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白い結婚のはずでしたが、王太子の愛人に嘲笑されたので隣国へ逃げたら、そちらの王子に大切にされました
白い結婚のはずでしたが、王太子の愛人に嘲笑されたので隣国へ逃げたら、そちらの王子に大切にされました
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年05月04日
公開日
5.3万字
完結済
「これは白い結婚のはずだった――愛のない形式的な婚約。けれど、私はただ“黙って耐える存在”ではなかったのです」 王太子アルベールとの政略結婚により、王妃として迎えられた侯爵令嬢オデット。だが彼女に向けられたのは愛ではなく、冷たい無関心と愛人ミレイユの嘲笑だった。 辱めを受けながらも、王妃としての責務を果たし続けたオデット。だがある日、ついに王宮から姿を消す――。 行き先は隣国アルヴェール。そこで出会った王子レオポルドは、彼女を一人の人間として尊重し、優しさと愛を与えてくれた。 追放も破談もされていない。ただ、自らの意志で王宮を去った令嬢が、新たな地で“本当の愛”を手に入れたとき、かつて彼女を軽んじた者たちに静かなる報いが訪れる。 これは、アルファポリスにて公開していた作品に加筆修正を加えた改訂版です。未読の方にも、既読の方にも楽しんでいただけるよう、構成と描写をブラッシュアップしております。

第1話 屈辱の婚約と白い結婚の宣告

 オデット・ド・ブランシュフォール――

 王国随一の美貌と謳われる侯爵家令嬢。その青い瞳は、透き通った湖面を思わせ、長く伸びる金髪は陽光を帯びると白金の輝きを放つ。華奢な体躯ながらもしなやかな体のラインを持つ彼女は、幼い頃から「将来はこの国の王妃になるに違いない」と人々から期待されてきた。実際、幼少の頃からオデットは王宮の周囲に集まる上級貴族たちの注目を一身に集め、彼女の礼儀作法や品性、そして優秀な学問の成績は、多くの者の賛辞を得ていたのである。


 さらに、オデットの家門であるブランシュフォール侯爵家は歴史と格式を重んじる由緒正しい名門だった。古くから軍事面でも外交面でも王家を支え、時代が変わっても王家と深い信頼関係を築いている。父親のベルナール・ド・ブランシュフォール侯爵は、国王からの信頼が厚く、宮廷の評議でも重要な役職を担っていた。

 当然、そんな娘であるオデットも周囲から大きな期待を受けていたし、本人もそれを自覚していた。彼女は幼い頃から、「自分はいずれ王家の人間になるのだ」と言われ続け、貴族令嬢としてあらゆる面で高水準の教育を受けてきたのだ。剣舞に詩歌、宮廷ダンスやテーブルマナー――どれを取ってもそつがない。その姿には、ブランシュフォール家の誇りが詰まっていると言われても過言ではないだろう。


 その期待通り、オデットは次期王太子であるアルベール殿下の婚約者となった。正式に婚約が決まったのは彼女が十六歳のころ。誰もが納得する政略婚であったが、同時に「美しく聡明な令嬢と英邁な王太子殿下」という組み合わせは、王国に明るい未来を約束するものとして、国中の人々からも歓迎されたのである。


 ──しかし、結論から言えば、オデットの運命は華やかな祝福のままでは終わらなかった。


 きっかけは、王太子アルベールが突然「愛人を作る」と宣言したことにあった。

 王太子といえば、この国の次期国王の地位を約束された存在。幼少期から厳格な王家の教育を受け、将来は立派な王となるべく鍛えられてきたはずであった。しかし、実際のアルベールは、王族特有の尊大さに加えて、どこか人を道具のように扱う冷酷さを見せるときがあった。

 オデットに対しても、婚約した当初こそは優しく接し、国中の注目を浴びる「理想のカップル」を体現してみせたものの、ここ数年は急激に態度が変わり、彼女に対してほとんど関心を示さなくなっていた。


 それでもオデットは、表面的には「良き婚約者」としての役目を忠実にこなし続けた。国王や王妃、そして自分の家族の顔を潰すわけにはいかないし、何より自分はこの国の未来を背負う王太子妃となる身なのだ――そう自分に言い聞かせてきたのである。

