほんの五十余年前から成長する兆しがないけれど」

 全く気にする素振りのない美喜恵さん。熟知していて呆気なのと私以上にクリスカさんの事を気に掛けたり、知っていることが少し悔しい気もしました。これが嫉妬でしょうか。

「お昼の間はお二人とお話しようと思ってたから」

「私達がいることもご承知だったのですね」

「久々に連絡が来たと思ったら、今日は三人だって聞いていたから興奮していろいろ考えちゃったのよ。それで遠路遥々、北陸まで足を伸ばしてくれたこともあるし、せっかくだから地元のお魚とかお野菜で作ったご馳走を囲みながら」

 名案です。私は屈託のない笑みで頷いて後を追いました。

「けど、いいのか? 旅館の朝と言えば、旅行者のチェックアウトでごった返す忙しい時間帯じゃ?」

「お客様の事なら頼れるスタッフのみんながいるから心配ないの。むしろ、一線を退いた老人が混ざっても変に気を遣ってしまうから迷惑でしょうし」

「そういうものなのか」

「えぇ。旦那にも先立たれ、仕事も勇退したんだから長閑な田舎で一人死ぬまで隠居したいわね。もう十二分に尽したから」

 遠い、果てぬ空を見上げるような寂しい瞳で語ります。

「もう身体も無理が効かなくなってきたからさっさと誰かに預けようと思っていたのだけど」

「でも、凄くお若くてお元気そうに見受けられますけど」

「そう? 嬉しいこと言ってくれるじゃない光莉ちゃん。でもね、こう見えても私、九十越えのおばあちゃんなのよ?」

「きゅ、九十!?」

「全然、そうは見えない」

「よく言われる」

 華奢で老いも感じられないその出で立ちに半分冗談だと思ってしまいます。いえ、多分冗談でしょう。

「本当?」

「本当。後でクリスカに聞いてみるといいわ。歳の近い人間の友達って言うと、もう私くらいなものじゃないかしら」

 啖呵を切るのならきっと嘘ではなく真実だと確信します。

 そして、廊下を歩き切った旅館の奥深く。襖で仕切られた角部屋に、割烹着姿の女性が一列になって私達を出迎えてくれます。

「さぁ、たんと味わってくださいませ」

 低い檜のテーブルに所狭しと並ぶ和食料理の数々。刺身に漬物、一口サイズの昆布が浮かんだ煮え滾る小鍋の横には鮮やかなピンク色の牛肉が華のように盛られた大皿と、別に野菜と白みを帯びる魚の切り身が添えられた大皿。

 そして前で大きく手を広げ、誇らしげに私達へ改めて歓迎の挨拶を告げました。

「ようこそ当館『湯楽屋』へ。従業員一同を代表して歓迎を申し上げます」


 用意された料理に舌鼓を打ちながら、私はクリスカさんと出会ったきっかけや場所、どんな雰囲気だったかの顛末を事細かに話していました。

「あの子らしいわ。好奇心のままに人と仲良くなるの」

 物凄く的を得ていて深く頷きます。私をこうして拾ってくださったのはまさに高速列車のホームで涙を流していた姿に手を差し伸べてくださったからなのです。

「私はクリスカさんのおかげでとても救われたんです。家が代々吸血鬼に仕える従者を排出していた一家で、慣例にならって私もその使命を全うしようと思ったのですが、私の血の味は最悪なようで、初めての吸血で使用人をクビになることが多かった」

「それも酷い話よね。血の質だけが人間ではないのに」

「そうかも知れません。でも吸血鬼の主様達にとって血の安定した供給は死活問題、ライフラインの一つです。人間は意志や人格、人権を持った食材。吐いて捨てる程の人、つまり食材があるのなら良質なのが最低条件になります」

 同情を肯定的に受けつつも、現実はそうでないことを言うと、美喜恵さんの顔は曇っていきます。

 しかし本質は人と一緒で、普段スーパーや市場で食材の品定めをするように、吸血鬼も人間を性格や能力、血の質で評価し、使用人や眷属として適正があるかを見極めて屋敷に置くのです。

 何も吸血鬼に限った話ではない。私は理解しつつもあの何度も咽るような過酷な日々を思い出して唇を噛みます。

「終わったことですから、幾ら足掻いたってもうどうしようもない。理解していますから私は」

 恨んでなどいません、その言葉を思い起こしたとき途端に詰まりました。

 心の底からこれまでの仕打ちを恨んだことなどなかったはずなのに、いざ言葉にしようとすると頬を一粒の煌きが伝っています。

 そもそも根本、本質は吸血鬼や人間という種族の問題ではないかも知れない。捨ててきた個人に対する怒りや憎しみという感情。

「どうしてだろう。泣きたくないのに」

 分からない。焦点も合わない視線で薫さんと美喜恵さんを交互に見つめて言葉を、泣いている理由を問い掛けるように視線を向けていました。

「泣いていいのよ」

 足音を殺して接した美喜恵さんが私を胸に抱き寄せます。

「泣きたいときは一杯泣きなさい。涙を我慢することなんてないの。溜め込んで吐き出せずに抱えていると、いつかっ自分に返ってくるから、いいの。辛いことを思い出させてしまってごめんなさいね」

 力強い抱擁。言葉にならない嗚咽で、ありがとうと答えます。

 生きている。心臓の鼓動がする。温かくて強い脈拍は冷たいクリスカさんのとはまた違う安心感がある。私は人間であることを再認識させられます。

「突然、こんな距離感を見誤ったことされるのは嫌いだったかしら?」

「とても暖かくて、癒されました」

「なら良かった。こんな私で良ければ何でも相談に乗るから教えて頂戴」

「じゃ、じゃあいいでしょうか」

「えぇ。勿論」

 促されて私は秘めていた悩みや想いを打ち明けることにしました。

「クリスカさんと旅をする前、私は彼女から対等だと言われました。けど、イマイチそれがわからなくて困っています?」

「それは——どうして?」

「私はクリスカさんの一族に仕える使用人です。だから対等という関係は畏れ多いと言いますか、想像に難くてどうしたらいいのでしょうか」

 たびたび口にする言葉です。薫さんにそう念押しして言っていたのは記憶に新しい所で、しかしそれを彼女は感覚的に呑み込んだように見受けられます。

 かくいう私も努力はしています。クリスカさんが本音を望むならそれに応え、隠すことなくすべてを打ち明けているつもりです。

 でも、対等ではないとクリスカさんは言います。

「多分、対等という意味の取り違い、相違だと思うわ」

「相違?」

「変な気を遣わなくていいとか、多分口にすることはだいたいわかるわ。彼女はね、昔から一人だったの。使用人の人達はいるみたいなんだけど、その方々もほっぽり出して旅に出てるからずっと一人。畏怖と敬意である意味差別され続けているから同じ立場の友達が欲しいのよ。あの子の青春ってやれ戦争だ純血の継承だーってシガラミが多かったから」

 外見は年頃の乙女。裕福が故に青春を謳歌できなかったから、形だけでも平和になった世界を旅してみたい、外へ出て誰も知らない街や場所で人間関係を作りたいと思ったのだそう。

 私には想像もできません。親の敷いたレール、始まりも分からない先代たちが築き上げた誉高い地位を守ると、母のように凛として使命を全うするのが夢だった己とは、あまりに異質過ぎたから。

 ようやく腑に落ちる答えを導いて貰えた気がします。けれど、自分の遣る瀬無さにも苛まれていました。

「ありがとうございます。けどごめんなさい。本当はその答えを自分で見つけなきゃいけないのに」

「その姿勢が大事」

「え?」

「これは私の勝手な想像だけれど、貴方はきっと一人で何でも背負いこんでいなかったかしら?」

 息が詰まって言い淀みます。見透かされたようで、私は眼を泳がせてから一度深呼吸。

「……そうですね」

 首肯して目配せしました。

「相談できる人もいないように思えたし、何より私が弱音を吐いていたら周りの人達が不快な気分になるんじゃないかって、とても怖かった。でもクリスカさんとの旅で変わってきたような気がします」

「あの子には人を変える力があるの。まぁ私は梃子でも動かなかったけれど」

 懐かしむように遠くを見つめて美喜恵は呟いた。


 豪勢な朝ごはんを終えると、美喜恵さんから街へ繰り出してはどうかと嗾けられたので、薫さんを連れて湯楽屋を飛び出しました。

 駅から電車に揺られて、行く道を辿るように戻って金沢駅へ。全てはクリスカさんはまだ起きないからサプライズ用の食材を買い出してきて欲しいという言葉からでした。

「事前に特急券まで用意しているなんて思っても見なかった」

「クリスカさんが聴いたら、さぞ羨んだでしょうね」

 能登半島の奥地、七尾や和倉温泉から金沢へ出るには普通電車か特急電車の二者択一。頼まれてから差し出された特急券を最初は拒みましたが、勢いに気圧されて現在、四葉のマークが描かれた昔で言うところの一等車の一人座席を回転させて、薫さんと相対しています。

