陽は、とうに東の砂丘を離れて昇りきっている。
「連れ戻さなくては……」
そう口にする一方で、これはほかの者たちへのいい口実であるかも知れないなどと、苦々しく思う。
事情を知っている2人には留守を頼もうと振り返った矢先、セオドアが先に口を開いた。
「朱廻、わたしも行きます!」
一歩も引かないかまえで強く断言する。
その言葉に面食らったように、朱廻は目を丸くした。
「む、無茶です! あなたさまはまだ完全な退魔師ではいらっしゃらない。
封魔具もなしで、一体どうなさるつもりです?」
媒介となる〈道〉の通った破魔の剣も封魔具もない丸腰の退魔師は、一般の者と何ら変わるところはない。1人でもいくらかは力を導ける朱廻よりもずっと無謀な行為だったが、しかしセオドアは決然とした態度を崩さず、首を横に振った。
「わたしが引き起こした出来事から、わたしが逃げていいはずがありません。そんなことをすればわたしはきっと、わたしを信じてくれている人たちの目を二度と見返すことはできなくなるでしょう。
それに、たとえ見習いでもわたしは『退魔師』なんです。これ以上、庇われることに慣れたくない」
以前聞いたエセルの言葉はやはり正しいと、このときセオドアは密かに思った。
結果がどうでようと、たとえそれで自分が命を落とそうと、できる精いっぱいを尽くしたなら、きっと蒼駕は自分を誇りに思ってくれる。
たとえ大陸中の人から罵られても、見捨てられても、蒼駕にだけは失望されたくない。
退魔師として、人として、出来損ないかもしれない。けれどせめて、自分という娘を育てたことを、蒼駕には後悔してもらいたくないのだ。
そして、こんな自分を退魔師と言ってくれたルチア。彼を見殺しになどできるわけがない。
その決意は朱廻とて分からないわけではないが、しかし立場上、認めるわけにはいかなかった。
もう一度、多少きつい物言いになってもやめさせようとしているのを察して、セオドアはさらに説得を試みる。
「それに、その者たちを見つけたあと、どうするつもりですか? まさか彼らを伴ったまま、魅妖のいる館へ乗りこむわけにはいかないでしょう?」
連れ帰る者が必要でしょう、と。めずらしく口の回ったことに内心喜々としながらにこやかに――しかし顔に浮かんだ無表情さは変わらないまま――セオドアは言ったが、もちろん内心ではその気は全くなかった。
しかし彼女の生まれるずっと前から魔断として数多くの操主に仕え、魅魎を断ってきた彼にそれと見抜く目がないわけがなく。
あらためて道理を解いて言い含めようとしたとき。セオドアの肩に乗ったエセルの手に気付いた。
「まあまあ。いいじゃないか。今言い争ってる暇はないんだろ? こいつはたとえ残していったって絶対あと追ってくようなやつだし、それなら一緒に連れて行ったほうがまだましだって。
なんなら俺が責任持って面倒見るから」
……何を偉そうに言ってるんだ、こいつは!
気安く肩を抱き込んで、ぽんぽん叩いてくるエセルの腕を引き剥がし、にらみつける。
どうも昨夜の出来事以来、こいつはいっぱしの保護者気取りでしゃしゃり出てくるが、ひどく気に入らない。
大体どうしてエセルが一緒に来て大丈夫なんだ? どういう理論だ、それは。
今度という今度は許さないと、問い詰めようとしたセオドアだが、しかしなぜか朱廻は不承不承ながらもうなずいた。
「それなら、わたしは何も申すことはできないのですが……」
「はあっ!?」
あんぐりと口を開ける。
なぜ? どうして!?
エセルが自分と一緒に行くという条件で、どうして自分への許可が下りるんだ!?
エセルはただの商人のはずだ。一般人を連れ戻しに行くなどという危険極まりないことに一般人がついて来ると言っているのを許していいはずがない。
ということは、エセルは一般の者ではないのか?
