2人の刑事を情報量で困惑させた日仏の少年少女6人は、取調から解放された後で、渋谷に向かった。トーキョーアタックの慰霊碑前で、二手に分かれる。詩応とアルス、そして残り4人。
日本での太陽騎士団のお膝元だが、大教会までは歩いて10分。
「……着いた」
と詩応が言う。何時見ても、荘厳な建物だ。アルスはスマートフォンをポケットに入れ、それに続く。
「これが日本の本部か」
「そう。……行こう」
と英語で言った詩応は、先に足を踏み出した。
渋谷の教会に突撃する、そう言い出したのはアルスだった。このままだと何も進展しない。だからイチかバチか賭けることにした。
詩応は元から信者だから、教会に入るハードルは低い。しかし、問題はアルスだ。
「シノは別として、アルスは門前払いされるわ」
とプリィは言ったが、彼はそれも端から承知だった。
詩応はアリス相手でも物怖じせず、先日同様対等に戦える。だが、情報量ではアルスの右に出る者はいない。何かの時にはサポートできると思っていた。
流雫と澪は、プリィやセバスと駅前に残った。このカップルは互いに銃を持っているし、何しろコンビネーションは最高を誇る。だから2人の護衛には、誰よりも適していた。
大教会は、基本的に自由に出入りができる。礼拝堂で出迎えたのは、ブルーのドレスに白いケープを羽織る少女だった。まるで、2人が出向くのを知っていたかのように。その不意打ちに、2人の息が一瞬止まる。
「……血の旅団……!!」
その第一声に反応したのは詩応だった。
「アタシが連れて来ました。大事な話が有ります、聖女アリス・メスィドール」
「邪教は今すぐ立ち去りなさい、アルス・プリュヴィオーズ」
「そう云うワケにはいきません」
と、詩応は引き下がらない。それに続くように、アルスは言った。
「聖女アリス。パリ中央教会、プリィ・フリュクティドールの遺伝子から生み出されたクローン……」
その言葉は、強烈な一撃となって聖女に襲い掛かる。何故そのことを知っているのか?
「……不敬にも限度が」
「それだけじゃない。セバスチャン・メスィドールもセバスチャン・フリュクティドールのクローン。そして、ドクター・サクラ・ミヤキが、2人のデータをサン・ドニから持ち出した」
「セバスがセブの代わりに、ミヤキを追って日本に行き、何故かプリィがそれに続き、聖女アリスとセブは慌てて後を追った。シノが聞いた講演も、恐らくは来日の口実として急遽組んだに過ぎない」
と畳み掛けるアルスは、あくまでも平静を装う聖女の、透き通った蒼い瞳を睨み、問うた。
「お前の教団の中枢で、何が起きてる?」
「……邪教に答える必要が有るとでも」
「有ります」
と、アルスの援護射撃をしたのは詩応だった。
「事と次第によっては、教団に対する風向きが大きく変わります。それも、猛烈な逆風に」
「アタシは、殉教者シア・フシミの妹。憧れ、目標だった姉が信仰していたこの太陽騎士団を、生涯信仰したい。だからこそ、この件から目を背けるワケにはいかない」
その言葉に、アルスは思い出す。そのボーイッシュな見た目と性格で忘れがちだが、本来詩応は神頼みが多い少女だと。
敬虔な信者らしいが、姉に対する愛情と、その裏返しのコンプレックスに囚われ続けている……。それがアルスの、詩応に対して常に抱える印象だった。
「シノ、まさか貴女が血の旅団と手を組むとはね。失望したわ」
「失望も何も、端から疫病神扱いじゃないのか?空港でシノと俺が会った瞬間から」
とアルスが言い返す。
「そもそも、お前にとって疫病神は俺だろ?西部で太陽騎士団が劣勢、その元凶だからな」
「私はシノに言ってる。黙りなさい」
と、アリスが苛立ちを露わにしたまま制する。詩応は言った。
「アタシは、彼と手を組んだこと、間違っているとは思っていません。貴女がアタシにどれだけ失望しても、アタシはアルスの味方です」
その言葉は、アリスを更に苛立たせる。これほどに自分に立ち向かう存在は初めてだからだ。