「予算ねと渡された封筒然り、あのおばさんの金銭感覚がまるで掴めない」

 今にも破裂しそうなほど膨らんだ封筒。メモとサプライズの為の予算が仕込まれていると言い、列車の乗ったらそおれを開けても良いと仰せつかっていました。

 早速開封。札束を横目に一緒になっていた用紙を広げます。

「……あの」

 中身に思わず絶句しました。

「どうした?」と薫さんが上から覗くようにして眼をやります。

「白紙……か」

「白紙ですね」

 真っ白な紙。車内の照明を悉く反射する純白無垢な紙。

「本当に奇妙で、天邪鬼なおばさんだ。しかも思惑深い」

「私達で考えて揃えてくれってことですか」

 途方もない難題でした。というのも、私達二人はまだ出会ってそう長く経っていないからです。

 クリスカさんの事をあまりにも知らなすぎる。無理はなく、彼女が自身の事を語るのは稀であって、薫さんと首を傾げて訝しみます。

「考えても始まらないな。なんか心当たりがあるものはないか?」

「えっと、血」

「またクリスカらしいな、というか吸血鬼だったものな。だがどうする? 吸血鬼が一般にいるとは言え、小売店では取り扱ってない。別の物にしよう。他にないか?」

 尋ねられますが、他に思い当たることと言えば……これは食べ物ではないですね。

「んー食べ物限定ですもんね」

「他にあったら、何を送ろうとしてたんだ?」

「クリスカさんとの旅の歴がほんのちょっと長いだけですけど彼女、飛行機とかバスとか絶対に使わないんですよ。強いて言えばこの前乗ったタクシーくらいで」

 前置きに耳を向けていた薫さんが察したように視線を眇めます。

「まさか、電車を送ろうとか考えてなかったよな?」

「ご名答です! 凄い、やっぱり作家の方ってそういう人の考えとか読めちゃうんですか?」

「何となく察しはついていた気がする。ここへ来るのも列車だったから。ってか、電車なんて送ったってどこに置くのだ」

「チッチッチー甘いですよ薫さん」

「なんか唐突にキャラ変わり出したな」

「何も動かない電車を送ろうなんて考えていません。どうせなら動く電車を送ればいいんですよ。常に移動するクリスカさんにとってはまさに動くお屋敷。南へ北へクリスカさんの思うがまま、自由です」

「食材に限定されていて良かったよ」

 薫さんの嘆息を一つこぼしました。

「でも食べ物限定だと、そうですねぇ」

「のどぐろとかカニはありきたりだよな。北陸と言ったら如何にって感じだが」

「サプライズ……サプライズ」

 巡るめく思考ですが、とても正解には辿り着けそうになく、車窓と時間だけが流れていきます。

「まぁ考えても仕方がない。街へ出て着の身着のまま回りながら探そう」

 ないものを強請ってもラチがあかない。そう察して私達は考えることをやめました。

「でも、ちょっと歯切れが悪い」

「歯切れが悪い?」

「恋人と言うには距離が開きすぎているようにも思える。どちらかと言えば親友だ」

「ちょっとユニークな人でしたから冗談の一種では?」

「うーん」と顎に手を添えて唸る薫さん。どうにもあの違和感を払拭できないようです。

「二人の間柄だし、詮索は禁物だな」

「ですね」

 そう言うと、雲が浮かぶ青い寒空を眺めていました。


「あの子たち、白紙の意味をしっかり理解したかな?」

「大丈夫よ。そんなに鈍感じゃないわよあの二人」

 夕方の湯楽屋の一室。日当たりが悪く滅多に客の入らないその和室は、数十年前から専らクリスカ用になっている。

 横長の座卓に茶を淹れて向き合うクリスカと美喜恵。

「たまには事前に連絡したらどう?」

「連絡しているわよ。何か不満?」

「もっと前から連絡しろってことよ。カレンダーに印付けて、待ち遠しいなってソワソワできないから」

「いいわよそんなことしなくて。年甲斐にもない」

「あら、こんな体にしたのは誰の」

「はいはい私のせいです。もう耳にタコが出来てるわよ、美喜恵っていつも意地悪」

「ふふーん。好きな子には強情張れないのよね。そこが憎くも可愛いけれど」

「うっさい!」

 ガサツな返事でクリスカは茶を啜る。それからしばらく黙りこくって美喜恵が茶を一口飲むと苦しそうな引き絞る声色で尋ねる。

「盟約の日まで、あと何日?」

 虫の報せというには、タイミングが計られ過ぎていた。美喜恵にさえ打ち明けていなかったのだが、ただ知っていても不思議ではない。

「……そうね。あと月が何周かした頃だと思うよ」

「はぐらかさないで。わかるのよ。前よりやつれてる。多分これが最後でしょう?」

「馬鹿ね。まだ死ぬ気は毛頭」

「無理して、誰かを安心させようとするのはもうやめてよ。クリスカのそういうところが嫌いよ」

「そりゃどうも。でもね、どうしようもない。天寿よ」

 濁すに濁せず、視線を泳がせながらクリスカは言う。

「天からのではないでしょう。貴方が、ただ助かる道を、生きる道を放棄しているだけよ。そんなの」

「そうよ。私にとって、もうこの世界は居るべきところじゃないの。ずっと旅を続けながら考えてきた。もう百年も生きたのだから終わらせてほしいって」

 いつも身勝手な彼女だが、美喜恵は言い淀む。望み通りにすべきなのは重々理解している。人の人生なのだから、過干渉は避けるべきだ。

 その信念を貫き、前々から心に留め置いていた。彼女自身の人生、鬼生ともいうべき一生なのだから。

 けれど死を望んでいる、すでに見切りをつけているからと言って目の前で大切な人に死なれるのはあまり良い気分ではない。死の瞬間を明確に知っていれば尚更だ。

「遺される人の気も知らずに……」

「……ごめんなさい。死にたいわけじゃないの。想い残しもやり残しもある。未練だらけよ。だから光莉を旅に誘ったし、生きたいとも願ってる。でも生きる資格なんてないような気がする。光莉にも悪い事をしたから、償いみたいな物ね」

「償い。でも死ぬのだとしたら、あの子に罪だとは思わないの?」

 らしくもない涙ぐんだ震え声でクリスカは赤裸々に語る。手を引っ張ったのは誰でもない——私だ。

 また吸血鬼に裏切られて光莉が今度こそ同族を恨んでしまわないだろうか。誰かが手を差し伸べても拒むに違いない。

 私達の配下を夢見た少女がその夢から覚める。最悪の寝覚めだ。想像しただけでも総毛立つ。クリスカはお茶を啜って嘆息した。

「それでも、真実を知る方が残酷よ。私が光莉をただ自分よがりに利用していただなんて、言えない」

 罪悪感が背筋を伝う。唯一無二の血を求め、光莉を招いたとクリスカは彼女に告げていた。それは嘘じゃない。嘘じゃない。嘘じゃ、ない。

 生きたい。願いの為に友情を利用しようとした。クリスカ自身、それが許せなかった。無垢な純情に漬け込んだようで、不快だった。

 だから生きる資格がない。光莉だってきっと私を恨んで受け入れてくれなどしないから、死ぬことを選んだ。日々を過ごす中で芽生えた自己嫌悪に苛まれるのは沢山だ。

 美喜恵は口を噤んだ。睨むような視線は変えず、ただ彼女に据える。

「人を半人半妖に変えておいて無責任よね。他人様の人生散々弄んで滅茶苦茶にして」

「それ以上は言わないで」

「言わないでって」

「半分吸血鬼にしていることを悔やんでいるのならそれは思い違いよ。私は貴方と居られる時間が好きだったのだもの。取返しは付かないけど、責めたりなんてしないのよ」

 胸がすく思いだ。決心は揺らがないが、クリスカは静かに息を呑む。

 若気の至りとは言え、一人の人生を滅茶苦茶に壊した事実は今更どうしようもない。それなのに美喜恵は責めない。むしろその変化さえありがたいと感じるほどに。

 クリスカの頬を澄んだ輝きが伝う。冷たい涙。麻痺したように感触がないそれを、いつぶりだろうと我に問う。

 多分、美喜恵から人間という種を奪ったときだ。懐かしく儚げな記憶が脳裏を過る。

「まだ時間はある。考え直してもいいんじゃない?」

「でももう手遅れ」

「嘘つくの、やっぱり下手くそねクリスカ」

「嘘なんてついてないわよ。別に」

「生きたいから、光莉ちゃんを旅に誘ったんでしょう?」

 口走っていたことを思い出し、眼を逸らした。


 駅前通りは今朝と打って変わっていました。各方面から到着した寝台列車やバスから続々と観光客が降りてきて賑わってました。

 薫さんと私は市場にタイル張りの商店街をノープランで闊歩しています。

「光莉はさ」

「なんでしょう?」

 街並みに眼をやっていた私の横で薫さんが藪から棒に尋ね始めます。

「どこを目指してるんだ?」

「目指す場所?」

 何の話か本気でわかりません。というか読めません。さも私を一流アスリートと勘違いしているのでしょうか。

 小首を傾げていると察して補足します。

「クリスカのメイドになりたいとかって」

 なんだか勘違いされていました色んな意味で。

「メイドではなく眷属ですね」

「失敬。眷属になってどうしたいのか、気になってな」

「そうですね。一緒に旅したいです」

「今もしているだろ?」

「しているんですけど」

 頬をポリポリと人差し指で掻いて照れ笑みを浮かべます。

「従者として、一緒に居たいんです。母がクリスカさんのお父様と過ごしているように」

「? ということは君はクリスカと姉妹なのか?」

「えっと違くて、母と父は人間です。生まれて間もなくして母が屋敷に戻ったのであまり接したことはないんですけど、母へ会いに屋敷へ出向いたとき、主様に仕える母の姿がエレガンスで凛々しくて、私もあんな風な従者になれたらと思ったんです。だから、もっとクリスカさんに相応しくなれるように一緒に旅をして頑張っていると言いますか」

「ほう。それで、君はクリスカとどうしたいんだ?」

「どうしたい……」

 私は訝しんで黙りこくります。

「難しい質問です。私はクリスカさんに付き従いたい。旅に連れ出してくれて、私を救ってくれた恩返しがしたい。一生をかけて、あのお方の傍に居たい。多分、間違った答えかも知れないんですけど、私が私でいてクリスカさんの元でお役に立てることと言ったらきっとそれくらいしかないんです。血とこの身を捧げることしか、恩返しにならないと勝手ながら認識していて」

「そうか……叶うと良いな」

 そっぽを向いてぶっきら棒な返事をした薫さんに少し苛立ちましたが抑えました。私って偉い。

「なんだか他人事みたいです」

「いや、本気で思っているさ。君とクリスカには救われたから、本心でそう願っているよ」

「そ、そうですか」

 今度は私の眼を見つめて薫さんが言います。交わされた目線は暫く途切れない。恋人同士が言葉を使わずに愛を確かめているようにも思いました。

 ふっと現実に回帰して照れ笑みを一瞥させながら、私は他の方を向きます。

「そ、それでサプライズはどうしますか。任されているんですから私達」

「だな。と、そうだな。今思いついたんだが」

 一軒のお店を彼女が指さして、

「アレなんかどうだ?」

 尋ねられ、私は二つ返事で答えました。


 その夕方、別館のホールでクリスカさんを歓迎する細やかなパーティーが開かれました。手の空いている旅館の女将や仲居、近所の方々、そしてどこからともなく現れたのか彼女の友人達まで。後で聞いた話ですが、前々から企画していたのだそう。唐突に来ては突然いなくなる風のような吸血鬼のクリスカさんによくぞまぁ付き合いきれる人達です。

