【合衆国領ハワイ】
1941年12月7日深夜(現地時間)
オアフ島は現地時間にして午前二時を迎えていた。
極東の島国では丑三つ時と呼ばれる頃合。
子どもならば、夢の中にいるべき時間。
ついにシェリルはスタンドの明かりをつけてしまった。
「パパの船……」
そう呟くと、ベッドから身を起こし、小さなバッグをもう一度確かめる。
色鉛筆、消しゴム、ノート、そして……あった!
彼女の
明日はいよいよ彼女が待ちに待った職場見学の日だった。自然と笑みが浮かび、愛らしいえくぼが形成される。
「やっと、みんなに見てもらえる」
誇らしさで、胸の高鳴りが収まらなかった。そのせいでこんな時間まで起きてしまった。
何しろ、彼女だけではない。彼女のクラス全員が、このチケットを手に父の
彼女の父はそこで、とても大事な仕事をしていた。
たしか……そう、お船が迷わないように道案内をする仕事だった。
「もうバカになんかさせないんだから……!」
胸の奥の高鳴りがほんの少し怒りに変わる。いつも彼女が自分の父の話をすると、クラスメートの男子たちがからかってきた。
『船の道案内? なにそれ! つまんねえの!!』
「だけど、それも今日までよ」
乗艦許可証は、彼女の父が艦長に頼み込んで発行してもらったものだった。ふさぎ込んできた愛娘の話を聞き、父なりに機転を利かせた結果だ。
もしかしたら彼女の学友から未来の
ならば自分の艦は申し分のない
彼の乗る艦、<アリゾナ>は子ども達に圧倒的なインパクトを与えるため、十分すぎる偉容を備えていた。
ペンシルヴァニア型戦艦の二番艦として、1941年―第一次大戦が始まった年に―ブルックリン海軍工廠で<アリゾナ>は産声を上げた。そして1917年に合衆国海軍に正式配備され、以来、合衆国の威光を十分に知らしめる一翼を担ってきた。200メートル近い鋼鉄の船体に3連装主砲を4基備え、21ノットで驀進するさまは鋼鉄のリヴァイアサンと称すべきものだった。
「私のパパはヒーローなんだから!」
明日は父自ら、クラスメート達を案内してくれるらしい。そこで父の仕事を知れば、きっとみんな父のことを尊敬してくれるにちがいない。
そう、彼女のヒーローがみんなヒーローになるのだ。
そう思うと、たまらなくシェリルはうれしくなった。
「いけない……はやく寝ないと」
明日は絶対に寝坊できない。彼女は再び寝床へ身を委ねた。
その途中、ふと窓の光景が映った。
椰子の木の間から、見慣れぬものが覗いていた。
異変はほんの一部だが、それはあまりにも異様だった。
「なに、あれ?」
胸の高鳴りが一気に不安をかき立てていく。
「黒い……お月さま?」
真珠湾に浮かぶ月。それが黒く蝕まれつつあった。
◇
ハワイの合衆国軍も月食の始まりに気づいていた。
しかし将兵の中でそれが明確な脅威だと思うものは、ほとんどいなかった。
当たり前だ。ただの天文現象にすぎないのだから
その日、太平洋艦隊の将兵の大半は休暇にでており、それぞれの持ち場で満喫していた。
大半は世にも希な天体ショーに心躍らせるばかりだったが、幾人かが凶兆めいたものを感じていた。
エリオット二等兵は、その希少な幾人かの一人だった。
彼は前日の夜からオアフ島北端のオパナにいた。そこには移動式のレーダーステーションが設置されている。
エリオットの持ち場だ。月食が始まって以来、どうにもエリオットの胸はざわついて仕方なかった。少し前から形容しがたい不安が心臓を締め付け、べったりとした汗が額と手のひらを湿らせていた。
彼は自身を落ち着けるために、オシロスコープの波形を追っていた。今の月のように暗く円い画面、その中央を光点が横切って線を描く。
もし何も異常がなければ真っすぐな横線を描くはずだった。退屈と感じる光景だが、今はずっと続いてほしいと願っていた。
しかし残念ながら、彼の願いは裏切られた。
何の前触れもなく、光の線が乱れ始めた。
唾を飲み込み、エリオットは鼻から息を大きく吸った。
「なあ、ジョー」
窓際に立つ同僚のロッカード二等兵へ話しかける。
「あ? どうかしたのか?」
彼の同僚は天体ショーに夢中だった。
「見てみろ! 月が消えていきやがる!」
「ああ、うん、見たよ。それよりも大事な相談があるんだ」
「相談? 後にしろよ。いいから今は──」
「レーダーに異変があるんだ」
「なんだって……」
ロッカードは振り向くと、すぐにオシロスコープの波形を確かめた。光は大きな横波を打っている。全くよろしくない兆候だ。少なくともは五十機を越える
「うそだろ……」
「あの噂、ジャップの艦隊がここに来てるってやつが本当に……」
「正気か? ジャップがこんなところまで来られるはずがないだろ! 奴らは太平洋の果てにいるんだぞ。だいたい今何時だと思っている? 四時すぎだ! 牛乳配達人だって、まだ寝てる。こんな時間に飛行するなんて、あの
半裸笑いで訝しむ同僚にロッカードは苛つきを覚えた。自分の予感を否定され、面白くなかった。今までの俺の心労はなんだったんだ。
「なら計器が故障してるのか? 神に誓ってそんなはずはない。動作チェックはクリアだった。なあ、ジョー……こいつをどう説明するんだ?」
数秒の沈黙が続き、やがて二人は上の指示を仰ぐことをした。何にせよ、報告は義務だ。あとはお偉方が判断すれば良い。
二人の二等兵から報告を受けたのは、情報センターに勤める中尉だった。彼はある情報を得ていたがゆえ、判断を誤った。
陸軍のB‐17爆撃機が十二機ほど増派されてくる予定だった。加えて、近海には味方の空母が航行している。早朝の離着艦の訓練をしていてもおかしくはない。それら情報は士官のみしか知らされていなかった。
二人の二等兵の報告は、いずれかに関連するものに思えた。
中尉は電話越しにエリオットらを労い、監視の継続を命じて切った。
「ほらな、問題なかっただろ」
ロッカードは受話器を置くと同僚の肩を軽く叩いた。
「ああ、みたいだな……」
エリオットはうなずきながら、その目はオシロスコープに釘付けだった。先ほどまで映っていた大編隊の横波は既に無かった。今は弱々しい波形を示し、せいぜい反応数は二つほど。やがて、その二つの波形も消え去った。
「こいつの整備が必要だな」
エリオットは自分に言い聞かせていた。
「ああ、係の奴に良く言っておかないと」
ロッカードは同意すると、天体ショーの監視に戻った。
残念ながら、整備の必要は無かった。彼らの計器は正しく動作していた。
惜しむらくは、当時のレーダーでは対象の大きさまでは判別できなかったことだろう。
もしそれが可能なら、確実に明確な脅威だと認識できたはずだった。
そのときオアフ島上空を漂っていたのは、リバティー島の女神すらしのぐ巨大な