……血の旅団の傀儡に堕落した、可哀想なシノを改心させたい。それが聖女としての役目。アルスを目の前に、屈してはならない戦い。
「……シノがいたからこそ、お前らは日本でも活動を続けられる。その功績に触れず、ただ俺が味方になっただけで敵視しやがる」
「それがお前の意志なのか、お前を操る一家の方針なのか。それすら答えないと云うのは、そう云うことか」
と続けたアルスに、詩応は怪訝な表情を浮かべた。
聖女は、教団にとってのシンボルであり最上位の階級。しかし、実態は保護者である総司祭が取り仕切っていることが多い。現に、昨年までは東部教会出身の一家がその地位に在ったが、聖女が単なるスポークスパーソンでしかなかった。そのことは、未だ18歳のアルスも見透かしていた。
メスィドール家も例外でなければ、仮にアリスが詩応を認め、アルスに一定の容赦と歩み寄りを目論んでも、総司祭が否と言った瞬間に水泡に帰す。
「俺に答える気が無いなら、それでもいい。時間の無駄だ。……それなら、俺は俺のやり方で全てを暴く」
とだけ言ったアルスは、踵を返しながら口を開く。
「……最後に一つ。俺はお前と、ド・ゴールのロビーですれ違った。お前は俺など眼中に無かったようだが」
「その時にいた2人の護衛。一人はセブだとして、もう一人は誰だ……?」
その滑らかなフランス語が、礼拝堂の壁に反響する。
「……邪教に答える理由は無かったな。神聖な場所を穢したな」
と、アルスは数秒置いて言った。答えなど、最初から求めていなかった。その背中で、詩応は声に力を入れた。
「……アルスは、ソレイエドールをルーツとする教団の信者として、護ろうとしています。貴女や教団を。それだけは、覚えていてください」
……聖女アリスにとって、アルスのことは眼中に無い。それは見ていて判る。立場上でも相容れてはいけないからだ。だが、それが大きな足枷となって、アルスから得られそうな情報を逃した。
聖女を馬鹿にする気は無い。だが、アルスが言っていた
「教会は所詮、荘厳な檻に過ぎない」
の意味が、今の詩応には確かに判る。
詩応が一礼して、アルスの背を追う。小さな音を立てて閉ざされた扉の手前で、聖女は溜め息をついた。
……私はソレイエドールの教えに敬虔な聖女。そうであることを、生まれながらに一家に要求されてきた。それに応えること、それが唯一の存在理由だとして、疑うこと無く。
聖女に選出された時も、当然のことだと思っていた私には、何故周囲が沸いているのか判らなかった。
だが、その少し前にやってきた1組の姉弟は私を困惑させた。私が人工的に生み出された特殊な人間だと知らされたからだ。私のオリジナルは、プリィと名乗った。だが、彼女はパリへ戻った。
弟のオリジナルは、弟と同じ名を名乗った。そして、レンヌの教会で過ごすことになった。何故かは今も知らない。
私の正体が、教会にとっての、そして教団にとってのトップシークレット。しかし、フリュクティドール家の2人は、自分と瓜二つの、コピーしたような存在にも優しく接した。
優しく接することは、聖女候補として当然の振る舞い。常にそうであることを求められてきた。しかし、逆は無かった。立場上、無いことが当然だと、教えられてきた。だから、2人の態度に困惑していた。
……ただ同時に、今まで知らなかった感情が、無意識に芽生えるのが判った。言葉や文字の羅列ではない、リアルな愛情の感情。そして、禁断の感情……俗に言う恋も。
聖女として排除すべき、立場上それが求められることは判っている。誰かと結ばれ、跡継ぎを残すのは未だ先の話で、それも総司祭が決めた相手と、と決まっているからだ。
ただ、排除できない。それは、聖女として弱いことを意味している。
……とにかく、今はプリィを早く見つけて、フランスに連れ戻したい。彼女はパリで平和に生きるべきだ。セバスもそう、ドクターを追わず、フランスへ戻るべきなのだ……。
シノとアルス、2人の真意は判らない。ただ、疫病神なのは間違いない。一家にとっての疫病神。しかし、禁断の生命体にとっては、或いは救世主なのか……?
