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第五十九話  太上老君

 私は不思議な感覚に支配されていた。


 天上へと昇っているような、もしくは地底へと落下しているような、あるいはそのどちらでもないような上手く言葉に表せない感覚である。


 だが、その中でも明確に分かっていることがあった。


 それは自分の肉体の自由が利かないということだ。


 特に両足にはまったく力が入らず、立つという行為そのものが出来ない。


 それでいて、どこかに肉体ごと流されていることだけは感じられた。


 私はどこに向かっているの?


 やがて一瞬とも永遠とも言えるような時が過ぎ去ると、私の両足に確かな感触が戻ってきた。


 同時に視界が徐々に鮮明になっていく。


「…………え?」


 完全に目の前の光景が視認できたとき、私は思わず頓狂な声を発した。


 眼前に広がっているのは、翡翠館の大広間ではなかった。


 完全にどこかも分からない屋外だったのである。


 しかもいつの間にか夜の帳が下りており、夜空には煌々と大地を照らす満月が浮かんでいた。


「一体、ここは……」


 狐につままれたような顔をした私は、それでも必死に状況を飲み込もうと周囲を見渡す。


 どうやら自分は森の中の大きく開けた場所にいるようだった。


 大気には木々から醸し出された濃密な〝生〟の匂いが充満している。


 そして、その森を構成していたのは見事なまでの桃の木々だ。


 桃の木々から舞い落ちる薄桃色の花片が、心地よい微風に乗って夜空へと流れ飛んでいく。


 私はごくりと生唾を飲み込んだ。


 なぜ、このような場所にいるのかは皆目見当もつかない。


 だが、その中でも私はふと思う。


 まるで剣術の師匠から聞いたことのある異国の桃源郷だ、と。


 私はしばらく青白い月光をその身に受け、夜闇に映え踊っていた桃の花の花びらを眺めていた。


 どのぐらい経ったときだろうか。


「そろそろ気づいて欲しいのだがな」


 不意に私の耳に男の声が聞こえてきた。


 私はビクッと全身を震わせ、慌てて身体ごと振り向く。


 後方にそびえ立っていたのは、他よりひときわ目立つ巨大な桃の木だ。


 その桃の木に深々と背中を預けていた男がいた。


 20代半ばほどの年若い男である。


 女のような柳眉に桃色の唇。


 尖ったあごに向けて、頬は滑らかな曲線を描いている。


 老若男女を関係なく魅了するような、完璧な造形美を持つ男であった。


 それだけではない。


 男は女が羨むほどの流麗な黒髪を背中まで伸ばしていた。


 そして着ていたのは、黒と赤を基調とした華秦国の衣服だ。


 袖と裾が広がってゆったりとしている。


 確かこの国では深衣と呼ばれる衣服だったと記憶している。


 そんな深衣の男は右手に持っていた徳利の中身を、左手に持っていた朱色の盃に注いだ。


 おそらく、徳利の中身は酒だろう。


 深衣の男は1口分だけ酒を飲むと、じっと私の顔を見つめてくる。


 ゾクッと背筋に悪寒が走った。


 深衣の男の黒瞳は、人間の目とは思えない異様な光を放っている。


 やがて深衣の男は呟いた。


「アリシア・ルーデンベルク……ふむ、西方の国で勇者と呼ばれていた女傑か。討ち損じた魔王を追って異国まで来るその心意気は称賛に値する」


 妖艶な笑みを浮かべた深衣の男は、ぐいっと盃の中身を飲み干していく。


 私は眉間に深くしわを寄せた。


 この人は私のことを知っている?