 だがある日、アルベールから告げられた言葉は、彼女を奈落の底へと突き落とすには十分すぎる衝撃だった。


「お前とは形式上の結婚、つまり“白い結婚”で十分だ。正式に式を挙げても、夫婦として夜を共にするつもりはない。愛人を迎える。今後、俺の前で妻面するな――」


 アルベールの台詞は刃のように冷たく、オデットの胸を抉る。彼女は気丈にも黙ってそれを受け止め、青い瞳を伏せるしかなかった。それが、周囲に与える影響を最小限に抑えるための、彼女なりの判断である。

 しかし、内心は怒り、悲しみ、屈辱、さまざまな感情が渦巻いていた。まさか自分が王太子妃になるはずが、そんなぞんざいな扱いを受けるとは想像もしていなかったからだ。


 これまで、ブランシュフォール侯爵家としても散々王家を支え、王太子妃となるべく人生を費やしてきたオデット。彼女が宮廷で学んだマナーや教養、果ては王妃教育の全ては、いったい何のためだったのか。

 その疑問が頭をよぎるたびに、ふつふつとした憤りが湧いてくる。だが、オデットはそれを表には出さない。寧ろ、完全に打ちのめされた表情も見せず、あくまで貴婦人の静かな佇まいを崩さないように努めるのだ。


 アルベールの言葉に対して、周囲の貴族たちも驚きを隠せなかった。なぜなら、この国において次期王太子妃が「白い結婚」という形で蔑ろにされるなど、聞いたことがないからである。

 当初はアルベールの気まぐれかと思われたが、彼の背後には自分の権勢を伸ばしたい貴族派閥がいるとも噂される。あるいは、愛人として迎え入れたい女性――下級貴族出身のミレイユが、何らかの手段で王太子の心を掴み、陰で糸を引いているのでは、と。宮廷では連日、そんな噂が飛び交っていた。


 こうして、ある意味で周囲の同情の目がオデットに集中し始める。しかし彼女は、その同情すら心苦しかった。「憐れまれるために自分はここにいるのではない」と思えばこそ、強い意志を示したくもなる。それでも、彼女を支えるはずの家族――特に伯母や友人たちまでが、王太子の鶴の一声を恐れ、オデットに腫れ物を扱うかのように近寄らなくなっていく様子に、オデットは深く心を痛める。

 人間関係とはなんと脆いものか、と。王家からの冷遇が表面化した途端、これまで愛想よく近づいてきた婦人たちの態度は一変した。

 「オデット様、たいへんですわね」

 「気を強く持たれた方がよろしいですわ」

 「お身体に障りませんように、ご自愛くださいませ」

 一見すると思いやりのある言葉だが、その目はどこか好奇の色を帯びている。ああ、何事も自分の身に降りかかるまで他人事なのだ、と思うと、オデットは余計に孤独を感じた。


 そしてオデットにとって、決定的だったのは王太子からの言葉だけではない。その後、アルベールに取り入る形で急接近してきた貴族の中には、あからさまにオデットの顔を見て嘲笑する者まで出てきたのである。

 ある日、宮廷の回廊を歩いていたオデットは、ふと後ろから声をかけられた。振り返ると、そこにいたのは高位貴族の令嬢たち数名。王太子派とも言われる人々で、彼女たちは隠そうともせずくすくすと含み笑いをしている。

 「まあ、オデット様。ご機嫌よう」

 「婚約が決まったばかりの頃は、私たちなんて目もくれなかったのに、こうして同じように歩く日が来るなんて、運命というのはわからないものですわね」

 明らかに上から目線の言葉だが、オデットは動揺した表情を見せず、会釈を返す。

 「こんにちは。わざわざお声がけくださりありがとうございます」

 すると、彼女たちはまるで獲物を確認するかのようにオデットをじろじろと眺めまわす。

 「けれど、せっかく王太子妃になられるのに、なんでも『白い結婚』なのだとか」

 「ご成婚なさっても、華やかな新婚生活というわけにはいかないんですのね。お気の毒に」

 口々に嘲るような口調だ。オデットは微かに唇を震わせるが、必死に平静を装う。

 「どのような形であれ、私には私の務めがありますわ。お気遣い感謝いたします」

 そう言って優雅に会釈すると、オデットは踵を返してその場を立ち去る。後ろから、彼女たちが再び含み笑いをこぼす声が聞こえたが、聞き流すしかなかった。


 そんな日々が続く中、オデットは自分の存在意義に疑問を抱き始める。国の未来を担う王太子妃、そしてゆくゆくは王妃となるために幼少期から必死に努力してきた。あらゆる教養を身につけ、誰が見ても「非の打ち所がない」淑女として周囲に振る舞ってきた。

