アップル・ブラックモアは、馬車の窓から景色を眺めていた。モンストラン公爵領。王都から馬車で十日もかかる、辺境の土地。
「はぁ……とうとう来ちゃった」
目に映る風景は、リンゴ畑がどこまでも続くばかり。空は曇ってどんよりと暗く、くすんでいる。その中心にそびえ立つ公爵家の居城は、見るからに寒々とした石造りの要塞だった。
「リンゴの国、か。私には、お似合いかもね」
馬車から降り立ったアップルは、目の前の城を見上げながら、淡々とつぶやいた。
彼女の名前は、赤ん坊だった彼女の頬がリンゴみたいに赤かったという適当な理由で付けられたもので、モンストラン公爵領とは別に縁もゆかりもない。
それでも、寂れた光景にかえって親しみの感情が湧き上がってくるのを、彼女は何となく感じていた。
「まあ、別に何も期待はしてないけどね。とにかく、ここで生きていかなくちゃ」
まるで、お化け屋敷のような古びた城。アップルは冷え切った風を感じながら、かすかに眉をひそめる。
「これが、私の新しい家かあ。思ったほど悪くないわ」
アップルは、平民の中で少女時代を過ごし、たくましく育ってきた。彼女の母親は、魔法使いのサニー・ブラックモア。父親は、竜族の男だったらしい。だが、サニーの期待とは裏腹に、産まれたアップルには何の魔力も発現せず、サニーはアップルへの興味をすぐに失った。以後、半ばネグレクトされたまま、アップルは成長した。
しかし、ある日突然、迎えの使者がやってきて王宮に招かれ、「
だが、アップルの豪華な王宮ライフは、ごく短期間で終わりを告げた。
「鏡よ鏡……この国で一番
「それはサニー王妃陛下です」
「では、美少女なら?」
「それはスノーホワイト王女殿下です」
「キャーッ! やっぱりそうよね。私たちって、似たもの親子っ!」
サニーは、亡き前王妃の娘である「白雪姫」ことスノーホワイト王女をやたらと気に入り、溺愛していた。スノーホワイトは外見に優れ、魔力も高かった。そしてアップルは、スノーホワイト王女の身代わりとして、モンストラン公爵家へ嫁ぐよう告げられた。
「アップルちゃんには長いこと貧乏ぐらしをさせてきたから、お詫びにいい縁談を用意したの。モンストラン公爵家!」
サニーは王国の地図を広げ、その隅っこをステッキでチョンと指し示した。
「リンゴくらいしか特産品がない糞ド田舎……いや、空気のいい土地なんだけど、国境に接してるから、反乱を起こされると困るの。だからアップルちゃんを人質に……いや、公爵夫人にしようと思って。当主はちょっと変わった男よ……『辺境の偏狭者』、なんちゃって。何年も領地に引きこもりっきりで王都には出て来ないから、アップルちゃんもこれで二度と私に会わなくて済むわよぉ」
要するに最初から、政略結婚の駒にするためだけに、長年放置してきたアップルを呼び出したのだ。
「モンストラン公爵家当主、ジョン卿。スノーホワイトの元
自分へ言い聞かせるようにつぶやきながら、アップルは目の前の城門をくぐった。
「ようこそ、公爵夫人」
お迎えに出てきたのは、年老いた執事ひとりだけだった。公爵の部屋に通されると、そこには金髪碧眼の美男子がいた。
ジョン公爵。アップルにとって義妹に当たるスノーホワイト王女の、許婚だった男だ。
見た目だけなら、完璧。だが……。
その目の下のクマ。ダルそうな態度。そして手に持った読みかけの哲学書のタイトルは――
『怠けて生きる勇気――むなしい人生をやり過ごすための百の方法――』
(……うん、なるほどね。やっぱり噂通りの『辺境の偏狭者』ってわけか)
アップルは心の中で、静かにため息をついた。
「お前が身代わりの姫か?」
ジョンは目も合わせることなく、椅子にもたれながら、投げやりに言った。
「はい。今日からお世話になります」
アップルは精いっぱいの笑顔を浮かべ、礼儀正しく頭を下げた。
だが、ジョンの反応は――
「まあ、好きに過ごせ。面倒を起こすなよ」
「あの……私はここで何をすれば……」
「何もするな。家政は、使用人に任せておけ。俺も、お前に関わらない方が気楽だろ?」
そう言って、ジョンはまた本に目を落とした。アップルは瞬時に悟る。
(あっ……これ、完全に放置されるパターンだわ)
一礼して部屋を退出しようとした時、アップルは、ドアの横に掲げられた、壁の肖像画に気が付いた。白馬にまたがった少年が、その後ろに美しい色白の少女を乗せて、仲良さげに微笑みあう情景が描かれている。
(げっ。これは……子供のころのジョンとスノーホワイト?)