 いや、違う。


 今、私のことを知ったのだ。


 間違いない。


 深衣の男は私の名前ばかりか、この華秦国に来てから龍信と春花にしか話していない私が勇者だったことも口にしたのである。


 どういうわけか、この深衣の男の前では声に出さずとも個人の情報を読み取られてしまうらしい。


 読心術などという児戯では説明がつかないことだ。


 もしかすると、深衣の男は人間ではないのかもしれない。


 場所も場所だ。


 ここは妖魔を中心にした魑魅魍魎が住まう恐ろしい場所であり、深衣の男は人間の見た目をしているだけの妖魔という可能性もある。


 などと考えた直後、私は右半身になって腰を落とした。


 相手が妖魔だとしたら油断などできない。


 せめて長剣を抜いて臨戦態勢を整える必要がある。


 と、思ったとき――。


 そこでようやく私は、長剣を携えていないことに気がついた。


「ここには現世から武器は持ち込めんよ。それに我は妖魔などという下等な存在ではない。元々はそなたと同じ人間だ……まあ、数千年前のことだがな」


 やはり、この男は妖魔だ。


 適当な嘘を並べて私の油断を誘おうとしている。


「残念ながら、そんなことをする意味も理由も我にはまったくない。そもそも、今のそなたは生きた肉体から魂だけが抜けている生魂の状態だ。そんな状態の人間には、この神仙界に住まう者は殺すどころか傷をつけることも不可能」


 私は深衣の男のある言葉を聞いてハッとした。


「神仙界……」


 私の記憶が正しければ、仙人になるために龍信が修行していたという場所が神仙界だったはず。


 そうだ、と深衣の男は答える。


「ここはかつて龍信が修行していた神仙界だ。そしてこの神仙界は現世と冥府の狭間にある、三次元空間とは隔絶された虚数空間にある世界でもある」


 頭上に疑問符を浮かべた私に対して、深衣の男は「そう難しく考えるな」と言葉を続ける。


「要するにこの神仙界という場所は、実際に存在しているとも存在していないとも呼べる不干渉領域の1つ。ゆえにこの神仙界にいる間は年を取らない。時間という概念からも隔絶しているからな……まあ、それでも分からなければ単純に異世界とだけ認識しておけばいい」


 一拍の間を空けたあと、私はおそるおそる深衣の男に尋ねた。


「あ、あなたは一体誰ですか?」


「我の名は太上老君たいじょうろうくん


 太上老君と名乗った深衣の男は、空になった盃に酒を注いでいく。


「この神仙界を統べる仙人たちの長であり、そなたのような〈宝貝〉の実を食せる資格を持った者を導く存在」


 そして、と太上老君という男は微笑を浮かべた。


「そなたもよく知る龍信に、武術と精気練武を授けた師匠でもある」


 太上老君。


 この不思議な名前は聞いたことがあった。


 以前に中農の飲食店で今後について話し合っていたときに、龍信の口から出てきた名前だと記憶している。


 確か自分の武術と精気練武の師匠だと龍信は誇らしげに言っていた。


「ほ、本当に龍信のお師匠さまですか?」


 武術と精気練武の師匠と言うのだから、てっきり私は高齢の老人だと勝手に想像していた。


 だが、太上老君さんは私たちとあまり変わらない年齢に見える。


 それに正直なところ、あまり強そうには見えない。


 本当に龍信の武術と精気練武の師匠なのだろうか。


 いかにも、と太上老君さんはぐいっと酒を飲み干した。


「……とはいえ、力を見ていないのに信用などできぬか」


 直後、太上老君さんは右手に持っていた徳利を地面に置いた。


 同時に太上老君さんの全身から凄まじい圧力を感じた。


 それだけではない。


 太上老君さんの下丹田の位置に、太陽の光かと錯覚するほどの強力かつ神々しい黄金色の光球が出現する。


 その光球からは凄まじい量の黄金色の燐光が噴出し、黄金色の燐光は小型の竜巻を彷彿させるように太上老君さんの全身を覆い尽くしていく。


 精気練武の1つ――〈周天〉だ。


 それも私の〈周天〉とは文字通り桁が違うほどの力を感じた。


「よく見るがいい、異国の娘よ」


 次の瞬間、太上老君さんは空になった盃を天高く放り投げた。

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