 勿論、買い出しもきちんと済ませました。二人で知恵を絞って地元の魚やお酒、野菜を選りすぐり買ってきました。

 広々としたホールに垂らされたシャンデリアの袂。着慣れない蒼の夜会服で両手に皮のハンドバックを握りしめ会場入りした私は、深紅のドレスに身を包む主役の姿に一目を奪われます。

「綺麗……」

 不意に出た言葉にクリスカさんもちょっと照れ、

「そ、そう。貴方も綺麗よ。私と対を成すような青いドレスで」

 褒められて私達はもじもじと立ち竦みました。そこへ漆黒と純白が織り成すタキシード姿で好かない表情の薫さんと桃色の和服で着飾った美喜恵さんが寄ってきて尋ねます。

「んで、どうして私はタキシードなのか説明してほしいんだが」

「だって。ボーイッシュでクールな貴方にはピッタリだと思ったのよ。薫ちゃん」

「薫ちゃんって美喜恵さん」

「怒っちゃったかしら?」

「照れてるのよ。薫のこと、まだ知らないけどようやく掴めてきた」

「うっさいクリスカ」

 図星のようです。

「さぁて食事を嗜みましょう」

「飲み過ぎないでよ美喜恵。貴方、お酒入ると見境なくなるんだから」

「見境が無くなる?」

「あぁクリスカったら」

「この子、お酒入ると陽気になってくだ巻くから光莉と薫は気を付けた方が良いわよ」

「まだ酒は飲めない。年齢的にな」

「同じくです」

「あなただって、好きな子に対してとっても積極的になる癖に」

「あは、あははは」

 ついぞと出た苦笑い。私と薫さんはまだ飲酒できないので、お酒の楽しみ方や付き合い方にイメージが付きません。

 きっと酌み交わすと楽しいのでしょう。だから箍が外れるまで飲める。空想かも知れませんが、二人が言うにはそんなイメージを抱きます。

「ねぇ光莉、後で夜景を見ましょう。せっかくだから」

「パーティーが終わってからぜひ」

「いえ、それじゃあダメなの」

「へ?」

 這うようにクリスカさんの口が耳元に寄って、

「抜け出して二人だけで見に行きたいの。だから私を連れ出して」

 美喜恵さんや薫さんにも聞かれないよう、ひっそりと私に言い募ります。吐息でこそばゆくて声が漏れそうになるのを我慢して後は頷くだけ。

 そして私達の隠密脱出劇が幕を開けるのでした。


 裾をたくし上げて、クリスカさんが知っている裏口から静かに会場を脱出。大きなダンボールやらコインを駆使して旅館の正門から堂々と外へ躍り出ました。

「こういうの、一度やってみたかったのよ」

 とクリスカさん。土地勘があってどちらかと言えば常習犯な気もするのですが、不粋なツッコミは喉元に留めます。

「でもせっかく用意してくれたのに、いいんですか?」

「いいの。悪い気はするけど、私の捜索もある種エンタメの一つみたいなものだから」

 点々とした街灯に照らされる薄暗い笑み。屈託のない表情に私もなぜかしてやったりの感がありました。

「さぁて、今日は何時間で見つけられるかなぁ」

「あははは……」

 苦笑い。クリスカさん本人も楽しんでいるようなので私に異論反論はありません。

「でも抜け出して夜景を見に行くとは言っても、当てがあるんですか?」

「夜景と言っても暗がりで星影を追うだけよ。ライトいる?」

「携帯電話のライトならありますけど」

 携帯を取って足元を照らします。

「すこーし足元の悪いところを歩くから、気を付けてね」

「は、はい!」

 北海道へ向かう夜行列車以来の二人きり。コツコツコツと足音と共に心音も競り上がって、モジモジと挙動不審になっていました。

「その前に御手洗い行っておく?」

「大丈夫です!」

「声裏返ってるし」

「ほんとに大丈夫ですから。ちょっと緊張して」

 二人の歩幅が一歩一歩、刻まれていきます。コツコツ、コツコツコツと。

「はっ」

 振り返りました。足音が一つ多い。本能的に背後を見回しますが、人影は暗闇に溶け込んでいてわかりません。

 暗がりに華奢でか弱い少女が二人。飛んで火に居る夏の虫、弄ぼうとする輩にとったら格好の獲物です。主様を守ることも使用人の務めという教えを忠実に、クリスカさんに背を合わせて構えます。

「クリスカさん、一旦止まってください」

「お、おおおうどうしたんだい?」

「後を付けられてます。私が言ったら走って」

「ヒールで走るの!?」

「はい。最悪、私が囮になりますから。出てきなさい!」

 声色を変え、威嚇するように闇の中の誰かに語り掛けます。当然ながら返事はなく、

「気のせいじゃない?」

「いえ、そんなはずありません。出てきなさい! 今なら骨一本で済ませてあげます」

「骨は折るんだ……」

「当然です」

 意外そうに横顔を覗くクリスカさん、息巻いた私を止める術はないと鬱蒼な表情で観念していました。

 すると小声で、

「まぁ、面白いからいいか」

「何か言いました?」

「何でもない。行きましょう!」

 と、意味深な言葉を言って無理やり私の手を引いて走り出したのでした。


 豪奢な料理に舌鼓を打ちながら、薫は美喜恵に付き添う形で訪れた人々との談笑に混ざっていた。

 ワイン片手に繰り広げられるのは他愛のない世間話から仕事の話。でっぷりと太ったビール腹を据えた如何にも財界を牛耳っている風のある男のセクハラ染みた言葉も気さくに流す様は年長者の器を感じさせた。

「きつくないのか?」

 ふと尋ねると返ってきたのは笑顔だった。口は災いの元、どこぞの誰が聴いているかも知れない公の場で他者の侮辱や中傷は命取りになる。会社という大所帯にいなくとも組織の上下関係や礼節については仲の良かった編集者に聞かされていたから暗黙でも理解できた。

 きっとこの旅館に出資する株主だろうか。涼しい顔で受け流せる精神力が欲しいものだ。心の中でぽっと呟いた。

「さて、そろそろかしらね」

 美喜恵が時計を一瞥、それから嘆息と共に呟いた。

「何か催しが?」

「えぇ。今日のメインイベント」

「クリスカと光莉が見当たらないんだが、いいのか?」

「だからこそよ」

「除け者にするのか?」

「いえいえ。私ってそんなに腹黒く見えるかしら」

 クフフと不敵な笑みを浮かべる彼女に、薫は否定することしかできなかった。

 だが二人がいないからこそできるイベントとはなんだ。疑問が払しょくされぬまま、ホールの照明が暗転。

 若い仲居さんが美喜恵に駆け寄るとマイクを渡した。スポットライトが彼女を捉える。

「お集りの皆々様、遠路遥々当館『湯楽屋』へお出で下さいましてありがとうございます」

 落ち着いた声色で前置きを挟むと、

「主役が逃亡しました。なのでこれから皆様で探していただきます」

 まるでデスゲームの導入だなと薫は思う。

「勿論タダでとは申しません。見事的中させた方には当館でも最上級のお部屋にご招待させていただきます」

「大盤振る舞いだな」

「クリスカの持ちだけどね」

「……いいのか?」

「いいのよ。いつものことだから」

 いつものことなのか。もうツッコむ気力もなくなりそうだったので頭で独り言を呟いた。

「今からスタッフがお配りする紙に地図と行き先の候補地が書かれています。空欄にお名前を、行き先の候補地一つに丸を記入していただいてスタッフにご提出ください。皆さまの提出が終わりましたら答え合わせを始めたいと思います」

 薫も仲居さんの一人から紙を貰い参加させられる。会場には薄明かりが灯り、鉛筆の滑る音が沈黙に響き渡った。

 候補地は約30個。抜け出した割に冷静だった美喜恵に選定基準を聞こうとしたが、多分またあの微笑みで返される。

「はーい書き終わりましたかー?」

 数分で紙を回収し始める。会場には熟考する参加者の姿もあったが、ほとんどの者は渡されて一分もしないで記入を終えていた。熟練者はもはや考える事でもないということか。

「では後を付けて貰ってる方のカメラ映像を出しますので、しばらく食事のお供としてお楽しみください」

 ホワイトスクリーンが天井から垂れてくるとプロジェクターに真っ暗闇の映像が映し出された。

「にしても無音なのか」

「カメラには白黒の暗視モードもついているんだけど、すぐに答え合わせしたら味気ないじゃない」

 ウィンクを添えて。

「まぁあの子自身も夜風浴びたくて出てるだけだと思うから」

「前からなのか?」

「えぇ。一番最初は本気で逃げたけれど、若かりし頃の私を泣かしたからそれ以来ちゃんと戻ってくるようになったの。あの子って意外と優しい所あるのよ」

 想像に難くないけど、何やってるんだあの吸血鬼は。凛々しく堂々としていて垢抜けた雰囲気も持ち合わせているが、他者への情けや思いやりは相当なものだ。おかげで薫も今ここで立つことが出来ている。