連れ戻しに行く間、ルチアのことを頼みに街の長の天幕へと向かった朱廻の背を呆然と見送りながら、ちらちらとなりのエセルを盗み見て、まさかと首を振る。
こんな脳天気な、ほとほといい加減で限りなくはた迷惑な退魔師がいるわけがない。
(はっきり訊いたわけではないが、見た目から判断した年齢でいって退魔師であるなら自分と同期か一期上ぐらいのはずだが、一度も幻聖宮で見かけたことはないぞ。そりゃあ訓練生だけで常時数千人はいる所だし、退魔剣士や退魔剣師と退魔封師や退魔法師ではカリキュラムの違いで訓練地も共同宿舎もかなり離れているし、出立するまで一度も顔を合わさない者だっているけど、たとえ万が一、百万分の一でそうであったとしても、これだけの容姿を持つ者だ、うわさが立たないはずがない)
まるで大気に満ちた清浄な力が自然と結集した形のように、桁外れの美貌を持つ魔断たちとタメを張るような美形の存在など、うわさ話に目がない
それでも、彼は退魔師なんだ、と強引に仮定してみても、長剣を常備していない姿には納得がいかなかった。そばに魔断がいないのもおかしい。
退魔師は、訓練を終えて宮から出るときは必ずどこかの国に所属している。
どこの国にも所属しない、金で退魔を請け負う『流れ』の退魔師は、攻撃系の剣士か剣師であるのが常識だ。たとえ封師や法師であったとしても、砂漠でのぞき込んだ荷袋の中には封魔具らしき物はなかったし、どこの商店でも店先に並べているような、普通の短剣があっただけ。破魔の剣ではない。
エセルは退魔師ではない。どう考えても、符合するものが何もない。
では、彼は何者なのか?
黙々と考え込むセオドアのあごに、不意に指がかかった。
「おまえ、また泣いてたのか? 目が赤いそ」
くい、と上を向かせられ、いきなり至近距離からのぞき込まれる。
「どっ、どうでもいいだろう! そんなこと!」
あまりに唐突な行為にうまく対処することができず、一瞬で熱をもった顔を隠して強引に振り払ったとき。朱廻の使った言葉がふと、心の端にひっかかった。
『何も申すことはできないのですが……』
できない、とはどういう意味だ?
言うにしてもこの場合、普通だと『ない』だけだろうに。
まるで何か、先んじて成約があるような言い方だ。でも、自分とこいつの間に何がある?
(……そういえば昨夜、こいつと朱廻はまっすぐルチアの天幕に入らず、途中で立ち話をしていたな……。
あのとき話していた何かと関係があるとか?)
「おい、エセル」
「ん?」
自身の考えに集中するあまり、相手があの『エセル』であることをすっかり忘れきって、何の心構えももたずに率直に尋ねた直後。セオドアは、世界が180度回転したような、脳がぐらんぐらんと大きく揺れた気がして、頭に手を添えることとなった。
「ああ、あのとき? べつにたいしたことは話してないよ。おれの素性と、どうしておまえと一緒にいるのかって訊かれて、セオドアが、俺の命よりも大切なものを奪ったからだって――」
ちょっと待て!
「それから、一生離れられない、特別な間柄だとも言ったな。たしか」
それがとどめとなって、一気に脱力してへなへなとその場へしゃがみこんだセオドアは、神経がくじけきっているしばらくの間、怒鳴りつけるどころか立ち上がることさえできなかった。
「なに? ドジで竜心珠を4つも破損させて天文学的弁償金を抱えこんでるやつとその取立人とでも言えばよかった?」
支え手を差し出して、よっこらしょ、と立ち上がらせる。その間もニヤニヤ笑って、今の彼女の脳内を見透かしたようにそう言いながら、してやったりと子どものようにはしゃいでいるエセルの態度が癇に触り、セオドアは足をぎゅうっと思い切りかかとで踏んでねじった。
そりゃ、まるきりうそというわけじゃないけど、それじゃあ相手に与える印象がまるで違ってくる。そこまで相手に深読みさせるような言葉をひねり出せるほど達者な口なんだから、もっとずっと別の言い方ができたはずだ。
それに、朱廻も朱廻だ。そんなエセルのたわごとを鵜呑みにするなんて、馬鹿正直にもほどがある。人よりずっと長生きしているんだから、相手が真面目に話しているかそうでないかくらい、ちゃんと見抜いて判断してほしい。
が。
それも無理かもしれないと、瞬時にさとれてがっくり肩を落とす。
あの朱廻とこのエセルじゃ、間違いなくエセルの口の方が一枚上だと。
しかしそれだけで朱廻のあの言葉が出たとは思えなかったが、もうセオドアにはエセルと口をきく気力は残っていなかった。
どうせ訊いたところでまともに答えるわけがない。これ以上こいつのふざけた物言いを耳にして、自ら不愉快になることもないだろう。
大きく息を吸い、吐き出す。
とにかく。
一緒に街へ行ってもいいと許可が出たのだ。この場合、それでよしとしておこう。
こちらへ戻ってくる朱廻を見ながら、セオドアは、まだ不服そうに愚痴る脳内の一部を大多数の思いにものをいわせて押し伏せると、そう結論づけたのだった。