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シンガーに捧げる、ひと皿の物語
シンガーに捧げる、ひと皿の物語
雨宮徹
現実世界グルメ・料理
2025年05月02日
公開日
1,479字
連載中
仕事の都合で引っ越してきたマンション。お隣に挨拶へ行くと、引っ越しそばを断られてしまう。 「私、料理できないので!」 料理は得意だけど売れない小説家と、料理は壊滅的だけど人気のシンガーソングライター。 これは、ひとつ屋根の下(じゃないけど)で始まる、ごはんと創作が繋ぐ、少し不器用な二人の物語。

第1話 料理ができないお隣さん

「それ、いらないです……。困るんです。そばをもらっても」


 僕は、引っ越しそばを手に固まる。もしかして、今の時代は洗剤とかの方が喜ばれるのか?


 母には、こう言われた。「引っ越したら、お隣さんには引っ越しそばを配りなさい」と。どうやら、母の教えは間違っていたらしい。


「すみません……」


 ここは、何事もなかったように帰ろう。うん、そうしよう。


「ちわーす、ご飯お持ちしました!」


 僕の後ろから元気な声が。あ、なるほど。配達サービスか。それなら、そばはいらないよな。


「これからよろしくお願いします」


 それだけ言うと、部屋にそそくさと戻る。急ぎすぎて、玄関に置いた荷物を踏んづける。


「痛い!」


 くそ、参考資料の山に小指をぶつけた。無駄に多い本。だが、資料なくして小説を書くことはできない。と、言っても、シンガーソングライターを主人公にした作品を書こうとすることが無謀なのかもしれない。同じ言葉を使う職業だから、書けるに違いないというのが安易だったか。


「あの、大丈夫ですか?」


 後ろを見ると、さっきのお隣さん。恥ずかしいところを見られてしまった。


「本、たくさんありますね。職業は小説家……ですか」


 彼女は、『小説の書き方あれこれ』という本を不思議そうに見つめている。どうやら、小説家は珍しいらしい。


「『売れない』が頭につきますが」


「なるほど。でも、問題は相手の心に響くかどうか。売れる売れないは別の問題です」


 その一言は、僕の胸に突き刺さる。そうだ。売れなくても誰かの心に残ればいいんだ。そんな小説を書きたい。


「ありがとうございます。その言葉に救われました。ところで、他に何か御用でしょうか?」


 お隣さんは、一向に玄関から立ち去ろうとしない。


「何か、いい匂いがします。これは……カレーですね。間違いありません!」


 いや、そうだけども。自慢げに言うことでもない。まさか、カレーの匂いに釣られてる?


「もし、よかったらカレーお持ちしましょうか? 配達の分で足りなければですが」


 思い切って言ってみる。だが、しかし。


「ごめんなさい、カレーは食べられないんです」


 え、あんなに夢中になっていたのに。


「あの、辛いものは食べられないんです。仕事の関係で。だから、恋しくて」


 なるほど。でも、辛いものを食べられない職業なんて、あるのだろうか。一つだけ心当たりがある。歌手だ。喉が命である彼らなら、刺激物を避けるかもしれない。もしかして、お隣さんも歌手? まさか、そんな都合よく……。


「私、歌手なので。より詳しく言うと、シンガーソングライターです。この本、たぶん表紙は私です」


 執筆のために買いまくった資料の一画を指す。上に乗っかった本をどけると、そこにはお隣さんの顔が。シンガーソングライターなのは本当らしい。それも、売れっ子の。この名前、僕でも知ってる。


「もしかして、あなたは――」


「シー。静かに。私、このマンションから出たくないんです。だから、バレたくなくて」


 無言で首を縦に振る。


「ありがとうございます。このことは、二人だけの秘密ですよ」


 二人だけの秘密と聞くとドキッとするが、あくまでもお隣さんだ。


「小説のお手伝いしましょうか? 歌手を主役にした小説を書くなら、体験談の方がいいかと思って」


 どうやら、次の題材もお見通しらしい。


「ほんとですか! 助かります。ああ、なんとお礼をしていいのか」


「お礼はいりません! ただ……」


「ただ?」


「物は相談ですが。今度から、私のご飯も作ってくれませんか? 配達のものだと、味気なくて」


「えーと。それで、いいのなら」


 こうして、僕とお隣さんの奇妙な生活が始まった。持ちつ持たれつの変わった生活が。

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