私は、突然の来訪者が羨ましかった。
「貴女がアタシにどれだけ失望しても、アタシはアルスの味方です」
と明確に言ったシノと、そう言われたアルスが。そう言える、言われるだけの結束は、敵対する教団同士の柵を超えている。立場が認めないそれが、羨ましかった。
「……私は聖女……」
とだけ呟き、私は祭壇に正対した。
「……寂しい奴だ」
とアルスは言った。渋谷駅へ歩きながら、先刻の礼拝堂でアリスと対した時のことを思い出していた。
「今のアリスは、総司祭の忠犬でしかない。クローンとして生まれたが故に、総司祭の座を得るための道具として、今日まで生かされてきた」
「どうして、そう言えるんだい?」
と詩応は問う。
「シノと争った時もそうだが、個人的な意見があまりにも弱い。ソレイエドールの導き、そのフレーズの下に人を諭し、改心させることには長けているだろうが、予想外の反撃に転じられると、途端に何も言わなくなる」
「あの場で、試したのかい……?」
「試すしかなかった。本当に何も知らないから言えないのか、総司祭に口止めされているから言わないのか」
と言ったアルスに、詩応は呆れと感心が混ざった表情で更に問う。
「……答えは口止め?」
「半々だな」
とアルスは答えた。
「聖女アリスは殆ど知っている。クローンに関しては当事者だからな。ただ、教団のためにと総司祭から口止めされている、だから知らないフリをするしかない。無論、総司祭だけしか知らない情報も有るだろう。例えば、セバスを日本に送った真相」
「今の今まで行方不明状態だったんだ。ミヤキを追って渡航したのなら、アリスなり総司祭なりに随時連絡するだろ?何故スマートフォンを使わなかった?」
と続けたアルスの耳に、銃声が響いた。小さいが、確かに銃声。
「ルナ……!?」
無意識に呟いたフランス人は
「シノ、走るぞ!」
と言い、地面を蹴った。
6インチの端末のスピーカーから流れてくる英語とフランス語に、セバスは
「……アリス、追い詰められてるな……」
と小さな声で言った。プリィも隣で頷く。アリスが、詩応とアルスに何も答えていないからだ。理由はどうであれ。
澪は、流雫のスマートフォンから流れてくる声を、翻訳アプリに拾わせていた。
「……流雫」
と小声で名を呼ぶ最愛の少女に、流雫は目を向ける。
……こうなることは、流雫とアルスは最初から判っていた。それでも、ブロンドヘアの少年がイチかバチか賭けると言ったのは、詩応を乗せるための方便でしかない。
不意に、流雫の頭に言葉が走る。
「アリスも……被害者……」
と。そして無意識に、そう口を開いていた。
「……もし、助けても言えないのだとすれば……」
……アリスが2人に力を貸せたなら、一言だけでも歩み寄れたなら、全ては僅かでも好転しただろう。だが、そうならなかった。一縷の望みに賭けたこと自体、間違っていたのか。
流雫は、テネイベールと同じオッドアイの持ち主。アリスと対峙したとして、助けると言ったとして、聖女は拒むだろう。否、対峙した時点で拒絶される。
……詰んだ。その言葉が、本来諦めが悪いハズの流雫の舌先を掠めかけた。だが。
乾いた銃声が、夏特有の湿気を含む空気を切り裂く。
「な……!?」
思わず身構えるフランス人2人の隣で、脳をリセットされた流雫は周囲を一瞥する。
……黒いショートヘアの淑女が、マネキンのように倒れた。
「っ!!」
歯を軋ませた流雫は、無意識に銃を手にした。
「流雫……!」
