女性の泣き声というものは、できれば聞きたくない。
現場で、報せで、取り調べで、何度も耳にしてきた。
だがそれらは、俺が直接泣かせたわけじゃない。
けれど――彼女の泣き声だけは、違った。
「……好きでした。すごく好きでした。失恋させてくれてありがとう。わたし、前を向きますから」
スズランを抱きしめ、夜勤明けの空に向かってそう呟いた彼女。
ちゃんと前を向くと言ってくれたことが、救いとなった。
背中越しに見届けることしか出来ない。
彼女にとって、それが一番だと思ったから。
それで、よかったんだ。
公安として、俺の任務は終わった。
彼女を保護対象として引き上げ、証拠と証言を繋ぎ、『暁の朝』を崩した。
それがすべてだ。
私情を挟んだつもりはない。
⸻あの夜
『江藤さん、毛利帆奈の拳銃をすり替える時、寝言で“渡辺さん”と呼んでいました』
報告を受けたとき、驚いた。
だが感情を混ぜてはいけない。
そう、心に言い聞かせた。
俺が彼女の行動の一端にでも責任を負えば、組織として成立しなくなる。
私情を挟まない。
これがこの仕事。
失敗すれば、俺や彼女の命だけではない。
また、大勢の命が犠牲になるかもしれない。
普通に接する、いつも通りーー。
それが当たり前であり、スパイとしての彼女を監視することに徹した。
言葉の意味を深く考えるわけにいかなかった。
しかしーー。
『彼女、遊園地で渡辺さんを見たらしいです』
石川がそんなことを言った。
まるで、彼女の心の奥に、何かを残してしまったかのように。
『すごく会いたそうでしたよ』
石川は、まっすぐな目をしていた。
隠すような人間じゃない。
彼なりに、俺に何かを託そうとしていたのかもしれない。
『俺は、会いたいと言われていない』
事実だった。
任務中に面会希望はあったが、直後に壊滅作戦が決まり、それどころではなくなった。
その後、彼女から再度の希望はなかった。
それなら、俺の出る幕じゃない。
だがーー。
『陰のヒーローって、かっこいいですね。俺に勝ち目はないです』
そう言った石川の顔が曇った。
『お前が光だろう。光として、あの子を支えてやればいい。俺は陰の仕事をするだけだ。あの子に必要なのは、お前という光だろう。あの子に必要な光の役目を果たしてやってくれ』
『‥‥だから、そういうところがかっこいいんですよ!』
『勝ち負けじゃない。光のお前だって、十分かっこいい。自分じゃ気づかないかもしれないがな』
石川に納得した顔はなかった。
その直後、弥生から『花を贈って』と提案された。
2人からの気持ちがなかったら、贈ってなかったかもしれない。
『君の生まれてはじめてのサンタになれたでしょうか』
一言だけ添えて、名前は伏せた。
それでも彼女には届いたようだった。
前を向いて、幸せになってくれ。
君が俺を見るのは、間違ってる。
それに気づいてくれたらいい。
⸻数年後。
5歳の息子が駆け寄ってきた。
「お父さん!
「やらなくていい。お父さんかお母さんに任せておきなさい」
目元は俺によく似ている。
性格は、たぶん妻に似たのだろう。
世話焼きで、人懐っこくて、誰かのために何かをしていたいと思う子だ。
「お父さん、またお仕事の時はおハガキくれる?」
「当たり前だ。会えない分、毎日送るよ」
長い間、2人目の子どもに向き合う余裕がなかった。
家庭と仕事のバランスをどう取ればいいか分からなくなっていた。
でも、ハガキというコミュニケーションが、息子には喜びになったらしく、妻の願いを叶えることが出来た。
スマホに通知が届いた。
『俺!結婚するんです! やっとです。やりました!』
石川だった。
私用で連絡してくるな、と言いたいところだが……今回は許そう。
彼女のそばは、笑顔の石川がよく似合う。
「石川くん?」
妻が隣で呟く。
俺は首を振るだけにした。
「分かってるわよ。あなた、石川くんのこと、ずっと気にしてた」
‥‥そう見えていたのか。
「そして、亮平さん。あなたは、ちゃんとあの子に区切りをつけてくれた」
妻の言葉が、胸の奥にしみた。
窓を開けると、ふわりと風に乗って、スズランの匂いが届いた気がした。
そんなに強い香りではないはずなのに。まるで、どこかで彼女の声が届いたようだった。
君はもう、俺の背中を追ってはいない。
それでいい。
今はもう、自分の人生を生きているのだから。
俺は陰に徹する。
陰で誰かを支えるのが、俺の役目だ。
君のように笑える人が、これからも現れるようにしたいんだ。
スズランの匂いは、ただ優しくそこにあった。
この仕事が陰であっても、見ていてくれる人はいる。
君は、誰かの人生を救うとはどういうことかを教えてくれた、
名もなきスパイだったのかもしれない。