いかに強大な力があったとしても、人はどうしても餓えの前では無力になる。
その男――
「は、腹が減ったな……」
彼の腹部からは絶え間なく、ぐぅぐぅとなんとも情けない音が鳴っていた。
かれこれもう、三日間なにも口にしていない。
飢饉の影響で民草は酷く餓えていた。その上戦まであってはもはや食事さえもままならない。
水さえも満足に手に入らなくなった現状、仁之助はもはや生きる幽鬼とさえなっていた。
「な、なんだっていい……と、とにかく食べ物を探さないと……」
食料を求めてあちこちを放浪したが、未だ成果は得られず。
ふと、視界の隅にあるものが映った。それは死後まだ間もなく鮮度も極めていい。
唯一残念なのは、肉よりも骨のほうが少々多いところだろう。
たちまち口腔内は大量の涎であふれ、仁之助はたまらずごくりと喉を鳴らした。
「……いや、それはだめだ。それだけは絶対に俺は、やらないぞ……」
仁之助はかぶりを激しく振った。
そして、他にない食料を自らの意志で否定した。
ほどなくして、後からやってきた男がそれを見つけた。
「やった、食い物……食い物だ!」
調理することもなく、そのまま歯を突き立てては肉を食いちぎる。
あれではもはや、鬼と同じではないか。
口元を朱に染めて貪る姿を、仁之助は軽蔑の眼差しで静かに見送った。
「…………」
どこをどう彷徨ったのか、それさえもわからないほど仁之助はひどく衰弱していた。
朦朧とした意識の中、ふと目の前に大きな建物があることに仁之助ははたと気付いた。
「……仕方ない。こうなったら最後の頼みだ」
仁之助は意を決して分厚く強大な鋼鉄の門を力なく、けれどどんどんと強く叩いた。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんでしょうか?」
しばしの静寂の後、ぎぎぎと重々しい音と共に門がわずかに開いた。
「――、なんだ貴様は」
「突然の訪問申し訳ありません。ですが、どうかお慈悲を。食料をほんのわずかでいいので恵んではくれないでしょうか?」
「……食料だぁ?」
瞬間、げらげらという大きな笑い声が辺りを包んだ。
「こいつはおかしなやつもいたもんだ。おいお前、ここがどこだかわかった上での妄言か?」
「……生憎学はないものでして。この立派な建物を見るにさぞ名のあるお方なのだとお見受けしますが……」
「……おい、お前本当に何もわかっていないのか?」
「申し訳ありません」
仁之助は力なく笑うことしかできない。
「……おいどうするこいつ? ――、は? 玉座の間にお連れしろって直接命令がきた? それは本当なのかよ」
門の向こうでのやり取りに仁之助ははて、と小首をひねった。
しばらくして、応対していた男が口火を切る。
「おいお前、これはとても光栄なことだと思え。我らの主がお前に直接会いたいそうだ」
「それは、ありがとうございます」
「……憐れな人間だな。いや、こいつは果たして人間と呼べるのか?」
「はぁ……」
男の言葉に違和感を抱きつつも、仁之助は門をくぐった。
ひんやりとした冷たい廊下をまっすぐ進む。
周囲から向けられる視線はひどくいぶかし気なものばかりで、漂う空気はどこかおどろおどろしい。
しかし、極限状態にまで達した現在の仁之助にはそれに意を介するだけの余力さえもなかった。
とにもかくにも、一刻でも早く飢えを満たしたい。ただその一心だけで案内役の後に続いていく。
「ほらここがそうだ。まぁ、これも人生ってことだ。ある意味ではお前は幸運なのかもしれないがな」
案内役の言葉を最後に、仁之助は豪華絢爛な扉を潜った。
「――、なるほど。貴様が門番たちが言っていた人間か」
室内はとても広々していた。
円形状に設けられた空間には、500人が収容されてもまだまだ余裕がある。
その奥、立派な玉座にて腰を下ろす
「……え?」
仁之助は思わず我が目を疑った。
何故豚が玉座に座っているのか。それ以前に人語を解する豚とは、夢でも見ているのだろうか。
あまりにも現実離れしすぎた状況に仁之助は、あぁ、と納得した声をもそりと出した。
(これは多分、あれだ。死ぬ直前にいるから幻覚を見てるんだきっと)