澪は焦燥感を湛えた声で、最愛の少年の名を呼ぶ。流雫が何を思っているのか、澪には一瞬で判った。
粉雪が舞う12月、この場で一つの命が消えた。名前は、伏見詩愛。胸部を撃たれ、半ば即死状態だった。
彼女と面識は無かったが、流雫は誰寄りも早く詩愛に駆け付け、そして撃った犯人と戦った。助かると信じて。だが。
心肺停止。事実上の死亡宣告を耳にした流雫は、その場に崩れた。美桜が死んだと聞かされた時の自分のような悲しみに、誰にも陥ってほしくなかった。だから助かってほしかった、それなのに。
澪に抱きしめられながら泣き叫んだ流雫は、詩愛を助けられなかったことをトラウマのように抱えていた。それがその妹……詩応との確執の原因だった。
銃声の主を握るのは、中年の男2人。互いに灰色のTシャツとデニム、全体的に冴えない印象だ。しかし、今となってはそれが余計に目立つ。
そして、後退りしながらもその犯行に手応えを感じた表情……それが殊更不気味に感じる。
「動くな!!」
と、流雫が声を張り上げた。男は、シルバーヘアの鬱陶しい輩に目を向ける。
銃を撃った時点で、逃げ切れないことは2人も判っているだろう。それでも撃った。この連中にとって、殺したいだけの理由が有るのか。到底容赦されるものではないが。
空色のセーラー服を纏った流雫を、2人はボーイッシュで生意気な女だと認識した。それが流雫の狙いだった。自分1人に気を引かせ、その間に誰かが、撃たれた人を安全に介抱できれば。
「ドクター!!」
とセバスが叫んだ。血相を変え、混乱寸前だ。同時にその声は、流雫と澪の脳に雷を落とした。
「まさか……!!」
目を見開く男女の声が重なる。メスィドール家の子息がドクターと呼ぶ相手……、三養基!?
澪はその首筋に手を当て、6秒数える。本来はトリアージで使われるが、6秒間に1回も脈動が無ければ、危険水域の容体を意味している。1分間に10回未満の脈動しか無い計算になるからだ。
今は辛うじて1回。しかし、秒単位で容体は変化する。それも、悪い方向に。混乱しそうになるセバスを、恐怖に襲われながら抱くプリィの隣で
「何故撃ったの……」
と呟いた澪は立ち上がる。その表情は、刑事の娘としての凜々しさよりも、犯人への怒りに支配されていた。
「待ちなさい!!」
澪の声が響く。
「澪……!?」
流雫の声が、ブルートゥースイヤフォンを通じて澪に届く。
「あたしも戦う!」
と言った澪に、流雫は
「……僕が引き付ける」
と言った。理想は澪が戦わないこと、しかしそれは叶わない。澪が認めないのだ。ならば2人で戦うしかない。
「見世物じゃねえぞ!!」
と叫んだ男が上空に向けて引き金を引いた。何時しか、銃を手にする4人の周囲に人集りができている。
男が威嚇しても、人集りは散らない。寧ろ、この戦いの行方を見守りたい……否、愉しみたいと思っている。
「流雫……」
と名を呼んだ澪は、流雫がヤジ馬に揺さぶられていないかが気懸かりだった。
……突発的に生まれた、2対2のデスゲームを眺めているかのような衆人環視。連中が期待することは2つ。男2人が流雫と澪を撃ち殺すか、その逆か。女子2人……厳密には違うが……が銃を手に犯人と戦う意味など、連中にとってはどうでもいいのだ。
「……僕は平気」
とだけ答えた流雫は、開き直っていた。ヤジ馬の声も意識が遮断し、澪の声しか脳に届いていない。
