「だ、誰だ?」
誰何すると、押入れの暗黒魔界からなにかが飛び出してきた。それが白い手袋をした掌だと認識したのも一瞬、俺はいつの間にか視界が上下逆さになっていた。
投げ飛ばされたんだ。たぶん一本背負いみたいな感じで。背中めっちゃ痛い。
「異世界で暮らすなど、馬鹿げたことです」
俺をぶん投げたのは、フリルを多くあしらった給仕服の女性――つまりメイドさんだった。若い。まだ十代後半ってところか。表情筋が全く動かない顔は人形のように整っていて、俺よりは年上と思われる。
濃紺の髪はショートに切り揃えられ、アンネリーゼと同じくらい白い肌が浮いて見える。鋭く研ぎ澄まされた氷のような青い瞳が、引っ繰り返っている俺を冷たく見据えていた。
「私はロロット・フォンセ。アンネリーゼ様の傍仕えをしております」
「これはこれはご丁寧に。俺は間咲忠お――じゃなくてなんなんだいきなりお前!?」
「それではアンネリーゼ様、帰りますよ」
ガン無視された。ボクちゃん悲しい。
「嫌よ」
そんな失礼極まりない従者に、アンネリーゼは不機嫌そうに腕を組んで不動の姿勢を取った。ガチで帰らない気だよこの娘……。
「あたしはもうこっちの世界で暮らすって決めたのよ」
「そんな勝手は許されません。帰っていただかないと困ります。アンネリーゼ様はフィンスターニスこ――」
「あーあーあー! なにも聞きたくなーいー!」
「子供か!?」
メイドが迎えに来たってことは、どうやらやんごとない身分なのは本当らしいな。
「とにかく帰らないったら帰らない! あんな退屈で窮屈な場所はもううんざりなの!」
「だからといって家出はどうかと」
「家出じゃない! 引っ越しよ!」
世界を渡る家出とかなかなか壮大な話になってきた気がする。とりあえずこのまま喧嘩されても俺が困るので、今は仲裁して帰ってからゆっくり話し合ってもらおう。
「まあまあ、とりあえず落ち着いて」
「黙りなさい、生ゴミが」
「んん?」
俺は耳を疑った。恐らくロロットも使っている通訳の暗黒魔術に不具合があったのだろうね。ほら、そうじゃないと初対面の人間にいきなり『生ゴミ』などと言えるはずが――
「私とアンネリーゼ様が話しているのです。生ゴミは生ゴミらしく腐った臭いを撒き散らしながら潰れていてください。ああ、視界には入らないでください。吐き気がします」
これっぽっちも不具合じゃねえ! いきなり投げ飛ばしたり、こいつ本当なんなの?
「ロロット、撤回して。タダオミは生ゴミじゃないわ」
「そうですね。アンネリーゼ様がお戻りになられるというのであれば、その僅かな間だけ人間として見るよう努力しましょう」
努力しないと見れないのか……俺の精神に二千のダメージ。
「あたしは帰らないって言ってるでしょ? 心配ならロロットも一緒に住めばいいのよ」
「また無茶を仰います」
「なんでよ。あたしの気持ちを知ってるロロットならわかってくれると思ったのに」
「ええ、わかっています。わかった上でそれはよくないと窘めているのです」
あー言えばこー言うとはこのことで、アンネリーゼがなにを言ってもロロットには柳に風だな。次第にアンネリーゼの頬が膨らみ、目尻に涙が浮かぶ。
そして――
「もう! ロロットの馬鹿! わからず屋! 大嫌い!」
あーあ、涙目で喚いて拗ねちまったよ。でもそんな子供みたいな癇癪を起こしてもこのメイドには通用しなさそ――
「だい……きらい……」
あれ? 意外と効いてる?
「ここで無理やり連れ帰ったら、本気でアンネリーゼ様に嫌われてしまいます。それはダメです。よろしくありません。多少ご機嫌を損ねるくらいだと思っていたのですが、『大嫌い』は想定外。『大嫌い』はまずい。ぐぬぬ……」
なんかめっちゃショックな顔で独り言を呟いてるな。初めてその無表情が崩れたぞ。
ただの主従の関係じゃないのか?
