華実が姿の見えない真夏を捜して浜辺を歩き回っていると、小高い岩壁の上から他ならぬ彼女に名前を呼ばれた。
常人なら上るのに一苦労の高さだったが、ここでは人目を気にする必要もなく、魔力で強化した身体機能を使って軽快に駆け上がる。
真夏はそこの岩の上に腰掛けて浜辺で上がる花火を見物しているようだった。
「特等席ってところかしら?」
笑みを浮かべて問いかけると、真夏は曖昧に笑った。
「隣、いいかしら?」
「もちろん」
今度はハッキリとうなずいて、真夏は華実のために、やや腰をずらした。遠慮なくそこに座ると、彼女の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。海で泳いだあとテントに仮設されたシャワーで身体を洗ったが、その匂いは石けんやシャンプーのものではなさそうだった。
不思議に思って横顔を盗み見ると。ゆるやかな風が彼女の髪を軽く膨らませる。どこか遠くを見つめる藍色の瞳は星のように輝き、華実はしばらくの間、その横顔に見とれていた。
浜辺で新しい花火が打ち上げられ、華実はようやくハッとして視線をそちらに戻す。
真夏はずっと微笑んでいるが、めずらしくなにも話しかけてこない。
邪魔なのだろうかと、やや不安になるが拒絶されているわけでもなさそうだ。
話題を探して頭を悩ませた華実は、ふと気がつく。
(わたしはまだ、彼女のことをろくに知らないんだ)
出会ってから一月足らずなのだから当然だが、その間に真夏の存在は華実の中で、どんどん大きくなっていった。
(彼女と出会わなければ、なにも始まらなかった)
地球防衛部の存在を知ることなく虚しい戦いを続けて、最悪の場合はレジナルドに囚われて、インベーダーのサンプルとして扱われていたかもしれない。
しかし、事実として真夏は華実の前に現れた。その出会いは劇的というほどのこともなく、むしろ何気ないものだったが、その時から華実はもう真夏に守られていた気がする。
彼女に導かれ、守られ、さらには剣術の指導を受けて、それがあったからこそダリアとの戦いで勝利を収めることができた。
そして今、神隠しの元凶と、ついに決戦の時を迎えようとしている。華実にとって、それは悲願だったが、真夏にとってこの戦いにどんな意味があるのだろうか。
彼女は見返りも求めず、当たり前のように千里を助け、華実を助け、希枝を助けてくれた。
人が善行をなすことに理由を求めるのは、賢しいふりをした愚者の行いであるように思えるが、それでもなにが真夏を駆り立てているのか、それが知りたくて華実は口を開く。
「ねえ、真夏」
「うん?」
「あなたは、なんのために戦っているの?」
この問いかけに真夏は微笑を浮かべたまま、しばらくの間無言だった。
マズイことを訊いたのだろうかと、華実がやや不安に思い始めたところで、彼女は口を開いて穏やかに問い返してきた。
「華実は、この世で一番美しいものを知ってるかしら?」
「一番美しいもの……?」
真夏の横顔を見つめながら、しばし考えた華実は「それはあなたじゃないかしら」などという返答を思いついて思わず赤面して頭を抱えた。
(自分で泥沼にはまってどうするのよ!)
バカげた答えを思い浮かべた自分に心の中で抗議する。それでも華実が目の前の少女を美しいと感じるのは事実だった。容姿はもちろん、内面的なものも含めて。
(いやいや、わたしにそっちのケはないから)
ぶんぶんと大きく頭を振って、頭に浮かんだ答えを追い払う。
その仕草がおかしかったのだろう。気がつけば真夏は横目でこちらを見て、クスクスと笑っていた。
「い、いや、ごめんなさい。ろくな答えが浮かばなくて……」
華実が申し訳なさそうに告げると、真夏は笑顔のまま首を左右に振る。気にするなということだろう。そして、その瞳を夜空に向けると、そこになにかを想い描くかのように見つめた。
「前に涼香が言っていたのよ。どんな綺麗な景色も黄金も、誰かのためになにかをしてくれるわけじゃないって」
その名前の主は、もちろん華実も知っている。真夏がかつて恋人と呼んで憚らなかった少女の名前だ。
「だからあの娘は、利害得失なんて考えることなく、誰かを助けることができる人こそが、本当に美しいものだって言ってたわ」
涼香の思い出を語る真夏の横顔は、とても愛おしげだった。
華実は漠然と感じる。自分は、その少女――涼香には敵わないと。真夏の愛も情熱も、今は亡きその少女にこそ向けられているのだ。それは彼女が過去に囚われているという証明と言えるだろうか。
