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帰還者たちの休息

純白の訪問者(Case of White):1

未知の分野の開拓には、相応の対価が要される。個人ミクロであれ、国家マクロであれ、恐怖と期待に翻弄されながら、彼ら彼女らは前人未踏の地を切り拓いていく。まことに理不尽なことだが、初めの一歩を必ずしも自身の意思で踏み出せるとは限らない。あるいは本人すら知らぬ間に踏み出していることすらある。自身が未知の領域に踏み込んだことすら気づかないまま、既存の経験則に従って突き進むものもいる。その道程はフィクションにおいては終始劇的な脚色を加えられるものだが、当事者にとって日常の一部に過ぎないものだ。



【東京 世田谷 太子堂】

 昭和二十1945年九月二十四日



 今年でよわい十五を迎える戸張小春とばりこはるにとって、兄の帰還は常に突発的で予測不可能なものだった。それは、この戦争が始まる前から変わらぬものだ。


 十年ほど前、彼女がようやく小学へ進もうとする頃、兄のひろしは海軍軍人になるため、瀬戸内の小さな島海軍兵学校へ渡った。いらい便りをほとんどよこさず、年に数日だけ、まるで旋風のように帰省し、瞬く間に戻っていった。物心つきはじめた小春にとって、寛の存在は風物詩に近い何かだったが、疎遠に感じることはあまりなかった。要因は二つある。


 一つは兄の寛の誰に対しても胸襟を開きたがる遠慮の無い性分、生来持ち合わせている諧謔味だった。もう一つは、兄と対極的な性格をもち合わせている親友の存在だった。儀堂家の長男は兄と違い、まめに便りを実家へ寄越す青年だった。戸張と儀堂は家同士で付き合いのあり、特に両家の母はお互いの家を行き来していた。彼女は儀堂衛士の視線を通して、間接的だが寛の様子をうかがい知ることが出来た。自然と小春の関心は、兄と共に衛士へ移っていった。儀堂家の母から伝わる長男の印象は家族思いで、一途に誠実な青年士官だった。


 小春が初めて儀堂と顔を合わせたのは、兵学校時代に短い休暇を利用して帰京したときだった。初対面での衛士の印象は彼女の幻想を裏切らぬものだった。もちろん寸分違わぬと言うわけではなかった。誤差はあったが、上方修正される類いのものだった。兄の寛が蒼空の風のような人間とするならば、儀堂衛士は深い森を思わせる印象があった。独特の落ち着いた、それでいて底が見えないものだった。理由はわからなかったが、帰省時にたまに見せる寂しげな瞳がさらに印象を深める結果となった。小春が衛士と父親の間に説明困難な確執があると気づくのはしばらく後のことだ。とにもかくにも、小春にとって、帰還を待つ相手が二人出来たことは確かだった。



 九月も終わりかけた日、夕方のことだ。その日、彼女は通り雨から庭先の洗濯物を退避させている最中だった。雨音をかいくぐって玄関から開く音がした。続いて間髪入れずに突き抜けるように「ただいま」と第一声が発せられる。寛が帰ったのである。


「はぁい! ちょっと待って!」


 家内には小春以外に誰も居なかった。母の春子は防災訓練のため公民館へ赴いている。父のつよしも、まだ勤務先から帰ってきていない。小春は、この日たまたま女学校の授業が早く終わったため、兄を出迎えることが出来たのである。


 小春は残りの洗濯物を急いで縁側へ取り込むと、すぐに玄関へ向おうとした。その途中、再び大声が発せられる。


「おーい、なにか拭くものを頼むぜ。ふたつくれ」


「わかったぁ!」


 途中で箪笥からタオルを取り出す。廊下を歩く足取りと鼓動が早まっていた。ふたつということは二人分ということだ。兄とともに来る帰還者など、小春には一人しか考えられなかった。ほとんど無意識のうちに、口元がほころんでいた。


