ハイランド城。
かつては辺境の防衛拠点にすぎなかったその城は、今や魔族を見世物として囲う檻となっていた。
月明かりが差し込む牢の片隅。
吊るされた鉄の檻の中で、黒き翼を血に染めた魔物が目を閉じていた。
ガーゴイルのヴァレック。
彼の背中には漆黒の羽根が二枚、無惨にも裂け目を刻まれたまま垂れている。
兵士たちはその翼を誇りと呼び、同時に「折る価値のある象徴」として扱った。
その誇りを引き裂かれた彼は、静かに耐え続けている。
ただの怒りではなく、“侮辱”と“屈辱”に。
「……空の、風が……懐かしいな。」
かすれた声。だが、その目には未だ濁りはなかった。
軍師としてルーデンと共に戦い、上空から戦況を読み、戦場を操った男。
その思考は今も冷静だった。
一方、地下の牢では、別の光が凍てついた空気の中で輝いていた。
月光を弾く純白の毛並み。
凛とした佇まいの女戦士。
牢の中、彼女は背を丸める小さな人間の子どもを静かに抱いていた。
「もう怖くない。私が守る。……約束したから。」
あの日、森で震えていたこの子を、ただ見捨てることができなかった。
逃げる時間はあった。戦う理由も、なかった。
だが、仲間とはぐれた人間の子どもが泣いていた。
ただそれだけで、彼女は敵の中へ飛び込んだ。
「シヴァル……。もう、我慢しないで。泣いてもいいよ……。」
「泣くのは、あなたが笑えるようになってからだ。」
静かな声に、子どもは再び彼女の腕の中で眠りについた。
シヴァルの瞳には、冷たい氷よりも澄んだ怒りが灯っていた。
仲間を傷つけ、子をさらい、魂を鎖に繋ぐ者たちへ。
そして、その頃――。
ハイランド城の外壁を這い上がる影が三つ、静かに闇の中に揺れていた。
ヤゴリ、ナコビ、メザカモ。
かつての仲間を救うために、力を得た者たちが再び動き出す。
「ヴァレックの羽根は、あいつの心そのもの……。よくも、そんな真似を。」
ナコビが、地を噛むように言う。
「……怒りに任せて突っ込むな。冷静に、確実にやる。これは救出作戦だ。」
ヤゴリの言葉にうなずき、3人は静かに夜の城へ潜入していく。
仲間の誇りを、囚われた尊厳を、そして……。
魂に響いたあの声への答えを持ち帰るために。
鐘の音が鳴り響いたのは、深夜二刻を告げた瞬間だった。
「侵入者だ! 城の西翼だ!」
衛兵の怒声が城中にこだまする。
鉄のブーツが石畳を打ち鳴らし、松明が赤々と揺れ、血の臭いが空気を支配し始めていた。
「ずいぶんと賑やかになってきたな。」
ヴァレックが吊るされたまま薄く笑う。
その鋭い目が、黒い影が舞い降りるのを捉えていた。
「……久しぶりだな、羽根野郎。」
着地と同時に城の石壁がひび割れ、雪を纏ったような白銀の毛並みと、鋭い牙を覗かせた戦士が姿を現した。
雹狼族のメザカモだった。
「メザカモ……か。久しぶりだな。まさかこんなところで会うとはな。」
「おまえの羽根がこんな風にされてんの見て、来ないわけがねぇだろ?」
続けざま、石の牢を轟音とともに破壊しナコビが突入する。
「シヴァル、無事か!」
「ナコビか!? なぜ……ここに!?」
氷のような声が牢から響く。
鎖を引きちぎるようにして、シヴァルが人間の子を抱え立ち上がった。
「うらたちが来た。……あとは思う存分、怒っていい。」
最後に姿を見せたのは、戦士たちを率いるヤゴリ。
城の衛兵たちは一瞬怯む。だが、すぐさま構え直す。
「魔族どもが脱獄だと!? 殺せ! 1匹も逃がすな!」
「殺すだと? なら先にお前たちの覚悟を見せてもらおうか!」
