誰もいなくなったカフェ、月の隠れ家。いや、正確には誰もいないわけではない。
マスターである京介と、カウンターの隅の席に座るルカ。
ルカが座るカウンター席のみ照明がついていてまるでスポットライトのようだ。その照明の中でルカはキーボードをたたき続けていた。
彼は客であり、客ではないため閉店の十二時を過ぎても帰ることはない。
ルカはノートパソコンの画面から目を離し、片づけを終えた京介に向かって話しかけてきた。
「今日も色んな客が来たねぇ」
そして彼は頬杖をつく。
「あぁ、そうだな」
頷き京介は、自分用にいれたラベンダーティーを飲む。
「ねえ、ひとり不思議な子が来たね。待ち合わせでもない人がここに来るなんて初めてじゃないか」
そのルカの言葉に、京介は胸に痛みを覚えつつ頷いた。
確かにここは、誰かと待ち合わせがある者しか訪れない。京介がここのマスターとなるまえからずっとそうだ。
京介はルカを見る。
彼は愉快そうに笑いながら、話を続けた。
「あの子の名前、かのんちゃん。不思議なことに僕の小説にもかのん、って名前の子が出てくるんだよねぇ」
「あぁ、そうなのか」
「うん。こんな偶然ってあるんだねぇ」
それは果たして偶然だろうか。
「ルカ」
「何だい、京介」
「かのんを、お前は覚えていないのか?」
そう問いかけると、ルカは目を見開いて首を傾げた。
「いったい何のことだい、京介。そうそう、不思議なことに僕は彼女を知っているような気がするんだ。でも思い出せなくて。だから夢か、前世であったのかと思ったけれど」
そう言い、彼は面白そうに笑う。
それを聞いた京介の胸に、鈍い痛みが走る。なぜ、彼はかのんを覚えていないのかわからない。いや、覚えていなくて当然なのかもしれない。
京介は顔を歪ませ、思わずあいている手をぎゅっと、握りしめた。
「これもいいネタになるかなぁ」
と呟いて。
ルカにとって、ここで起こる出来事は全て小説のネタとなる。
彼はそうだ、と言った後、ノートパソコンのキーボードをうち始めた。
もうどれくらいの時間、ルカはここで小説を書いているのだろうか。
何年もの時間をかけているけれど、未だにその小説は完結しないらしい。
何の小説を書いているのか、京介は知らない。そして、ルカもその詳細を語ろうとはしない。
「ルカ」
「なんだい、京介」
言いながらもルカは手を止めない。
「お前はあとどれくらい、ここにいる?」
思わずこぼれ出た言葉に、ルカは軽い口調で答える。
「え? そうだねぇ、まだしばらくいるよ」
その答えを聞いて、京介は複雑な思いを抱えながら頷く。
しばらく。
それは希望なのだろうか。それとも、呪いなのか。
ルカがここにいる理由。それは京介が望んだからだ。だから彼は客であり、客ではない。そんな曖昧な存在になってしまっている。
このままではいけない、とわかってはいるもののまだルカを解放できない。
そんなときに現れた、かのん、という存在。
彼女の存在が、京介の心を揺さぶっていた。
どうやら彼女は、京介を、ルカを知らないらしい。けれど京介は彼女の事をよく知っている。京介がここに留まり続けている理由のひとつだのだから。
もう諦めかけていたのに、とうとう彼女は現れた。ということは、京介たちの動かなくなった時間が動き出す、ということだろうか。
「――何を、やっているんだろうな……俺は」
自虐的に呟いた京介の言葉を聞き逃さなかったルカは、パソコンから顔を上げ、
「何って、ただ僕と一緒の時間を過ごしているじゃないか」
と、微笑み言い、パソコンのキーボードを叩く。まるで意味のない言葉のように、軽く。
そんな当たり前なことが、どれだけ重要な意味をもっているのかルカは知らないだろう。
一緒の時間を過ごしている。その言葉は京介にとって希望であり、呪いだ。
このままではいけないとわかっていても、止まっている時計を動かす勇気は、まだ京介にはない。
京介は首を横に振り、空になったカップを流しに置く。
「そうだな。じゃあ、俺はもう上に行くよ」
「うん、おやすみ、京介」
「あぁ、おやすみルカ」
この会話を続けられるのは後何度だろうか。いや、考えるだけ無意味だろう。京介にはまだ、終わりを迎える覚悟などないのだから。
京介はルカに背中を向けて二階へと向かう扉をくぐる。
あとに、照明に照らされているだけのパソコンを残して。