カフェのメニューには、カモミールやレモングラスなどのハーブティーが多く、コーヒーもカフェインレスと書かれているものばかりだった。
お酒も少しあり、サンドウィッチやパスタもある。
勢いで入ってきてしまったものの、カフェに用はないし家に帰って夕食を食べようと思っていたからお腹が空いている。
かのんはどうしようかと悩み眉間にしわを寄せ、辺りを見回している。
かのんの隣の隣、カウンター席にひとり座る男性は、小さなノートパソコンに向かって作業をしているようだった。
長めの黒髪で顔が見えないが、かのんとあまり年齢は変わらなそうだ。
黒の上下を着ていて、椅子の背もたれにコートをかけている。
他の客はいったい何を頼んでいるのだろうか。そう思いテーブル席の方を見ると、皆飲み物を注文しているようだった。
中にはケーキを目の前にしている者もいる。
にしても客の年齢層がばらばらだ。
老齢のご夫婦と小学生くらいの子供。若い女性と中年男性。さっきの老齢の女性の前に、いつのまにか若い青年が座っていて楽しそうに話をしている。
ここで待ち合わせをしていたのだろうか。それにしても時間が遅い。もう夜の十時だというのに。こんな時間に何故、彼らはこのカフェを訪れているのだろうか。
とりあえず入ってしまったのでかのんはメニューからパスタと飲み物を選ぶことにした。
「すみません」
「はい」
「月夜のボロネーゼと、カフェインレスのカフェオレお願いします」
そう声をかけると、マスターは伝票にさらさらとペンで書き、こちらを見つめてにこっと笑い頷いた。
「かしこまりました」
料理がくるまで少し時間がかかるだろう。
かのんはどうしたものかと視線を巡らせる。
「こんばんは、お嬢さん」
ノートパソコンに向かっている青年がこちらを向いて声をかけてきたので、内心驚きつつかのんはそちらを向く。
「こ、こ、こんばんは」
ずいぶんとなれなれしい人もいたものだ。
そう思いつつ、かのんは青年を観察した。
長めの黒髪。一重の瞳。やたら色が白く不健康に見えるが、顔立ちはいいのできっとモテるだろう。
「君も待ち合わせ?」
そう問われて、かのんは首を横に振る。
「い、いいえ。そんなんじゃあないです」
「あぁ、そうなんだ。ここに来る人は皆待ち合わせだから君もそうなのかと思ったよ」
言われてみれば店内の客は皆、連れがいる。
でもその組み合わせは全て妙に思える。いったいどんな関係なのだろうか。
なかには小学生くらいと思われる子供もいるし、そんな子供がこんな時間に出歩いていて大丈夫なのだろうか。
「こんな遅い時間なのに、ずいぶんと繁盛されてるんですね」
不思議に思いつつかのんが言うと、青年は頷き言った。
「このお店、夜しかやっていないからね」
「夜しかやってないんですか?」
思わず声を上げると、青年は目を輝かせてカウンターに肘をついた。
「本当に何も知らないんだね。珍しい。君も合いに来たのかと思ったのに違うのかな。興味ある。僕はルカ。流れる風って書いてルカだよ」
「え、あ……か、かのん、です」
初対面の男に名前を名乗っていいのかと迷ったものの、名乗られてはこちらも名乗らないわけにはいかない。
すると青年、ルカは満足そうに頷き言った。
「かのんちゃんね。あっちは京介。ここのマスターだよ。ところでかのんちゃん、僕と会うのは初めて?」
そう言って、彼は微笑み首を傾げた。
これはいわゆるナンパだろうか。
かのんは首を横に振り、
「いいえ、あったことないです」
と、即答する。
するとルカはあはは、と笑った後、頷きながら答えた。
「だよねー。なんだか知っているような気がしたんだけど。本当に会ったことない? あぁ、夢の中とか。前世で恋人とか?」
そう、ふざけたように笑いながら、ルカは言う。やはりこれはナンパかもしれない。
「ないです」
強めにかのんが答えると、
「そうだよねー」
と、軽い口調で言った。
なんなんだろうかこの人は。
変な人だと思いつつ、かのんは水を飲んだ。
「あ、京介。いいところに来た。僕に飲み物をくれないか?」
かのんの前に料理がのったお皿を置いたマスターの京介に、ルカは手を上げてそう声をかける。
