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第4回

 手のひらですくい取った湖水はあの水路のものよりさらに冷たくて、本当に指が切れてはいないかと覗きこみたくなるほど、指先を瞬く間に痺れさせた。


 ばしゃばしゃと勢いづけて顔を洗う。そうして見上げた月は、先までのものとはまるで別ものに見えた。

 半分以上が欠けた、微弱な月明かりに透かすようにして天に向けて伸ばした腕に、まるで自覚のなかった今までの萎縮の名残りのだるさが感じ取れる。胸を埋める苦しさは今もあるが、まだあと少しは大丈夫だと、どこか開き直ったような、妙にすっきりとしたすがすがしさまで感じて目を細めたところに背後からエセルの声がした。


「なあ、夕食は?」


 せっかくの今の気分を害するような言葉にあきれて、がっくりと肩を落とし、大きな溜息をついて振り返る。


「まだこだわっていたのか。あるわけないだろう。突然の襲撃でここの蓄えもギリギリなんだ。それをもらえるか」


 朱廻やルチアには一応すすめられたが丁重にお断りして受け取ってはこなかった。

 そう言ったセオドアに見せたエセルの顔はもう、先までの、全信頼を預けるに足ると感じさせたものとは全然違う、軽い、ニヤニヤ笑いを浮かべたものにまた戻っていた。


「何か不服か?」


 やはり先の折り、自分の鬱憤を晴らさせるためだとか言ったのは嘘に違いない。思わず感謝すらしてしまったことを後悔する。

 この、まるで魅魎のようにころこと移り変わりの激しい厄介な性質が、この男の本質なのだ。


 そう確信しながらもとにかくその横へと戻り、解いていた髪を横三つ編みにし始めたセオドアに、エセルが白々しく肩を疎める。


「べつに。やせ我慢したってどうしようもないのにってね」

「何を馬鹿な――」

「ほら」


 叱りつけようとしたセオドアの言葉をふさぎ、エセルは反対側に置いていた革袋を引き寄せて、中の干し肉や乾パンを出してきた。


「1日歩き通しだったじゃないか。本当は腹滅ってるんだろ? セオドアはまだまだ育つ可能性があるんだから、食べたほうがいいって」


 これ以上育ってたまるか! いい加滅、女離れした造りのでかさに可愛気がないと言われることもよくあるのに!


 そう言い返そうとしたセオドアを無視して、エセルが思い出したようにつけ足す。


「胸もお尻もそれじゃあ、恋人が可哀想だ」


 まさに要らぬ失言。言い終わるのも待たずに、セオドアの平手がにこにこ笑ってばかりのエセルの両頬に飛んでいった。

 静寂な夜空に、パァンと小気味良い音が響く。水浴びと冷気で冷えていた肌にそれはくっきりとした跡になって残り、その見苦しい赤味がひくまでの間しばらくエセルはセオドアのほうを向こうとはしなかった。


「まあーったく、すっかり元に戻っちゃってさ。現金なやつ。

 第一、ここまで怒らなくともいいじゃないか。たとえいなくたって、いるように見えたってことで許してくれたって……でも考えてみりゃ、ここまでこじらせた不器用者に、そんな物好きいるわけないか」


 まだしつこくぶつぶつぶつぶつ眩いているエセルには目もくれず、その手からひったくるように奪い取った携帯食を黙々と食べる。


(フン。余計なお世話だばかやろう。ひとがせっかく気を良くしていたときに、落ちこみそうなことを言うからだ。おかげでまた滅入りかけたじゃないか)


