八月も半ばを過ぎた頃、決戦の準備が整ったとの知らせを受けて、華実はまとめてあった荷物を手に部屋を出た。
もともと母親には近いうちに友達とキャンプに行くと伝えていたのだが、この日の彼女は妙に落ち着かない様子で心配そうに華実に見つめていた。
念のために仲間と口裏を合わせて目的地も無難なところに設定していたが、どうにも信じていないようで、だからといってそれを口にするわけでもない。
戸惑いつつも、努めて軽い調子で華実は話しかけた。
「大丈夫よ。山の中とは言っても、熊みたいな怖い生き物はいないし」
母はうなずいて笑おうとしたようだが、上手く行かなかったようで、視線を逸らしつつ躊躇いがちに訊いてきた。
「帰ってくるんだよね?」
消え入りそうな言葉に、わずかに息を呑んだ後、華実は誤魔化すように笑った。
「あ、当たり前でしょ。わたしは……」
「あたしには分からない。何が起きているのか……あんたがどこから来て、どこへ行こうとしているのか……」
今度こそ華実は大きく息を呑んで立ち尽くした。
だが、不思議と得心している。いくら実の娘の身体を持っているとはいっても、今の華実と彼女の娘は真逆と言っていいくらい違う性格をしているのだ。
なるべくならと演技もしてきたが、やはり肉親の目は誤魔化せなかったらしい。
「あたしはおかしなことを言ってるのかな?」
どこかすがるような眼差しで母は言った。
頷いて笑い飛ばしてあげれば、あるいはそれで安心してくれるのかもしれない。
そう思いつつも、華実は落ち着いた声音で否定していた。
「いいえ」
それを聞いて母はやるせなく笑ったが、ショックを受けた様子はない。
「最初はさ……化けの皮を剥いでやるつもりだったんだ」
過ぎ去った日々を思い返すかのように視線を宙に彷徨わせる。
「だけど、あんたは不器用で……あの娘のフリをしようとしてるのに、あたしが風邪をひいたら、あの娘のようには、ほっとけずに、親身になって看病してくれてさ……」
身に覚えのある話だ。本物の華実は心配していないわけではなかったが、そういう時にどうして良いか判らず、結果としてなにもしないことが多かった。
もちろん華実も、それを真似ようとはしたが、どうにも気になってしまって看病せざるを得なかった。
「さすがにあたしなんかでも気づいちまうさ。あんたが、やさしい娘だってことには」
返す言葉を見つけられず、それでも視線は逸らさずに黙って母を見つめる。
彼女の実の娘を殺めたのは、他ならぬ、ここにいる華実だ。
だが、その事実だけを突きつけるのは、むしろ不誠実で、だからといってすべてを語って聞かせたところで救いはない。
静かに佇む華実の前で、何度も躊躇った末に母は視線を逸らしたまま問いかけてくる。
「あの娘は死んだのかい?」
予想していた言葉だった。おそらくはずっと確かめたかったことなのだろう。
考えてみれば、たとえ疑念を抱いたとしても、一般人には今の華実と、かつての華実を見分けるすべはない。最初から疑っていたのは事実だとしても、同時に「何度もそんなはずはない」と自分の考えを打ち消していたのだろう。
それでも覚悟を決めて出かけようとする華実の姿を見て、確かめずにはいられなかったのだろう。
意を決してということのほどでもない。華実は自然体のまま静かに告げる。
「あの娘の最期に、わたしは少なからず責任があります」
娘の死を肯定する言葉に、母はうつむき瞼を閉じた。
「ですが、わたしには彼女の死に対して償うすべがあるとは思えません。彼女の人生に酬いることさえできないでしょう」
悲しく認めながら、それでも華実は揺るぎない決意を口にした。
「それでも、あの娘が信じた未来だけは、必ず形にしてみせます」
他ならぬ本物の華実が認めてくれたのだ。
今の華実こそが、彼女が望んだ正義の味方なのだと。
ならば彼女が闇に叩きつけた言葉通りに、この手で決着をつけるしかない。セレナイトを止めて、この世界を守り抜く。生まれて初めて得た、愛すべき仲間たちとともに。
おずおずと顔を上げた母に向かって、華実は明るい笑みを向けると普段の口調に戻って告げた。