 しかし、現実はどうだろう。王太子からは愛されず、むしろ蔑ろにされ、宮廷の人々はその状況を面白がる者もいれば、巻き込まれを恐れて見て見ぬふりをする者もいる。自分の努力はすべて無駄だったのか――オデットは夜な夜な考え、眠れぬ夜を過ごした。


 そんな彼女にとって唯一の救いは、実父であるベルナール・ド・ブランシュフォール侯爵の存在だった。

 ある晩、オデットが自室で書類を整理していると、父が静かに扉をノックして訪ねてきた。

 「オデット、少し話をしよう」

 父は優しい眼差しを向けながら、娘の部屋に入る。彼は宮廷でも冷静沈着な人物として知られ、王家とも一定の距離を保ちながら忠誠を誓う、稀有な存在だ。

 オデットは小さく頷いて、父を部屋のソファへ案内した。使用人を下がらせると、父は微かな溜め息をつく。

 「……無理をしてはいないか?」

 その問いかけは、まるで全てを知っているかのようだった。

 オデットは思わず視線を落とす。彼女は強がってはいても、完全に自分を隠し通せるほど強い人間ではない。ただ、父に心配をかけまいと努めてきただけだ。

 「無理などしていません。私は王太子妃になるべくして生まれ、育てられてきました。こんなことでくじけるほど、心が弱いわけでは……」

 しかし、言葉の端々から震えが滲み出る。父はそれを見逃さない。

 「オデット、私から見ても、お前はよくやっている。だが、いつの間にか背負うものが増えすぎてはいないか。アルベール殿下の態度は、お前だけでなく、このブランシュフォール家全体にとっても由々しき問題だ」

 オデットは唇を噛みしめる。そう、これはオデット個人の感情問題だけではない。もし彼女が王太子妃の座から追い落とされれば、ブランシュフォール家が政治的に不利な状況へ追いやられることは明白だった。

 「伯父や伯母も、この件をどうにかしようと動いてくれてはいますが、あちら側は王太子殿下と愛人のミレイユに取り入る貴族たちが多いようで……。今、無理に争えば、かえって逆効果になるかと」

 父は静かに頷き、「そうだろうな」と低く呟く。

 「国王陛下も、ご高齢で政治の現場から一歩引いておられる。王妃陛下もお身体が優れない日が多い。殿下が事実上、宮廷を動かし始めている以上、下手に逆らうことは難しい」

 父の言葉はまさに現状を示していた。オデットもそれを痛いほどに理解している。王太子に逆らえば、ブランシュフォール家は宮廷から排斥される恐れがある。それは家の没落にも繋がりかねない。

 だが、このままではオデットの尊厳が踏みにじられるだけだ。

 どこかに打開策はないのか――そう思いつつも、どうしても突破口が見いだせない。

 それでも、父は娘を優しく抱き寄せ、そっと頭を撫でながら言葉を続ける。

 「お前には、お前の幸せを掴んでほしい。それがどんな形であれ、私はお前を信じている。もしこの先、ブランシュフォール家のために婚姻関係を維持しなければならないのなら、その重荷を背負うのは私たち大人の責任だ。お前だけが苦しまなくてもいいのだよ」

 その言葉は、まるで長く張り詰めていた弦を一瞬で緩めてしまうような、温かな響きを伴う。オデットは思わず涙を浮かべそうになるのを必死に堪えた。

 自分は、家のために、国のために生きることが当然だと思っていた。だが、父は「お前自身の幸せ」を望んでいると言う。

 「……お父様、ありがとうございます。でも、私は……」

 何を言うべきなのか、正直わからない。オデットはしばし黙りこみ、うつむく。父はそれ以上は何も言わず、ただそっと娘を抱きしめるだけだった。


 その夜、オデットは自室のベッドに横たわりながら、これまでの人生を振り返っていた。

 王太子妃としての人生こそが、自分の歩むべき道だと信じて疑わなかった。周囲から期待され、家のために尽くすことが、自分にとって最大の幸福だと。

 しかし、今、王太子からは拒絶同然の扱いを受け、このままだと形だけの「白い結婚」という屈辱的な境遇に甘んじねばならない。そんな惨めな姿を晒した状態で、この国の王太子妃――いずれは王妃と呼ばれる立場になったところで、何の意味があるのだろうか。

