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純白の訪問者(Case of White):9

【世田谷 上空】


 火炎と共にシロが大空へ駆け上がった瞬間とき、咄嗟に戸張は鞍の革帯ベルトにしがみついた。同時に両脚でシロの首元を死にものぐるいで挟み込む。


 秋空の風が激しく全身を叩き、まぶたを開けることは困難だった。もっとも、今の戸張に周囲を見渡す余裕などまったくなかった。今はたた振り落とされないようにするだけで精一杯だ。


――畜生! 烈風とまるで勝手が違う!


 竜に操縦桿はついていない。それに風防もなかった。だいいち操縦席に座らず、裸同然で空に上がるなど無謀以外の何ものでも無かった。


 垂直方向の急激な加速度に肝を縮ませながら、戸張は飛行士特有の感性で自身の状況を把握しようとしていた。


 空を鞭打つような翼のはためきが一定間隔になっていくのがわかった。どうやら巡航態勢へ移しつつあるようだった。上昇角度が緩やかになり、身体をかろうじて起こせるようになった。やがて意を決して瞼をあけると、シロの後頭部がそこにあった。


「おい、シロ! 戻れ! 厩舎へ戻るんだ!!」


 怒鳴るように戸張は命じたが、ほんの一瞬だけ頭をもたげただけで、ただまっすぐにシロは飛び続けた。眼下を見れば、帝都東京の街並みが見えている。地形と建物の大きさから大よその高度と針路を戸張は割り出した。


――高度二千から三千、針路は北北東といったところか。まずいな。下手をすれば帝都を突っ切るぞ。


 帝都には皇居を中心に防空部隊が配置されている。すでにシロの姿は電哨基地レーダーサイトで補足されているだろう。最悪の場合、戸張とシロは味方の対空砲火に包まれてしまう。


「冗談じゃねえ!!」


 会敵して、戦死するならともかく、誤射で死亡など真っ平御免だった。味方に撃たれるために、江田島の門をくぐったわけではないのだ。


――なんとしてでも戻ってやる。


 戸張の海馬中枢は、全力である記憶を引き出そう必死になった。やがて、彼は妹との会話から思い出すことに成功した。


「シロ、ルボルソス ソアム!!家に戻れ


 シロは一声鳴くと、急角度で旋回した。思わぬ方向の加速に、再び戸張は鞍から振り落とされかけた。


【世田谷 三宿】


 極東の少女はキールケに外国語の講義を頼んできた。どうやら小春が通う中等学校では、英語を教えているらしい。その上達のために、キールケの力を借りたいらしい。独逸人のキールケだが、英語も堪能だったため、快く引き受けることにした。キールケにとってもドラゴンの飼育者と懇意になる良い機会だった。それに家庭教師と引き替えに、南米産の珈琲豆が手に入るのならば安いものだろう。


「あらゆる学問には法則と体系があるの。言語も同様よ。ちゃんとした仕組みがある。そもそも、英国イングランドと日本は同じ島国でも言葉の造りが全く違うわ。まずは、そこから理解しましょう。わかったわね」


 キールケの講義は古代ギリシャ語とラテン語の歴史から始まった。そこから印欧語族の概念確立へ派生し、いかにして英語が仏語から国際語の地位を勝ち取ったのか順を追って説明していった。


 彼女の講義は、中等部の授業内容と隔絶したものだったが、学問の根源をついたものだった。すなわち『事の成り立ち』について、キールケは説いていた。いかなる学問も初めから確立されているわけではない。社会に浸透した概念や経験が理論立てられ、証明され、体系化されて成立するのである。


 唐突に始まった歴史の講義に小春は戸惑っていたが、キールケの話はわかりやすく、面白かったため、すぐに引き込まれてしまった。希有なことにキールケは優れた研究者であると、同時に優れた指導者だった。その意味では、独逸にとってキールケの流出は全く惜しむべきことだった。


 小春はキールケの講義を要領よくノートへまとめていた。聞くばかりではなく、適切な質問を挟んでいることから、そつなく理解していることがうかがえた。


 キールケが見たところ、小春は物覚えの良く、気の利いた少女だった。加えて頭の回転も悪くはない。恐らく、同年代の子の中でも頭一つ抜きんでている。独逸本国でも、優等の部類に入るだろう。


――下等人種ウンターメンシェの反証材料ね。


 独逸本国の信心深い・・・・ナチ党員にとっては、認めがたいものだろう。ハイドリヒはどうだろうか。あの男は自身の優越性について絶対的な自信をもっているが、同時に冷徹な現実主義者でもある。


――『アーリア人の優位性の否定にはつながらない』とでも言うかしら。


 自嘲的な笑いを浮かべたキールケは、ふと小春が広げたノートの一部に見慣れない日本語が書き込まれているのが見えた。カタカナ表記で、日本語にしては鋭角的で容易に漢字に変換できないものだ。


