「それ、いらないです……。困るんです。そばをもらっても」
僕は、引っ越しそばを手に固まる。もしかして、今の時代は洗剤とかの方が喜ばれるのか?
母には、こう言われた。「引っ越したら、お隣さんには引っ越しそばを配りなさい」と。どうやら、母の教えは間違っていたらしい。
「すみません……」
ここは、何事もなかったように帰ろう。うん、そうしよう。
「ちわーす、ご飯お持ちしました!」
僕の後ろから元気な声が。あ、なるほど。配達サービスか。それなら、そばはいらないよな。
「これからよろしくお願いします」
それだけ言うと、部屋にそそくさと戻る。急ぎすぎて、玄関に置いた荷物を踏んづける。
「痛い!」
くそ、参考資料の山に小指をぶつけた。無駄に多い本。だが、資料なくして小説を書くことはできない。と、言っても、シンガーソングライターを主人公にした作品を書こうとすることが無謀なのかもしれない。同じ言葉を使う職業だから、書けるに違いないというのが安易だったか。
「あの、大丈夫ですか?」
後ろを見ると、さっきのお隣さん。恥ずかしいところを見られてしまった。
「本、たくさんありますね。職業は小説家……ですか」
彼女は、『小説の書き方あれこれ』という本を不思議そうに見つめている。どうやら、小説家は珍しいらしい。
「『売れない』が頭につきますが」
「なるほど。でも、問題は相手の心に響くかどうか。売れる売れないは別の問題です」
その一言は、僕の胸に突き刺さる。そうだ。売れなくても誰かの心に残ればいいんだ。そんな小説を書きたい。
「ありがとうございます。その言葉に救われました。ところで、他に何か御用でしょうか?」
お隣さんは、一向に玄関から立ち去ろうとしない。
「何か、いい匂いがします。これは……カレーですね。間違いありません!」
いや、そうだけども。自慢げに言うことでもない。まさか、カレーの匂いに釣られてる?
「もし、よかったらカレーお持ちしましょうか? 配達の分で足りなければですが」
思い切って言ってみる。だが、しかし。
「ごめんなさい、カレーは食べられないんです」
え、あんなに夢中になっていたのに。
「あの、辛いものは食べられないんです。仕事の関係で。だから、恋しくて」
なるほど。でも、辛いものを食べられない職業なんて、あるのだろうか。一つだけ心当たりがある。歌手だ。喉が命である彼らなら、刺激物を避けるかもしれない。もしかして、お隣さんも歌手? まさか、そんな都合よく……。
「私、歌手なので。より詳しく言うと、シンガーソングライターです。この本、たぶん表紙は私です」
執筆のために買いまくった資料の一画を指す。上に乗っかった本をどけると、そこにはお隣さんの顔が。シンガーソングライターなのは本当らしい。それも、売れっ子の。この名前、僕でも知ってる。
「もしかして、あなたは――」
「シー。静かに。私、このマンションから出たくないんです。だから、バレたくなくて」
無言で首を縦に振る。
「ありがとうございます。このことは、二人だけの秘密ですよ」
二人だけの秘密と聞くとドキッとするが、あくまでもお隣さんだ。
「小説のお手伝いしましょうか? 歌手を主役にした小説を書くなら、体験談の方がいいかと思って」
どうやら、次の題材もお見通しらしい。
「ほんとですか! 助かります。ああ、なんとお礼をしていいのか」
「お礼はいりません! ただ……」
「ただ?」
「物は相談ですが。今度から、私のご飯も作ってくれませんか? 配達のものだと、味気なくて」
「えーと。それで、いいのなら」
こうして、僕とお隣さんの奇妙な生活が始まった。持ちつ持たれつの変わった生活が。