 まるで、この無神経なエセルを食べるように干し肉をバリバリと食べ切ると、ようやくエセルの顔がまたこちらへと向いた。


「おまえ、この街の糧食には手をつけられないって言ってるくせに、俺の食い物は平気で食べるのな」

「当たり前だ。どうせしっかり竜心珠の弁償金に加えているんだろう」


 責めるような、呆れたような声を、その言葉で一蹴する。

 それでもまだあれはぼられていると思えば、なんら遠慮する気にはなれない。


「そんな……ひどいっ。俺、そんなことするように見える?」


 いちいち芝居がかったその言葉に、フンと鼻を鳴らす。

 直後、セオドアは、くすくすと失笑する声で、いつの間にか自分たちの後ろに立っていた朱廻に気付くこととなった。


「お話し中申しわけありませんが、少しよろしいでしょうか?」


 2人が自分に気付いたことを知って、口元を隠していた手を下ろし、それまで身を預けていた木から離れると、悪びれた様子もなくにこやかに言ってくる。

 この低級な会話をどの辺りから聞かれていたのか……とにかくセオドアは急いでそちらへ向けて立ち上がり、背を正した。


「わたしたちに何か御用でしょうか?」


 恥ずかしさからすっかり動揺してうわずった声で訊くセオドアに、朱廻は大事そうに手に抱えていた物を差し出した。


「主から申しつかってまいりました。これを、ぜひあなたさまにと」


 灰白色をした生成り地に包まれたそれを出されるまま受け取ったものの、まるで見当がつかない。


「どうぞ」


 とまどうセオドアを促して、布地を開かせる。中から現れたそれは、一点の曇りもない厚いガラス――いや、鏡の破片だった。


「これは……」


 布の中に大切にくるまれていた、手のひら大のその破片が目に入った瞬間、あまりの驚きにセオドアは声を失ってしまった。


 湖水を張りつめたように冷たい鏡面は、月の光を真上に受けても影ひとつ映さない。くい入るように覗きこむセオドアの明るい髪も、さながら竜石のごとく輝く碧翠色の瞳も、何もかもを拒絶するように闇色に照るそれが何であるかを、彼女は熟知していた。


「転移、鏡……」


 セオドアは震える声でその呼称をつぶやくと、そっと表面に指を這わせた。


「ちょっとおかしいんじゃないか?」


 砂上にどっかり胡座あぐらを組んだまま、エセルが面白くなさそうな顔で見上げる。


「おまえ、セオドアには突然の襲撃で、転移鏡は持ち出せなかったとか言ったんじゃなかったっけ」

「エセル!」


 名を呼び、それ以上の放言を止めさせようとするが、エセルはそれを無視して頬杖をつきながら、上の朱廻をぐっと仰ぎ見た。


「それが今ごろ持ってくるなんて、一体どういう風の吹き回しだ?」


 その目、口元はまるで嘲笑しているようで、傍から見ているセオドアでもむっとくる。


 思えば、エセルは水路にいたときから朱廻に向ける目はどこか非好意的だったが、一体こんなにも厚意的な朱廻のどこが気にいらないというのか。今時ここまで他人に対し、折り目正しい懇切丁寧な者はいないのに。


 確かに好き嫌いは個人の自由だし、どうしても好きになれない者もいるだろうが、それにしてもここまで露骨にそれを表に出すことはないだろう。べつに、隠し事のできない正直者というわけでもないくせに、命を助けてくれた者に対してその態度は、いささか失礼というものだ。


 なのに。


「助けてもらった覚えはないね。俺1人でだって逃げられたに決まってる」


 そんな、考えなくても分かる大ぼらを平然と吹くなっ!


 にらみつけるセオドアからの抗議も無視して平然としているエセルに、セオドアの眉が反応する。


「まあまあ……」


 そっぽを向いてしまったエセルを、謝れ! となおも睨みつけるセオドアのほうこそなだめるように、別段気にしたようでもない朱廻が肩をたたいた。


「私は確かにそう言いましたから。彼がそう考えるのも無理はありません。

 漣が転移鏡をくぐり抜けてきたとき、欠けた破片を主が拾われていたのです。ただ、見ての通りこの小さなかけらでは転移することはできませんし、おそらく何も知らない王都へ送信することもできないと考えていたのです。

 そのような物をあなたさまにお見せしては、いたずらにお心を痛めるだけと思い、伏せておいたのですが、主が申されるには、あなたさまであればきっとこれを役立たせてくださるでしょうと……」


 朱廻の説明を聞いて、セオドアはもう一度手の上の鏡面へと目を落とした。


 転移鏡の欠片。大陸中のあらゆる国の転移鏡は自国王都の転移鏡だけに及ばず、全てが幻聖宮とつながっている。その欠片であるこれからは、今となればあの見るだけで人を威圧せしめる高潔な力こそ感じることはできなかったが、まだわずかながらの力を帯びているのが感じ取れる。


「しかし、それならばどうやって使用するのですか?」


 送信も転移も不可能な物をどうするのか。

 そう問いかけたセオドアの暗い不安を拭い去るにあり余る、しっかりとした笑顔で朱廻は答えた。


「主が申しておりました。我々とは違い、あなたさまには突然の失跡にきっと身を案じられ、胸を痛めておられる方がいらっしゃるでしょう、と。

 あなたさまの念を欠片が増幅して、そのお心とつながっている方の元へと転送してくれます。微弱ですが、その方もあなた様のことを考えておられれば、通じるかもしれません」


 その言葉は、諦めきっていたセオトアの心に差しこむ一筋の光明となって彼女を強く勇気づけたようだった。

 幻聖宮と連絡が取れる。そうすれば、もしかすると魔導杖との感応式をもうしばらく延期してもらえるかもしれない。

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