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第103話 太陽を追う少女

「ただ今、母さん」


 華実が何事もなかったかのように自宅に入ると、母は最初、幽霊でも見たかのような顔で立ち尽くした。


「疲れたから、夜まで寝るわ。晩ご飯の時間になったら起こして」


 一方的に告げて二階に上がろうとすると、母は歩み寄って華実を抱きしめ――ることなく、ニオイを嗅いだ。

「あんた、先にシャワーを浴びなさい。汗くさいわよ」


 指摘されて赤面する。

 汗と泥にまみれて戦ったのだから、それは嫌なニオイの一つもするだろう。

 華実が慌ててバスルームに向かうと、後ろから母の声が聞こえてくる。


「バスタオルと着替えは出しとくから、着てるものはぜんぶ洗濯機に放り込んでおきなさい」

「はーい」


 答えて、衣類を全部、洗濯機に投げ込むと扉を開けてバスルームに入った。

 外からは母が洗濯機を操作する音。そしてなにやら楽しげな鼻歌が聞こえてくる。

 少なくとも迷惑がられている様子はない。

 いや、歓迎されているのだと素直に信じるべきだろう。

 コックを捻って熱いシャワーを頭から浴びる。生き返るような気持ちとは、きっとこのことだ。

 そのまま身体を洗いながら、ついさっきまで一緒にいた真夏のことを思い出す。

 妖しい笑みで「今夜は寝かさないわ」などと言いだしたので逃げてきたのだが、あの蠱惑的な笑みは脳裏に焼きつけられて、しばらくは離れそうにもない。。

 それにしたって、あれだけのことがあった後だというのに、とことんマイペースな態度には呆れるのを通り越して感心する。いや、そこからさらに半周して、やはり呆れる思いだ。


(でも、もしあの時わたしがうなずいていたなら……)


 シャワーを止めて少しだけ、その先を想像した華実は真っ赤になって頭に浮かびかけた妄想を振り払った。

 バスルームを出て母が用意してくれた着替えを身につけると実にサッパリした気分になる。そのまま台所に行って冷蔵庫を開けると、中には華実が好きなジュースが入っていた。出がけには切れていたはずなので、留守中に母が買っておいてくれたのだろう。

 約束どおり帰ってきて本当に良かったと思う。

 疲れてはいたがリビングに移動して、ソファに座って昼ドラを見ている母の隣に腰を下ろした。


「疲れてるんじゃなかったのかい?」


 気遣うような母には視線を合わせにくく、前を向いたままで問いかける。


「ねえ、母さん。わたしには訊きたいことが、たくさんあると思うんだけど……」

「もういいよ。帰ってきてくれただけでじゅうぶんだ」


 嘘を吐いているようには見えなかったが、それでも華実は迷う。本当にこれで良かったのかと。

 真夏に訊けば、やはりあっさりと納得のいく答えを返してくれるだろうが、それはあまりにも情けない気がした。

 正しかろうが間違っていようが、自分の道は自分で選ばなければ、いつまで経っても彼女の背中に追いつけない。

 思い悩んだ末に、一言だけ母に伝えることに決めた。


「ぜんぶ、終わらせてきたから」

「そうかい」


 母の答えは短かったが、その声はとてもやさしい響きを持っていた。

 横目で見ると母は笑顔のまま目尻に涙を浮かべている。

 事件の詳細など知らずとも、それだけで伝わったのかもしれない。彼女の本当の娘ダリアを襲った悲劇が、綺麗に幕を下ろしたのだと。

 そのダリアが遺した言葉を思い出す。


「華実はあなたよ。ろくな人生は送ってなかったけど、その身体と一緒にみんなもらってくれると嬉しいわ」


 どんな想いでダリアがその言葉をくれたのかは分からない。

 赦しだったのか、諦観からこぼれ落ちただけなのか、あるいは真摯な願いだったのか。

 現在は自分の身体となった両の手の平をじっと見つめる。


(生きていこう。彼女がくれた、この身体とともに)


 それは罪を背負いながら生きていくといったような後ろ向きな気持ちではない。希望を胸に自分の未来を切り開こうとする若者らしい想いだった。

 悲壮な覚悟を胸に抱き月を追っていた少女はもういない。今の華実は眩いばかりの夏の太陽を追いかけていた。

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