仁之助は自嘲気味に小さく笑った。
「ふっ……世の姿を前にして気を違えたか」
「いやいや、これは失礼。まさか、俺も最期に目にするのが豚がふんぞり返っている姿を見るとは思ってもみなかった」
「なんだと? 貴様……余を愚弄するつもりか!?」
豚がきぃきぃと醜悪な金切り声をあげた。
玉座から立ち上がった豚は、見上げるほどの巨体の持ち主だった。
顔こそ豚そのものであるが、それより下は人間のそれと大差ない。
強いて他と違いをあげるならば、大層立派な鎧を纏っていることだろう。
「豚にも真珠って、まさにこのことを言うんだろうな。豚にしてはもったいないぐらい立派な鎧甲冑じゃないか」
「き、貴様……どこまでもこの余を愚弄するつもりか……! 許さん! 貴様はここで無様に死ね!」
顔を真っ赤にした豚がけたたましい咆哮をあげた。
「……あぁ、まったく。人生最後の瞬間だって言うのに、結局俺にはこれしかないのかよ」
自嘲気味にふっと笑った仁之助は、腰の太刀をすらりと抜いた。
刃長およそ二尺五寸(約75cm)はあろう刀身は、さながら漆黒の闇夜のよう。
それでいて美しい女の髪のような濡羽色をした輝きを有する。
「そんな細い剣でなにができる!」
「あぁ、そうだな。少なくとも、豚程度ならば難なく斬れる」
どかどかと荒々しく地を鳴らし、身の丈はあろう巨大な斧を手に迫る豚に仁之助はふっと口角を緩めた。
次の瞬間、一陣の疾風が室内に吹いた。
斬という音と共に真っ赤な花弁がわっと美しく宙を舞う。
豚の頭部がことっと地面に落ちた。その形相は醜悪に歪んだまま、しかし瞳にはもはや生気の輝きは微塵もない。
わずかに遅れて胴を失った巨体がずしん、と地に崩れ落ちた。
「……豚、か。どうせ最後なんだからせめて幻覚でも食べるぐらいの甘い夢を見てもいいか」
幸いにも、火なら近くに燭台があった。
調理する道具も一応とはいえ備えていたのが吉と出た。
仁之助は太刀で素早く肉を解体すると、それを豪快に突き刺したまま火であぶる。
たちまち室内は、濃厚な血の香りをかき消すほどの香ばしい匂いに包まれた。
「……よし」
こんがりと焼けた肉に仁之助は躊躇うことなく食らいついた。
「……うまい。なんだ、このうまさは!? 豚っていうのはこんなにもうまいものなのか!?」
仁之助は目を丸くしたまま、一心不乱に肉を喰らった。
その姿はつい先ほど死体を貪った男と大差ない。
「特に味付けもしていないのに、臭みも特にないし噛めば噛むほど甘い肉汁が口腔内にあふれてくる……! そ、それになんだ? 活力だけじゃなくてなにかこう、別の何かが目覚めるって感じがするような……」
違和感をほんの一瞬だけ憶えたが、これまでの飢えが瞬時に脳の片隅へと追いやる。
ひたすらに肉を喰らう。早く胃を満たしたくて仕方がない。
「――、はぁ~喰った喰った。いやこんなにも腹が満たされたのは久し振りかもなぁ――で、ここどこだ?」
大きく膨らんだ腹部を擦りながら仁之助はようやく、周囲を見やった。
見慣れないものばかりが視界いっぱいに広がっている。
たった今食したばかりの豚だったものの骨は明らかに普通ではない。
加えて、仁之助をあたかも化け物を見るかのような眼差しを送る彼らも人ではなかった。
(え? なにあれ? 妖怪? もののけ? じゃあここは、
思考回路の処理が追い付かず、ぐるぐると疑問だけが解決されないまま駆け巡る。
現時点ではあまりにも情報が少なすぎる状況では、明確な回答を出すのは不可能に近しい。
そんな中で唯一わかっている情報を、仁之助は思わず口にしてしまう。
「……しっかしうまかったな。もう一度食べたいぐらいだ」
それが、彼らを突き動かす引き金となってしまった。
「う、うわぁぁぁぁ! こ、こいつ魔王様を食いやがった!」
「に、人間のくせになんて強いんだよ……! い、いやそれよりもま、魔王様を食うってどんな神経してやがるんだ!?」
「に、逃げろ逃げろ! 俺たちまで喰われるぞ!」
「あ、おいちょっと……!」
我先に逃げていく異形たちは、あっという間に室内から消えた。
「……それよりも、本当にここはどこなんだよ」
しんと静まり返った室内にて仁之助は、そうもそりと口にした。