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第4回

●はぐれ


「あっ……つつ……」


 大気中に漂う、重苦しい、殺伐とした雰囲気をものともせず、は身を起こした。

 体の上に降り積もっていた細かい氷片と瓦礫を払い落として、そして一番被害をこうむったらしい、うなじへ手をあてる。


「おまえ」


 こちらを見もせず、はつぶやく。


「よくもまあ、ここまで壊してくれたな」


 ただの言葉なのに、漣を思わずその場から後退あとずさらせる力を持っている。


 起こした面の前髪の隙間から覗き見える瞳には、漣に対する敵意が浮かんでいたが、声だけは妙に穏やかで、それだけに、どこか人を食ったような物言いに聞こえる。


 暗紅色の髪と紅玉の双眸を持つ男は、体についた氷片を払いながらその体を立たせた。


「せっかくの封印が、滅茶苦茶じゃないか。かけ直すには結構手間がかかるんだぞ、これは」


 眇めた目で苦笑しながら責めてくる口調には、まだ先までの面影がある。

 その人並外れた容姿といい、肩に負った傷といい、やはりあの男に間違いない。だが目に見えない内なるところで、男は「エセル』ではないものへと変化していた。


「まさか……そうか、やつではなくおまえが今度の……。

 どうりであれをかわされたわけだ。ただの人であれば、気付く間もなく砕け散っていただろうに。

 おまえ! 人ではないな!!」


 まんまとだまされきっていたことに唇を噛みしめる漣に、男は軽く肩を竦めて応えた。


「べつに人だなんて断った覚えはないさ。しっかり分かるやつには分かってたし。それに、あれはおまえのためにしてたわけでもない。

 ああでもしとかないと人間ってやつは変なところで敏感でね。すぐばれるんだ。こっちも生活がかかってるし、ま、これくらいのだんまりは、俺とおまえの違いも分からないやつらのために、大目にみてもらってもいいんじゃないかってとこか。

 それとも何か? おまえは、必ず勝てる人間相手じゃないと闘えないって白状するつもりか?」


 手厳しい返しに、漣がぐっと言葉をつまらせる。

 その前で、男はおもむろに瓦礫を返し始めた。


「この辺りだったよな、確か……」


 ぶつぶつつぶやきながら大きな瓦礫をひっくり返そうとする。

 次の一刹那、瓦礫は白く表面凍結し、粉々に砕け散った。


「よくもこの私を愚弄してくれたな……」


 嵐の前触れを思わせる、氷のように冷ややかな声で漣が言う。

 氷山と同じだ。目に見えて分かる挙動よりも、見えないところで変化するもののほうがはるかにすさまじく、警戒を要する。


 漣のつり上がった口元に浮かんだ三日月のように酷薄な笑みは、まさにそれそのものだった。


「ちょうどいい。あれではあまりに容易すぎて、もの足りぬと思っていたところだ。

 きさまの四肢を千々に引き裂き、そのふざけた余裕を剥ぎ取ってやれば、少しは慰みにもなろう!」


 言葉と共に力が放たれる。それとほぼ同時に、どこまでも居丈高な口上にはいいかげん辟易したと言わんばかりの表情を浮かべて向き直った男の手が、今にも襲いかからんとする漣の力へ向かってかざされた。


 瞬間、そこから放出されたのは、水路で朱廻が導いた火炎など比較にもならない、苛烈な業火だった。


「なんだと!?」


 放った力を打ち消して、なお自身へと迫ってきた炎に驚愕し、目を瞠る。


 見覚えのある火炎。これは、昨日冰巳を撤退させた、あの――――。

 まさかあれは、あの男などではなく、この男が放った炎であったのか?


 脳裏をかすめた光景に先の出来事を重ね合わせ、導き出された答えに息を飲む漣に向けて、男は、手の中でくすぶる炎の名残りを見せつけるように握りつぶした。


「どうも今ひとつ判断が甘いな。相手を見くびるのはおまえだけじゃなく魅魎全てに共通することだが、あんまり相手を過小評価しすぎるとそれが命取りとなって、勝てる闘いにも勝てなくなるぞ」


 忠告だ、と人差し指を振る。


「う、うるさい! 人間などの『飼われもの』の言葉など、聞く耳持たぬわ!!」


 ばっ、と手を横に振り切り、拒絶する漣に、男はさもいやそうに顔をしかめた。


「この私が勝てぬだと? 見くびっているのはおまえのほうだ! たかがその程度の力で私を倒せると思っているのならば、それが身のほどを知らぬ、自己過信による誤りであると教えてやろう!」


 胸の内はともかくとして、少なくとも上辺には完壁に冷静さをまとっている男の態度に刺激され、ますます激高した漣は、徐々に本質とは正反対の感情へと傾斜していく。


 男は、猛りたった漣の姿を冷視しながら、やれやれと息をいた。


「そう極端に結論を急ぐなよ。少しは頭を冷やせ。

 こっちだって、勝てるなんて思ってないさ。そう、おまえの言うとおり、『たかが』だ。俺の力なんて、たかがこの程度。魅妖であるおまえに到底かなうはずもない。ただ俺は、一度決めたら最後まで通すのが主義でね。

 ああそれから、一応ことわっとくが、俺を幻聖宮なんかでぬくぬくと育ったやつらと一緒にするなよ。たかだか生まれて数百年。情にほだされては操主とともに死にたがる、おまえの言う『飼われもの』と俺みたいな『はぐれ』の者じゃ、格からして違うのは、いくらおまえでも知ってるだろう?」