ヤゴリが巨斧を振り上げる。
その一撃が、城の中庭を地割れのように切り裂いた。
砕けた石の中から這い出る炎、火花、咆哮。
ナコビが殴り抜き、メザカモが剣で斬り払う。
瓦礫の中で衛兵たちはなすすべなく弾き飛ばされる。
だが、城の主は侮っていなかった。
「討伐部隊を出せ! 魔道兵も使え!」
兵士たちの奥から、魔力を纏った戦士たちが現れる。
彼らは人間の中でも、特に魔族を討つことに特化した部隊だった。
「なるほど、見世物の裏にはこんなお堅い番犬がいたってわけか。」
メザカモが剣を構え直す。
「いいだろう。見せてやるよ。
魂を燃やして生きる、魔族ってやつの本気をな!」
激突の咆哮。
瓦礫舞う城内に、黒き翼が再び羽ばたいた。
ヴァレックが血を流しながら、ようやくその檻を蹴破ったのだ。
「……遅れて、すまない!」
「黙ってろ。飛べるか?」
「今はまだ無理だ。だが、地上なら、誰にも負けん!」
その言葉とともに、彼の掌が魔力を集める。
岩のように硬質な拳が、襲い来る兵士たちの盾を粉砕する。
牢からは、シヴァルを中心に他の
彼女らはしなやかに走り、凍える夜気の中で戦場を切り裂く。
仲間を取り戻すため。
失ったものを取り戻すため。
そして、魔王オべリスの“魂の声”に、確かな誓いで応えるために。
戦いの炎は、夜明けまで消えることはなかった。
崩れ落ちた塔の下、檻から解放されたヴァレックは、半ば折れた翼を庇いながら地面に膝をついていた。
地を踏みしめたヴァレックの目には、再び光が宿る。
その背に、ふわりと白い影が寄り添う。
「……飛べなくなったら、私たちの背に乗ればいい!」
シヴァルが、傷を負ったヴァレックの肩にそっと触れる。
仲間を庇って傷を負った
「……恩に着る!」
逃走のルートは確保済み。ヤゴリとナコビ、メザカモが衛兵たちを薙ぎ払った後、残された障害はもうない。そう、思っていた。
――カツン。
その音に、すべての魔族の動きが止まった。
塔の瓦礫を踏み越え、白銀の甲冑に身を包んだ男が歩いてきた。
その姿は光を反射し、月のごとく冷たく輝いている。
「白の砦……!」
ヤゴリの声が震える。
その名は、かつて大陸北部に住む魔族を封殺した剣士。
人類最強のひとりとされ、王国の防衛において“動かぬ砦”とまで呼ばれた男。
「ふむ。ここまでやっておいて、逃げるつもりだったのか?」
淡々とした声。まるで何も感じていないような、無感情の音。
その手には、一本の剣。光を拒絶するような黒鉄の刃身。
「まさか、白の砦が……。このタイミングで!?」
ナコビが呻くように言った。
一歩、また一歩。白の砦は近づいてくる。
気配だけで、空気が冷気に変化する。
彼の周囲だけ寒獄ようだった。
「おい、無理だ。逃げ――」
誰かが叫ぶ前に、
――空が、裂けた。
音もなく、空間の一部が断ち割られ、そこから燃えるような黒い影が現れた。
「……ッ、な、なんだ……?」
白の砦すらも足を止めたその瞬間、黒き衣の男が虚空から姿を現した。
その瞳は深い夜。気配は、一切ない。ただ、存在が“場”を支配していた。
「……貴様、何者だ!?」
白の砦が問うた。
黒き男はただ、一歩前に進み、魔族たちの前に立つ。
そして振り向かず、背で彼らを庇いながら、口を開いた。
「3人ともご苦労だったね。こいつは、僕が殺すよ。」
それは命令でも、お願いでもなかった。
魂に届く、“本能の宣告”。
「ま、まさか……。」
ナコビが呻くように呟いた。
「オべリス様……!?」
そう、現れたのは魔王オべリスだった。