おそらくは否だろう。現に彼女は自分の意思で、こうしてここにいる。
そもそもが心を過去に置き去りにしたままなら、こうも積極的に華実を助けたりしなかったはずだ。
(この娘は過去と共に歩んでいる)
喜びも、安らぎも、幸せも、悔いも、痛みも、悲しみも、彼女たちと出会って培ったものはすべて放り出すことなく背負ってきたのだ。
忘れてしまえばいい。大切なのは未来だ。手放せば、きっと楽になる。普通の人間ならば誰しも、そう考えるだろう。
だけど、彼女はそうしない。
過去から逃げることも、
(そうか……この娘は逃げない人なんだ……)
それは戦いの強さが役に立たない領域での話だ。残酷な運命に傷つき、打ちのめされても、なにひとつ放棄することなく立ち向かい続ける。
きっと涼香という少女は、それを知っていたのだろう。彼女が真夏に語った美しいものとは、真夏本人のことに他ならない。
華実は軽い自己嫌悪を感じて息を吐いた。
「わたしはずっと逃げてばかりだったわ」
この世界に来る前、まだディストピアの科学者だった頃を思い浮かべる。
「行き詰まった人間の世界に息苦しさを感じ、生きることにも背を向けてセレナイトを造ってしまった」
その結果が、今のこの状況を招いてしまった。
「この世界に来て、戦いを始めたのだって、自分の罪から逃げるため。おまけにわたしはすべてに決着をつけたら、もう一度生きることから逃げるつもりだった」
自分の死が誰かの痛みになることを知ることで、ようやくその妄執から逃れることができたが、それも真夏と出会ったお陰だ。
真夏はうつむく華実に微笑みかけると、そっと手を伸ばして髪にふれてきた。そのままやさしい手つきで華実の頭を撫で始める。
心地良さに目を細めて身体の力を抜くと、華実は甘えるように真夏にもたれかかった。彼女は何も言わずに、頭を撫で続けてくれる。
ゆるやかな風が頬をくすぐる中、浜辺では次の花火が打ち上げられ、人々の歓声がここまで響いてきた。
(わたしはたぶん、幸せ者だ)
ぼんやりと華実は思う。
自らの愚かさもあって運命に翻弄されて、地獄を見てきたつもりだったが、今はこんなにも満たされて安らいでいる。
こんな気持ちを真夏にも知って欲しい。いや、おそらくは知っているはずだ。
しかし、彼女はそれを一年前の事件で失ってしまった。それをもう一度与えることはできるのだろうか。自分たちで与えてあげることは可能なのだろうか。
考えたところで、ここで答えは出せなかったが、それでも気づいたことがある。
(わたしはまた逃げようとしていた)
『涼香には勝てない』
そう決めつけて立ち向かうことを最初から放棄しようとしていた。
(たとえ勝てなくても、立ち向かうことはできるはず)
真夏が好きならば、真夏の心を満たしたいのならば、そうするのが当然だった。
その想いに辿り着いたところで、静かに認め、受け入れる。
(わたしは真夏に恋をしている)
あるいはそれは、ごく普遍的な恋愛感情とは異なるものかもしれないが、他に当てはめられる言葉は見当たらない。
彼女の肩にもたれたまま、そっと囁く。
「ねえ、真夏……」
「なぁに、華実?」
微笑みながら小首を傾げる真夏。
わずかに頬を朱に染めながら、華実はその想いを言葉にした。
「わたしがいつか、あなたを幸せにしてあげる」
唐突な言葉に真夏は少しだけ驚いたようだった。頭を撫でていた手を止めて、不思議そうに華実の顔を覗き込んでいる。華実がさらに顔を赤くして逃げるように視線を逸らすと、クスリと笑ったのが気配で伝わってきた。
「ありがとう、華実。でも、わたしは今でも、じゅうぶんに幸せよ。華実がいて、千里がいて、幸美がいて……みんながいてくれる。大好きな人たちに囲まれて生きてるんだから、こんなに幸せなことはないわ」
おそらく、その言葉に嘘はないのだろう。
しかしそれは、わざわざ現状を分析して導き出した答えだ。華実が与えたいのは、そんな理屈を必要としないほどの幸せだ。
自分にできるかどうか自信はない。それでも華実は、もう一度彼女にそれを取り戻して欲しかった。
見上げれば欠けた月が夜空に浮かんでいる。これから始まるセレナイトとの決戦。
最低でもそれに勝たなければ真夏のためになにをすることもできない。
「帰ったら町を案内してあげるわ」
ポツリと華実がつぶやく。
「小さな町だけど、良いところはたくさんあるから」
「うん、楽しみにしてるわ」
そう言って真夏はまた華実の頭を撫でてくれた。
次の戦いで決着をつけ、みんなで必ず生きて帰る。華実はその決意を深く胸に刻んだ。