●結 界
目を射るような光とともに、セオドアの前には夢の光景が広がった。
己のひざの上でほほ笑みを浮かべたまま死んだ男をかき抱いて泣き叫ぶ女性。
「どうかしたのか?」
入り口で立ち止まったままのセオドアを不審に思ったエセルが訊いてくる。
「……いや」
セオドアはかぶりを振った。
ほんの一瞬で、瞬いた瞬間に光とともに消えてしまった、華美な白昼夢。
ここはどこを見ても光源となる物はない、ただのうす暗い宝物庫の続きだ。
宝物庫の続き。
となりで同じように壁を探っているエセルには聞こえないように、セオドアは小さく舌打ちをもらした。
もしやと思ってはいたが、やはり廊下か隣室へ逃げられそうなドアはない。ただの小部屋だ。
「これで終わりか……」
竜心珠の光の濫は、もうすぐその効力をなくす。魅妖は間違いなく憤激して現れ、自分たちを殺すだろう。
一撃で殺してくれるならマシだが、おそらくはなぶり殺しだ。
呻きをかみ殺す。
セオドアとしては終わりにするつもりはない。魅妖の言うとおり、たとえ不様だろうとみっともなかろうと、逃げ回るしかないのだ。自分たちを殺しただけで魅妖の怒りがおさまるわけがない。朱廻はおろか、どこかに囚われている女たち、緑地にいる街の者たちにまで被害が広まるのは目に見えている。
どこか、何か、ないか……。
「あるかも知れないな」
まるでセオドアの思考を見抜いたようにエセルが言った。
「エセル?」
一面緻密で目立たないモザイク模様を掘ってある壁の一箇所に手を当てて、探るように見ている。
「そこに何かあるのか?」
「んー? こういう宝物庫には大抵隠し通路があるものなんだよ。ほとんどの宝物庫は館の奥に造られるから、突然襲撃を受けたりとかの緊急時には宝物を持って即座に逃げられるように、こちら側からしか開けることのできない非常通路なんかを作っておくものなんだ。
これだけの財宝を街の者たちに内緒でこっそり蓄えてるの強突張りの街の長を考えると、ありそうだろ?」
何もそこまで言わなくとも…。
だが先の折、似たようなことを思った手前、口に出してとがめづらい。
エセルは壁の模様の溝にそって指を滑らせていく。
と、その手が隅をとばした。
屈んでいた膝を伸ばすと身を起こし、棚のほうへと行く。
「ないなあ」
つぶやいたエセルに、
「どうしてそこは見ないんだ?」
セオドアは膝の高さにあるその箇所を指差した。
「ん? ああ、いいんだよ。ないに決まってるから」
「なぜ決めつける?」
一考もせずに軽く返してさっさと棚の奥を探ろうとする、エセルに言い返す。
「いいから、ないって。
それより早く探さないと、あいつ出てくるんだろ? きっとだまされたって滅茶苦茶いかり狂ってるぞ。
まったく、魅魎ってやつはどうしてあんなに自尊心が高いんだろうな。まさか自分は全能であるなどと思ってるわけでもあるまいし。自分の言う、力量ってやつを本当に知らないのは、きっとほかならぬ魅魎本人だろうな」
ぶつぶつと、最後は独り言のように、振り返りもしないで言ってきた。
その言葉に、ますますセオドアは不審を感じてその箇所へと見入る。
抜道という仕掛けをごまかすためか、壁じゅうに金箔を貼った先の部屋とは違う、暗い藍色の、ただの壁だった。
少なくとも目視では、うっすら埃をかぶった、表面に浅く模様を刻んだモザイク柄で、ほかの箇所と同じ単なる壁の一角だ。模様にそれらしい継ぎ目もないし、ここに何か仕掛けがあるようには見えない。
その点から言えば、エセルの言う通り調べる必要もないかもしれない。だがなぜエセルは触れもしないで決めつけたんだろうか。
何か引っかかった。嫌な感じというわけではなかったが、じっと意識して見つめていると、まるで壁自身が触れられることを拒絶しているような、変な抵抗を感じる気がする……。
抵抗?
その何気なく使った言葉に、セオドア自身、今まで触れることを拒んでいたのに気がついた。
じっと見ているだけで、不思議と触れたいという気がしない。それどころか今のエセルの言葉に疑問を感じなかったら、自分だって近寄りさえしなかったかもしれない。
こんな、ただの壁に疑問なんかを持った自分のほうがおかしくて、先の魅妖のせいで何もかもに過敏になっているだけのようでもあるし……。
もしかして、命令とか?
頭の中に直接くる、そしてそれを自分の思考であると巧みにすり替えるだけの力を持つ、命令……。
――結界!