その声に、強がりも過剰な怒りも感じない。澪は安心した。……平静を保っている流雫には、誰も勝てないからだ。そう、澪でさえも。
三養基とフランス人2人は、人集りの外にいる。それだけが救いだ。そう思った流雫の耳に、声が響いた。
「澪!!流雫!!」
銃声と同時に、アルスと詩応は地面を蹴った。先に動いたのはアルスだったが、前を行くのは詩応だ。その元陸上部の少女は急ブレーキで止まる。
「シノ!!ドクターが……!!」
恐怖に歪むプリィの声に、詩応は言葉を失い、奥歯を軋ませる。
……プリィの眼前で倒れる三養基に、詩愛姉が重なった。そして、今こうしている自分に、流雫が重なる。
……この場所で起きた姉の死は、既に吹っ切れた。そう思っていたかった。仇討ちを果たして、この場所で弔ったあの日、そう思えた。
だが、現実は甘くなかった。
三養基を撃った犯人への殺意が沸く詩応、その隣にようやく追い付いたアルスは、息を切らしながら顔を見る。
「……ミヤキ……」
とだけ名を呟くアルスは、しかし一つの疑問を抱えた。
「……何故サン・ドニ……?」
レンヌ郊外で、アリス絡みのプロジェクト全体が管理されている。しかし、三養基がデータを持ち出したログは、サン・ドニに残されていた。
この医師が、2つの施設に出入りできるだけの人物であることには、疑いの余地は無い。だが、何故常駐していたレンヌからではなかったのか。
今は場違いだと判っているが、後でアリシアにこの疑問を投げ掛けてみよう。そう思ったアルスの隣で、詩応は
「散れ!!」
と叫ぶ。突如発生したエンタメを邪魔されたことで、何人かが詩応を睨む。だが、それに怯まない少女は、ヤジ馬の隙間を強引に割って入った。
「詩応さん!?」
その様子に、最初に反応したのは澪だった。男は
「お前も死ぬ気か?」
と問う。2対3でも勝ち目は有ると思っている。
「犯罪者に殺される気は無いね」
と詩応は答えた。そのイキった返答に、2人の男は同時に鼻で笑った。生意気な3人が自分の足下で命乞いをする……その結末しか見えないからだ。
流雫や澪のそれとは一回り大きい銃を手にした詩応に、1人が銃口を向ける。その瞬間、結末は動き始めた。
大きめの銃声が2発。後遺症で震える手は照準を外し、銃弾は男の股関節より上に刺さる。
「ぐっ……!!」
痛みに顔を歪めながらも、男はボーイッシュな少女に銃口を向けた。
「伏見さん!!」
流雫は声を張り上げ、同時に引き金を引く。掻き消された2発の小さな銃声、しかし銃弾は狙い通りに手首に突き刺さる。
「あぁぁっ!!」
男の視界が大きく歪み、銃は地面に落ちる。それと同時に、詩応が男を取り押さえた。
肩を押さえ付けて跪かせ、後頭部に銃を突き付ける。ロックは掛けているものの、何時でも外せるようにはしていた。
「伏見さん!」
流雫が声を上げる。先刻、自爆を見たばかりだ。それが有るだけに、どうしても不安に駆られる。
「何故撃った!?」
詩応は問う、しかし返事は期待していない。ただ、見る限り自爆へのトリガーに触れるような様子は無い。油断はできないが、今のところは安全……そう思うしかない。
流雫はもう1人の男に目を向ける。それは澪と対峙していた。
「……何故殺そうとしたの!?」
「お前には無関係だ!
「三養基医師に恨みでも!?」
少女が放った怒り混じりの問いに、男は答えない。
……恨みなど無い、それどころか標的の名前と外見しか知らされていなかった?まるで空港でプリィが狙われた時に似ているような……!?