「泣かしたら、それはそれで良くないな」

「それに……おっと、ここだけの話なんだけど」

 美喜恵が周りに聞かれまいと口元に手を添えて、

「その後大胆にも私に告白してきたのよ。最悪のタイミングでしょう」

「あぁ。無神経にもほどがあるな」

「でしょでしょ。それで断られて禁術に手を染めたの。野心的でちょっと惚れ直しちゃったかな。ワインに自分の血を混ぜて私に飲ませたのよ」

 薫は息を呑む。それって諸々人体に悪影響なのではと疑問が過ぎるが、それ以前に腹いせとも思える行動に二の句が継げなかった。

「まぁ、それで私って今みたいに中々死ねない身体になってしまったのだけど」

「吸血鬼の血を飲むと、寿命が延びるのか?」

「あながち間違いではないかも。けどそれだけじゃないの。例えば夜目が効くようになったりとか、人間からすればメリットしかないかもね」

「そしたら光莉も」

「あら、彼女はまた別よ? 唾液と血ではその性質が異なるの。まぁ本来吸血鬼が自らの血を渡すってことが盟約の一部みたいなところだから、あの子ったら」

 呆れた様子でどこか上の空な美喜恵。しかし喜びとも哀れみとも取れない微妙な表情を暫し浮かべ、湿っぽい気分になったのか話題を変えた。

「さ、こんな話は終わり。そうだ、クリスカが今日穿いているパンツの色を——」

「彼女の名誉のために口を塞がせていただくます」

 この人も存外口が軽い。抑えながら意外なことを聞きそうになり、薫はあまり口外しないでおこうと心に留めた。

 自己紹介で言っていた恋人というのも嘘ではない。しかし薫もこの話で職業病のスイッチが入ったらしい。

「美喜恵、後でいい。昔の事をもっと聞かせてくれないか? 対価なら払う」

「喜んで話しちゃうわよ。でもお金は要らないわ。どうしてもっていうなら、ちょっとお酒を奢って貰おうかしらね」

「望む所だ。さぁ、ゲームの続きだ」

「そうね。そろそろ足を止めてもいい頃合だけど」

 二人は画面を注視する。白く光線を伸ばすライトの光が消え、彼女達の追跡も佳境を迎えるのだった。


 星空を見るのは何度目でしょうか。私は自分自身に問いかけます。

 道から今度は畦道のような荒い土手の上を歩いて暫く、クリスカさんが気まぐれに「この辺りでいいか」と立ち止まり、小高く積まれた恐らく石垣の上に座り込むと、横川の時とはまた違う夜空が頭上には広がっていました。

 黒に近い、水に黒と若干の蒼を刺したキャンパスに無数の光が散在し、各々が無秩序に光を発している。星影が一つ、また一つ、誰が作ったかもわからない芸術に心を奪われてしまいます。

「横川の空とはまた違うでしょ?」

「冷たい風にあたりながら眺める星も綺麗です」

 新月の夜こそ星を眺めるのに最も適した日。確かでもいつ消えてしまってもおかしくない恍惚な輝きに私は感嘆を漏らして心奪われてしまっていました。

「でも本当に抜け出してきて良かったんでしょうか?」

 背筋を伝う後ろめたさ。背徳感とはまた違う、罪悪感とも言うべき感情は、私の表情を曇らせていました。

 見るやクリスカさんはニタニタと不穏な笑みを見せて言います。

「あらぁ、そんなに心配?」

「はい……なんか、まるで行いに背いたようで」

「大丈夫よ。そんなに私の事、信頼ならない?」

「そんなことないです!」

「でも、その眼は何?」

「えっ」

 目は口ほどに物を言う。誰が発見したんでしょう。眇めて力の入った瞼をクリスカさんは見逃しませんでした。

「そろそろ戻りましょう。私と薫さんで選んだケーキもあって」

「私、今は甘いものより香ばしい鉄の香る血が良い」

「あの」

「私が忘れさせてあげる。ねぇ、吸っても、いいでしょう」

「ダメっです。ここ、お外ですし。さっきから妙な視線が」

「いいじゃない。さぁ、首筋を出しなさい」

 私は催促されますが、それ以前にクリスカさんがドレスの襟を剥いています。

 そっぽに顔を背けるとすかさず、

「どうして顔を背けるの?」

 紅潮しているからです、とは応えられず、言い淀みました。赤らめた頬を見られたくないのと、これから来る壮絶な快楽の波を暗黒の闇の中とは言え、公衆の面前で感じるのに抵抗があったからです。

 そして静かに牙が首筋を一度這い、カプリ。唾で艶めかしく響く吸血の音と直後に訪れる心地良さに身体が痺れて言う事が効かなくなりました。

 想定内とはいえ、あまりにも強引で理不尽です。けれど怒る気にはなれなくて、複雑な想いが過ぎりました。

「ふぅ、美味しかった」

 満足げに闇へ言葉を放つクリスカさん。その横でドレスにつく汚れなんてお構いなしに私は身体を伸ばしてへばっていました。

 唯一動かせる首で目線を彼女に持っていき擦れた声で訊きます。

「私の血、そんなに美味しいですか」

 煙たがったり、顔を窄めたり、散々マズいと酷評された血をまるで熟した果実をその髄まで味わい尽くす様に飲むことへの真意を解こうとします。

 不粋な質問をしたなと思ったのは言葉が出た後でした。

「うん。美味しいよ。でも一番最初に頂いた時よりもずっと美味しくなってる」

「それは良かったです……ふぁ」

「あぁ気絶しちゃダメ」

 欠伸の直後襲う突如とした眠気。星のようにいつ途切れてもおかしくない恍惚な意識で聴き入れていました。眠らないようクリスカさんは必死に私の頬をビンタしています。

「痛い……痛いです」

「もう、眼を離したら寝てしまいそうね」

 吸血は吸われる側も物凄く体力を使うので、悪戯心で長く吸って殺してしまったなんてこともあったそうです。

 クリスカさんの頑張りも虚しく、殆ど睡魔に意識を持っていかれた私を今度は座らせて肩に寄せました。

 寒空に冷たい肌。ここで寝たら死ぬぞ、シチュエーションが違えばまさに雪山と錯覚してしまいそうな寒さです。当然、私達は遭難者。

「ねぇ、光莉がいつの日か言ってた従者になりたいって話」

「は……い」

「主はさ、私じゃダメかな?」

 途切れそうな意識。その言葉に若干の間を置いて私は無意識の領域から言葉を発します。

「ダメ……な訳、ないじゃないですか」

「こんな私でも、貴方の主でいいの?」

「むしろ……クリスカさんがいい……でしゅ」

 そこで私の意識は深い眠りの底へと墜ちてしまったのでした。


 クリスカはそんなことを他所に寝息を立てる光莉へ継ぐ。

「そっか。そっかそっかそっか」

 嬉しさをこみ上げながらも、声色がだんだん沈んでいくのに気がつく。

 私にも複雑な想いがあった。寝ぼけてたと言われてしまえばそれまでで、今の言葉は言質になどならない。けれど光莉にも悪い話ではなく、むしろそれが彼女の望みなのだから好都合だ。

 叶えてあげられるなら叶えてしまおう。私はこの壮大な家出を続けるために、ずっとずっと旅をしていたいが為に彼女を連れ出した、偶然を装ってあの高速列車に乗り込んだのだ。

 けれど私は彼女の純情を利用しているのではないか。無垢な願いや弱みに付け込んで、ただ自分の命が惜しいだけなんじゃないか。光莉の純真な私への好意や気遣い、接するたびに私自身の罪悪感が増していき、だんだんと彼女を思うがあまりに嘘をついていることへの罪悪感と真実を前にしたときの恐怖に内心囚われるようになっていた。

 これを聞いたら、彼女はなんというだろうか。吸血鬼は皆、彼女の血が分不相応で追い出した、追放してきた。酷い仕打ちだ。必要とされないから、無駄だから彼女を追い払って傷つけて、最後に夢を諦めさせようとした。私のやっていることは質の悪い詐欺ではないか。

 人は無作為な誹謗中傷や侮蔑なんかより背信や裏切りに敏感だ。騙されることは決して気持ちいい事ではない。

 それが身近な人間になればなるほど、傷口は広がっていく。

 私は誰かに嘘をついてまでいる意味があるのだろうか。騙して利用して、光莉の元にいる必要はあるのだろうか。純真な彼女の心に触れ、旅の中で思い立ったことはそこに尽きる。

「もし、もしね。私が突然いなくなっても探さないでね」

 私の声など聞こえていない。夜目の効く吸血鬼の瞳には光莉の寝顔がくっきりと焼き付く。

「そろそろお戻りの時間です。クリスカ様」

 光莉の先から呼び掛けられ、お姫様抱っこで抱えて立ち上がる。

「美喜恵の奴、やっぱり読んでやがったか」

 軽く舌を打つと、先で懐中電灯を片手にニコリとはにかむ中年男性の姿がある。湯楽屋の仲居兼私のお目付け役だ。

「常日頃、支配人はクリスカ様の事を気に掛けてらっしゃいますから」

「パーティーを途中退場するのは私の勝手だと思うけどー?」

「主役のいない物語がないように、主役が抜け出したパーティーに如何ほどの価値がございましょう?」

 遠回しに逃げ出したら成り立たないと言ってくる。仲居にしては生意気な口を利くが別に腹も立たない。

 私も微笑んで、

「そうね。いつも探してもらって悪いわ。それで私は何の景品を出せばいいのかしら?」

「それは改めて支配人とお話を。私の口からは申し上げられません。というより聞き及んでないです」

「まぁ、内容がわからないのも予定調和かしら」

「えぇ。支配人の悪い癖です」

「またどうせ特上の部屋を用意させようとしているんでしょうね。だいたいわかるもの」

「左様でございます」

「あら、ネタバレすると後で叱られるわよ?」

「お気遣い感謝致しますが、無用の心配です」

「無用?」

「お戻りになられたら先ず、クリスカ様の番が控えておりますから」

 私と青年は笑った。確かにそうだ。私が先ず美喜恵にこっぴどく叱られる。最初の時のように。

 そういえばあの後は告白したんだっけ。来ては毎回抜け出してと繰り返し、その都度昔の事を思い出す。

 家出して通りがかりに転がり込んだ旅館の一人娘。大層美しい彼女は慈悲深くてどこか切れ者だった。

 私の事情も二日と掛からずに聞き出して親身に寄り添ってくれた。同世代ってこともあって気さくに打ち明けられたのもあると思う。

 伴侶や眷属、使用人を持つ気なんてなかったのに、昼を超えるたび、恋に落ちていった。そして私が何十度目かの誕生日の時、盛大なパーティーの最中に抜け出して、その後告白した。