「お帰りなさい。はい、これ拭くもの――」


 愛らしい笑顔を玄関に出した小春の耳に、奇怪な鳴き声が届けられた。直後、少女は全身を硬直させた。


 寛は妹が差し出した二枚のタオルを有り難く受け取ると、片方を自分に使い、もう片方を自分の連れに使った。


「いやいや、参ったぜ。急に降り出しやがる。ああ、大人しくしろ。羽がびしょびしょだぞ」


「…………」


「それにしても元気そうじゃねえか。親父とお袋も変わりないか? ああ、そうだ。衛士のヤツも戻ってきているから、後で顔を出しに行こう。よぉし、こんなものか。おい、どうした? なにぼうっとしてんだ?」


「………なにって、そっちこそ、それ………なによ」


 小春は硬直を解くと後ずさった。兄の横にいる四足の連れを指さす。大型犬ほどのサイズだが、形状は明らかにことなっている。こんな首の長い、翼の生えた犬がいてたまるもんですかと思う。


「ああ、こいつか。今日から飼うことになった竜だ。名前はシロってんだ。ほらシロ、あいさつしろ。前に話した、オレの妹だ」


 純白の竜は首を上下に振ると、カモメと鶏を混ぜ合わせたような甲高い鳴き声を上げた。


 小春はしばらく開口したまま沈黙し、眼を白黒させた。ようやく目前の事態を理解すると、兄に対して投げかける適当な言葉を絞り出した。


「………ば」


「ば?」


「ばっかじゃないの!!!」


 このように戸張小春にとって兄の帰還は、まことに突発的かつ予測不可能なものだった。


 一人と一匹を前にして、小春は玄関で仁王立ちしていた。そのまなじりは般若のごとくつり上がり、完全に兄の寛へ釘付けになっている。


 さすがの寛も不味いことになっていると気がついたらしく、宥めるように両手を小春の前へ上げた。


「ちょっと待て。死戦から舞い戻った兄貴に、その言葉はないだろう。だいたい――」


「話をそらさない!」


 冷や汗を浮かべる兄を小春は一喝した。あまりの剣幕に気圧されたらしく、シロはしおらしく首をたれてうずくまってしまった。いかに竜といえども、幼体である。その姿が意外にも不憫に見えて、小春の気勢は削がれてしまった。


「とにかく上がって。まずは話を聞かせてもらうから」


「おい、こいつはどうするんだ?」


 戸張は白い塊を指さした。


「なんで、あたしに聞くの。ああ、もう、とりあえず、雨が止むまで、そこで大人しくさせて」


「お、おう」


 戸張はシロへ「伏せ」を命じると、ようやく生家へ帰還を果たすことができた。


 そのまま居間でちゃぶ台を囲って、臨時の家族会議が開かれる。


「それで、あの竜はどこで拾ってきたの?」


「どこって、オアフBMだぞ」


「オアフBMって? あのBM? ど、どういうことなの?」


 小春のもっともな問いに対して、戸張は順を追って話をした。北米へ向う途中、オアフBMと一戦を交え、BM内部に戦闘機で突入、卵を拾い、<宵月>に救助されるまでの顛末を戸張家の長男は実に愉しげに語って見せた。対称的に長女は眉間に皺を寄せ、ときおりため息をついていた。


