暗い。
そして、うるさい。
人々のざわめき、金属がぶつかる音、湿った石の床の冷たさ。
嫌な感覚が、じわじわと俺の肌に染み込んでくる。
(何だ、この状況?)
ぼんやりとした意識の中で、俺は自分の身体を動かそうとする。
だが、動かない。
いや、動かせない。
何かが俺の手首と足首を拘束している。
確かめようにも、重いまぶたがなかなか上がらない。
(……腹減ったな……)
状況把握より先に、強烈な空腹感が意識を支配する。
昨日の晩飯、何だったっけ……いや、それよりも今、猛烈に何か食べたい。
肉がいい。
できれば骨付きのやつ。
そんな場違いな食欲に、自分でも呆れる。
「さて、諸君! お待ちかねの目玉商品だ!!」
突然、野太い声が場内に響き渡る。
次の瞬間、背中を強引に押され、ぐらついた足取りのまま、明るい場所へと引きずり出された。
ようやく開いた視界に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
まるでコロシアムのような半円形の観客席。
そこには、見るからに金持ちそうな貴族や商人らしき男たちが、獣のような興奮した目でこちらを見下ろしていた。
巨大な松明が赤々と燃え、空気はじっとりと湿っている。
どこか、生臭い。鉄と、汗と、得体のしれない獣の匂いが混じり合っているような……。
――奴隷市場。
その単語が、頭の中にストンと落ちてきた。
なぜ俺がこんなところにいるのかは分からない。
だが、自分が明らかに「売られる側」であり、最悪の状況にいることだけは理解した。
(なんでだよ……昨日は普通に自分の部屋のベッドで寝たはずだ……!)
現代日本での平凡な日常の記憶が、この悪夢のような現実とのギャップを際立たせる。
「さあ、見よ! 竜の血を引く貴き姫君! この美しさ、力、そして希少性!」
オークショニアと思しき、けばけばしい服を着た男がそう叫び、俺の顎を乱暴に掴んで上を向かせる。
観客たちの値踏みするような視線が突き刺さる。
屈辱に歯を食いしばった、その瞬間――俺は、自分の身に起きたさらなる異変に気づいた。
(……ん?)
視界の端に映る自分の腕が、異常に細い。
男だった頃の、多少は鍛えていたはずの腕とは似ても似つかない、白魚のようなか細さだ。
肌も、やけに白い。
日に焼けた健康的な色とは程遠い、陶器のような滑らかさ。
そして、髪――視界の端で揺れるそれは、腰まで届きそうなほど長く、月光を反射したかのように銀色に輝いていた。
(なんだこれ……!?)
反射的に視線を下に向けた俺は、絶句した。
そこには、華奢でしなやかな少女の体があった。
薄汚れた布切れのようなものを纏っているが、その下のラインは明らかに女性のものだ。
そして――胸があった。
控えめながらも、確かな膨らみがそこにある。
「……は?」
信じられない感触を確かめるように、恐る恐る胸元に手を伸ばそうとする――が、枷がそれを阻む。
(いやいやいやいや、待て待て待て!!! なんだこれは!? 俺、男だったよな!?!?)
脳が理解を拒否する。
これは夢か? それとも何かの悪い冗談か?
「なんと美しい……!」
「本物の竜姫なのか?」
「ツノと翼……間違いない! 竜族だ!」
観客たちの興奮した声が、さらに俺を混乱させる。
ツノ? 翼?
言われて、俺は恐る恐る頭と背中に意識を向ける。
頭には、硬質ながらも滑らかな感触の小さな角が二本。
背中には、折り畳まれた、しかし確かな存在感を持つ翼の感触があった。
(嘘だろ!? 俺、ドラゴンになってる!? しかも女!?)
情報量が多すぎて、思考が完全にショートする。
空腹感だけが、やけにリアルだった。
「では、入札を開始する!」
オークショニアの男が、無情にも木槌を高らかに打ち鳴らした。
「十万金貨!」
「十五万!」
「いや、二十万だ!」
「三十万金貨!」
狂ったような値段が飛び交う。
貴族たちは目を血走らせ、まるで貴重な美術品でも競り落とすかのように熱狂していた。
(ふざけるな……! 俺は物じゃないんだぞ!)
怒りがこみ上げる。
だが、それと同時に、鼻の奥がむずむずと痒くなってきた。
(……まずい、このタイミングで……?)
経験上、これはくしゃみの前兆だ。
しかも、かなり大きめのやつが来そうな予感がする。
「三十五万!」
「四十万金貨!!」
入札が白熱する中、俺の鼻のむず痒さは限界に近づいていた。
なぜか身体の奥底から、熱い何かが込み上げてくるような奇妙な感覚もある。
(腹減りすぎて力が出ない……いや、なんか変な力が溜まってる気が……!?)
