「龍信、貴様は今日限りで解雇だ。この屋敷から出ていけ」
部屋の中に入るなり、次期当主にそう告げられた俺こと
なぜなら、先ほどの夕飯に自分だけの食事が用意されていなかったのだ。
この
しかし食客に対して、何の理由もなく解雇はあり得なかった。
俺は解雇になるようなことなどまったくしていないのだ。
なので俺は目の前の恰幅の良い髭面の男――今日1日の当主とご子息の葬儀を取り仕切った
「笑山さま、ぜひとも理由をお聞かせください。何の理由も説明もなく解雇で追放とは、次期当主としてあまりにも理不尽が過ぎます」
現在、俺はこの屋敷の当主の部屋にいる。
そして目の前の椅子に座っている150斤(約90キロ)はある笑山は、ご子息と一緒に事故で突如として亡くなった当主の弟だ。
「理由だと?」
ふん、と笑山は忌々しそうに鼻で笑った。
「当主であった兄上とともに、息子の
笑山は微妙に息を切らせながら言葉を続ける。
俺は用済みという言葉に対して怒りを覚えた。
同時に腰帯に差していた長剣の柄に手を掛けようとしたが、こんなところで抜くわけにはいかないと堪える。
代わりに両手の指を胸の前で組み合わせる敬礼――
「お言葉ですが、笑山さま。確かに俺……いえ、私は憂炎ぼっちゃんの武術教師を任されておりました。しかし、当主である仁翔さまにはこうも言っていただいておりました。もしも憂炎ぼっちゃんがこの屋敷から巣立った場合や、万が一にも憂炎ぼっちゃんの身に何かあった場合にも、そのままこの屋敷に家守の1人として住んでも良いと」
嘘偽りのない事実だった。
それほど当主の
だが、笑山にはそんなことなど関係なかったのだろう。
「黙れ! 屋敷から追い出されたくないからと言って嘘をつくな!」
笑山は聞く耳を持たないと言った態度を取る。
「嘘ではありません。何でしたら兼民さんにお聞きください。仁翔さまにそう言われたとき、兼民さんも隣に居合わせておりましたので」
兼民さんはこの屋敷の家令であり、どこの馬の骨か分からない自分にも良くしてくれた一角の人物だった。
「そんなことはもうできん。兼民はお前よりも一足早く解雇にしたからな。そして解雇にしたのは兼民だけではない。雷公や白騎、小鈴なども揃って解雇にしたわ」
「え!」
この告白には俺も驚愕した。
雷公さんは凄腕の料理長であり、白騎さんは槍の達人である警備隊長。
そして小鈴さんは憂炎ぼっちゃんの乳母だった。
つまり、仁翔さまから全幅の信頼を置かれていた人たちに他ならない。
その4人をよりにもよって、仁翔さまと憂炎ぼっちゃんの葬儀が終わった直後に解雇にしたという。
どうしてそんなことを?
などと思ったのは一瞬だ。
俺はすぐにピンときた。
「まさか、あなたはその4人から次期当主に反対されると思って先手を打ったのですか?」
笑山は図星だとばかりに顔を歪めた。
この屋敷にはいなかったとはいえ、笑山の悪名はそれとなく伝わっている。
清廉潔白を絵に描いたような仁翔さまとは違い、笑山はわざわざ王都の花街に行くほどの色狂いだという。
「そ、そんなことはお前にはもう関係ないだろ!」
顔を真っ赤にさせた笑山は、唾を吐き飛ばしながら怒声を上げる。
それだけではない。
笑山はここぞとばかりに俺に人差し指を突きつけた。
「それに聞いたところによると、お前は自分のことを
これはどういうことだ、と笑山は言葉で詰め寄ってくる。
それは大きな街には必ず1つはある、妖魔討伐や薬草採取を生業とする道士たちの仕事斡旋所だ。
貿易も仕事の内だった仁翔さまによると、西方の国々では道家行のことを冒険者ギルド、道士のことを冒険者と呼んでいるらしい。
それはさておき。
「一体、お前は何者なんだ!」
笑山の問いに、俺は「分かりません」と正直に答えた。
「分からないだと?」
「はい、分かりません。今の私は自分の龍信という名前と、道士ということ以外の記憶がないからです。そして道家行には、道士の資格である
しかし、と俺は言葉を続けた。
「いくら資格があろうとなかろうと、自分が記憶を失った以前から道士だったということは分かるのです。信じてもらえないかもしれませんが……」
「信じられるか!」
すぐに笑山は言葉を返してきた。
「自分の名前と道士ということ以外の記憶がないだと? だったら、なおさらこの屋敷に置いておくにはいかん」
「ですが、当主の仁翔さまはそれでも屋敷にいて良いとおっしゃって下さいました」
「もう屋敷の当主はこのワシだ! 兄上がお前に言ったことなど知らんわ!」
そう言うと笑山は、テーブルの上に置かれていた花瓶を手に取った。