「お待たせいたしました。月夜のボロネーゼとカフェオレです」
深い青のお皿に載せられたボロネーゼから、ひき肉のいい匂いが漂ってきて、かのんのお腹がぐう、となる。それにカフェオレが入ったマグカップも、深い青に月の絵が描かれていた。月の隠れ家というお店の名前だからか、食器類もこだわりがあるらしい。
京介はルカの方を向くと、
「何を飲む?」
と尋ねた。
「レモングラスをお願いするよ」
「わかった」
そう答えて、京介はかのんたちに背を向ける。
かのんはフォークを手にして、
「いただきます」
と告げ、パスタを巻いて口に運ぶ。
ボロネーゼとミートソースは何が違うのかよくわからないが、味は違う気がする。
それにしても量がかなり多くないだろうか。かのんが知るお店のパスタの倍近くあるようにも思う。
黙々と食べていると、談笑していた客がひとり、ひとりと帰っていく。
それにしても妙なのは、一緒に座っていた人たちは皆、だれひとりとして一緒に帰らない。
それぞれが別のタイミングで帰っていく。
子供もなぜか、大人とは別に帰っていった。皆、待ち合わせをしていると先ほどルカが言っていたけれど、ということは皆、他人同士なのだろうか。
かのんが食べている間に客の数は減り、残ったのはかのんと共に店に入った老女とその前に座る青年、それにルカだけとなっていた。
不思議なカフェだ。
そう思いつつ食事を終えたかのんは、カフェオレを飲みつつ一息つく。
やはりこのパスタは量が多かった。満腹で今、動きたくない。
ふと視線を横に向けると、ルカがお茶を飲みつつパソコンを見つめていた。
時おりカタカタとキーボードをうっては手を止めて、何やら考え込むようなそぶりを見せている。
何をしているのだろうか。
不思議に思い、かのんは声をかけた。
「ルカさんは、何をしているんですか?」
「あぁ、僕は毎日ここにきて、これで小説を書いているんだ」
言いながら彼はこちらを向いて微笑む。
「小説……作家さんなんですか?」
「うん。売れてないけどね。何冊か本は出しているんだよ」
「かのん、さん」
そこに京介が割って入ってきて、かのんの名前を呼ぶものだから驚いてカウンターの中を見る。
京介は、じっとかのんの方を見つめて言った。
「貴方は、なぜこのお店に?」
「え? あぁ、あの、あちらの方とここのそばで出会って。それでその、ちょっと危なっかしかったので思わず追いかけてしまって」
我ながらへんな理由だと思いつつそう答えると、京介は、
「そう、ですか」
と呟いた。
「とりあえず大丈夫そうでよかったです。パスタ、おいしいですね」
お世辞ではなくそうかのんが言うと、京介は微笑み言った。
「ありがとうございます」
「よかったねぇ。京介」
からかうような口調で言うルカ。
ふたりからはかなり親しげな空気を感じるから、長い付き合いなのだろうか。
カフェオレを飲んでいる間に、あの女性がお会計に立つ。
「ありがとうございます」
そう言った女性は、なぜか涙を流していた。
「……ありがとうございました」
それに京介はなんだか冷たい声で答え、レジを打っている。
なんだか妙だと思うけれど、何が妙なのかと言われるとわからない。
まあ自分には関係ないかと思い、かのんはカフェオレをぐい、と飲んだ。
飲み終わった頃には十時半を過ぎていて、思わず大きな欠伸をする。
「帰らないと」
と呟き、かのんは立ち上がって京介に声をかけた。
「すみません、お会計、お願いします」
「あぁ、はい」
テーブルの上を片付けていた京介は、手を止めてカウンターへと戻ってくる。
いつの間にか、店内にはルカとかのんだけになっていた。青年がいたはずなのにいつの間にか帰ったらしい。
店の出口前にあるレジで会計を済ませ、
「ごちそうさまでした」
と、声をかける。
すると京介は切なげに目を細め、
「また、どうぞ」
と答える。
他の客に、そんなことを言っていただろうか。いや、言っていなかったような。そんな違和感を覚えつつもかのんは頷き、
「そうですね」
とだけ答えた。
ひとり暮らしの非正規が、毎日外食なんてできないので、今度来るとしたら来月だろう。
そう思いつつかのんは京介に背を向け、店を後にした。