「ただいま」
一人暮らしのアパートに帰り着いた俺は、返事のないリビングに声をかける。当たり前だが誰も応えてはくれない。そんなやり取りが日課になっていた。
今日も一日、山奥の自然風景を撮影して回った俺——白石悠真は、疲れた体を椅子に沈めた。パソコンに取り込んだデータを確認しながら、レンジでチンした弁当を口に運ぶ。
「今日のショットは中々良かったな…」
山頂から昇る朝日、せせらぎの中で戯れる小動物たち。自然の一瞬を切り取るのが俺の仕事であり、喜びだった。
テレビをつけると、何かの特番をやっていた。異世界転生ものの人気アニメについての特集らしい。最近やたらとこの手の作品が増えてるよな、と思いながら、ぼんやりと画面を眺める。
「…異世界かぁ。ほんとにあるならどんな風景なんだろうな」
そう呟いた瞬間、部屋の空気が不自然に揺らめいた。
「なっ…!?」
テレビの画面が歪み、まるで液体のように波打ち始める。そして部屋全体が青白い光に包まれていく。
「なんだ…これ…?」
慌てて立ち上がろうとするが、体が動かない。足元から徐々に光に飲み込まれていく感覚。
「誰か…!」
助けを求める声も虚しく、俺の意識は白い光の中へと溶けていった。
異様な白光に包まれた瞬間、俺の意識は徐々に現実世界から引き剥がされていった。
世界が歪み、視界が一瞬にして真っ白になる。体が宙に浮かぶような感覚。そして——
―――――――――――――――
「召喚、成功しました!」
耳に飛び込んできたのは、聞き慣れない言語なのに、どういうわけか理解できる女性の声だった。
目を開けると、俺——白石悠真は、巨大な魔法陣の中央に立っていた。周囲には豪奢な調度品が並ぶ広間。そして数人の人間が、期待に満ちた表情で俺を見つめている。
「ようこそ、異世界からの勇者たちよ」
中央に座る威厳ある老人——おそらく王様なのだろう——が穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「勇者……?」
俺は困惑しながら周囲を見回した。そこで初めて気づく。俺だけじゃなく、他にも数人の日本人らしき若者たちが同じ魔法陣の上に立っていた。みんな同じように困惑した表情を浮かべている。
「ここはバストリア王国。わが国は今、かつてない危機に瀕している」
王は苦々しい表情で続けた。
「魔王グレイヴァスが復活し、世界は滅びの危機に立たされているのだ。かつて神々が定めし契約により、我々は異世界から勇者を召喚する権利を持つ。そして君たちこそが、この世界を救う勇者たちなのだ」
おいおい、何言ってんだこの爺さん。俺はただのフリーカメラマンだぞ?動物や自然の写真を撮るのが仕事の、ごく普通の日本人だ。
しかし周りを見渡すと、驚くほど場の空気に呑まれている奴らがいる。特に金髪碧眼の美少年なんか、すでに英雄気取りじゃないか。
「我々バストリア王国には、神聖魔法という特殊な術がある。それにより、召喚された者たちは皆、この世界で生きるための特別なスキルを授かっておる。さあ、一人ずつスキル鑑定を受けるがよい」
俺は不安と諦めが入り混じった気持ちで順番を待った。
「『聖剣の勇者』……素晴らしい!」
「『回復の聖女』!これは貴重なスキルです!」
「『千の魔法使い』!まさに賢者のスキル!」
次々と特別なスキルが判明していく。みんな満足げな表情だ。RPGみたいな王道スキルばかりじゃないか。やっぱりこれは夢か何かなんだろう。こんな異世界トリップみたいな展開、現実にあるわけない。
「次、そこの黒髪の若者」
「あ、はい……」
緊張しながら前に進み出る。鑑定士と思しき老人が俺の額に手を当てると、不思議な光が部屋に満ちた。
「あなたのスキルは……」
鑑定士の表情が一瞬固まる。
「……『牧場経営』です」
――――――
「え?」
部屋が静まり返った。
「牧場……経営?」
王様も眉をひそめている。鑑定士は何度も確認するように俺を見つめてから、再び宣言した。
「間違いありません。このお方のスキルは『牧場経営』です」
まさか「撮影」とかカメラ関係のスキルかと思ったけど……牧場経営?確かに自然が好きで動物にも詳しいけど、牧場なんて経営したことないぞ。
「これは……困ったな」
王様は顎に手を当てて考え込んでいる。
「勇者よ、悪いがそのスキルでは前線で戦うことは難しいだろう」
「えっ?あ、はい。そうですね」
(むしろ戦わなくていいなら助かるんだけど)
正直なところだ。他の連中は興奮気味だけど、俺はこんな異世界で命をかけて戦いたくなんてない。
俺の返事に王様は安堵したような表情を浮かべた。