それだけではない。
何と笑山は俺に向かって花瓶を投げつけてきたのだ。
瞬間、俺は両目に意識を集中させた。
すると花瓶は非常にゆっくりとした動きで俺の額へと飛んでくる。
実際は普通の速度で飛んできたのだが、両目に意識を集中させた俺の目には花瓶がゆるやかに飛んでくるように見えたのだ。
このまま花瓶ごと笑山を斬り捨ててしまおうか。
花瓶がゆるやかに飛んでくるように見える中、俺は自分の目の前にもう1人の自分を想像した。
そのもう1人の自分に腰帯に差してある長剣を抜かせ、空中にあった花瓶を真下から抜き打ちの要領で一刀両断させる。
当然ながら、それだけでは終わらない。
俺はもう1人の自分を意識で動かし、椅子にふんぞり返っている笑山の首を一刀の元に刎ね飛ばしたのだ。
と同時に、俺の額に花瓶が当たった。
そのまま花瓶は床に落ち、パリンという音とともに床に欠片が散らばる。
「何が道士だ! 素人のわしが投げた花瓶すら避けられない無能者が!」
つう、と俺の額からあご先に向けて血が流れ落ちる。
本当は花瓶を避けるなど目を閉じていても可能だった。
それどころか、俺はやろうと思えば花瓶と笑山を斬れたのだ。
実際、俺はやろうと思えばできたことを念として飛ばした。
しかし、俺は笑山どころか花瓶すらも斬らなかった。
こいつの汚い血で仁翔さまの部屋を汚すわけにはいかないからな。
もう仁翔さまはいなくなってしまったとはいえ、この当主の部屋は俺にとっても思い出が深い場所だ。
その思い出の場所を〝色狂いの豚〟の血で汚すくらいなら、花瓶をぶつけられて悪態を吐かれることなど何でもない。
そう俺が思っていると、笑山はテーブルの上をバンッと叩く。
「いいからお前のような口先だけの無駄飯食らいはさっさとこの屋敷から出ていけ! これは現当主である孫笑山の命令だ! もしも駄々をこねるのなら、役人に知らせることになるぞ!」
これ以上の会話は無用とばかりに笑山は手首を振る。
さっさと出て行けという意味なのだろう。
俺は仁翔さまと憂炎ぼっちゃんの顔を思い浮かべた。
同時に盗賊団から2人を助けた数年前のことも思い出す。
数年前、俺はふと気づくと街道近くの森の中で目を覚ました。
このときのことは今でも鮮明に覚えている。
自分の名前と道士ということ以外の記憶がまったく無かったのだ。
それこそ自分がどこの生まれで、なぜ記憶を失っているのかはさっぱりだった。
そのときの身なりはきちんとしていたし、腰帯には1振りの長剣が握られていたことから物乞いの類であることは絶対になかった。
そして森の中を当てもなくさまよっていたとき、盗賊団に襲われている馬車を見つけた。
立派な馬車だったので盗賊団に目を付けられたのだろう。
俺は馬車を守っていた護衛の人間が逃げ去るのを見たとき、鞘から剣を抜き放って一目散に馬車へと駆け出した。
あとは肉体に刻まれていた武術の技を以て、10人以上いた盗賊団を根こそぎ斬り捨てていった。
すると頭目と思しき屈強で長身の男は、部下が根こそぎ俺に斬り捨てられたのを見て明らかに驚愕した。
そんな頭目の男は「このガキ、何者だ!」と尋ねてきたので、俺は「龍信だ」とだけ名乗って頭目の男の上半身を袈裟斬りにして勝利したのである。
やがて俺は馬車に乗っていた仁翔さまと憂炎ぼっちゃんに感謝され、孫家の食客として屋敷へと招かれた。
しばらくすると俺は憂炎ぼっちゃんの武術教師も任されたばかりか、仁翔さまから家族の証として「孫」の名字もいただいたのだ。
嬉しかった。
本当に心の底から嬉しかった。
このときから俺は仁翔さまのために生きようと決心したのだ。
記憶を無くしていようが関係ない。
仁翔さまのため、そして仁翔さまが愛する憂炎ぼっちゃんのために生きれるのなら記憶を取り戻す必要などないと思ったほどだった。
だが、その2人はもうこの世にはいない。
俺は先ほど笑山に家守として屋敷に置いてくれと言ったものの、仁翔さまと憂炎ぼっちゃんのいない屋敷の家守に価値なんてあるのだろうか。
冷静になった俺は、自分の進むべき道を決めた。
「分かりました。荷物をまとめてすぐに出て行きます」
俺は一応、笑山に頭を下げる。
「言っておくが、お前の退職金などビタ一文たりとも出さんからな」
「要りません」
アンタからの金は特にな、と俺は心中で思いながら振り返った。
そのまま出入口の扉へと歩いていく。
「とっとと出ていけ。この無能者の野良犬風情が……いや、もう野良犬ではなくて野良道士か。がはははははは」
俺の背後からは笑山の下卑た笑い声がいつまでも響いていた。