 若い頃の過ちになんだか笑いがこみ上げてきた。クスリと声を漏らして夜空に笑いを投げてあの日の感情をゆっくりと掘り返した。

「あの子に婚約者さえいなかったらな」

「はい?」

「何でもない。若気の至りよ」

 そうだ。あれは若気の至り。後の伴侶になる婚約者からすれば衝撃的な光景だっただろう。

 彼の前で同年代の若い吸血鬼、しかも女性から好意を寄せられるなんて毛ほども考えたことない。結果は勿論振られたけれど、不思議と悔いはなかった。

 懐かしい……今の空が最初に抜け出した時の夜空と同じように映る。私は光莉の首筋を口元に寄せて優しく口づけした。


 パーティー会場に帰ったクリスカさんですが、美喜恵さんに呼び出されてこっぴどく叱られたそうです。

「結末としてはまぁ妥当だったな」

「私も怒られるんでしょうか?」

「わからんぞぉ」

 と薫さんにどやされて心臓が高鳴ります。

 しばらく、喧騒の中で黙りこくっていると二人が薫さんの元へ帰ってきて、美喜恵さんは何事もなかったようにマイクを取って、

「では正解した方はアルタリィ様からのプレゼントがございますので会が終わりましたらエントランスまでお越しください。その際、お渡しした紙を必ずご持参くださいますようお願い致します」

「プレゼント?」

 事の次第を全く知らない私は首を傾げました。

「光莉は何も知らなかったな。実は」

 かくかくしかじか。顛末を聞くと、それはそれはクリスカさんにはとっておきのお仕置きが用意されていたらしく、彼女の脱走も想定内だったそう。

「行動心理全て把握されてますね……」

 そこまで二人は親交が深い証でもありますが、普通に驚きです。

「夜景はどうだった?」

「夜景?」

「二人で見に行ったんだろう? 感想はないのかい?」

「そうですね……夜景というより星空で、眩い輝きを放つ星達がとても美しかった」

「星空? 夜景じゃなかったのか?」

「はい。詳しい場所までは分からず、多分クリスカさんのお気に入りの場所だと思うんですが一面の星。出会ったときに見たのとは違う、新鮮な空でした」

 新鮮な空。夜に生きる吸血鬼のクリスカさんと旅に出てから幾度となく超えた夜の空は私にとってまだ新鮮でぎこちない空です。

 けれど今日の空はどこか違う色に見えた。深い闇と蒼が混合した空に違和感が薄れていく気がしたのです。

「ははは。ありがとう。またネタが思いついたよ。君達の物語のな」

「あははは……」

 苦笑い。腕を組んでどこか雄々しく構えていた薫さんは、背で手を振って人混みの中に消えていきました。

「おまたせぇ」

 クリスカさんが無事……とは言い難いゲッソリした顔で帰還。けれどワインを一口酌るとけろっと立ち直って、

「さぁ、宴よ!」

 すっかり機嫌が良くなったみたいです。

「ねぇ光莉。眠る直前の事なんだけど」

「え?」

「あぁ、何も聞こえてなかったかしら?」

「あ、えっと……」

 あわあわと目線を泳がせてしまいました。様子から何か察して左手で顎を持ち上げられて、

「もう一回言おうか?」

「だ、大丈夫です!」

 眠ってしまう直前の事。記憶の隅にあるクリスカさんの提案でした。

「主は私じゃダメかな」

 私はその時点で眼をかっぴらいて否定すべきでした。脳内再現すると引かれそうですが、威勢というのは不思議なもので秘めた意思を簡単に口走ってしまえる魔力が存在します。

 だからもっと早く、気持ちを伝えられれば良かったと後悔していました。

「あとは貴方の返事待ちよ。気が向かないのならいいのだけど」

「なります」

「……知ってた」

「じゃあどうして聞き返したんですか!?」

「だって貴方なら、私の従者になってくれると信じていたから」

 瞳には溢れんばかりの涙を溜めて、クリスカさんが私をじっと見つめていました。

「なんか夢みたいです」

 霞む視線。涙が重力にならって落ちて、頬を伝う感触で初めて意識します。泣いているんだ私。

「誓いに、吸ってもいい?」

「はい。思う存分、私の主様」

 遂に向かわれたのだと、達成感が身体の底から湧き上がってきます。私の首筋にクリスカさんの、主様の牙が食い込んでいき、

「んンっ」

 ピリっとした射し込む瞬間の僅かな痛み。鋭い痛み。眷属として献上する初めての血。彼女の指に私の指を這わせて優しく握り込みました。

 凍てつく口づけ。人間と吸血鬼の温度差は広く、けれど過る幸福感がそれすら超えて温もりの幻覚を起こします。

 そんな熱烈な接吻を周りの人々が見逃すはずもなく視線が集中。一瞬閉じた眼を開くと、口元を抑えて照れ隠しをする者や懐古に微笑む者、無邪気に何が起こってるのか尋ねる子供もいました。

 恥ずかしくなって手を解き、主様の服の袖を引っ張ります。

「あの」

「ん?」

 吸血しながらモゴモゴと言葉にならない声を発して辺りを見渡して、状況を理解します。

「あら、ごめんあそばせ」

 近くで一部始終を見ていた人達から拍手が上がり、どんどんとその輪が拡がっていき、いつの間にか会場中から響き渡る協和音になっていました。

「お祝いよ。色んな意味でね」

 美喜恵さんが私達にウィンクをしながら近づいて、ある部屋の鍵を手渡します。

「いいの? 私の居場所を見事的中させた人に渡す景品じゃなくて」

「本来なら貴方に渡す為じゃなかったんだけど、今日は特別よ」

「ならありがたく」

「ただし」

 鍵を一旦預かり、主様に耳打ち。

「良い子を貰ったんだから初夜の面倒くらい見てやりなさいよ」

 私には聞こえません。しかし押し黙る様子からただ事ではない感触がします。

「馬鹿ね。面倒も何もないわよ。というか、いつから私を誰でも食べる雑食だと思ってたの」

「あら違ったかしら?」

「大間違いよこのスケベ。まぁいいわ」

「あーそれと光莉ちゃんにも伝言」

「なんでしょう」

 今度は私にです。一体なんでしょうか。

「クリスカをよろしくね」

「は、はい」

「なーに保護者面して言ってるのよ美喜恵」

「これでも一度はクリスカに愛を叫ばれた女ですもの。取られちゃうのは寂しいでしょう?」

「なら一緒に来る?」

 美喜恵さんの逡巡がしばし続いて、

「……ありがたいお誘いだけど、もう歳だから遠慮しておくわ。ゆっくりと隠居したいもの」

 少し儚げな顔を浮かべながら、言います。

「そう……残念ね。でも私は強情なの。また誘うわ。次に来た時でも、絶対にね」

「答えは同じよ」

「いえ、貴方が死ぬまで続けるわ。私がパーティーを抜け出す様に、ずっとずっと気が変わるまで付き纏うように聞いてやるから」

 自信満々に言い放ちましたが、言動がストーカーですそれ。

 そして誰が為のパーティーはお開きになって、私と主様は部屋へ戻ろうとしました。

「そういえば、美喜恵さんから何を?」

「あぁー、うん。まぁ」

 ふと、あの秘密話の事を訊ねます。言いづらそうにモジモジと竦めていたので、

「もし秘密なのでしたら無理にお話にならないでください。この無礼、血を持って」

「いいの!」

 突然の大声に身体をビクンと反応させて、顔を覗きます。吸血鬼らしからぬ赤面に私は思わず首を傾げて答えを待ちました。

「あの、ね。初夜にって部屋を取って貰ったの。プレゼント用の」

 初夜、その単語に私の顔を沸騰したように熱くなったのでした。




 主様と契りを結んでから一か月。冷徹で熱烈な眷属としての日々が始まりました。

 ……と言っても、旅の最中でお世話をすることは殆どありませんでした。強いて言えば紅茶を淹れるくらいで。

 進展と言えば、血を吸う量が前よりも増えたことくらい。嗜好品程度だった回数が一日三食をキッチリと取るようになり、以前よりも顔色が良くなったように感じます。

 しかし私もまだ未熟とはいえ一端の使用人です。主様が血を美味しく頂けるよう運動もするようになったし、鉄分も以前に増して取る様になりました。幸いにも湯楽屋の近くにはコンビニが何件かあるのでそこでゼリー飲料を買い、毎食に足して飲むようにしています。

 そのおかげか私も体力が付いて多少の吸血では眠らないようになったのです。凄い進歩ですよね。

 お屋敷ではないですが、それはそれで主様の傍で役に立てているという充実感が心を満たしていました。ただ血を捧げるだけでも、主様にとったら数ある仕事の一つに過ぎなくても私のとったら涎を垂らして貪るように噛みつくその瞬間を幾度となく見られるのがとても幸せでした。

 季節はあっという間に二月の半ばを過ぎて、春がすぐそこにまで迫ってきた某日。


——私の前から主様が消えました。


 集まったのは三人。薫さんと美喜恵さんと私。握っていたはずの手は解かれて、布団のシーツは剥されていて、荷物も全てなくなっていました。

「夕方目覚めたらいなくなってたんです」

 普通なら音で気づくはずなのに、酷く疲れていたのか先に寝入ってしまって気づいたら私一人になっていて。

 主様に合わせた生活リズムを刻んでいた私が夕方起きると、真っ暗な部屋に一人、ぽつりと残されていました。しばらく状況が呑み込めず、旅館中を探し回りましたがどこにもその姿はありません。

「どこへ行ってしまったのでしょうか」

「列車にでも乗っているんじゃないかな。クリスカってば気まぐれだし」

「そう……でしょうか」

 美喜恵さんの言葉に何故か納得ができない私がいました。

 だっておかしいです。驚かせようとするなら荷物まで引き上げる必要はないし、シーツだってまた使うのだから乱暴にでも敷いておくでしょう。いなくなるだけならそこまで丁寧に片づける必要性は皆無です。

