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第22話 陰サンタの気持ち(渡辺目線)

 女性の泣き声というものは、できれば聞きたくない。

 現場で、報せで、取り調べで、何度も耳にしてきた。

 だがそれらは、俺が直接泣かせたわけじゃない。

 けれど――彼女の泣き声だけは、違った。


「……好きでした。すごく好きでした。失恋させてくれてありがとう。わたし、前を向きますから」


 スズランを抱きしめ、夜勤明けの空に向かってそう呟いた彼女。

 ちゃんと前を向くと言ってくれたことが、救いとなった。

 背中越しに見届けることしか出来ない。

 彼女にとって、それが一番だと思ったから。


 それで、よかったんだ。


 公安として、俺の任務は終わった。

 彼女を保護対象として引き上げ、証拠と証言を繋ぎ、『暁の朝』を崩した。

 それがすべてだ。

 私情を挟んだつもりはない。


 ⸻あの夜


『江藤さん、毛利帆奈の拳銃をすり替える時、寝言で“渡辺さん”と呼んでいました』


 報告を受けたとき、驚いた。

 だが感情を混ぜてはいけない。

 そう、心に言い聞かせた。

 俺が彼女の行動の一端にでも責任を負えば、組織として成立しなくなる。


 私情を挟まない。

 これがこの仕事。

 失敗すれば、俺や彼女の命だけではない。

 また、大勢の命が犠牲になるかもしれない。


 普通に接する、いつも通りーー。

 それが当たり前であり、スパイとしての彼女を監視することに徹した。

 言葉の意味を深く考えるわけにいかなかった。


 しかしーー。


『彼女、遊園地で渡辺さんを見たらしいです』


 石川がそんなことを言った。

 まるで、彼女の心の奥に、何かを残してしまったかのように。


『すごく会いたそうでしたよ』


 石川は、まっすぐな目をしていた。

 隠すような人間じゃない。

 彼なりに、俺に何かを託そうとしていたのかもしれない。


『俺は、会いたいと言われていない』


 事実だった。

 任務中に面会希望はあったが、直後に壊滅作戦が決まり、それどころではなくなった。

 その後、彼女から再度の希望はなかった。

 それなら、俺の出る幕じゃない。


 だがーー。


『陰のヒーローって、かっこいいですね。俺に勝ち目はないです』


 そう言った石川の顔が曇った。


『お前が光だろう。光として、あの子を支えてやればいい。俺は陰の仕事をするだけだ。あの子に必要なのは、お前という光だろう。あの子に必要な光の役目を果たしてやってくれ』


『‥‥だから、そういうところがかっこいいんですよ!』


『勝ち負けじゃない。光のお前だって、十分かっこいい。自分じゃ気づかないかもしれないがな』


 石川に納得した顔はなかった。

 その直後、弥生から『花を贈って』と提案された。


 2人からの気持ちがなかったら、贈ってなかったかもしれない。


『君の生まれてはじめてのサンタになれたでしょうか』


 一言だけ添えて、名前は伏せた。

 それでも彼女には届いたようだった。


 前を向いて、幸せになってくれ。

 君が俺を見るのは、間違ってる。

 それに気づいてくれたらいい。


 ⸻数年後。


 5歳の息子が駆け寄ってきた。


「お父さん! 香織かおりのおむつ替えたの!」


「やらなくていい。お父さんかお母さんに任せておきなさい」


 ひざまずいて髪を撫でると、誇らしげな瞳を向けてくる。


 目元は俺によく似ている。

 性格は、たぶん妻に似たのだろう。

 世話焼きで、人懐っこくて、誰かのために何かをしていたいと思う子だ。


「お父さん、またお仕事の時はおハガキくれる?」


「当たり前だ。会えない分、毎日送るよ」


 長い間、2人目の子どもに向き合う余裕がなかった。

 家庭と仕事のバランスをどう取ればいいか分からなくなっていた。

 でも、ハガキというコミュニケーションが、息子には喜びになったらしく、妻の願いを叶えることが出来た。



 スマホに通知が届いた。


『俺!結婚するんです! やっとです。やりました!』


 石川だった。

 私用で連絡してくるな、と言いたいところだが……今回は許そう。

 彼女のそばは、笑顔の石川がよく似合う。


「石川くん?」


 妻が隣で呟く。

 俺は首を振るだけにした。


「分かってるわよ。あなた、石川くんのこと、ずっと気にしてた」


 ‥‥そう見えていたのか。


「そして、亮平さん。あなたは、ちゃんとあの子に区切りをつけてくれた」


 妻の言葉が、胸の奥にしみた。


 窓を開けると、ふわりと風に乗って、スズランの匂いが届いた気がした。

 そんなに強い香りではないはずなのに。まるで、どこかで彼女の声が届いたようだった。


 君はもう、俺の背中を追ってはいない。

 それでいい。

 今はもう、自分の人生を生きているのだから。


 俺は陰に徹する。

 陰で誰かを支えるのが、俺の役目だ。

 君のように笑える人が、これからも現れるようにしたいんだ。


 スズランの匂いは、ただ優しくそこにあった。



 この仕事が陰であっても、見ていてくれる人はいる。


 君は、誰かの人生を救うとはどういうことかを教えてくれた、

 名もなきスパイだったのかもしれない。


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