 『はぐれ』とは、操主を持たない魔断を指す言葉である。

 それは操主を失った心の痛みのあまり、新たな操主を持つことを拒否した魔断に多いが、中にはまれに、人間に服従を誓うことに疑問を持ち、己の命を他人に左右されることを嫌って最初から操主を持ちたがらない魔断もいる。

 そして、総じてそういうはぐれ魔断は、宮に所属する魔断よりも長命であることが多い。


「さあて、っと。

 この辺だったかな?」


 言うだけ言って満足したのか、背を向けて屈みこんだ男は再び手近にある瓦礫をひっくり返し始める。


 漣は、自分では絶対にできない、敵に背を向けるという男の態度に鼻もちならない余裕を感じ、また不当な評価を受けているとの恥辱に怒りを沸々とたぎらせる。

 けれども、その白面に最も色濃く浮かび上がっていたのは、怒りを凌駕するあせりだった。


 頭の中で点滅する、最悪の2文字が消せない。


 昨日、あの力を見たとき。何が起きようとしているのかをさとった。

 はるか昔に起きて、鎮まったはずのうねりが、再び浮上しかけているのだというのに、全く気付けていない道化ぶりにほくそ笑み、このうねりをわが手でひねりつぶせる機会を得たことに胸が震えた。

 この漣がそれを為したと知ったならは何とお思いになるだろう?

 嫉妬し、われを八つ裂きにしたいと、いずこかの地底より現れるだろうか?

 想像するだけで、たとえようのない甘美な震えが全身を満たす。


 なればこそ、あの魔断と引き離したというのに。


 最悪だった。

 場と、人と、物が集まっている。これが偶然であるはずがない。これが必然であるのなら、時も今ということだ。


 いや、『今』じゃない。

 『まだ』だ。まだ、時はきていない。


 あせりから千々に乱れ、何も考えられなくなりそうな頭を静めようとする。


 しかしやがて時がきて、『まだ』は『今』になる。そうなる前に、せめてこれだけでも消しておかなくては!


「なら……なら、その女は、幻聖宮の退魔師だ! 捨て置け! そうすれば、お前の命だけは見逃してやろう!」


 ぴくっと小さく震えて男の手が止まる。

 けれどそれは漣の言葉に惑わされたからではなく、返した氷塊の下に探していたものの端を見つけられたからだった。


「『はぐれ』であるおまえが人間の、しかも退魔師などに尾を振ることもあるまい。

 それともその女に、己の命をさねばならぬほどの借りがあるとでも言う気か?」

「――ないな。貸しはあるが」


 がらがらと音を立てて、慎重に周りの瓦礫を払う。

 しかしそれは残念ながら本当にただの端切れで、男つまらなさそうにそれを指でつまんで放る。


「ならば――」

「あの泣き顔見なかったら、ついて来なかっただろうな。厄介事に巻きこまれるのはいろいろと面倒だしな。

 昨夜のうちにこっそり抜けるつもりだったんだけど、見たら放っとけなくなった。

 しかたないって」


 にっこり、肩越しに顧みた男が邪気のない笑顔で漣を見返す。

 だからおまえは死んでくれ。そう、今にもつけ足しそうな表情だった。


 死ぬ、という意味がはたして本当に分かっているのかと、魅魎である漣すら訊き返したくなるほど危うい、剣呑とした光を宿した目が彼女をちらとだけ映す。


 おまえは確かに強いだろうが、こいつが死を望んでいるんだから、申しわけないが退魔されてくれないか。


 論理も何もない、無茶な道理である。なぜ他人が望んだからといって、命を投げ捨てなければならない?

 それが自分よりもはるかに強い、魅魔たち上級魅魎の言葉であれば、いかに漣とて従うしかないだろうが、たかが人などのためにどうして死んでやらねばいけないのか。

 大体、それを行使するだけの力もないくせに、どうやって為すつもりだ?


 こんな、何の力も持たぬくせに吠え声だけは一人前を気取る、犬にも劣るクズに、できると見くびられていたことにいら立つ。ぎりりと音がするほど歯をかみしめ、瓦礫をひっくり返している男の背に殺気をたたきつけた。


「どうあっても、退く気はないと言うのだな……」

「さっきからそう言っているんだが? 理解が遅いな。それとも本当にばかなのか?」

「では、なおさら生かしておくわけにはいかぬ」


 殺気が、声という形をとったようなつぶやきだった。

 うなじに鋭利な刃物を突きつけられたも同然の、その危険な言葉も全て無視して、男はここと見当をつけた瓦礫の山を掘り起こす。

 やがて、慎重に持ち上げた大きな瓦礫の下からついに目当てのものを探りあてたとき。その顔は明るい笑顔となった。


「セオドア!」


 先までの慎重さから一変して、今度は急ぎ周辺の瓦礫を払いのける。

 魅妖の攻撃を近距離で受け、続くように崩落した天井の下敷になったこともあり、流れ出た血の海の中でセオドアは意識を失っていたが、その首筋に手をあて、微弱な一打ちから生きていることを確かめられた男は、引きずり出してぺちぺちとほおをたたく。


「おい、起きろ。ほら」


 その背に向け、いくつもの氷の切片が打ちこまれたのは、次の瞬間だった。


「その女もろとも死ぬがいい!」


 この速さと距離ではかわしきれまい。いち速く自分の勝利を確信した漣の哄笑こうしょうが、周囲に反響して高く響く。

 続いて起きた激しい爆裂音は、水路を抜けて妖鬼たちの街を走る朱廻の元まで届いていた。

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