 むしろ、ブランシュフォール家の名誉を汚すことになるのではないか。王妃としての実権を持てないだけでなく、宮廷の者たちから嘲笑され、愛人を公然と連れ込まれる王太子殿下を止める権利すら与えられないのだから。


 オデットは、しばらく暗闇の中で目を開いたまま、数えきれないほどの問いを自問自答する。

 やがて夜が明ける頃、まどろむように瞼を閉じかけた彼女は、ふと一つの考えに行き着いた。

 「もし、この国を出てしまったら――私は自由になれるのだろうか?」

 その思いは、まるで夜の闇が明ける寸前に一瞬だけ差し込む月の光のように、ぼんやりとオデットの意識を照らす。

 もちろん、簡単なことではない。彼女はブランシュフォール侯爵家の令嬢であり、王太子妃になることが既定路線とされてきた。たとえ自ら望まなくとも、一度敷かれた道を逸れるというのは途方もなく大きな決断だ。

 だが、「王妃になる」ことこそが自分の幸せだと思っていた前提が崩れた今、彼女の心は静かに揺れ始めていた。


 そんなオデットの心のさざ波を、さらに大きく動かす出来事が起こったのは、それから数日後のことである。


 その日、オデットは王宮で開催される晩餐会に招かれていた。名目は「王太子妃となられるオデット・ド・ブランシュフォール令嬢をお披露目する会」というものだが、実態はアルベール殿下とその取り巻きが、愛人のミレイユを裏で引き合わせるために開いたとも言われる、噂の絶えない宴だった。

 華やかなシャンデリアがきらめく大広間で、オデットは一糸乱れぬ姿勢で来賓の貴族たちに挨拶をしてまわる。派手な装飾が施されたドレスに身を包み、その美しい金髪をアップスタイルにまとめ、首筋にはかすかに揺れる真珠のネックレス。誰が見ても「完璧な淑女」の装いだ。

 けれど、オデット自身の心は少しも晴れやかではない。周囲に向ける微笑みは、もうほとんど仮面のようなものだ。


 すると突然、アルベール殿下がミレイユを伴って大広間に現れる。ミレイユは下級貴族の出ながら、艶やかで挑発的なドレスを着こなし、その胸元や背中を大胆に露わにしていた。周囲の貴族たちの視線を一身に集めているのは、もはやオデットではなく彼女のほうだ。

 アルベールは得意気な表情を浮かべ、腕を組むでもなくミレイユの腰に手を回し、まるで恋人同士のように寄り添っている。見れば見るほど、これは王太子妃になるオデットへの明確な侮辱だとしか思えなかった。

 広間にいる者たちの間に、ざわめきが広がる。もともとアルベールが愛人を持つこと自体は、それほど珍しいことではない――王家や貴族階級において、愛人を囲うことは昔からあった。しかし、それは公然と公の場で誇示するような振る舞いではなく、裏でひそやかに行われるのが一般的である。

 ところが、アルベールはオデットを差し置いて堂々とミレイユを連れ歩き、まるで「こちらこそが自分が真に愛する相手だ」と言わんばかりの態度なのだ。

 オデットの耳には、気遣う声よりも先に噂話めいたひそひそ声がはっきりと聞こえてきた。

 「まあ、あれが“次期王太子妃”の座を奪うかもしれない女性だって?」

 「実質、あの娘に殿下の心は奪われているんじゃないのかしら。オデット様、お気の毒に」

 そんな言葉が飛び交う中、オデットは顔色一つ変えずにグラスを持ち、微笑んでみせる。内心、煮え滾るような怒りと恥辱で胸はいっぱいだが、それを表情に出せば、相手の思う壺だということを理解しているからだ。


