「ちょうど貴方に相談したいことがあったのよ、キアラン」
机の上にひらりと飛び乗ると、シピは前足をちょいちょいと動かした。
どうでもいいが、猫のままなのか?
「殺人事件があったのよ。ヒュルグレン山で、女の子の冒険者が二人死体で発見されたわ。全身に獣の牙や爪によるような傷が残っていたの。何かの魔物に襲われたとも思ったけれど、フラテルニアの近郊にそんなに危険な魔物はいないわ。すぐに討伐されるから、近寄ってもこない」
「獣の牙の跡がある女性の死体でございますか」
ダンバーさんは静かにシピの前に皿を置き、牛乳を注いだ。
黒猫はぴちゃぴちゃと牛乳を舐めながら答える。
「貴方なら心当たりがあるわよね、キアラン。五年前にルンデンヴィックを騒がせたあの事件は、まだ記憶に新しいわ」
「左様でございますな。女性ばかり三十人も殺しまわり、ルンデンヴィックを恐怖の底に叩き込んだ事件でございます。わたくしも犯人を探し回ったのですが、結局手掛かりもなく……それが、フラテルニアに現れたと?」
「そうよ。その傷の形状から、
物騒な話だな。
警備隊の管轄だと思うけれど、ギルドの冒険者が殺されたことがシピの怒りを買ったのかな。
「だから、以前にこの犯人を追っていた貴方の協力が欲しいのよ、キアラン」
「しかし、ご存知のようにわたくしはいま仕事中でございまして」
幾分か残念そうにダンバーさんは言った。
だが、呑気な声がその返事を吹き飛ばした。
「受けてやるがいい、ダンバー。わたしも一緒に行動すれば問題あるまい。ついでに、アラナンにも手伝ってもらおう」
やけに最近やる気じゃないか、さぼり魔。
そして、何でさりげなくぼくを巻き添えにする。
「ハーフェズ様がそう仰せならば、わたくしには異存はございません。ルンデンヴィックで付けられなかった決着を、此処で付けさせて頂きましょう」
「助かるわ。これが被害者の女性の資料。それと、ここ一週間でフラテルニアに入ってきた外国人の資料よ。では、宜しくね、キアラン」
牛乳を飲み終わったシピは、にゃあと一声鳴いてぼくの影に駆け込んできた。
黒い体が、影に入ると同時に溶け込むように消えていく。
「わっ、何だ?」
思わず声に出すと、ダンバーさんが微笑みながら説明してくれた。
「あれがシピを
空間移動魔法だって?
それは凄い。
世界中の王侯や豪商がシピを欲しがっても不思議はない。
流石に
あれ、じゃあ今まで急にシピが現れていたのはこの
おい、ぼくの影を登録してんじゃないだろうな!
「食事の用意ができましたので、食堂にご案内致します」
いつの間にか、ダンバーさんが扉を開け、その横に直立していた。
あれ、メイドのサーイェさんが来ていたのか。
ああ、食事の用意ができたから、呼びに来たのね。
ハーフェズ曰く、彼女は全く口を開かないらしい。
それにしても、このメイドさんの外見はぼくの棒の師匠に似た雰囲気を持っている。
黒髪に黒目、やや色の濃い肌、隙のない身のこなしや目つきまでそっくりだ。
大陸の西方には余り見ない外見である。
ハーフェズは拾ったと言っていたが、ひょっとして言葉がわからないのではあるまいか。
「ハーフェズ、このメイドさんは喋れないんじゃなくて、言葉がわからないんじゃないの」
廊下を移動しながら、ハーフェズに聞いてみる。
ハーフェズは、当然のように頷いた。
「そうだな。初めはこっちの言うことも理解できなかった。だが、今ではわたしやダンバーの言葉は理解している。ヴィッテンベルク語はそれなりにわかるようだ」
それでも喋らないのは、他にも理由があるのだ。
いまはダンバーさんがフォローしているから、サーイェさんが喋らなくても仕事は回っている。
だが、ハーフェズにしてみれば、そんな手間を掛けなくても放り出して別なメイドを雇えば済む話なのだ。
こいつはさぼり魔のくせに物好きなやつだ。
どこの誰とも知らぬ異国人の少女を雇い入れて平然としている。
頭のねじが何本か飛んでいるに違いない。
だが、同時に悪いやつではないのも確かだ。
異国で身寄りもなく、放置すれば野垂れ死にしたであろう少女を助けるくらいには。
食堂には、ヘルヴェティアでは珍しい魚介と野菜の料理が並んでいた。
スープは透明で味がなさそうだったが、飲むと何かの旨味が感じられる。
具材は野菜だけだが、その方がこの淡い味付けには合っているようだ。
粥に使われているのは大麦のようだが、牛乳で煮込んではいなかった。
口に含んでみると、これは茶だ。
熱い茶を掛けているのだ。
具材は香草と干した鱈が解して入れてある。
珍妙な味だが、悪くはない。
大麦の粥なんて大して旨くもないはずだが、味付けが珍しいせいか飽きずに食べられた。
「これは彼女の国の料理なのかな」
「さあな。ただ、獣肉の類は余り食さないようだな。魚鳥と野菜に穀物、後は豆類が好みのようだ」
酪農が盛んで魚介の流通の少ないフラテルニアで、それは大変なのではないだろうか。
こちらの料理も覚えた方がいいとは思うが、言葉の壁は厚いのだろうか。
「それで、その行儀の悪い食べ方をしてまで見ていた資料で、何かわかったの?」
ハーフェズは、シピから受け取った資料を、食べている間も離さなかった。
物凄い早さで目を通し、食べ終わる前に読みきってしまっている。
「ふむ、流石は
読み終わった資料を、投げ出すようにぼくに放ってきた。
「この一週間でフラテルニアに入ってきた外国人は百五十人。うち、初めて来た者に絞ると十六人。この十六人にはすでに警備隊が密かに張り付いているらしいな。やることはやっているようだ」
資料の一番上を取ってみる。
ジュネヴラからの商人か。
ジュネヴラではシヨン湖の魚介を仕入れ、フラテルニアで売り捌いているのか。
あれ、サーイェに紹介した方がいいんじゃないこれ。
「余計なことを考えているのではなかろうな、アラナン」
おっと、ハーフェズが涼しげな瞳をこちらに向けている。
人の心を見透すかのような視線に、居心地の悪い気持ちを覚えた。
「三人ほど引っ掛かったやつがいる。トゥルキュス人、サビル人、アマーズィーク人の商人だ。トゥルキュス人の商人は、セイレイス帝国のミクラガルズ出身だな。扱っているのは奴隷だ。奴隷を禁じているヘルヴェティアで何をしているのかが気になる。サビル人は国のない連中だ。数百年も前に国は滅ぼされ、以後商売をしながら大陸を放浪していると言う。雑貨を扱っているが、正直何でも屋だ。何をするかわからん。そして、アマーズィーク人は南の別の大陸から来ている。
さて、どれから片付ける?
とハーフェズは悪戯を企む子供のように笑った。