ジョンはまだ、スノーホワイトに未練タラタラのようだ。まともな新婚生活は望むべくもないと思い知らされ、アップルは改めて痛烈に打ちのめされた。たとえ義務でも、こんな男とお世継ぎ作りをするのは、こっちだってイヤだ。
さては、彼が人生にむなしさを感じているらしいのも、スノーホワイトと結ばれなかったからなのか。アップルは少し心配になった。
(『むなしい人生をやり過ごす』なんて、ずいぶん気持ちが落ち込んでるのね。私のせいで、彼が自分の人生を捨てちゃうのはイヤだな……)
「スノーホワイトは元気か?」
ジョンがアップルの背中に、声をかける。アップルは振り向き、努めて冷静を装いながら答えた。
「ええ」
ジョンには、とても本当のことは言えない。王宮で見かけたスノーホワイトは幼く、美しかった。その意味では元気だと言える。
しかし……その目は死んでいた。サニーにお人形のように扱われ、明らかに心が壊れかけていた。その白すぎる肌と痩せた身体は、まるで生ける屍。ゾンビのように見えたっけ……
こうしてアップルは、結婚式もなく、夫とは事務的な挨拶を交わしただけで、モンストラン公爵夫人となった。
「奥様、お食事が出来ております」
食堂に案内されて出されたのは、パンとスープだけだった。しかも、パンは少し硬く、スープは塩気が足りない。
(まあ、王宮の豪華な食事に比べれば質素だけど……平民時代に比べれば全然マシでしょ)
アップルは文句ひとつ言わず、黙々と食事を終えた。
「王都から来た、気取ったお姫様が、どれだけ持つか見ものだな」
「どうせすぐ泣いて逃げ帰るさ」
「白雪姫様の身代わりでしかないもんね」
使用人たちの陰口が耳に入ってくる。
(聞こえてますけど⁉ ……でも、最初はこんなものよね)
アップルは苦笑しながら、聞き流すことにした。
「まあ、無理もないわ」
アップルは冷静に状況を分析した。
ジョン公爵は、美貌で名高い「白雪姫」スノーホワイト王女の幼馴染で、許婚だった。
なのに代用品として、顔もイマイチな自分が、政略結婚でやってきた。
使用人たちにとってアップルは、 「公爵様とスノーホワイト王女殿下の、『真実の愛』を邪魔する敵」。
「つまり私は、追放された上に、追放先でも悪役扱いされてるってわけよね。手詰まりじゃん」
アップルは深呼吸して、自分の心に問いかけた。
「でも、いつまでもこうしてるわけにもいかないし。私は私で、この城で居場所だけでも作らなきゃ」
城の中はあちこちにクモの巣やほこりが目立ち、掃除が行き届いていない。食事も味気ない。使用人たちは明らかに、公爵の無関心に甘えて、仕事の手を抜いている。さりとて、アップルが自ら家事に手を出そうとしても、排除されるばかりだった。
「奥様に、こんなことをさせるわけには参りませんので」
アップルは、完全に時間とエネルギーを持て余した。
「はぁ……暇ね。何か、できることはないかな?」
彼女は、城内の広大な庭を散歩して時間を潰すようになった。庭もまともに手入れがされておらず、荒れ果てていた。しかし――
「嘘でしょ……あのハーブがある。あの花も、あの草も!」
草ぼうぼうの公爵家の城は、彼女の眼には、まさに「天然の薬草畑」と映った。アップルに魔法の才能は芽生えなかったが、幼いころから魔女サニーの下働きを長年させられていたので、薬草学・毒草学全般は自然と身に付いていた。
彼女は無我夢中で草むしりに日々駆けずり回り、薬草を採集していった。