 その晩餐会の終盤、アルベールがわざわざオデットのもとへ歩み寄ってきた。隣にはミレイユを侍らせたまま。

 「オデット、そろそろここにいる皆様に“王太子妃”として一言、挨拶をしたらどうだ」

 彼は笑みを浮かべながら、まるで娯楽のように楽しんでいるかのようだ。

 オデットは、その言葉にわずかに眉をひそめるが、すぐに穏やかな笑顔を作る。

 「はい、殿下。承知しました」

 オデットは舞台袖のように用意された小さな壇上へ静かに上がり、広間の中心へと視線を向ける。部屋は一瞬で静寂に包まれ、集まった人々は息を呑むようにオデットを見つめた。

 「皆様、本日は私のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます。ブランシュフォール侯爵家の令嬢オデットと申します。至らぬ点もあるかと存じますが、これから王太子殿下と共に、この国をより良い方向へ導けるよう努めてまいります。どうか末永くお見守りくださいませ」

 一礼すると、パラパラと拍手が起こる。表面上は祝福の拍手だが、その裏にはどこか侮蔑や嘲笑が混じっていることを、オデットは肌で感じ取っていた。

 しかし、その中にあっても、オデットの振る舞いは完璧で、容姿も堂々としている。そのため、ある者は「さすがブランシュフォール家の令嬢だ」と感心し、また別の者は「現実を理解していないのかもしれない」と憐れんだ。

 壇上から降りる直前、オデットはちらりとアルベールの方を見た。彼はミレイユの耳元で何か囁いて、くつくつと笑い合っている。オデットがこちらを見つめたことに気づきもしない。まるでオデットの存在など、彼にとって取るに足らないものだと言わんばかりだ。


 晩餐会はその後、予想以上に早くお開きになった。アルベールがミレイユを連れて早々に退出し、会場の空気が微妙な雰囲気になったからだ。取り巻きたちも、あまり長居をしてオデットに変な絡みをされても困ると思ったのか、そそくさと退散していく。

 オデットはまるで打ち捨てられたように、一人残されていた。


 「お疲れでしょう、オデット様」

 そう声をかけてきたのは、ブランシュフォール家に仕える侍女の一人だった。彼女は気遣わしげな目でオデットを見つめている。

 「ありがとう……」

 オデットはかろうじて微笑み返し、深いため息をついた。いくら表面を取り繕っても、心はすり減っていく一方だ。

 「馬車を回しております。お早めにお休みになられてはいかがでしょう」

 侍女の優しさに甘えるように、オデットは促されるまま宮廷の正門を出る。そこには、ブランシュフォール家の紋章が入った馬車が待っていた。

 乗り込むと同時に、オデットは急に力が抜け、背もたれに凭れて小さく息をつく。まるで、一瞬でも気を緩めれば大粒の涙がこぼれてしまいそうだった。

 しかし、このまま悲嘆に暮れているだけでは何も変わらない。オデットは、まぶたを強く閉じて気持ちを落ち着かせる。

 今、自分がすべきことは何だろうか。

 アルベールの暴走を止めることはできるのか。

 自分の誇りを守り抜き、ブランシュフォール家の名誉を汚さぬためには、どう動けばいいのか。

 そして、もしすべてが無駄だというのなら――この国を捨てるという選択肢も、本当にありえるのだろうか。


 揺れる馬車の中、オデットは窓の外に広がる夜の王都を眺めながら、あてもなく思考を巡らせる。人々の笑い声、酒場から聞こえる歌声、路上に立つ衛兵たちの足音……すべてが遠い世界のもののように感じられた。

 自分は何のために生まれ、何のためにここまで努力してきたのか。

 答えはまだ見えないが、ただ一つだけ確かなのは、このまま黙って屈辱を受け入れ続けるつもりはない、という強い意志だ。

 もし王太子が、オデットを“形式上の結婚相手”としか見なさないのなら、こちらにも相応の手段がある――そう内心で思わずにはいられない。

 かつて幼い頃のオデットは、自分の運命を“王妃になること”だと疑わなかった。だが今、それが崩れた以上、次に目指すものは己の誇りを取り戻すこと。家のためではなく、国のためでもなく、自分のために動く時が来たのかもしれない。