「兄貴の無鉄砲ぶりは噂に聞いていたけど、ここまで酷いとは思わなかったわ。衛士さんにも迷惑かけて何やっているのよ」


「なにが迷惑だよ。別に助けてくれと頼んだわけじゃねえぜ」


「あのね! じゃあ、衛士さんが来なかったら、どうやってBMから脱出するつもりだったの?」


「そいつは……」


 形勢不利と悟った寛は、転進を決意した。


「まあ、それはともかくとしてだ。シロの件が先だ。あいつはうちで飼うからな」


「何を言っているの? できません! 無理です! だって魔獣よ? ご近所迷惑でしょ!」


「おいおい、あいつは良い子だぞ。オレになついているし、下手な番犬よりも頼もしいぜ。賊が入っても、あいつがいればいちころだ」


「そういう問題じゃないでしょ。だいたい、兄貴が留守の間は誰が面倒を見るの?」


 寛は引きつった笑顔で小春を見つめた。


「まさか、あたし……」


 さらに釣り上がった妹の視線から寛は逃げた。瞳は泳ぐどころか溺れている。


「な、なに、大丈夫だ。あいつは大人しいし、お前にもなつくよ。だ、第一、よぉく見てみろ。かわいいぞ」


「ばっかじゃないの!!!」


「大声を出すなよ。だいたい実の兄を莫迦呼ばわりとは何事だ。こっちは戦地で御国のために滅私奉公に励んでいたんだぞ。もっとオレをいたわれよ」


「話をそらさない!!」


 小春の一喝が再び響き渡った直後、小さな悲鳴が生じた。玄関方向からだった。 


 押っ取り刀でかけつけた二人の目に入ったのは、入り口で失神している母の春子とその顔を嘗めているシロだった。



【東京 世田谷 三宿】


 昭和二十1945年九月二十四日



「それで、うちでシロを預かってほしいってわけかい?」


 儀堂衛士は二人と一匹の訪問者を迎えていた。戸張兄妹と竜のシロである。


「すまん、衛士!」


「ごめんなさい……」


 寛はバツの悪そうに、小春は叱られた子どものようだった。シロはあくびをしていた。


 失神した戸張の母を寝室へ運び込んだ後、シロを伴って二人は儀堂家に来ていた。さすがの寛も現状で自宅で飼うのは難しいと考え、しばらく旧友の元で面倒を見れないかと尋ねてきたのである。


 儀堂は少し困った顔を浮かべた。


「やれやれ、どうしたものかな」


 逡巡する儀堂の脇に小さな影が現れると、頭を下げる二人に対して援護射撃を行った。


「よいではないか」


「ネシス、お前……」


 煙のように現れたネシスだったが、額の角は魔導で隠していた。ネシスはゆっくりと、シロの頭頂部に手をかけると、首に沿って撫でていった。シロは気持ちよさそうに喉をならす。妙に艶やかなネシスの手つきに、思わず寛も小春も見とれかけたが、ようやくのところで我に返った。


「あなたは――」


「小春と申したか。この竜については案ずるでない。妾は竜の扱いに慣れておる」


「そいつはありがてえ。助かるぜ!」


 小躍りする寛の脇を小春はつねった。


「いてて、おい、なんだよ」


「まだ衛士さんがいいと言っていないじゃない」


「お前、どうしたんだ? 何をふくれていやがる?」


「ふくれてません……!」


 戸張兄妹のやりとりをネシスは面白そうに眺めていた。儀堂は相変わらず顔を曇らせたままだ。


「おいネシス、安請け合いは困るぞ。オレ達は<宵月>へ戻らねばならんのだ」


 儀堂とネシスは、表向き休暇中だった。休暇が終わったら、<宵月>へ戻らなければならない。


「オレ達がこの家を空けた後、誰がこの竜の面倒をみるのだ?」


「わかっておる。妾達が、ここにいる間だけじゃ。その間に、この娘に竜の扱いを手ほどきしてやればよかろう」


 思わぬ指名をされ、小春は面喰らった。


「あたしが竜の面倒を?」


「そうじゃ。女子おなごの方が竜はなつく。これから毎日、ここへ通いに来るが良い。小春よ、お主にとって悪い話ではないように思うがのう」


 ネシスは口角を上げると、意味ありげに赤い瞳で儀堂を指した。頬の血流が良くなるのを感じ、小春は取り繕うと返事をしてしまった。


「わ、わかったわ。来れば良いんでしょ? いい、衛士さん?」


 儀堂は数秒沈黙したが、やがて降参したように手を上げた。


「構わないよ。ここまで来て返すわけにもいかないしね。二人とも仲良くやってくれよ」 


「さすがは同期の出世頭! 話のわかるヤツだぜ」


「寛、お前もだぞ。小春ちゃんばかりに世話を押しつけるな」


「ああ、わかっているさ。任せとけ。オレもこいつと一緒に毎日来てやる」


 どんと胸を叩く旧友を呆れた様子で儀堂は見ていた。


 かくして、一時的に儀堂家でシロを預かることになった。


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