「……わかりました。しばらく様子を見させていただきます」
やがて苦悶していたロロットが口を開くと、あれだけ絶対連れ帰る姿勢だったのにあっさり掌を返しやがった。
「やった! ありがとう、ロロット! 大好きよ!」
「その笑顔が見たかった――ではなく、必要な時には一時的に帰っていただきますよ。それが見逃す最低限の条件です」
「そのくらいなら、まあいいわ」
妥協すると言わんばかりの勝ち誇った顔で、アンネリーゼ。
「いや勝手に話進んでるけどさ、俺の意見は?」
「は? アンネリーゼ様の決定ですよ。生ゴミごときが意見するとは縊り殺しますよ?」
「今までその主に意見しまくってたのどこのメイドだっけ!? いいから連れて帰れよ俺は居候なんて認めな――」
ヒュッ!
俺の顔の横を暗黒の弾丸が掠めた。それはロロットの指先に小さく展開された魔法陣から射出されたものだった。
「アンネリーゼ様を連れ帰ったら私が嫌われるではありませんか。そうですね。同棲する必要はありません。あなたをぶち殺して奪い取ればいいだけの話です」
こいつ、目が本気だ。
「やめてロロット!? タダオミになにかしたら承知しないわよ!」
「チッ」
盛大な舌打ちの後、ロロットは指先の照準を俺から外した。
今は助かったが、これ以上反対意見を述べるとこのメイドは本気で俺を殺りかねないぞ。
だからと言って、簡単に認めてなるものか。
「で、でもほら、勝手にいなくなったりしたら家の人心配するだろ?」
「そこはなんとかなります」
「なるんかーい!? じゃあなんであーだこーだ言って連れ帰ろうとしてたんだ!?」
「うるさいですよ生ゴミ、あ、生ゴミは撤回しなければいけませんね。黙れ産業廃棄物」
「もっと酷い!?」
どうすればいいんだ。どうすれば平穏無事に帰ってもらえるんだ。アンネリーゼは言い出したら聞かない顔してるし、ロロットの掌をもう一度返させようにも既に理屈が通らない状態になっちまってる。さっきみたいな力づくはもう通用しないどころか俺が死ぬ。
「それにしても……」
ん? なんだ? ロロットの奴、おもむろに部屋を見回して。
「この邸は狭さには目を瞑るとしても、アンネリーゼ様が暮らすには汚すぎますね。メイドとして掃除をさせていただきますが、よろしいですね?」
「よろしくねえ!? ここは俺の部屋だ俺が片づけるたとえ殺されてもだぁあッ!?」
「なんて凄まじい気迫ですか……生ゴミのくせに」
若干引かれてしまった。だがそれだけは譲れない。俺のプライドが許さない。
「いいよね、タダオミ? 一緒に住んでも」
「いいわけあ……い、イインジャナイカナー」
ギロリとロロットに睨まれて怯む俺。我ながら情けない。
このまま流されるわけにはいかない。どうにかしてこいつらを暗黒魔界に追い返さないと絶対面倒なことになるぞ。
こんなファンタジーな連中に武力で勝てるわけないし、どうしたものか……。
「そういえば、ここってタダオミしか住んでないの?」
俺がいかにして殺されず追い返すか考えていると、アンネリーゼが何気ない口調で問いかけてきた。
「ん? ああ、俺の親は三年前、十回目の新婚旅行で海外に行ってそれっきり――」
「あっ……ごめん、嫌なこと訊いちゃったわね」
「それより『十回目の新婚旅行』という言葉が意味不明なのですが?」
「丁度いいからって海外での仕事を会社に押しつけられて滅多に帰れなくなったんだ。まったく酷いよな。せっかく楽しく旅行してたのに邪魔されたんだぜ?」
俺は絶対そんなブラックな企業には就職しないもんね!
「……」
「……」
おや? なんか二人から冷めた視線を感じるぞ。
「じゃあロロット、あたしの部屋から私物を運び込んでくれる?」
「承知いたしました」
おっと、今度は俺をいないものとして話を進め始めたな。
これあかん奴や。この暗黒魔界人ども、もはや勝手にこの家に巣食うつもりや。
諦めるしか……ないのか?
「頼むから、他人様に迷惑だけはかけないでくれよ……」
溜息混じりにそう言ったが、認めたわけじゃない。今は頷くしか選択肢がなかったとしても、絶対にすぐ帰ってもらうからな。
俺の平和な一人暮らしのためにも!