「……目的は何……!?」
澪の問いへの返答は、上空への威嚇射撃だった。しかし、澪は怯まない。
「ごちゃごちゃ五月蠅い!!」
男は大口径の銃を構え、叫んだ。その瞬間、後頭部に激痛が走る。
「がっ!!」
銃身を叩き付けられ、脳が揺さぶられる。一瞬遮断された視界が回復すると、シルバーヘアの少年が立っている。
「僕が相手だ……」
と言った流雫のオッドアイに、男は一瞬怯む。その目の色が不気味に映ったからだ。
日本人らしくない見た目の生意気な少年に、男の苛立ちと殺意が増してくる。吠えるだけの女は後回し、先にこの輩を潰す……痛みに耐えながらそう思った男は、流雫に銃口を向ける。
「流雫……!」
イヤフォン越しに聞こえる澪の声に、流雫はブレスレットに唇を当てながら答える。
「護って……澪」
銃口を向けられながら、妙に落ち着いている流雫が、男の目には不気味に映る。しかし詩応に取り押さえられている男も、対峙している男も、最大の誤算を起こしていた。
このシルバーヘアの少年が、この場所に居合わせたこと。教典上の破壊の女神と同じオッドアイに、存在を認識されたこと。
男の指が引き金に掛かる。その動きを流雫は見逃さなかった。僅かに踵を浮かせ、右にスライドする。男の反応速度は追い付かず、放った銃弾は人集りの隙間を飛んだ。
「避けるな!!」
とヤジが飛ぶ。ヤジ馬には怪我させること無く決着を付けろ、これが身勝手でなくて何なのか。
「流雫……!」
澪の声が聞こえる。その声が、流雫に落ち着きをもたらす。澪のために、殺されるワケにはいかない、だから絶対に熱くなるな、と。
救急車のサイレンが止まり、救急隊員が駆け付ける。英語で応対するアルスは、流雫に短文のメッセージを残すと、フランス人2人に混じって救急車に乗る。
心電図は、時々無機質な音を立てるだけだ。それが一層、3人を不安に陥れる。
プリィはただ祈るだけだ。セバスはただ三養基を見つめている。そしてアルスは、スマートフォンの画面を見つめていた。
恋人からのメッセージは、アルスにとって気を紛らわせるのに有効だ。尤もそれは、惚気話でも他愛ない話でもなく、フランスで何が起きているかの話でしかないが。
アリシア曰く、昨日の今日で特に変わった動きは無いらしい。アルスは少しだけ安堵するが、早朝からレンヌの住宅街の一角で街を眺める少女は、恋人を不憫に思っていた。
……アルスの日本への渡航は、遊びのためでも留学のためでもない。レンヌの司祭からの指示だった。
日本での活動を禁じられている血の旅団にとって、流雫を軸に日本との接点が有るアルスは使い勝手がよいことが、その理由だった。尤も、本人は乗り気だったが。
それでも、何の事件も起きなければ普通に過ごせたのだ。それが台場と渋谷で事件に遭遇している。どんなに日本で頼れる3人が傍にいるとしても、安心できるワケがない。彼の言葉を借りれば、日本は厄介な国だからだ。
そう、日本は厄介な国。アリシアもそう思う。自分と同い年の高校生が、銃を手にテロや通り魔と戦っているのだから。それも、大人の私利私欲や都合に振り回されながら。
「厄介な国……でも希望は有るわ」
と、アリシアは呟き、PCの電源を入れた。
冷静さを欠かない流雫とは対照的に
「五月蠅い!」
と叫んだ男は、再度引き金を引こうとした。しかし、それが捉えるのは流雫ではない。
澪は咄嗟に銃を構え、上空に向かって引き金を引いた。小さい銃声に周囲を威嚇するだけの力は無いが、少しでも男を引き付けられれば。
「無差別殺人犯になりたいの!?」
と叫ぶ澪に、男の目は向く。
「標的はあたしでしょ!?」
「澪!?」
流雫は思わず声を上げる、それは自分への合図だった。
澪に気を取られた男の脇腹を、ガンメタリックの銃身が狙った。一瞬で詰められた間合いに何もできない男は
「ごほっ……!」
と噎せる。一度離れた流雫は、銃を構えず、ただ男を睨んでいる。
ヤジ馬の輪の中はフラットだが、障害物は1つだけ有る。そしてヤジ馬がデスゲーム感覚なら、最もつまらない決着を見せつけるまで。
そう思った流雫は、一瞬だけ詩応と目を合わせると後ろ向きに地面を蹴って反転する。
ヤジ馬が逃げ場を与えないことは判っている。流雫の目的は、詩応が取り押さえた犯人だった。
「流雫!」
