混み合う店、延々と続くレジ待ちの列。
週末、いつも見られる光景だし慣れたものだが、内心ため息が出てしまう。
大河かのん。二十五歳。肩まで伸びた焦げ茶色の髪、薄い茶色の二重の瞳は少し日本人離れしているように見える。
大学を卒業して一度は就職したもののパワハラで辞め、今は駅前にある家電量販店のエンタメコーナーで働いている。
「次のお客様奥のレジお願いいたします」
五台並んだ集中レジの奥、かのんは手を上げて客を呼ぶ。
今は昼過ぎ。なのに列が途切れる気配を感じないのは今が十一月の終わりだからだ。
クリスマスと言えばプレゼント。プレゼントといえば玩具やゲームだろう。ここで扱っているのはそういう商品たちだ。だからいつまでたってもレジに並ぶ客は途切れない。
「あー……しんどい」
九時に仕事を終え、かのんはひとり、帰路につく。
「大河さんも飲みに行きませんかー?」
学生バイトに誘われたけど断った。
「明日も出勤だからいいよー、ありがとう、お疲れ様」
「お疲れ様ー」
と言って別れて、かのんは電車で十分離れたアパートの最寄り駅に着いた。
今日も疲れた。
十一月の終わりでしかも土曜日は新商品の発売日があるから、どうしても店は混み合う。それにサンタクロースたちが子供の夢を買いに来るから混みようは半端なかった。
でも怒声は響かないし、おかしな難癖もつけられないから前の職場よりもずっといい。
かのんはひとり、駅からアパートへの道のりを歩く。
少ない街灯は、ひとり歩くかのんの心をどんどん不安にさせていく。空には星が煌めき、月の姿はどこにも見えなかった。
毎日の道のりとはいえ、暗い道が多くて未だに慣れず、気がつけば歩くスピードが早くなっていた。
かのんが住むアパートは住宅街の中にある。
時刻は十時前。人通りが少なく時おり車が走る音が聞こえるだけだ。
「あれ?」
薄暗い住宅街の中、見知らぬ灯りを見つけてかのんは思わず足を止めた。
住宅街の角。
そこにぼんやりと灯火がともる家があった。こんな時間にカーテンを閉めていないなんて珍しい。
けれどどこか違和感を覚える。家の前に何やら看板のようなものが見える気がする。ということは何かの店だろうか。
毎日毎夜ここを通っているのに、今まで気が付かないなんてこと、あるだろうか。いやないだろう。
けれど確かにそこに、店がある。
「なんだろう、あれ」
不思議に思って立ち止まりその店を見つめていると、背後から女性の声が聞こえた。
「あぁ……やっと見つけた」
その声は嬉しさと感動に溢れていた。そんな感情を揺さぶるようなものだろうか。不思議に思いつつかのんは声がしたほうを振り返る。
すると、そこには老齢の女性がひとり、立っていた。
たぶん、七十前後だろうか。祖母を思い出す、白髪の女性だ。その女性は、店を見つめて震えているようだった。
彼女はスマホの画面と店の方を見つめ、今にも泣きそうな顔をしている。
「だ、大丈夫……ですか?」
心配になりおそるおそる声をかけてみる。
すると女性はゆっくりとかのんの方を向き、微笑んで言った。
「あら、こんばんは」
「こ、こんばんは……」
「貴方もあの店が見えるの?」
そう問いかけられて、かのんは不思議に思いながら頷く。
「えぇ……まあ……」
「あらそうなの。私たち、運がいいわね」
嬉しそうに女性は言い、握りしめていたスマホを見つめる。
運がいいとはどういう意味だろうか。
訳が分からないと思いつつ、かのんは女性が首を傾げて見つめた。
彼女はスマホを見てそして、店の方を見る。
「あれがカフェ『月の隠れ家』なのね」
「月の……隠れ家?」
聞いたことのない店の名前だけれど、女性は今にも泣きそうな顔をしている。
「やっと、会えるのね」
そう呟いたかと思うと、女性はふらふらとその店に向かって歩き出した。
「あ、あの大丈夫ですか?」
あまりにもおぼつかない足取りで心配になったかのんは、思わず女性の跡を追いかける。
まるで導かれるかのように女性はまっすぐに店に向かいそして、その扉に手をかけた。
ドアを照らす淡い、オレンジ色の灯火。
店の前に出ている看板には、「思い出に出会えるカフェ、月の隠れ家」と書かれている。
焦げ茶色の重そうな扉を、女性はゆっくりと開いた。
すると中から聞いたことのない音楽が聞こえてきた。
ピアノかと思ったけれど違う。オルガンだろうか。古いオルゴールのような音色だ。何の曲か全くわからないが、クラシックだろう、と勝手に予想を立てる。
全体的に淡い灯りが店内を照らしていて、調度品の多くは深い青で統一されていた。
天井をみると、夜空が描かれていて月や星が煌めいているのがわかる。
「いらっしゃいませ」
中から聞こえたのは、落ち着いた男性の声だった。
女性が言う通り、ここはカフェであるらしい。
カウンターの中に、柔らかな茶色の髪の男性がいた。眼鏡の奥の瞳が、優しげに細められている。
カフェのオーナーだろう。彼は一瞬驚いたように目を見開いた後、ばたばたと慌てたようにカウンターからこちらに出てきて言った。
「えーと……あの、おふたり様、ですか?」
震えた声で言う男性に、女性が首を振り答える。
「いいえ、ひとりです」
「あ、はい、あの、ひとり、です」
かのんもつられるように答えると、男性は頷き言った。
「お好きな席にどうぞ」
かのんがどうしようかと思っていると、女性は迷うことなくテーブル席の方に向かう。
見れば、何組かの客の姿があった。
カウンターにひとり。
テーブル席に三組ほど座り、楽しそうに話をしている。
迷っていると、こちらを見つめる視線に気が付いた。
マスターと思われる男性が、じっとこちらを見つめている。何か言いたげな顔をして。よく見ると握りしめている手が震えているようにも見える。
一瞬知り合いかと思ったが、かのんの記憶の中にはない。
かのんの視線に気が付いた男性は、はっとした顔をしたかと思うと、
「しつれいしました」
と言い、慌てたようにして去っていく。
なんだったのかと不思議に思いつつも、かのんはカウンターの席に向かい、先客からひとつ席を空けた場所に腰かけた。
そこに、水が入ったグラスとお手拭のふきんが置かれる。
「ご注文がお決まりになりましたらお声をかけてください」
そうかのんに声をかけたマスターは、かのんと一緒に入ってきた女性の方にも水と、ふきんを持っていく。
その背中を見送った後、かのんは目の前にあるベルベット色のメニューを手にしてそれを開いた。