 その夜、オデットは自室に戻ると、窓辺に立ち尽くして夜空を見上げた。冷たい月の光が、まるで慰めるように彼女の肩を照らす。

 誰よりも強く、しなやかに生き抜いてみせる――。

 オデットの瞳には、ふと決意の炎が宿ったように見えた。


 翌朝、まだ日が昇り切らぬうちに、オデットのもとへ一通の密書が届けられた。差出人は、隣国の第一王子レオポルド。その名に心当たりはある。以前、国境付近で開催された外交式典で短いあいさつを交わした程度だが、彼がオデットに興味を示していたという噂は聞いていた。

 手紙にはこう書かれていた。


> 「オデット様。突然の書状をお許しください。

私は先の外交式典であなたにお会いし、あなたの品位と聡明さに強く心惹かれました。

近頃、こちらにも王太子殿下とあなたのご関係について噂が届いています。もしもあなたが、今の立場に苦しみ、行き場を失っているのだとすれば――

私の国へ来ることを、どうかご検討ください。

私はあなたを歓迎し、支える所存です。あなたが本当に望むのであれば、あなたが笑顔でいられる未来を共に築きたい。

これは私のわがままかもしれません。しかし、あなたがご自分の幸せを諦めるには、あまりに惜しい方だと感じているのです。

どうか、少しでも興味を持たれましたら、返事をくださいますように。

隣国・アルヴェール王国 第一王子 レオポルド」




 最初こそ驚いたものの、その文面は誠実な思いが滲み出ており、これまで誰も示してくれなかった“本当の意味でオデット個人を重んじる言葉”のように思えた。

 もちろん、この手紙の誘いにそう簡単に乗るわけにはいかない。もし隣国に逃れるとなれば、王太子との婚約はどうなるのか。国際関係はどう変化するのか。ブランシュフォール家はどんな処分を受けるのか――様々な問題が山積みだ。

 だが、オデットの胸に小さな灯がともったのは事実だった。

 「私が本当にほしいものは、何か」

 王太子妃の座ではなく、自分としての幸せ。レオポルドの言葉は、オデットがずっと探し求めていた答えの一端を示しているようにも思えた。

 オデットは書状を何度も読み返し、そっと引き出しの奥に仕舞い込む。今すぐ返事を出すつもりはないが、この手紙はきっと自分の運命を大きく変える鍵となるに違いない。そんな予感だけが、彼女の心を揺らしていた。


 夜が明け、やがて朝日が部屋に差し込む頃、オデットは執務机に向かいながらペンを走らせる。表向きは王太子妃教育の一環としての課題かもしれない。しかし彼女は、その課題の合間に、密かに情報を整理し始めていた。

 アルベール殿下の取り巻きは何を狙っているのか。愛人ミレイユの出自と、彼女を支援する貴族派の動向。そして、自分が動くとしたら、どのタイミングで何をすべきか――。

 やるべきことは多いが、オデットは不思議と落ち着いている。むしろ、心のどこかで、これまでに感じたことのない解放感すら覚えていた。


 もしこの国に縛られるだけが自分の人生だとしたら、それはあまりに無残だ。

 けれども、どんな選択をしようと、自分にはその責任が伴う。その重圧に負けそうになる瞬間もあるだろう。

 しかし、王太子から「白い結婚」で十分だと突き放された今、自分から何かを動かさなければ、ずっと王太子の思い通りに弄ばれるだけだ。それだけは絶対に嫌だ、とオデットの心は強く拒絶している。

 だからこそ、彼女は今、静かに、しかし着実に行動の準備を進めようとしていた。


 こうして、屈辱の「白い結婚」の宣告を受けたオデットは、初めて自分の意志で人生を切り開こうと決意する。その結果がどのような結末をもたらすのかは、まだ誰にもわからない。

 だが確かに、彼女の中で運命の歯車は回り始めたのだ。愛し合うはずだった王太子に蔑ろにされ、周囲から嘲笑と同情を向けられる中でも、オデットの青い瞳には秘めた光が瞬いている。

 それは、ブランシュフォール家の令嬢として育てられた誇りと、女性としての尊厳――そして何より、“自分の人生は自分で選びたい”という強い思いに他ならない。


 この夜明けは、オデットにとって“新しい始まり”を告げる合図だった。誰よりも美しく、誰よりも気高く、それでいて、心の底に炎を宿したオデットが、やがてその姿を煌めかせる瞬間が来るだろう。

 まだ彼女自身すら知らない、華麗なる逆転劇の幕開けが、この時すでに近づいていた。



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