詩応が声を張り上げながら、銃を突き付けていた犯人から離れる。その瞬間、少年の靴が男の背中に乗った。
「ぐっ!!」
その醜い声も聞こえていない流雫は、柔らかい足場に全体重を掛け、膝をバネに宙に舞う。
「何!?」
予想外の動きに、男の脳は一瞬フリーズする。血迷って……いない、と気付いた時には、視界を支配されていた。
「ごっ!!」
男が一際低い声を上げる。流雫の左足が、男の眉間を狙い撃ちした。その勢いに後ろに飛ばされ、仰向けに倒れる男に澪が走り寄る。腹部の上に膝を立てると片腕を押さえ付け、反対の肩に銃を突き付けた。
男は、激しい脳震盪を起こしていた。混濁する意識では反撃など出来ず、低い呻き声を上げるだけだ。
「っ……はぁ……っ……」
左足の甲を押さえる流雫は、しかし静まり返る周囲に手応えを感じていた。
……予想外の動きと望まなかった結末に、唖然とするヤジ馬。エンタメ感覚を吹き飛ばされ、目の前の出来事が通り魔事件であると云う現実を突き付けられる。
「退け!!」
と男の声が響いた。特に澪にとっては、誰よりも聞き覚えが有る声。
助かった、と3人は思った。だが、刑事の娘は2人が気懸かりだった。……戦いが紛らわせていた感情の揺り返しに、襲われるのではないか、と。
ヤジ馬が警察によって四散していく。その中心に寄ろうとする常願に、澪は目を向ける。
……少しだけ、3人だけにさせて。娘の我が侭を、父は受け入れた。
「……詩応さん……」
そう名を呼んだ澪に、詩応は歯を軋ませたまま顔を向ける。その表情を見ていられなくて、澪は無意識に抱き寄せた。
「澪……」
そう小さな声で呼ぶ詩応。……何度、こうして澪に助けられてきただろうか。
澪に甘えているだけだ、と言われれば否定しない。だが、同性の恋人にさえ隠したい弱さを、澪にだけは晒せる。それだけの包容力が、澪には有るのだ。
その隣で、流雫は空を見上げていた。初雪の日の悪夢と戦いながら、とにかく三養基が助かってほしいと願う。
「流雫……」
と、澪に抱かれたままの詩応が呼ぶ。彼の恋人を奪っている感が拭えなくなる。しかし、流雫は安堵の表情を浮かべながら顔を向け、
「澪も伏見さんも、無事でよかった……」
とだけ言った。
デスゲーム扱いされないためにも、銃を使わず仕留めたかった。しかし力では勝てない、だからもう1人の犯人の身体で、撹乱させるしか方法は無かった。
ほぼ思い通りの結果になった。今だけはそれに安堵したい。
「……ああ……」
とだけ、詩応は言った。
……流雫が、空を見上げて何を思っていたか。詩応は容易に想像できる。相容れるようになったとは言っても、やはり姉の死を抱えていることだけが癪に障る。だが、流雫に吹っ切れと云うのは無理な話だ。
ただ、それが或る意味他人への優しさや戦う理由の源でもあるのだ。マイナスも有るが、プラスの方が大きい。だから流雫を信じていられる。
三養基がICUから担ぎ出されたのは、搬送から20分後のことだった。駆け付けた刑事、弥陀ヶ原が医師と話しているが、ポーカーフェイス然とした2人の表情の違和感で、アルスは察した。
数分後、3人に近寄った弥陀ヶ原は
「……残念なことだ……」
と告げた。沈痛な表情を露わにするフランス人2人、その隣で赤いシャツの少年は、或る決意をした。
「……何が起きた?」
その刑事の言葉に、
「……俺は行く場所が有る、ミスター・ミダガハラ。必ず後で合流する」
と言葉を被せたアルスは、
「2人の保護を頼む」
とだけ言い残し、病院を後にした。
「ミヤキが死んだ。後で話す」
とだけ、流雫とアリシアにメッセージを送ったブロンドヘアの少年は、スマートフォンのマップを開いた。フランス人の少年にとって、トーキョーはパリよりも複雑に思える。
……目的地を目の前に、アルスは一度立ち止まる。
「行ける場所まで行け、でも死ぬべき場所は其処じゃない」
とフランス語で呟き、踵を浮かせた。
聖女にとって、礼拝堂は落ち着く。この静寂が、邪念を霧散させる気がする。昔からそうだった。
聖なる場所だとしても、セブと密室に2人きりなのは、疚しいことなど無くても周囲の目が有る。聖女である以上、特別な感情は対外的に認められないからだ。
突然、ドアが軋んだ音を立てた。アリスが顔を上げる。
「アルス・プリュヴィオーズ……!」
少し前に去った少年の名を、口にする聖女。何故いる!?