空腹感と、迫りくるくしゃみと、謎のエネルギー充填感。
トリプルパンチで俺の意識は朦朧とし始めていた。
「五十――」
誰かが新たな値を叫ぼうとした、その瞬間。
「へっ……くしゅん!!!!!」
我慢の限界を超えたくしゃみが、盛大な音と共に炸裂した。
次の瞬間――
ドオオオオオオオオオオオン!!!!
轟音と爆風が、オークション会場を蹂躙した。
俺の口から放たれたのは、ただの飛沫ではなかった。
灼熱の閃光――まごうことなきドラゴンブレスが、眼前の床と壁を粉砕し、会場全体を揺るがしたのだ。
石造りの壁が砕け、天井の一部が崩落する。
舞い上がる粉塵と、火花。
そして、耳をつんざくような貴族たちの悲鳴。
「な、なんだ!?」「何が起こった!?」「壁が……崩れた……!!」
俺は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
目の前で、オークショニアの男が腰を抜かし、声にならない悲鳴を上げている。
その後ろでは、さっきまで威張り散らしていた貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。
(俺……ただ、くしゃみしただけなのに……?)
信じられなくて、恐る恐る口元に手を当てる。
ほんのりと熱を感じる。
(マジかよ……俺のくしゃみ、ドラゴンブレスだったのか!?)
あまりの事実に、体が硬直する。
その時、足元でカシャン、と鈍い音がした。
見下ろすと、そこには焼け焦げ、砕け散った金属の破片が転がっていた。
それは、俺の手首と足首を縛っていた枷の残骸だった。
「……え?」
思わず、両手を動かす。
……動く。自由に。
足を踏み出す。鎖に引っ張られる感覚がない。
(あれ? 俺、自由になってる? くしゃみと同時に手枷と足枷まで吹っ飛ばしてたのか!?)
爆風の余韻が消え、会場に奇妙な静寂が訪れる。
崩れた壁の向こうには、月明かりに照らされた夜空が広がっていた。
星が瞬いている。
まるで、これから始まる俺の波乱万丈な異世界生活を暗示するかのように。
「ひ、ひいぃぃっ……!!」
震える声が聞こえた。
オークショニアの男が、瓦礫の上に這いつくばりながら、恐怖に歪んだ顔で俺を見上げている。
「……信じられない。まさか、くしゃみ一つでこの破壊力……!!」
俺も信じられねえよ!!
周囲を見渡すと、生き残った貴族や兵士たちが、遠巻きに俺を窺っている。
剣を向けようとする者もいるが、すぐに他の者に制止されていた。
「や、やめろ! 無闇に刺激するな!」ひときわ豪華な服を着た男が叫ぶ。「姫様が……またくしゃみをしたらどうする!?」
その言葉で、兵士たちの動きが完全に止まる。
誰もが、俺の一挙手一投足に怯えている。
あ。
なるほど。
俺の脳内で、カチリと何かがハマった。
これ、俺、最強じゃね?
くしゃみひとつで会場を半壊させたやつに、誰が逆らえる?
「お、おい! 逃げるぞ!!」
「もう金貨どころじゃない! 命が大事だ!!」
オークションどころではなくなった貴族や商人が、我先にと逃げていく。
警備の男たちは俺を取り囲もうとするが、誰一人として近づこうとはしない。
(めちゃくちゃ怖がられてるな……。まあ、そりゃそうか)
俺だって、こんな規格外の存在には関わりたくない。
「よし、分かった」
俺は、もうここに用はないと判断し、崩れた壁の向こう――外へとゆっくり歩き出した。
このまま悠々と立ち去ってやろう。そう思った、次の瞬間。
足にぐっと力を込めて、跳躍しようとした途端――
ドンッ!!!!
「――は?」
俺の視界が、一気に上昇した。
地面が、ありえない速度で遠ざかっていく。いや、待て、これ――
俺、跳びすぎてないか!?
「うわああああああ!?!?」
自分の意思とは関係なく、想像以上の高さまで一気に跳び上がってしまった。
気づけば俺は、夜空へと放り出されていた。
眼下に広がるのは、息をのむような異世界の光景。
遥か下には、無数の光が瞬く巨大な都市。
石畳の道が縦横に走り、街の中心には煌びやかな宮殿がそびえ立っている。
都市は堅固な城壁に囲まれ、その向こうには漆黒の森、広大な湖、月光に照らされた連なる山々が見えた。
そして――空には、大小二つの月が、幻想的な光を放っていた。
「……マジかよ」
ゲームや小説でしか見たことのない、圧倒的な異世界の風景。
それが今、現実として目の前に広がっている。
だが、そんな感傷に浸っている場合ではなかった。
俺の体は、放物線の頂点を過ぎ、猛烈な勢いで地面に向かって落下し始めていた。
「ま、待て! 俺、これ……着地どうすんだ!?」
この高さから落ちたら、いくらドラゴン(?)の体でも無事では済まないだろう。
(俺の着地点、地獄じゃね!?)
俺の異世界での第一歩は、文字通りの落下から始まることになった。