「ぜんぶ終わらせてくるわ」
華実がなにをしようとしているのかなど、母にはきっと見当もつかないだろう。それでも人が死んでいるとなれば、戦いに赴こうとしていることくらいは理解していたかもしれない。
ひどく心配するような顔で口を開く。
「帰ってくるよね?」
「……え?」
思いも寄らぬ言葉に華実は戸惑った。
「ここに帰ってきてくれるよね?」
「でも、わたしは……」
今さら戦いで命を投げ捨てるつもりはない。それでも自分はニセモノで、ずっと母を騙していたのだ。
「ごめんよ、無遠慮にあんたの傷にふれて……」
目を伏せて母が項垂れる。
「でも、これ以上はなにも訊かないからさ。帰っておいでよ……他に行くところがないなら……だけど……」
未来に怯える母の姿を華実は静かに見つめた。
母が孤独な人であることは知っている。資産家の娘だが人づきあいが苦手で、若い頃に、つまらない男に引っかかって未婚のまま華実を生んだ。以来パートタイムの仕事に出てはいるが交友関係は狭く、たまに遠出するとしても親戚筋の寄り合いくらいだ。
だからといって実の娘を手にかけた自分にここにいる資格があるのだろうか。
(資格なんてあるはずがない……)
やるせなく認めた。祈るように天を仰ぎ、大きく息を吸うと、その上で答えを返す。
「大げさなのよ、母さんは。当たり前だって最初に言ったでしょ? わたしが帰れるところは、ここしかないんだから」
華実の言葉を聞いて、母は泣きそうな笑みで答えた。
「ありがとう。待ってるからね」
「ええ。お土産を買ってくるわね」
努めて軽く告げると、落ち着いた足取りで玄関に向かった。
そこには朝の光が差し込み、今は眩しいくらいだ。あの日以来、この場所から何度となく出入りしたはずなのに、この日はどこか特別な場所であるかのような気がする。履き慣れた靴に足を通して、見送りについてきた母に振り向くと笑顔で告げた。
「行ってきます」
「うん、気をつけてね」
「はい」
返事をしてドアを開くと、陽射しの中へと踏み出した。
いつもどおりに小さな車庫から自転車を引っ張り出すと、サドルに跨がろうとしたところで、電柱の陰に見覚えのある姿を見つける。
本物の華実の恋人だった笹木和人が、冴えない表情で、じっとこちらを見つめていた。
ひとまず自転車を押して近づくと、ますます困った顔になりつつも、無視することなく口を開く。
「この前はごめん」
「あなたの方があやまるの?」
正直、恨まれる覚えしかない。
「あの時は頭の中がゴチャゴチャで……いや、今もゴチャゴチャだけど、それでもあいつはあんたに礼を言ってたんだ。だから、僕のこの気持ちが逆恨みだってことくらいは判る」
つまり、まだ憎しみは消せないのだろう。
「いいわよ。憎んでくれて。逆恨みとも思えないし」
和人はこれには答えず、黒い布にくるまれている華実の荷物に目をやって訊いてくる。
「またなにかと戦うのか?」
「ええ、すべてに決着をつけてくるわ」
「決戦ってわけか……」
「そうね」
答えてから、なんとなく空を見上げるが、そこに月は浮かんでいなかった。
頭を振って気を取り直すと、華実はサドルに跨がってペダルに足を乗せる。
「それじゃあ」
「怪我とか……するなよな」
そっぽを向いたままの和人に言われて、華実はキョトンとした顔になった。
「ああ、あの娘の身体だものね」
自分の白い腕に目を落として得心する。
「そ、そういう意味じゃなくてさ……」
焦る和人を見て微笑むと華実はやさしく告げる。
「ありがとう。いつまでも元気でね」
それだけ告げて勢いよく自転車を走らせる。
「ま、待てよ! それだと永遠のお別れみたいだろ!?」
慌てた声が聞こえていたが、華実は構わずペダルを漕ぎ続けた。
もちろん、生きて帰れたなら、また顔を合わせることもあるだろう。しかし、華実にとって、それは事実上の別れの言葉だった。
彼への恋心は華実の中で今も燻っていたが、それは元の華実の想いの残滓だ。
身体を奪い、居場所を奪い、未来まで奪ってしまった華実だが、彼女の恋だけは絶対に奪ってはならない。だからこれは、そのためのケジメだった。