「重要な話が有る、聖女アリス」
「邪教の話など聞くに値しない、今すぐ……」
と制止を試みようとするアリスに、アルスは残酷な現実を突き刺した。
「ドクター・ミヤキが殺された」
「!?」
鼓動が大きく跳ねたアリスは目を見開き、アルスの瞳に釘付けになる。
「シブヤの駅前で撃たれた。駆け付けた時には、既に危険な状態だった」
「……な……、……何故……」
「撃った奴らは、シノが警察に引き渡した。全てはこれから、明らかになるだろう」
とアルスは淡々と告げ、混乱するアリスに近寄る。
「……ドクターはお前を培養した、謂わば生みの親。その死は非常に残念だ……」
「な、何を……」
思わず身構えたアリスの眼前で、アルスは大理石調の床に膝を突いた。普段よりも落ち着いた、聖女からすれば先刻とは別人のような声を、アルスは放った。
我が女神ルージェエールの主、女神ソレイエドールに願う。
マダム・サクラ・ミヤキは斃れた。凶弾と云う、容赦されざる悪によって。
この地から、彼女に鎮魂の祈りを捧ぐ。久遠の安寧を与え給え。
「……ソレイエドールは、慈悲に満ちた女神だ。血の旅団である俺の祈りすら、届くと信じている」
と、アルスは立ち上がりながら言った。アリスは言葉を失っている。この場所での鎮魂の祈りが、完全に予想外の行動だったからだ。
無言のまま踵を返すアルスを
「……ま、待ちなさい」
とアリスは呼び止めた。一度言葉を詰まらせたのは、聖女としての葛藤が有ったからか。
「……シノが言っていた。貴方が、私や教団を護ろうとしている、と」
「ソレイエドールをルーツとする教団の信者としてのプライドだ。祖国の平和のために護る必要が有るのなら、そうするだけのことだ。これ以上穢されるのは、見るに堪えないからな」
と、アルスはアリスに顔を向けないまま言葉を返し、礼拝堂のドアを開ける。
……聖女として押し殺している感情が、決壊するのは時間の問題。怒りと慟哭が混ざる顔を目にすることになるなら、見るのは俺じゃない。もっと相応しい奴がいる。
血の旅団の信者と入れ替わるように入ってくる、スーツの男。ブロンドヘアはアルスと似ているが、顔立ちは聖女の面影を色濃く残す。
「セブ……?」
「聖女アリス、今のは……?」
と問うセブに、アリスは
「……ルージェエールの、戦士……」
と答える。その声は、既に悲しみに包まれている。
「……まさか、邪教に何か……」
「……ドクターへの祈りを……捧げただけ……」
と答えたアリスは、セブから目を背け、祭壇の前に跪く。
「……私も、今は……彼女を弔う……だけよ……」
そう言った聖女の隣に、同じく跪くセブ。弔う、その単語だけで彼は察していた。何故血の旅団の信者が来て、此処で祈りを捧げたのかは判らないが。
「私も、心は聖女と同じです」
とセブは言う。その答えも、信者としては模範的。しかし、今求めているのはそれではない。
かつて、アリスに対等に優しく接していたセブは、今は何処にもいない。それは、彼女が聖女になったからだ。太陽騎士団の象徴として誰からも敬愛され、崇められる存在。それ故の孤独感など、誰にも判らない。
「私は……聖女……」
とだけ言ったアリスの膝下に、小さな雫が落ち、砕け散った。