「では、特別に王国の東部にある土地を与えよう。そこで牧場を経営し、王国に食料を供給してくれれば、それも立派な貢献だ」
俺は思わず目を見開いた。本気でそんな提案をするとは。
「本当ですか?」
「もちろんだ。支度金として50金貨も用意しよう。しっかりとした牧場を築き上げてくれることを期待している」
予想外の展開に、俺は戸惑いながらも頷くしかなかった。
――――――
翌日、王宮から東へ半日ほど歩いた場所に案内された俺は、緑豊かな平原に立っていた。遠くには森が見え、小川も流れている。
「ここが君の土地だ。好きなように使ってくれ」
案内役の兵士はそう言い残すと、馬に乗って去っていった。
残された俺は、広大な土地を前に呆然と立ち尽くした。
「さて、どうすればいいんだ?」
言葉にした瞬間、何か不思議な感覚が胸の内側から湧き上がってきた。
「これが……スキル?」
直感的に「牧場経営」というスキルを発動させると、目の前の景色が一瞬ぼやけた。次の瞬間、何もなかった土地に、一軒の民家と小さな納屋、そして周囲に柵で囲まれた広場が出現した。
「うおっ!マジか!」
思わず叫び声を上げる。まるでゲームのように、何もなかった場所に牧場の基本設備が出現したのだ。
納屋の中を覗くと、農具や動物の世話をするための道具が揃っていた。
「すごいな……ここが俺の牧場になるのか」
しかし、動物が一匹もいない。
「まずは支度金で動物を買わないと」
そう思った矢先、風に乗って微かな鈴の音が聞こえてきた。
「あれは……?」
丘の向こうから、一匹の羊がのんびりと歩いてくるのが見えた。
「なんで、こんなところに羊が?」
不思議に思いながら見ていると、羊は自然と柵の中に入り、勝手に草を食べ始めた。まるで初めからここが自分の居場所だとでもいうかのように。
「もしかして……動物を引き寄せる効果もあるのか?」
とりあえず、一匹でも動物が来てくれたのはありがたい。初めての「従業員」と思えば悪くない。
「ま、いいか。今日はもう遅いし休むとするか」
家に入り、簡素な夕食を済ませると、疲れた体を寝床に沈めた。
「異世界に来て……牧場主か。人生何があるかわからないな……」
そんなことを考えながら、俺は深い眠りについた。
――――――
朝日が昇り、部屋の窓から差し込む光で目を覚ました。
「よし、本格的に牧場主として頑張るか」
外に出ると、昨日の羊が牧草をもぐもぐと食べている姿が目に入った。
「おはよう、羊さん。せっかくだし、何か名前をつけないとな……」
羊はフワフワとした白い毛に覆われ、首には小さな鈴が下がっている。人懐っこい瞳で俺を見つめていた。
「うーん、『ベル』でいいか?鈴もついてるし」
納屋から道具を持ち出し、恐る恐るベルのブラッシングを始めた。予想以上に羊の毛は密集していて、絡まりやすそうだ。
「こんな感じでいいのかな……」
初めての経験に戸惑いながらも、丁寧にブラシを動かす。すると、ベルは気持ちよさそうに目を細め、じっとされるがままになっていた。
「へえ、意外と素直だな」
そのとき——
「ドン、ドン」
遠くから重い足音が聞こえてきた。鋭い動物的直感が警告を発する。
「何だ?」
森の方を見ると、巨大な人型の生物が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。身長は3メートルはあろうかという大男。青緑色の皮膚に、一本の角が額から突き出ている。
「あれは……オーガ?」
ファンタジー作品でよく見る魔物だ。しかもどう見ても危険なやつじゃないか。慌てて逃げようとした次の瞬間——
「メェェェ!!」
ベルが異様な声で鳴いた。
「え?」
信じられない光景が俺の目の前で展開された。おとなしかったはずのベルの体から青白い電光が走り、轟音とともに巨大な雷撃がオーガに直撃した。
「バキィィン!!」
一瞬で周囲が明るく照らされ、オーガは黒焦げになって倒れた。
「……え?」
何が起きたのか理解できない。さっきまでおとなしく草を食べていた羊が、強大な雷を放ったのだ。
ベルはケロッとした表情で、また草を食べ始めた。まるで何事もなかったかのように。
「お、おい、ベル……君、すごい力持ってるんだな……」
まさか雷を放つ羊だったなんて…。これは予想外の展開だった。
「異世界に召喚されて牧場経営をすることになるなんて予想外だったけど……ただの羊だと思っていたベルまでこんな力を持っているなんて。やっぱりここは異世界なんだな……」
牧場の柵に寄りかかりながら、俺は呆然と呟いた。
「これからどうなるんだろう……」
遠くの空を見上げると、何かの影が飛んでいくのが見えた。まるで……ドラゴンのような。
そして俺の牧場経営は、こうして始まったのだった。