 これではまるで、

「夜逃げです」

 誰かに逃げられたことなどなく、本やテレビでしかその事を知らない私が真っ先に出た言葉でした。

 美喜恵さんは冷静にそれを飲み込むように聞き入った後押し黙り、薫さんはぼんやりと部屋を睨むように見つめています。

 この二人は何か知ってるのではないか、とどこからともなく訪れる直感がそう囁き、私を衝き動かそうとします。

「薫さんは何か見てないですか?」

「……いや、わからない」

 沈黙を置いてからの答え。薫さんの面持ちが険しくなって歯を食い縛るように口を強く引き結んでいます。

 薫さんはきっと何かを知っています。主様が考えそうなこと、寝台列車での出来事を思い出して、もしかすると私の困る姿を視て楽しむ算段ではないかと過ります。

「わかりました」

 私は黄色い笑顔で二人に向き直りました。

「二人とも主様と何か企んでいますねぇ」

 腰に手を当てて、前屈みになりがなら聞きます。美喜恵さんはすぐに首を振って、

「いえいえ。何も企んでないわよ」

 はぐらかしますが、そんなはずがあるわけないでしょう。しかし薫さんの訝しんだ表情は全く解かれず、逆に緊迫感が増していきます。

「光莉、落ち着いて聞いてほしい」

「薫?」

「もう隠し通すのは無理だ美喜恵。口止めされていたが、光莉には知る権利があると勝手ながら思う」

「うんうん。薫さんがついに白状しますってよ」

「実はな光莉」

 したり顔でいると薫さんが私の瞳をマジマジと見つめて言います。

「クリスカは、もうすぐ死ぬんだ」

 固まりました。まだ彼女の悪戯が続いているのかとも勘違いしてしまいそうですが、彼女の得も知れぬ恐ろしい形相からそれはないと私の内心が囁きます。

「死ぬ? 何かの冗談でしょう?」

 しかしまだ捨てきれない、煮え切らない可能性があって聞き返してしまいました。

「死ぬんだ。クリスカはもうすぐ」

「……え? 流石の薫さんでもそんな冗談は許しませんよ?」

「冗談に聞こえるか?」

「ほ、ほんとなんですか美喜恵さん」

 覇気が引き絞られた声色に美喜恵さんはただ頷くだけで、彼女も硬く哀愁すら覚える顔をしています。

「死ぬって主様が……あり得ない! だって吸血鬼ですよ? 永遠に近い命を持っている方なんですよ? 人間の数十倍と生きる彼女が、あんなにお若くして死ぬはずないでしょう!」

「光莉ちゃん、血の盟約ってご存じ?」

「血の盟約……吸血鬼が古参の眷属とが百年の節目で結ぶ契りですよね。知っています」

「そう。数十年と連れ添った眷属としか結べない盟約。クリスカはそれを結ばなければならない」

「ならない? でも吸血鬼は半永久の寿命を持つ。盟約は主様に見込まれて永遠を誓うもののはずです。絶対ではないはずじゃ」

「えぇ。確かに永遠を誓う盟約よ。でもそれは何も人間にだけ影響があるものではないの。交わさなければ吸血鬼は百を超えた最初の満月の夜に焼け死ぬ」

「は……満月、ですよ。夜の生き物である主様がそんなこと」

「美喜恵の言っていることは本当だ」

「ならどうして私に黙っていたんですか! 主様も薫さんも美喜恵さんも、どうして!」

「口止めされていたの。ごめんなさい」

 ギラリと私は美喜恵さんを睨みます。謝罪で許されるはずない。主様の命に関わることを口止めされていたとは言え隠していたのです。

「でもこれはクリスカの意思でもあるの。

 怒りや失望、恐れが綯い交ぜになって心を襲います。私の血を愛してくれた主様が、存在意義を与えてくれたクリスカさんが、私を好いてくれた吸血鬼が、いなくなってしまう。

 そんなの認めない。世界がそれを許しても、私は奪うことを許した覚えはない。

 二人にも腹が立っているけれど、何より主様が心配でいつしかそれも忘れて動いていたのでした。

 無我夢中で主様を求めて走り出した私の後を薫さんが追いかけようとします。

「ちょっと」

「なんだ?」

「これ、クリスカの屋敷の場所。住所がなきゃ、辿り着きようがないでしょう」

「……恩に着る」

「気をつけていってらっしゃいな。あとクリスカに会ったら伝えておいて」

 ファイティングポーズを取った美喜恵は拳を突き出し、

「次会ったらぶん殴る。こんな汚れ役させた借りよって」

「……わかった」

 正直、伝えようか迷った薫さんでした。

 田舎の電車は一時間に一本というのがざらで、無計画に飛び出しても駅で足止めされるのは必然です。案の定私は湯楽屋の最寄り駅で待ちぼうけを喰らうことになったのでした。

 待合室で俯きながら待っている私に同じく電車を待つ人々の視線が刺さります。しかし誰も話し掛けようとはせず、静観するだけでした。

「時刻表くらいは調べてからにしろよ」

 追いついた薫さんが開口一番にそう言いました。

「貴方も、私から幸せを奪うんでしょう?」

「……バカなこと言うな」

「ならどうして黙ってたんですか!?」

「どうしてって、クリスカに止められてたと言っただろう」

「それで私が納得すると思ってるんですか!?」

「納得って」

 大声で詰め寄る私に薫さんは困惑した様子で言葉を詰まらせました。

 真実であろうとなかろうと、私の沸々と煮え滾る怒りの感情は納得できなければ収まりません。主様本人に聞くことが出来れば最良ですが、何も言わずに出ていってしまったからこうなっているのです。

「ならお前はどうすれば納得するんだ?」

「主様から聞けば」

 裏を返せば、お前達は信用に値しないと言っているようでした。冷静さを欠いていたとはいえ、この答えは不正解です。

 しかし薫さんは意に介さず、メモ紙を見せつけました。

「クリスカの居場所だ。美喜恵が渡してくれた。あと」

「あと?」

「クリスカに次会ったらぶん殴ってやるって伝えておいてと」

「えぇ」

 一気に冷めて苦い反応で返しました。

「わかりました。あの、さっきは八つ当たりしてすいません」

「良いんだ。取返しのつく過ちは若いうちに沢山した方が良い。大人になると責任とか体面とか体裁とか、余計なものが纏わりついてくる。身動き取れなくなる前に経験は積んでおくものだからな」

「……そういう薫さんって私と同い年じゃないですか」

「まぁ……な」

 ありがたく受け取り、ここからは私一人でと薫さんに告げて切符を買います。

 列車がホームに差し掛かり、扉が開いてお客さんの乗り降りが始まった折に私は急いで乗り込みました。

 扉の前まで薫さんは付いてきて、

「達者で」

「また来ますよ。主様と二人で」

「……そういえばクリスカが気になることを以前言っていた」

「なんでしょう」

 開いたドア越しの会話。発車ベルが鳴り響き焦燥感を掻き立てます。

「クリスカを救えるのは光莉だけだと」

「……なるほど」

 ベルの次に笛。乗るか乗らないかの瀬戸際に立っていた薫さんへ乗るなら早く乗れ、さもなくば出すぞ、とでも言いたげなそれが終わると扉がゆっくりと締まります。

「美喜恵さんにごめんなさいと!」

 籠る声を確かに聴いて頷く薫さん。そして景色が紙芝居のように横へ流れ始め、彼女は私が乗った列車の背に手を振ったのでした。

「恩人を頼んだぞ。光莉」




 屋敷から見える景色は殺風景だ。夜な夜な降りしきり人の高さほどに積もる雪を眺め、あの雪が解けるころには私は灰になっているのだろうなという想像をし、柄にもなく走馬灯を過らせて涙する。

 吸血鬼としての道筋は実に長かったと思い耽る。百年間、生を受けたのはまだ人々が世界を巻き込む戦争の惨禍の影もない頃だった。

 現代のような電信手段なんて当然存在せず、列車の旅も新幹線は愚か電車ですらない。蒸気機関車が主流の時代。三十近くになった私は父と喧嘩して家出した。

 喧嘩の理由は下らないものだ。時期遅れの反抗期とでも言えばしっくりくるだろうか。多分今もそうなのだろうけど。

 家の次期当主に据えようとする父の教育や方針が嫌だった。読む書物も勉学も趣味も父が全て介入してきては、何かと口を挟む。レールに乗せられた一生というのが癪に障ったから、鳥のように巣立って自由を手に入れようとした。

 家出して初めて見た夜のことはよく覚えている。闇の短い夏、猛暑の小休止に輝く一等星と焼けて無くなる前の都会の夜景。茶色い電車が万世橋のレンガ高架を亀のように抜ける光景を眺め、乳白色のドレスを翻した。

 昼間はかんかん照りの太陽を浴びないよう長距離列車に乗り込んでは旅行と洒落込んだ。そして辿り着いたのが当時まだ女将修行真っ盛りの美喜恵が働く湯楽屋で、と出てくる思い出にやはり掘り返しては視界が微睡む。

 ベッドの上で起き上がることすら億劫な身体を捩って立ち上がり、窓へ寄る。使用人は誰一人として立ち入らせてはいない。

 そう命じた。ここには誰一人入ってはいけない。私の灰は持ち帰らず、この雪の中に散らせなさい。私が私であった物的痕跡は全て燃やしさない。

 きっと光莉が私を見つける頃には既に話せる身も保っていないはずだ。伝えたいことは沢山あるけれど、私は私の生を締め括るのにこう言葉を書き残して深々とベッドに背を預けた。

 裏切って、ごめんなさい——。


 マップアプリでピンが刺された方角へ振り向くと、赤い屋根を被った二階建ての古びた洋館がひっそり佇んでいます。外観は暗赤色の煉瓦の城は鉄路を掛ける列車からもその荘厳、冷厳とも感じる深雪のお屋敷は、周りに何もないからかどこか寂しくも思えます。

 二次元的に表現したマップでも距離は計れ、直線距離で一キロは優に超えていました。比較的除雪されている県道や国道を使うと三キロはある。そもそもあのお屋敷までの道があるかさえ不確定的。唯一幸いなことはにわか雪だったのか弱まっていることくらいです。

