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第四章 ルンデンヴィックの黒犬 -6-

 金に心を揺らさない人間は珍しい。

 ハーフェズが金貨の袋をわざわざ出したのは、アンサー・ブランと言う人間の心の中を覗きたかったのだろう。

 平静な人間の心の中を見るのは難しい。

 だが、一度揺らしてしまえば心の声は漏れてくる。


 だが、アンサー・ブランは金貨の袋を見ても微動だにしなかった。

 強がりでそうしているのではない。

 こいつは、金以外の何かを一番に持っている男なのだろう。


 信仰か。


 アンサー・ブランは聖典教団タナハの信徒だったはずだ。

 ぼくの知る聖典教団タナハの商人は、金にがめつい者が多い印象だったが、中にはこういうやつもいるのだろう。


「子供の仕事は受けんよ。命あっての金だ。危険の高い仕事はしない」

「そうか。邪魔をしたな」


 ハーフェズは依頼に拘らず、金貨の袋を引っ込めた。

 アンサー・ブランは、そのときにも惜しそうな表情を見せなかった。


 ハーフェズはさっさと引き上げていく。

 置いていかれてはたまらない。

 慌ててその後に付いていく。


「もういいのか? あれっぽっちで何かわかったのか?」

「少なくとも、やつが商人などではないことはな」


 安宿を出ると、ダンバーさんとサーイェさんが合流してくる。

 ハーフェズがダンバーさんに視線を向けると、白髪の執事はため息を吐いて首を振った。


「部屋には何もございませぬな。ほとんど荷物も持っておりませぬ」

「そうか。ギルド長の読心リーディングでも怪しいところのない相手だ。そう簡単に尻尾は出さんだろう」


 あの黒猫シャ・ノワールは、ある程度人が考えていることが読める魔法ソーサリーを持っている。

 資料には、それを元にした情報も書かれていた。

 それで犯人がわからないんだから、相手も相当の手練れなのだろう。


「それでも、犯人はアンサー・ブランと見ているの?」

「そうだ。今日会ってますますそう感じた。あれは商人としては違和感が強すぎる。だが、あれほどあからさまなのに尻尾を出さない。それに、何故聖典教団タナハなのか、そこもわからない。アルビオンも、ヘルヴェティアも、聖典教団タナハとの関わりは薄いはずなんだがな」


 さて、それではどうするか。

 情報を元にすると、この殺人鬼はある一定の周期の女性を狙っているように見える。


 それはつまり、月のものだな。


 血の臭いに惹かれて襲ってくる可能性も考えられるが、月経中の女性に何らかの神秘的要素でもあるのかもしれない。


「しかし、これはちょっと難易度高いな。まさか女性に聞いて回るわけにもいかないし」

「臆したか、アラナン。だが、確かにこの手の話を表立ってする男はいない。賢い男なら尚更だ」


 あれ、格好いいこと言って、ハーフェズも逃げてないかね。


「だが、問題ない。要は血を入れた香水瓶でも持っていればいいのだ。サーイェに持たせて、今夜から試してみるぞ」


 え、サーイェさんを囮に使うの?

 言葉もよくわからない彼女に危険な任務を押し付けるべきじゃないと思うな。

 例えば──そう、ビアンカとかなら興味を持ってやってくれそうだけれど。


「何か言いたそうだが、サーイェはやる気だぞ」


 ハーフェズに言われて振り返ってみると、サーイェさんもこちらを見て、小さく頷いた。

 確かに彼女の足捌きを見ているだけでただ者ではないことはわかるが、それでもなあ。

 幼そうな顔立ちの少女を囮にするのは忍びない。


 だが、本人がやる気なのを止められるほどの関係はまだ築けてない。

 いっそのこと、ぼくがお節介なお人好しだったらよかったんだが。

 そうしたら、何も考えずに彼女を止められるだろうに。


「サーイェの体術は常人離れしています。元から身体強化ブーストも使えるようですし、心配はございません」


 ダンバーさんは、彼女の力量を信頼しているようであった。

 それならば、部外者のぼくがあれこれ言うことではないのか。


 ダンバーさんは肉屋に血の調達に出掛けていった。

 ぼくたちは、軽く食事をしながら待機である。

 時間がないせいか、サーイェが出してきたのは、パンに切り込みを入れてチーズを挟んだものだった。

 心配しなくても、きちんとこっちの食材も扱えるようだね。


 しかし、この事件は恐らく何らかの獣を操っているか、獣に変身するかだと思われる。

 証拠を掴ませないことから、後者の可能性は少ないだろう。

 獣の噛み跡から、犬の類だと推測されている。

 だが、その獣すら見た者がいない。

 これはどういうことだろう。


「イスタフルにも魔獣の伝説は色々あるが」


 食後の珈琲を飲みながら、ハーフェズは優雅に足を組む。


「ルンデンヴィックの黒犬のようなものは聞いたことはないな。そもそも、魔獣とは人間が支配できるものなのか? そんな魔法ソーサリーは聞いたこともないが」

「うーん。昔はそう言う魔を召喚する技法もあったらしいけれどねえ。今に伝えられているかはわからないな」


 大魔導師ウォーロックやファリニシュなら知っているかもしれないけれどね。

 ぼくの知識では限界がある。

 まあ、よく考えてみると、ファリニシュ自身が魔獣の類なのかな? 


 ダンバーさんが帰ってきたので、計画を実行に移すことにする。

 サーイェに血の入った香水瓶を持たせ、夜のフラテルニアを歩いてもらう。

 ぼくとハーフェズは、サーイェさんの護衛役だ。

 獣が現れたら、その正体を確かめるのが役目である。


 ダンバーさんには、北斗七星グローセ・・ベーア亭でアンサー・ブランを見張ってもらう段取りだ。

 現場で犯人を見ない以上、指示を出すだけで動く魔獣の可能性もある。

 だが、何かしらの動きがあるかもしれないし、それには経験のあるダンバーさんの眼が必要だ。


 おっと、気を散らしている余裕はないな。


 いま、サーイェさんはジル川に架かった橋を西に向かって歩いている。

 フラテルニアの中枢から、郊外へと向かう道筋だ。


 日は沈んだが、フラテルニアではまだ灯りは落ちていない。

 此処は大魔導師ウォーロックのお膝元である。

 他の都市にはほとんどない魔導灯マジックライトが、街路をぼんやりと照らしている。

 幸い月も出ているので、宵闇の中でもサーイェさんを追うことはできた。


 こうして気配を消して追跡をしていると、エアル島の森での狩りを思い出す。

 エアルの戦士コルは、みな狩人だ。

 森の中での動きは徹底的に鍛えられた。

 音もなく動くことには慣れている。


 そのぼくよりも、ハーフェズは滑らかに、そして静かに足を運ぶ。

 貴族然としたハーフェズが、何処でこんな動きを身に付けたのか。

 隣を進んでいるぼくが、ハーフェズの存在を感じ取れないくらいだ。


 不意にハーフェズの足が止まった。

 右手が上がるが、ハーフェズが合図をしなくてもぼくにも気配が掴めた。


 獣が現れたのだ。


 サーイェの前方から、土煙を上げながら何かが近付いてくる。

 姿は見えないが、音と煙の様子だとかなり速い。


 接近する土煙に、サーイェは跳躍して避けた。

 って、屋根の上まで飛び上がったぞ、あいつ!


「アラナン、行くぞ!」


 ハーフェズの周囲に、魔法の手マジックハンドが幾つも浮かび上がる。

 あれで捕まえるつもりかな。

 ぼくは負けじと楢の木ロブルの棒を構えると、身体強化ブーストを発動して一気に魔獣に迫った。



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