「ちょっといい。そのノートに書かれている日本語はどういう意味なの?」


 キールケは見開きになったノートの片隅を指さした。


「これは日本語じゃないです」


「え、どこの国の言葉?」


「竜の言葉です」


ドラッヘン?」


 思わぬ回答に母国語でキールケは返してしまった。


「シロを躾けるために、ネシスから教えてもらったんです」


 キールケは縁側へ視線を移した。寝転がった鬼子の後ろ姿が、そこにあった。


「ねえ、あなた、聞いて良いかしら。竜の言葉があるの?」


「少し違うのう」


 背を向けたまま、面倒くさそうにネシスは言った。


「妾達の言葉を竜が解しておるのじゃ」


 次の質問まで、キールケは時間を要した。彼女にとってあまりに突拍子もなく、にわかに信じられなかったのである。


「あなたたちの言葉を学習しているということかしら……。竜はそんなに知能が高いの?」


「難しい話ではない。そのように奴らは出来て・・・おるのじゃ」


「出来ているですって? それじゃまるで……いえ、この世界ならともかく、あなた達の世界なら有り得る話なのね」


 深刻な表情のキールケだったが、小春の視線に気づき、取り繕うように笑顔を浮かべた。


「ねえ、あなた、そのノート見せてもらえるかしら?」


「いいですよ」


 小春のノートには、ネシスから教わったシロを躾ける命令が書き記されていた。キールケは軽い興奮を覚えた。当人達は気づいていないが、これは重大な発見だった。このノートはネシス達が住まう異世界の言語を知る貴重な資料なのだ。


 ノートは単語ごとにカタカナで発音が書かれ、対応する意味が付記されている。まるで辞典のようだった。キールケは小春の整理能力に感心を覚えた。


「小春、このノートは大切になさい。いずれ役に立つ日が来るわ」


「え? あ、はい。そうですね。シロの面倒をこれからも見ないといけないし」


 やはり、小春本人はノートの可能性に気がついていないようだった。キールケは不思議に思った。御調やあの六反田は何も気づいていないのだろうか。


――いや、そんなはずはない。あの醜男オークのことだ。既に調査済みということかしら……。


 それとなく御調に聞いてみようと思った。返答次第では、自身の行動計画に修正を加える必要がありそうだった。今の彼女は独逸本国から伸びた見えざる糸によって縛られているのだから。総統代行ハイドリヒの命令に対して忠実な証を示さなければ、彼女の伯母と姪の命脈が絶たれてしまう。


 六反田達へのアプローチを計画するキールケだったが、不意に鐘の音が彼女の思考を乱した。我に返ったキールケの横で小春が筆記具をしまっていた。


「キールケさん、今日はありがとうございます。わたし、そろそろ行かないと――」


「厩舎へ行くのかしら?」


「はい、シロが待っているので。その、また英語を教えてくれますか?」


 控えめな小春の問いかけに、キールケはイエスと答えた。


「よかった! ありがとうございます」


 小春は十代相応の愛らしい笑顔を浮かべ、頭を下げると玄関へ向った。


 ちょうど、そのとき儀堂の家の電話が鳴った。書斎にある軍用電話ではなく、廊下に備えられた私用の方だった。小春は通りすがるところだったので、そのまま受話器を取った。


「はい、儀堂です」


『もしもし小春ちゃんかい?』


「衛士さん、どうしたの?」 


『すまない。落ち着いて聞いてほしい。寛がシロに――』


 ブツリと弾けたような音とともに電話が切れる。すぐ後に小規模な地震と地響きが続き、居間から独逸語まじりの悲鳴が聞こえた。


「どうしたの!?」


 居間へ飛び込んだ小春が目にしたのは、庭いっぱいに羽を広げ、塀と屋根の一部を半壊させたシロの姿だった。シロは小春の姿を見るや、一声鳴いた。そのまま首を大きく曲げ、縁側から居間に顔を突っ込んでくる。その拍子に、首元の鞍の革帯ベルトがねじ切れ、鞍ごと戸張が投げ出された。


「あ、畜生。いてて……」


 シロの足下に転がされた戸張はよろめきながらも立ち上がった。


「シロ、それに兄貴……どういうこと!?」


 突然、現れた兄と竜の姿に小春は完全に混乱していた。


「簡単な話じゃ」


 ネシスは、いつのまにか小春の足下であぐらをかいていた。


「文字通り、飛んできたのじゃ。初めてにしては、中々やりおるのう」


 続いてネシスは腹を抱えて笑った。すぐそばで、キールケが絶句し、腰をぬかしていた。独逸の才女でも、予想だにしない事態だったらしい。


 御調は居間から姿を消していた。彼女は書斎の軍用電話を手にしていた。


「はい、ええ……その件でしたら、大丈夫かと。つい先ほど、こちらに届きました。ええ、そうですね。さすがに隠し通すのは難しいでしょう。六反田閣下には私から……いえ、お気になさらず」


 受話器を置いた御調はすぐダイヤルを回し始めた。書斎の窓からも白い巨体が見えている。何事かと集まった近隣の住民の姿も見えていた。遠くからサイレンの音も聞こえてくる。


「営業の三井です。至急、荷役陸戦隊を寄越してください。手違いで倉庫から特産品が送られてきました。はい、そうです。新聞に広告報道管制もお願いします」

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