そしてある日、アップルは厨房の片隅に目を留めた。そこには、ほこりをかぶったお菓子作りの道具が眠っていた。
「あっ、これこれ! これがいい」
平民の中で育ち、子供のころから食事やおやつを自分で工夫しながら手作りしてきたアップルにとって、本格的な製菓道具と高級な素材を惜しみなく使ったスイーツ作りに取り組むことは、長年のひそかな夢だった。アップルは迷うことなく、厨房へ入った。
「奥様、何をしておられるのです?」
厨房で製菓道具を広げていると、休憩中だった料理長が見とがめて、眉をひそめながら言った。
「見ればわかるでしょ?おやつを作るのよ」
「おやつ……ですか?」
料理長と厨房のメイドたちは、怪訝な顔をした。
「ええ。あなたたちの仕事を奪おうってわけじゃないの。朝晩の食事作りは、今まで通り任せるわ。でも、これは私の趣味だから。ちょっとくらい許してくれても、いいでしょう?」
「いやいや……奥様が厨房に立たれるなど、公爵家の品位に関わります」
「別に邪魔はしないから。それに、私は平民の中で育ったの。包丁の使い方くらい知ってるし、火の扱いも慣れてるのよ」
アップルは微笑みながら、手際よく道具を手に取った。
「もう、勝手になさってください」
料理長は不快そうな表情で冷ややかに言い捨てると、厨房を出て行った。だが、アップルは気にしなかった。
(最初は反発されるのも当然よね。でも、私のスイーツを食べたら、考えが変わるわ)
「さて……まずはシンプルなパイからね」
アップルは慣れた手つきでリンゴを剥き、薄くスライスする。
パイ生地を伸ばし、リンゴを美しく並べて焼き上げた。
「よし……いい感じ」
隠し味に、集めておいた薬草を使う。甘いものをたらふく食べて、健康・美容効果も期待できる。一石二鳥の秘伝のパイがここに完成した。
「ふふっ、久しぶりね……こうして自分でお菓子を作るのは」
焼きあがったパイは、甘い香りを漂わせていた。その香りは、メイドたちの鼻をくすぐった。
「何かしら? この匂い……」
「甘い香りがする……」
アップルは焼きたてのパイを一切れ、近くにいたメイドへ差し出した。
「よかったら、味見してみて」
「えっ、あの……いいんですか?」
「もちろんよ。遠慮しないで」
恐る恐る口にしたメイドは、目を見開いた。
「お、おいしい……!」
「でしょ? 甘さ控えめで、リンゴの酸味がちょうどいいバランスになってるの」
アップルは他のメイドたちにも、一口ずつパイを振る舞った。
「ねえ、これからもここで、時々スイーツ作りをさせてもらえる?」
メイドたち全員が、口の中のパイをもぐもぐしながら笑顔でうなずいた。
(まずは一勝ね)
アップルは心の中でほくそ笑んだ。
その日からアップルは、朝晩の食事は今まで通り料理長たちに任せつつ、昼下がりにはひっそりと厨房でスイーツ作りへ励むようになった。
(この城にも、少し居場所ができたかな……)
アップルはそんな手応えを感じながら、次のスイーツ作りに取り掛かっていた。
「なんか最近、城内の空気が違うな?」
自室で本を読んでいたジョンは、ふと、鼻をくすぐる甘い香りに気づいた。
「ん? この香りは……」
彼は気だるそうに立ち上がると、ドアを開けて隙間からと顔を出し、廊下をキョロキョロと見回した。
その香りの正体が、まさか自分の冷遇している妻が作ったスイーツだとは、まだ彼には知る由もなかった。