 虚ろ気な蒼と灰色に染まりだした刻、乗り継いできた列車から降りる濁声のエンジン音をがなり立てて駅を発車。一本の線路の片側にホームが据え付いているというとても簡素な無人駅に放り出された私をテールランプがせせら笑うように輝いてはたゆたう霧の中へ消えていきました。

 もうすぐ闇が支配する。私は雑念を振り切って線路を渡って屋敷の方へととにかく歩き出しました。その選択肢以外ありませんから。

 しかし十分もすれば灯りの届かない暗闇に様変わり。タクシーすら呼べない辺境の土地で、ただ主様を求める意思が歩を進めさせますが、当然無謀ともいえる行軍は瓦解を始めます。

 極小の毛穴を釘で攻めるような寒さが体力を奪い、さらには山間ゆえの高低差に苦しめられて満身創痍、頭も働かなくなって思考も薄れてきました。

「主様……今——行きます」

 闇雲だったから当然の結果ではありました。奥羽山脈の触りですが腐っても山、装備も無しで進もうなど大自然から言わせれば愚の骨頂です。

 霞む視界、胡乱な意識で一歩一歩踏みしていきます。しかし予想以上に苛烈な環境での活動についには肉体が悲鳴を上げて膝から崩れ落ちてしまったのです。

 雪上へ嫋やかに倒れた私。ここで死ぬのね。先に行っております主様。懺悔を口にしようとも微動だにせず、手の感覚も悴んで無くなっていきます。

 死そのものが迫って眼を閉じようとした頃、一筋の光が寄って私の元で止まりました。

「光莉様、お気を確かに」

 誰……? 脳内再生された声は届かず、意識が暗闇にぽつりと墜ちていきました。


 私の動向は湯楽屋を出た地点から調べがついていた。恍惚な灯りの仄明るい寝室で出されたホットココアに口を付けたときに聞かされました。

 もし万が一、この屋敷に私が向かうようなら迎えなさい。

 視線に敏感な私でも察知できない尾行と監視には驚きと悔しさを抱きましたが、やはり私の行動を的確に読んだ主様に感心しました。

「それで主様は?!」

 思い出したように尋ねると、私にココアを出した私と同い年くらいの若い使用人の女性が扉の袂で険しい表情を見せ、沈黙します。

「答えられないですか……」

 無言で首を縦に振って同意。多分、ここで給仕する方の中でも若年で、勝手なことは言えないのでしょう。もどかしい悶々とした顔で気持ちだけは分かる気がします。

 ひとまずお礼を述べないと、思い立ち私は布団から出ます。

「まだいけません」

 凛としていて優しい言葉遣いの制止。ココアを置いた私の肩を黒髪のショートボブを揺らしながら抑えて戻そうとします。

「助けていただいてありがとうございます。でも私には、まだやることがあるので」

 這ってでも私は主様に面と向かって話したいと考えていました。だって、私の傍でずっとと言った途端に姿を晦ませたんですよ。またいついなくなってしまうか不安な気持ちと、黙っていた怒りの感情が私を突き動かしていました。

 けれど気力も体力も雪に吸われていた私がそう素直に身体を動かせるはずもなく、結局ベッドと繋がれたように背を預けて古びた木目調の天井を見つめさせられたのでした。

 この視線、この角度。最初に会ったときと同じです。最悪の出会いから私のお屋敷での出来事、初めて血を美味しいと言ってくれた主様の姿が脳裏を過ります。

 寝台列車での悪戯や私をパーティーから連れ出して夜空を見に行ったこと。懐古が涙になって溢れ出てくると、主様以外に見せたくないと思い枕に顔を埋めました。

 僅かに落とした涙を見逃さず、

「少し席を外させていただきます」

 と言って、若い使用人の方は部屋を出ていきました。

 別れは一つの始まり。ですが永遠に話せない、会えない、存在が消えてもう二度とお目に掛かれないとあっては話が違います。

 心から主人と呼べる存在の喪失にきっと私は立ち直れず、永遠に囚われてしまうでしょう。そんなのは絶対に嫌だ。何か手立てはないのか模索しようと頭を回しますが、ネガティブな感情が正常な働きを阻害して、スパイラルへ引き摺り込もうと必死に足を掴んできます。

 ふと、その螺旋上から薫さんの声が手を差し伸べてきます。クリスカを救えるのは私だけだと。

 何を意味しているのかは分かりません。ただ、その正体不明の言質にも縋らざるを得ないのが今の私。

 塞ぎ込もうとしていた私を連れ出してくれて、旅の思い出も沢山作った。主様と過ごした記憶をただ並べているだけなのに、それは涙という血を感傷的な心から流させるには十二分すぎる凶器です。

 だからこそ、次は私が救う番だ。当てのない無謀なことだと分かっていたとしても、私を生かしてくれたお方にこの血を捧げるくらいなら出来るはず。例え死ぬと分かっていても、人間は抗ってきたのだから、吸血鬼にだってそれが可能だと——人間を舐めるな。

 枕から顔を上げて頬を叩きます。そして私が寝ていた寝室は虚ろな灯りだけが残った静寂な一室になりましたとさ。


 医療系ドラマでもあるでしょう。医院長の総回診ですって行進。大名行列にも比喩されるあのシーンを連想させるように、私はお屋敷の廊下を胸を張って堂々と進んでいます。率いる人なんて一人もおらず、たった一人の闊歩ですがね。

 主様の部屋はさっき外にいた使用人の方から伺い知れています。北向きの最奥、日影が最も濃い端っこの部屋。

 その部屋の前に辿り着くと、ロールプレイングゲームのラスボスが住んでいそうな大きな二枚扉が出迎え、暗がりも相まってか厳しい雰囲気が醸し出ています。

 程よいノック。返事はなく、扉に鍵はなくこのまま入ってしまおうか。それはそれで末恐ろしく無礼な気がするので留まりますが、何も返事がないのはどことなく不安でした。

 するとギィと軋むような音で扉が内側に開きました。魔法でしょうか。

「入ってもよろしいでしょうか?」

 返事はなく、それを無言の了解と受け取って恐る恐る中へ足を踏み入れます。

 そこはまるで生活色のない一室でした。何もない殺風景とはまた違う、けれどきっと彼女がここにいるということが異質なほどの整然な内装。埃も被っていなければ、使用感のない机と背表紙のタイトルがまだくっきりと印字され、開かれた跡さえない虚しい本の数々。オーダーメイドの家具達も新品同然で鎮座しています。

 奥行きのある部屋の最深部。窓側でシンシンと降り積もる雪を眺める純白の肌の少女。半身を起こした彼女の瞳の焦点は定まらず、虚ろ気に私の方へ振り返ると微笑して、

「いらっしゃい。来てしまったのね」

 雀の囀りのような弱々しい声で言いました。

「主様、やっと会えました。主様!」

 走り寄って私はベッドの前で跪くと、手を差し出して頬を一撫で。

「ごめんなさいね。こんな遠くまで」

「お気になさらず、それよりもお体は?」

「まだ……大丈夫よ」

 ゆらりと垂れたブロンドから覗かせる微笑。まるで縁側で長閑に過ごす老人のような悟った表情は、私に有無を言わせず諦めさせようとも思えました。

 けれど引き下がってはいけないと言い聞かせて、私は本題を切り出します。

「死ぬこと、なんで黙っていたんですか?」

 直球。言い淀んで目線を泳がせた主様は、

「二度裏切ったの。この命で償いたかった」

 感情を噛み殺した涼しい面立ちで掻き消されそうな声音を放つも、私は首を傾げました。

 二度も裏切った、引っ掛かります。頬の手は離れ、主様の体温が遠ざかっていくと、明くる紫色の空に目をやって独白します。

「一つは死ぬことを黙っていたこと。もう一つは、あのホームにいたのは偶然じゃなくて私が図った必然なの。七見家に血の味が悪くて捨てられ続けてるって使用人候補がいるって話を聞いて、ずっと監視した。まだ父の屋敷に居た頃、目が回るほど読まされた書物の中に代々仕えた使用人もリストが記されていた。勿論、七見家の人々のこともあったわ」

「私の事も?」

「光莉がまだ生まれる前、幼少期の出来事よ。貴方の父上もまだ七見家に来る前じゃないかしら?」

「そうかもです」

「その一人、貴方のご先祖様のお話。吸血鬼の屋敷に送られた彼女は数々の家から忌避されていたの」

「忌避されていた……」

「そう。前の貴方と同じように、やっぱり血の質が劣悪だって烙印を押されてね」

 親近感。そのご先祖さまの足跡を現代になって私が踏んだという感じでしょうか。

「でも、その使用人はアルタリィ家に辿り着いて天寿を全うした。なぜだと思う?」

「わかりません。主様のように味の好みが合致する方と添い遂げたのでしょうか」

「違う。吸血鬼が特殊だったんじゃなくて、その使用人が特殊だったの」

「人間側が特殊? ますますその真相が分かりません」

「彼女の血は吸血の度に変化するの。吸血鬼の唾液と混ざって、その主にしか感じ取れない血になっていく。それは何も味だけじゃない」

「すると?」

「本来は数十年掛かる適合の年月がほぼゼロになる。混ざり続けることで貴方の血は私の血に溶け込めるように進化していく。その速度は加速度的で急速にね」

「……つまり特別だと」

「そう。記述にもあったはず。盟約の際限直前に血を携行し始めて、タッチの差で助かったって先祖様がいたって」

 記録者の誇張表現かも、とは口が裂けても言えず。

「だから光莉の境遇を聞いた時、私はそれを思い出して血眼になって探し回った。そしてあのホームに現れた」

「……アレは偶然じゃなかったんですね」

 不意に出た言葉で主様の瞳がガン開いて固まるのが分かりました。語ることすら憚られていたのだとやっと気が付きます。

「そう。偶然じゃなかった」主様がひ弱な声。黙りこくってから涙を頬に伝わせて、

「嘘をついていたの。許せないでしょう? それにあなたの血だけが目的で接触して、卑しいでしょう。生きたいが為に貴方を連れ回して血を吸って、醜いでしょう」

「醜くなんかありません」

 きっぱりと答えました。私の眼には主様が醜くも卑しくもないからです。

「例え血が目当てだったとしても、ならどうして生きようとして今まさに正反対の事をしてるんですか?」

「……」

 私の問い掛けに唇が引き結ばれました。

「主様は私を騙していたから、二度裏切ったから命で償おうとしたんですよね? 私が許さないって思ったから、許されないってことはすなわち私の事を想ってくださっているからですよね?」