何の前触れもなく、まるで閃きのように頭の中で弾けた言葉にセオドア自身ひどく驚いていたために、はたしてそれを声にしたかどうかは覚えていなかったが、おそらく声に出していたのだろう。ちょうど向かい側にいたエセルがひょいと頭を上げた。
「え? 何だって?」
その声を、しかしセオドアは耳にすら届かせていなかった。
結界……結界か。あり得る。完壁な結界であれば、それだけで人の心の目を惑わせるなど簡単だ。その証拠のようにこの壁の一角にはだれも、一度たりと触れた形跡がない。
それに、おそらくこの壁自体が結界になっているわけじゃない。
手ごたえのなさといい、おそらく別空間――疑似空間を作っているんだ。しかもこのなじみ方だと相当古い昔から。
なぜか。それは分かるような気がした。
魅魎に気付かれないように、だ。おそらく。
これだけの力場を形成するのは相当の能力者でなければ無理だろう。教え長から伝え聞いた、過去この世に出現した名だたる退魔師たち、そのいずれかまでは分からないが、かなり強い力を持った者がここへ張ったに違いない。そしておそらくそれは完壁すぎて、同じ退魔師にさえ、気付かれないままだった……。
そこまで考えたとき。唐突にセオドアの中を夢に出てきた男の姿が掠めた。
うつ伏せになって倒れた血まみれの男が、光に包まれた何かに手を伸ばしている――。
たかが夢でしかないことなのに、変なことを考えた、と頭を振ったあと。いや、そうかもしれない、と思い直す。
何度も同じ場面を繰り返す、意味深な夢。わけの分からない力の干渉。それにあの、魅妖の不可思議な言葉。
あれらが全部つながっているとしたら――そして、魅妖に邪魔をされてしまったけれど、この街へ自分を呼びこもうとした、あのなぞの波動もここから発せられていたのだとしたら――。
「……ドア。セオドアってば。
そこで何か見つけたのか?」
「うわっ」
夢の男がこれを知らせようとしていたなどと、あまりに突飛といえば突飛な結びつけに、周囲への警戒も忘れて本気でのめりこみかけていたセオドアの耳元で突然した声に驚いてとびのく。
それが、いくら名を呼んでも反応なしで、ずっと黙したままぴくりとも動かず壁の一角をにらんでいる自分を心配したエセルの声だと分かった途端、セオドアは脱力し、その場にぺたりと座りこんでいた。
「どうかしたのか?」
セオドアの派手な驚きに、反対に驚いたエセルが耳を押さえながらもう一度訊いてくる。
「………………これ」
一気に跳ね上がったまま、なかなか元に戻らない心拍数に、胸に手をあてながら指さす。
エセルはじーっと何やらうさん臭いものを見るようにその指の先の壁を見て――やはり触れることはせずに――それからもう一度、セオドアを見た。
「これ?」
問い返してくる。
こくりと真面目な顔して頷くと、今度は訝しんだ顔つきで壁に向かった。
いくら見ても、分かるわけがない。
たとえここで気をそらさせずに見させても、触れることを拒んでいる自分をおかしいと感じない限り、無駄なことだ。
「何か封じられてでもいるのか?」
さすがにこんな状況でも勘は正常に働くらしく、訊いてくる。こくりと、またセオドアは頷き、「多分」とつけ足した。
「多分、封じてあるんだ。それが何かまでは波長を合わせて
「なんで?」
「血だらけの男の姿がこれに関連して見えるんだ。もし魅魔か何かを封魔しているんだとすれば、ヤブヘビにとんでもないものを解き放つことになる」
知らず、語尾は低く声はひそまり、この数日たて続けに起きた事のせいでもうすっかり形付いてしまった形に眉を寄せる。
同じ退魔師にさえ気付かせないように施された結界、というのが気になった。
これがもし、死にかけた強力な退魔師である男が未来へと託した希望であるのなら、この八方ふさがりの状態で自分たちを救うための役にたつかもしれない。が、その正反対でこれが魅魔や魎鬼帝であった場合、目も当てられない大惨事を巻き起こすことになる。
魅魔および魎鬼帝は、最強と称される魅魎。それだけの強大な魅魎を倒せた者は、伝説というあやふやな物語でしかセオドアも知らない。
魅魎を断つ能力を備えた退魔師であると豪語し、何年も訓練して人を守る責務につきながら、自分たちよりはるか下の魅妖すら警戒し、恐怖してなかなか倒せない。あまりに卑小な存在であるとして興味を失い、人間に関わりすら持とうとしなくなった最上級魅魎の存在自体が語られなくなったせいもあるが、それでもこれがもし最上級魅魎であったなら、まず間違いなく自分たちは解き放った瞬間にこの街ごと消滅させられ、周辺一帯のあらゆる街がその毒牙にかかるだろう。
封じこめられてきた年月に蓄積された怒りがおさまるまで暴れ狂うのは目に見えている。へたすれば近隣の国2つ3つ滅ぼされるかもしれない。
そんな危険性のあるものに、はたして手を出していいものかどうか……。
思い沈むセオドアに、エセルが応じた。