 血だけが目的だったら、あんな接触の仕方はしませんよね普通。多少慈悲があったのだとしても、許す許されない以前に私の意思なんて蔑ろにされているはずです。

 なのに彼女はここで打ち明ける最後の最後まで、私を縛るようなことはしなかった。裏を返せば旅の最中かあるいは最初に私のどこかに惹かれてそうしたとしか考えられない。

 理論立てて説明するのは難があるものの、要するにはそういうことです。主様は私が尊くて好きで大切で仕方がないのです。

「多分、主様は私のことを考えるあまり、勘違いをしていらっしゃるんだと思われます。私は主様が旅に連れ出してくれたおかげで自分の将来を塞がずに済んだ。貴方が血を好きになってくれたからクリスカを主様にしようと決めたのです。例え血が目当てでも、私が得た恩義や慈悲は変わりません。捨てられ続けた忌むべき血の私を好いてくださりありがとうございます」

 ハッキリ言いましょう。私は主様が大好きです。正直、血が目当てだろうと私のような童顔な女の子が好きだろうと関係ありません。愛は盲目的と語られますが、まさにその通り。

 むしろその実が大切で、前述のことなどきっかけに過ぎないのです。所謂入口。私という人間を好きになる門。順序なんてどうでもいい。

 主様は私と逆だっただけのことでそれが拒む理由にはなりませんし、むしろ語ってくれたおかげで私の中で主様は私の事が涙を流して傷つくほど愛してくださっているという確証になります。

 だからそれで傷つくとか辱められたとか全くなく、むしろ誇りさえ芽生えてきます。私はそれほど大切に扱われていた。揺るがない事実がここに現れたことで私の僅かに満たされなかった気持ちが凝固していきました。

 あとは主様次第です。これでも本当に死ぬなんて事を言うのですか? 今思えば遠回しにそう詰問していた気がします。

「主様はやり残したこととか、まだやりたいこととかないんですか? 行きたい場所、見たいものや風景は? 生きてやれることがあったら、まだ間に合うはずです。私の血が貴方のお力添えになるのならこの命さえ望んで差し出す所存でおります。だから、話して下さいませんか?」

「……もっと」

 私の眼を見て、最初こそ小声で語り始めましたが懇願するかの如く叫びます。

「もっと色んな場所に行きたい。もっと生きて旅をしたい。朝日が見たい。新幹線から富士山を眺めてみたい。寝台列車以外の旅がしたい。真夜中の世界以外を生きてみたい。だから、だから私は——」

 ブレスのない独唱がフィナーレを迎えようと走ります。そして主様の魂の叫びは部屋に満ち満ちます。

「生きたい!」

 私の願いでもあり、主様の願望でもありました。たった一つの簡単なことだけれど、叶え続けることが難しい願い。それは生き続けること、誰かの為に生きること。

 私はそう願う主様を見て微笑みました。いつも私の手を引く誰よりも凛々しく一等星よりも明るい笑みがそこには咲いていたのでした。


 そして私達は血の盟約を交わしました。

 方法は簡単で互いから抜き取った血を輸血するというだけです。互いの血を混ぜ合わせて永遠を誓う。交わせば吸血鬼は太陽への免疫と半永久の命を手にすると、主様が耳元で囁くように言いました。

「けれど、急激に変質した血は私達吸血鬼にとっては少し危険なものなの」

 私は首を傾げます。主様の体温が触れ、その色香を吸い込んだ身体はもう自由に動かせません。太い採血用の針で200ccほど血を抜いたのもあるけれど、同性なのに惚れ惚れするほどの美麗に理性の箍が今にも外れそうです。

 多分、吸血による快楽が私の脳にそう刻み込んでいるものだと思います。あくまで推論ですが。

「変化が激しかった故に生じる弊害。それは痛み。急速な変化を遂げた血液は吸血鬼にも多大な負荷を掛ける。耐えられなかったら私は」

「わかっています。その時は私も受け入れます」

「だからね。一つだけお願いがあるの」

「なんでしょう?」

「もしね。私が死んでしまったら、この唇にキスをしてほしい」

「キス……ですか?」

「そうキス」

 スキンシップかもと考えましたが、主様の頬は紅潮していました。

「片思いはどうしたんです?」

「れ、恋愛感情じゃない……わよ」

「照れてる。主様照れてる」

「意地悪しないの。というか、最後かも知れないからお仕置きしておこうかしら」

「えぇ。存分にしてくださいまし」

「抵抗しないの?」

「はい。だってこれが最後かもしれないんですよ。私の事が大好きで私の大好きな主様のお仕置きが」

「……はぁ、つまんなーい! ヤメよ。百歳迎えた一番最初にしてやる」

「そうですね。なんか私もしんみりしたお話をすいません」

 主様に笑顔で応えて、私は主様の血を、主様は私の血を注射器で打ち込みます。繋がれた管が透明から赤色に模様を変え、さながら私達を繋ぐ運命の赤い糸のようです。

 腕から主様の冷たい血が入り込んでくる。主様を成す肉体の一部が私の物になっていく、その感覚が心地良くて、私が私でなくなって主様の一部に書き換わっていくような、けれど怖くはない、不思議な体験が頭に焼かれていく。

 そしてふわりとした浮遊感。意識が果てのない何処かへ連れ去られようとしたとき、風船のような私の精神を繋ぎ留めたのは主様の手でした。

 繋がれた左手。冷たくて暖かい、事実と現実が矛盾したその手。ぎゅっと力が入った時、思考がすべてを引き戻して私に認識させます。

 主様は戦っているんだと。答える様に両腕で緩やかな稜線の胸に引き寄せて、閉ざされた扉の向こう側へと踏み込もうと主様の手を引っ張ったのでした。

 そして幾多の夜が過ぎ、満月の下で主様は——。

「ねぇ光莉。起きなさい」

 開け放たれたカーテンの前には瞳をキラキラと輝かせた主様の出で立ちがあって、朝日に陰るシルエットはあまりに現実離れした光景でした。

 寝ぼけた私は眼を擦って視界の霞みを晴らして焦点を合わせます。

 神々しく燦然と輝く彼女の面影。私の血が役に立った。一人の命を繋ぐキーになったことに感無量で身体を震わせて涙を流しました。

「太陽ってこんなに温かかったんだ」

「そうでございます。主様」

 ギュッと抱きしめて私は泣き笑いを見せます。そして主様は屈託のない笑みで私の首筋に嫋やかな口づけをするのでした——。


 カタンコトン。ロビーカーの温もりと柔らかい生地に身体を任せっきりの私は軽やかな客車の足音で眼を覚まし、首筋を滞留する快楽の余韻に浸りながらも丸まった兎が驚き跳ねるように立ち上がりました。

「良い寝顔。よく眠れた?」

「あ、あああ主様ぁー」

 泣きつくように胸へ飛び込みます。平らで冷たくて一気に眠気を覚ます最強のアイテム。

「怖い夢でも見たのかそうかー」

 記憶が蘇っただけで悪夢ではないです。けど、ちょっぴり安心感を得たいというのは少なからずあった感情でした。

 だって辿ってきたレールが本当に実在したのかどうか、不安になってしまったんですもの。

「怖い夢じゃないんです。昔のことが蘇ってきて、懐かしんでいたと言いますか、主様は今ここにいるのだと確かめたくて」

 二年の月日は高速列車のようにあっという間に過ぎ去りました。旅を続けた主様の雰囲気もちょっぴり大人びましたが、見違えるほど変化があったのは私の方です。

 背は主様を優に超えて、薫さんに迫る勢いで伸びました。華奢な体格はそのままで縦に大きくなった感じ。スラっとして凛々しくもなりました。自分で言うのも少し気恥ずかしいですがね。

「薫と美喜恵は新津から乗るってさ」

「また遠い所に」

 お屋敷での出来事の後日談私と主様は二人と顔を合わせていません。湯楽屋を出てすぐ、薫さんは湯楽屋でいつか語っていた「私と主様を題材にした小説」の原稿執筆を始め、美喜恵さんもそれを後押しする形で三ヶ月ほど残っていたそうです。

 タイトルは『ブラッディロードのセレナーデ』。吸血王女の夜曲という意味合いが込められていて、テンポの良い会話劇とラノベ調の軽快な展開で織り成される吸血王女と自分に自信がない少女の物語でした。

 私のモデルは勿論後者です。旅する前の自分を振り返ると肴にもなりそうですが、あの頃を懐かしむのはまだ時期尚早でしょう。

 話を薫さんに戻しましょう。短くも濃厚な旅路の経験を得た彼女は最強でした。まさに水を得た魚。ゼロから始めたいという要望で新人賞に送り出した彼女の作品は奨励賞という二の舞を踏むような結果でしたが出版から僅か数週間で好評を博して瞬く間に重版。一躍世間の注目を浴び、たった数年でベストセラー作家の仲間入りを果たしたのです。

 何時ぞや電話口で私や主様の関与を疑ったみたいですが、大衆の意識を操作できるほどの能力は持ち合わせてないと弁解したとき、プスっと吹くように笑っていたのを鮮明に覚えています。

 そして、今は彼女も旅の中でネタを見つける(という大義名分)立派なトラベラーになり、全国を転々としているみたいです。仕事には誠実な方なので決して編集さんとか原稿から逃げてるわけじゃないですよ?

 美喜恵さんは相も変わらず湯楽屋で余生を送っていたと言いますが、主様の誘いに二つ返事で答えて飛んだそう。ただ、肝心な列車も居場所も伝えてなかったみたいで薫さんと行動を共にしていたらしいです。

 このお方は……とちょっぴり呆れていると到着のチャイムが車内に奏でられます。

 オルゴールの柔らかい旋律で奏でられた『ハイケンスのセレナーデ』が新津到着の報せ。そして汽笛が一声轟くと緩く前に傾いて減速していくのでした。






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